第4話 その証言、利害関係があります
「前へ」
エレナの声が、夜会場を静かに割った。
ミリアの侍女席で、一人の女性が立ち上がる。
淡い灰色の侍女服。
白い顔。
震える指。
彼女は、ミリアの筆頭侍女エマだった。
先ほどまで、ミリアの少し後ろで控えていた女。
レオナルドがリシェルを断罪した時、ミリアの涙を支えるように手を添えていた女。
その女が、今は支えられる側のように、足元を揺らしている。
「エマ……」
ミリアが小さく名前を呼んだ。
その声は、心配するようにも聞こえた。
あるいは、止めようとしているようにも。
エレナは、すぐに視線を向けた。
「ミリア様」
「は、はい」
「証言前の関係者への呼びかけは、証言誘導と解釈される場合があります」
ミリアの唇が止まる。
「わたしは、ただ心配で……」
「心配されたことは記録しません」
エレナは、朱筆を持ったまま言った。
「証言者へ声をかけた事実だけを記録します」
セシルの羽根ペンが動く。
「ミリア様、証言者へ発声あり。内容、氏名呼びかけ」
「はい」
エレナは短く頷く。
その一連のやり取りだけで、エマの顔からさらに血の気が引いた。
彼女はゆっくりと前へ出る。
夜会場の中央。
先ほどまでリシェルが立たされていた場所に、今度は証言者が立った。
リシェルは、その光景を見ていた。
不思議な感覚だった。
あの場は、自分だけが晒される場所だと思っていた。
だが今、違う者が同じ場所に立っている。
そしてその人は、リシェルを見ることができないでいた。
「氏名と所属を」
エレナが言った。
エマは、震える声で答えた。
「エマ・リートです。聖女候補ミリア様付きの筆頭侍女を務めております」
「確認しました」
セシルが記録する。
「聖女候補ミリア様付き、筆頭侍女エマ・リート」
エレナは、エマを見る。
「これから確認する内容は、王宮婚約調停局の調停記録に残ります」
「は、はい」
「記憶違い、伝聞、推測は、今この場で区別して答えてください」
エマの喉が動いた。
「虚偽と確認された場合、証言者としての責任が生じます」
「わ、わたしは嘘など……」
「嘘かどうかは、これから確認します」
エレナは一切声を荒らげない。
「先に訂正する内容はありますか」
その問いに、エマは答えられなかった。
目だけがミリアへ向きかける。
だが、途中で止まる。
セシルの羽根ペンが、その小さな動きまで拾うように走った。
「証言者、ミリア様側へ視線移動しかけ、途中停止」
「表現を抑えて」
「承知しました。証言者、関係者側への視線反応あり」
「それでいいです」
レオナルドが不快そうに眉を寄せる。
「侍女を脅しているのか」
「いいえ」
エレナは答えた。
「証言の責任を説明しています」
「彼女は見たのだ。リシェルが男と密会していたところを」
「それを、本人に確認します」
エレナはエマへ向き直った。
「エマ様」
「は、はい」
「あなたは、リシェル様の不貞を見たと報告しましたか」
「……はい」
会場が静まり返る。
リシェルの指先が冷える。
分かっていたはずだった。
不貞などしていない。
それでも、誰かが「見た」と口にするだけで、胸の奥に冷たいものが刺さる。
エレナは表情を変えなかった。
「何を見ましたか」
「リシェル様が、男性と会っておられました」
「どこで」
「王宮の東回廊で……」
「いつ」
「先月十六日、夕刻です」
セシルが記録を進める。
「先月十六日、夕刻。王宮東回廊」
エレナは続けた。
「その男性の身元は」
「分かりません」
「顔は見ましたか」
「遠目でしたので……」
「服装は」
「濃い色の上着を……」
「所属は」
「分かりません」
「会話の内容は聞きましたか」
「いいえ」
「手を取り合っていましたか」
「そこまでは……」
「抱き合っていましたか」
「いいえ」
「口づけは」
