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『その婚約破棄、慰謝料が発生します。』 ――王宮調停官は愛を裁かず、契約違反だけを記録する  作者: 平八
第1章 その不貞、証明できておりません

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第5話 その涙、事実の証明にはなりません

「確認します」


 エレナの声が、夜会場に静かに落ちた。


 その一言で、ミリアの肩が震えた。


 白いドレス。


 潤んだ瞳。


 か弱く胸元を押さえる指。


 今まで彼女を守ってきたものが、いまは頼りなく見えた。


 エレナは、手紙の写しを机上に置いている。


 その横には、ミリアの名が記された受領欄。


 さらにその隣に、朱筆。


 赤い筆先は、ミリアを指してはいない。


 だが、そこから先へ逃げようとする言葉を、すべて止める境界線のようだった。


「ミリア様」


「……はい」


「あなたは、エマ様から『リシェル様が男性と会っていたように見えた』という報告を受けた」


「……そう、聞きました」


「『不貞を見た』という報告ではありませんでしたね」


 ミリアの唇が震える。


「でも、普通は……婚約者が男性と二人でいたら、疑います」


「疑うことは自由です」


 エレナは答えた。


「ですが、疑いを不貞事実として扱うには、確認が必要です」


 ミリアは、レオナルドの方を見た。


 助けを求めるような視線だった。


 レオナルドは、すぐに一歩前へ出る。


「ミリアは私を心配してくれただけだ」


「確認しました」


 エレナは、少しも動じない。


「ミリア様は、殿下を心配して、出所不明の手紙の写しを殿下へ渡した」


「そうだ」


「そして殿下は、その写しと侍女の曖昧な目撃証言を根拠に、王宮夜会でリシェル様を公開断罪した」


 レオナルドの顔が強張った。


「そういう言い方をするな」


「別の表現を希望されますか」


「当然だ」


「では、殿下の表現で確認します」


 エレナは、黒の記録筆を取った。


「殿下は、ミリア様から提供された情報を根拠に、リシェル様の不貞疑惑を公表した」


 レオナルドは口を開きかけ、閉じた。


 否定すれば、ミリアからの情報が根拠ではなくなる。


 認めれば、ミリアがこの公開断罪の出発点に位置づけられる。


 どちらを選んでも、先ほどまでのように「真実の愛」で押し切ることはできない。


 セシルが、淡々と記録する。


「王太子殿下、発言訂正なし」


「はい」


 ミリアが、か細い声で言った。


「わたしは、殿下にお伝えしただけです。リシェル様を傷つけたくて言ったわけではありません」


「伝達の目的は確認対象です」


 エレナは言った。


「ただし、伝達の結果、リシェル様は公開の場で不貞疑惑を告げられました」


「わたしが言わせたわけではありません」


「殿下に公表を命じた記録は、現時点ではありません」


 ミリアの顔に、わずかに安堵が浮かぶ。


 だが、エレナはそこで止めなかった。


「しかし、あなたが提供した情報が、公表の根拠として使用された事実は残ります」


 ミリアの安堵が消える。


 エレナは、手紙の写しを指先で押さえた。


「確認します。あなたは、この手紙の原本を受け取った」


「預かっただけです」


「預かった」


「はい。エマが不安そうにしていたので……」


「預かった後、王宮婚約調停局へ届けましたか」


「え……」


「拾得物として、王宮管理部へ届けましたか」


「……いいえ」


「原本確認のため、文書管理官へ照会しましたか」


「いいえ」


「リシェル様本人に確認しましたか」


 ミリアの瞳が揺れる。


「そんなこと、できるはずがありません」


「なぜ」


「怖くて……。だって、もし本当だったら……」


「本当かどうかを確認するための手続きです」


 エレナは、静かに言った。


「あなたは、リシェル様へ確認せず、王宮の正式部署へ届けず、殿下へ相談した」


「相談です」


 ミリアは、すがるように言った。


「わたしは、ただ相談しただけなんです」


 その言葉に、会場の空気が揺れた。


 ただ相談しただけ。


 責任を遠ざけるには、便利な言葉だった。


 命じていない。


 断罪していない。


 自分は弱く、困っていて、助けを求めただけ。


 ミリアはその形へ戻ろうとしていた。


 エレナは、賠償目録の余白に筆先を置いた。


「相談先を確認します」


「相談先……?」


「はい」


 エレナは、ミリアを見る。


「あなたは、調停局ではなく、殿下へ相談した」


「殿下の婚約のことですから」


「婚約契約の疑義であれば、調停局が相談先です」


「でも、わたしは聖女候補で、そういう手続きは……」


「分からなかった」


「はい」


「分からなかったことは、相談先の選択結果を消しません」


 ミリアの指が震える。


「わたしは、殿下を心配して……」


「殿下を心配した」


「はい」


「リシェル様の名誉を心配しましたか」


 ミリアは、息を呑んだ。


 会場の視線が、彼女へ集まる。


「もちろんです。わたしは、リシェル様を責めたいわけでは……」


「では、リシェル様の名誉を守るために、どのような手続きを取りましたか」


 沈黙。


 ミリアの唇が動く。


 だが、言葉は出ない。


 エレナは待った。


 答えを促すでもなく、責めるでもなく。


 ただ、空白を記録するために待った。


 セシルの羽根ペンが、短く動く。


「ミリア様、回答なし」


「まだ待ちます」


「はい」


 さらに数秒。


 長い沈黙だった。


 ミリアは、ようやく言った。


「……わたしには、何をすればいいか分かりませんでした」


「確認しました」


 エレナは、朱筆を動かす。


 リシェル様への確認なし。

 調停局への届出なし。

 王宮管理部への拾得届なし。

 殿下への私的相談あり。


 赤い文字が、一つずつ紙に残る。


 ミリアはその朱を見て、後退しかけた。


 だが、レオナルドの腕が彼女の背を支える。


「もう十分だろう」


 レオナルドは言った。


「ミリアは手続きに詳しくない。彼女はただ、私のためを思って――」


「殿下」


 エレナは、顔を上げた。


「それは、ミリア様が手続きに詳しくない状態で、出所不明文書を殿下へ渡し、殿下がそれを根拠に公開断罪したという確認でよろしいですか」


 レオナルドの腕が止まった。


 ミリアの背を支えていた手が、ほんの少し硬くなる。


「違う」


「では、訂正を」


「……」


 レオナルドは、言葉を失った。


 セシルが記録する。


「王太子殿下、訂正なし」


「はい」


 リシェルは、そのやり取りを見ていた。


 かつて、レオナルドは堂々として見えた。


 言葉に迷わず、周囲を従え、自分の正しさを疑わない人だと思っていた。


 けれど今は違う。


 彼は、ミリアを庇うたびに言葉を失っている。


 自分の発言が、次々と責任の形に変わっていくことに、初めて怯えている。


 リシェルの胸の奥で、また何かが離れていった。


 あの人の言葉は、強かったのではない。


 誰も止めなかっただけなのだ。


 そして、ミリアの涙もまた、優しさではなく、誰も確認しなかったから通っていただけなのだと、リシェルは初めて思った。


 エレナは、次の書類を開いた。


「次に、利益の継続について確認します」


 ミリアの顔色が変わる。


「利益……」


「席、護衛、宝飾については、すでに確認しました」


「それは、殿下が……」


「はい。殿下の判断であった部分は、殿下の支出判断として記録しています」


 エレナは淡々と言う。


「ですが、受領した側の確認も必要です」


 ミリアは、首飾りに手を置いた。


 無意識の動きだった。


 会場の何人かが、その手元を見た。


「ミリア様」


「……はい」


「あなたは、その首飾りが王太子婚約者用の公式宝飾であると知っていましたか」


「知りませんでした」


 即答だった。


 あまりに早い答えだった。


 セシルの羽根ペンが動く。


「回答、即時」


「評価は不要です」


「はい。発言のみ記録します」


 エレナは続けた。


「では、知らなかったとして確認します」


 ミリアの顔に、わずかな希望が浮かんだ。


「受領後、その宝飾の由来を確認しましたか」


「……いいえ」


「王宮宝飾管理台帳への受領署名をしましたか」


「それは、侍女が……」


「署名欄には、ミリア様のお名前があります」


 エレナは台帳を示した。


 ミリアの名。


 細い筆跡。


 震えのない、整った署名。


 ミリアは、息を詰めた。


「それは……王宮の方に言われて……」


「署名したのは、あなたですか」


「……はい」


「確認しました」


 朱筆が動く。


 宝飾受領署名あり。


「知りませんでした、という主張は記録します。ただし、受領署名は残ります」


「でも、本当に知らなかったんです」


「知らなかったことは、受領を消しません」


 ミリアは口を閉じた。


 その言葉は、これまで何度も聞かされている。


 けれど今は、前よりも重かった。


「次に、返却について確認します」


 エレナの声は変わらない。


「その宝飾がリシェル様のために発注された可能性に気づいた後、返却しましたか」


「気づいていませんでした」


「本日、この場で確認されました」


「え……」


「では、今返却しますか」


 ミリアの手が、首飾りを強く握った。


 会場の視線が、その手に集まる。


 返せば、リシェルのものだったと認めるように見える。


 返さなければ、今なお利益を保持していることになる。


 ミリアの指は、首飾りから離れなかった。


 リシェルは、その手を見ていた。


 怒りが湧くと思った。


 でも、胸に広がったのは、もっと冷たい感覚だった。


 あれほど「そんなつもりじゃない」と言いながら。


 返すとは言わないのだ。


「……今ここで外すのは、失礼かと」


 ミリアはようやく言った。


 エレナは頷いた。


「確認しました」


 朱筆が動く。


 返却意思、現時点で確認不可。


 ミリアの顔が歪む。


「違います。外さないと言っただけで、返さないとは言っていません」


「では、返却意思ありとして記録しますか」


 ミリアが固まる。


 レオナルドが口を挟もうとする。


 だが、セシルが先に言った。


「殿下、発言介入は記録対象です」


 レオナルドが、歯を食いしばって黙った。


 ミリアは、震えながら言った。


「……後で、確認してから」


「確認しました」


 エレナは言った。


「現時点での明確な返却意思は確認できません」


 ミリアの瞳に、涙が溜まる。


「どうして、そんな言い方ばかり……。わたしが悪いみたいに……」


「悪いかどうかは、まだ判断していません」


「でも、責めています」


「確認しています」


「わたしは、ただ殿下に愛されてしまっただけです」


 その言葉に、会場が揺れた。


 レオナルドが、ミリアを見た。


 ミリアは涙ぐんだまま、続ける。


「わたしが望んだわけではありません。殿下が、わたしを大切だと言ってくださって……。わたしは、拒めなくて……」


 守られる者の言葉。


 選ばれてしまった者の言葉。


 自分に責任はない、と言外に告げる言葉。


 エレナは、静かに聞いていた。


 その間、朱筆は動かない。


 動かないことが、かえって怖かった。


 ミリアは続けた。


「リシェル様には申し訳ないと思っています。でも、愛は理屈では止められないものです。わたしだって、苦しかったんです」


 何人かが、また同情しかけた。


 美しい言葉だった。


 愛。


 苦しみ。


 拒めなかった。


 弱い自分。


 けれど、エレナはその言葉を感情として扱わなかった。


「愛は、調停対象ではありません」


 エレナは言った。


「愛されたことも、拒めなかったことも、ここでは判断しません」


 ミリアの涙が止まる。


「では……」


「確認するのは、愛された結果として何を受け取ったかです」


 朱筆が、紙に触れた。


 席。

 護衛。

 宝飾。

 不貞疑惑情報の提供。

 公開断罪後の婚約者位置への着席継続。


 カリ、カリ、と赤が増えていく。


「ミリア様」


 エレナは、顔を上げた。


「あなたが殿下に愛されたかどうかは、調停局の判断対象ではありません」


 静かな声だった。


「ですが、婚約者用の席に座り、婚約者用の護衛を使い、婚約者用の宝飾を受け取り、リシェル様の不貞疑惑の根拠となる文書を殿下に渡した事実は、調停対象です」


 ミリアは、何も言えなかった。


 レオナルドも沈黙している。


 会場は、完全にエレナの声を聞いていた。


「弱い立場であったことは、確認します」


 エレナは続けた。


「ただし、弱い立場であることは、他人の資産や名誉を侵害してよい理由にはなりません」


 朱筆の先が、賠償目録の上で止まる。


「受けた利益と、与えた損害は、そのまま残ります」


 ミリアの涙が、一筋落ちた。


 それでも、エレナは表情を変えなかった。


 リシェルは、その冷たさを見ていた。


 最初は、少し怖いと思った。


 この人は、誰にも同情しないのだと。


 だが今は違う。


 エレナが同情しないからこそ、ミリアの涙にも流されない。


 リシェルの震えも、ミリアの涙も、同じように感情として扱い、同じように事実とは分ける。


 それが、ここでは一番公平だった。


「リシェル様」


 突然、ミリアがリシェルを見た。


 涙に濡れた瞳だった。


「ごめんなさい。わたし、本当にそんなつもりじゃなかったんです。あなたを傷つけるつもりなんて……。わたしも、苦しくて……」


 その声は弱かった。


 会場の何人かが息を潜める。


 謝罪。


 涙。


 苦しさ。


 リシェルがこれを拒めば、冷たい女に見えるかもしれない。


 また、あの空気が戻りかけた。


 被害を受けた者が、許す役目まで背負わされる空気。


 リシェルの指が震えた。


 何と言えばいいのか、分からない。


 許します、と言えば嘘になる。


 許しません、と言えば、場がまた自分を責めるかもしれない。


 その時、エレナが口を開いた。


「リシェル様に、今この場で返答義務はありません」


 リシェルは、息を止めた。


 ミリアが目を見開く。


「わたしは、謝っているだけです」


「謝罪の受領を公開の場で迫る行為は、相手方へ追加の心理的負担を与えます」


 エレナの声は、やはり静かだった。


「謝罪は、調停書面で提出してください」


 セシルが記録する。


「ミリア様、公開の場でリシェル様へ謝罪。受領要求の可能性あり」


「可能性で止めてください」


「はい」


 リシェルは、エレナの背を見た。


 胸の奥が、熱くなる。


 助けられた。


 そう思った。


 慰められたわけではない。


 優しい言葉をかけられたわけでもない。


 ただ、「答えなくていい」と手続きで守られた。


 それだけで、涙が出そうになった。


 エレナは、ミリアへ向き直る。


「確認を続けます」


 ミリアの涙が、今度は明らかに不安で揺れた。


「ミリア様。あなたは先ほど、リシェル様を傷つけるつもりはなかったと述べました」


「はい」


「では、公開断罪の前に、殿下へ止めるよう求めましたか」


 ミリアが固まる。


「え……」


「本日の夜会で、殿下がリシェル様へ婚約破棄を宣言することを、事前に知っていましたか」


 沈黙。


 レオナルドの表情が動く。


 ミリアの視線が、わずかに横へ逃げた。


 セシルが、羽根ペンを止めずに言った。


「ミリア様、回答前に視線回避」


「記録」


「はい」


 エレナは待つ。


 ミリアは、震える声で言った。


「……殿下が、けじめをつけると」


 会場がざわめいた。


 リシェルの胸が、冷えた。


 知っていた。


 少なくとも、何かが起こることを。


「けじめ、とは」


 エレナが問う。


「それは……婚約のことを、はっきりさせると」


「リシェル様に不貞疑惑を告げることも含まれていましたか」


「わたしは、詳しくは……」


「詳しくは知らなかった」


「はい」


「では、婚約破棄を宣言する可能性は知っていた」


 ミリアの唇が震えた。


「……そう、かもしれません」


「その時、止めましたか」


 答えはなかった。


 エレナは、朱筆を持ち上げた。


「止めましたか」


 二度目。


 ミリアは、ようやく言った。


「殿下のお決めになったことでしたから……」


 エレナの朱筆が、紙に触れた。


 公開断罪予定、事前認識あり。

 制止記録なし。


 カリ、と乾いた音がした。


 その音は、ミリアの涙よりもはっきりと会場に響いた。


「確認しました」


 エレナは言った。


「ミリア様は、殿下がリシェル様との婚約を公の場ではっきりさせる意向を持っていたことを認識していた」


「……」


「そして、制止した記録はない」


 ミリアは、何も言えなかった。


 レオナルドが低く言う。


「もうやめろ」


「できません」


 エレナは即答した。


「名誉補償の算定中です」


「ミリアをこれ以上追い詰める必要はない」


「追い詰めているのではありません」


 エレナは、賠償目録を見下ろす。


「請求先を確認しています」


 夜会場に、重い沈黙が落ちた。


 請求先。


 その言葉が、ミリアの顔から残っていた血の気を奪った。


「わたしに、払えと……?」


「現時点では、確定していません」


 エレナは言った。


「ただし、ミリア様が単なる相談者であったという主張は、現時点で確認できた事実とは一致しません」


 セシルが記録を整理する。


「出所不明文書の受領。殿下への提供。婚約者用席の使用。護衛の使用。宝飾の受領。公開断罪予定の事前認識。制止記録なし」


「はい」


 エレナは頷いた。


「以上をもって、ミリア様は単なる相談者ではなく、利益受領者および疑惑提供者として扱います」


 ミリアの唇が震える。


「そんな……」


 エレナは、賠償目録の一行目、王太子レオナルドの名の下に、黒の記録筆で新たな名を書き加えた。


 ミリア。


 聖女候補。


 その横に、まだ小さく。


 請求先候補。


 ミリアが、声にならない息を漏らした。


 レオナルドが怒鳴る。


「ふざけるな!」


 会場が震えた。


 だが、エレナは筆を止めない。


 セシルが即座に記録する。


「王太子殿下、大声による発言。内容、ふざけるな」


「記録」


「はい」


 エレナは、レオナルドを見た。


「殿下」


「何だ!」


「大声は、請求先の確認を妨げません」


 レオナルドの怒りが、行き場を失ったように止まる。


 エレナは、最後にリシェルへ視線を向けた。


「リシェル様」


「……はい」


「現時点で確認できる限り、あなたに対する不貞疑惑は、証拠不十分です」


 リシェルの目が揺れた。


「あなたへの婚約準備費、贈与品相当額、名誉補償金の請求についても、根拠は確認できません」


 足元が、ようやく地面になったような気がした。


 リシェルは、胸元に置いていた手を、ゆっくり下ろした。


 完全に救われたわけではない。


 まだ、終わっていない。


 けれど。


 今度は、はっきりと言えた。


「……ありがとうございます」


 エレナは、少しも微笑まなかった。


「礼は不要です」


 その返答に、セシルが小さく目を伏せる。


 リシェルは、それでも構わなかった。


 エレナが笑わなくても。


 優しくなくても。


 今、自分の名誉は、少しずつ紙の上で戻されている。


 エレナは、賠償目録を閉じなかった。


「最後に確認します」


 レオナルドも、ミリアも、同時に顔を上げた。


 エレナは、黒の記録筆を置き、朱筆を手に取る。


 カチリ。


 留め具の音が、夜会場に響く。


 その赤い筆先は、王太子だけでなく、その後ろに控える側近たちの沈黙にも線を引くようだった。


 恋愛の問題として始まったはずの夜会は、いつの間にか、誰がこの断罪を準備したのかを問う場へ変わっていた。


「婚約破棄宣言文」


 その一言で、レオナルドの側近の顔色が変わった。


 エレナは視線を向ける。


「先ほど殿下が読み上げた婚約破棄の宣言文。あれは、即興ではありませんね」


 側近が、喉を鳴らした。


 レオナルドの表情が凍る。


 ミリアの肩が、また震えた。


 エレナは、静かに言った。


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