エマの顔が赤くなり、すぐに青くなる。
「見ておりません」
「では、あなたが直接見たものは、リシェル様らしき女性が、身元不明の男性と東回廊で立っていた、という内容ですか」
エマの唇が震えた。
「で、ですが、手紙を受け取っていました」
「手紙を」
「はい」
「その手紙の中身を見ましたか」
「いいえ」
「差出人を見ましたか」
「いいえ」
「宛名を見ましたか」
「……いいえ」
「では、手紙と判断した理由は」
「紙を、受け取っていたので」
エレナは一拍置いた。
責めるための沈黙ではない。
記録のための沈黙だった。
「紙を受け取る行為を、不貞と判断したのですか」
エマは答えられない。
夜会場の空気が、じわりと変わっていく。
先ほどまで「不貞を見た証人」とされていた侍女の証言が、少しずつ小さくなっていく。
男と密会。
その強い言葉が。
身元不明の男性。
東回廊。
紙を受け取ったように見えた。
その程度の形に削られていく。
セシルが、淡々と記録を読み上げた。
「証言者が直接確認した内容。身元不明の男性。会話内容不明。身体接触なし。手紙内容不明。宛名不明。差出人不明」
レオナルドの顔が険しくなる。
「言い方に悪意がある」
「証言内容を分けています」
エレナは答えた。
「悪意ではありません。分類です」
ミリアが、震えた声で言う。
「でも、エマはリシェル様だと分かったのです。ね、エマ」
エマがびくりと肩を揺らした。
エレナの視線が、ミリアへ向く。
「ミリア様」
「わ、わたしは、ただ……」
「証言者への確認は、こちらで行います」
ミリアは口を閉じた。
セシルが短く記録する。
「ミリア様、証言内容補助の発言あり」
「補助ではなく、関係者による証言誘導、および事後擦り合わせの疑いとして記録」
「承知しました。そのように」
ミリアの顔色が変わった。
「ち、違います。わたしは、そんなつもりじゃ……」
「その表現は、既に複数回確認済みです」
エレナは、静かに言った。
「別の表現で説明してください」
ミリアは、言葉を失った。
エレナは、エマへ向き直る。
「あなたは、なぜその女性をリシェル様だと判断しましたか」
「髪の色と、髪飾りで……」
「距離は」
「回廊の端からでしたので……」
「何歩ほど」
「二十歩ほどかと」
「灯りは」
「夕刻でしたので、薄暗く……」
「護衛や侍女は」
「見えませんでした」
「リシェル様が王宮内を移動する場合、通常は侍女または護衛が同行しますか」
エマは、答えに詰まった。
「……はい」
「その時は、見えなかった」
「はい」
「それでもリシェル様だと断定した」
「髪飾りが……」
エレナは、セシルを見た。
「先月十六日のリシェル様の装身記録」
「はい」
セシルは別の控えを開いた。
「先月十六日、リシェル様は王太子妃教育のため王宮入り。装身記録には、青銀の髪飾りとあります」
「その髪飾りは」
「教育室到着時に外され、講義中は侍女が保管。退出時に再装着」
エマの表情が少し緩んだ。
髪飾りはあった。
自分の証言は崩れていない。
だが、セシルは続けた。
「ただし、夕刻の東回廊通行記録はありません」
エマの顔が再び強張る。
エレナは静かに言った。
「先月十六日夕刻、リシェル様の行動記録を確認します」
セシルが読み上げる。
「日没一刻前、王太子妃教育室にて礼法講義終了。講師、王宮礼法官マルセル。記録官一名。侍女二名。出席確認あり」
エレナはエマを見る。
「その後は」
「日没直前、南門より退宮。同行者、ローゼンベルク家侍女二名」
セシルの声が、夜会場に落ちる。
「東回廊の通行記録はありません」
沈黙。
エマの指が震える。
「で、でも、私は見ました」
「日付を訂正しますか」
エレナは問う。
「え……」
「先月十六日ではない可能性がありますか」
「そ、それは……」
「訂正するなら、今です」
その言葉は優しかった。
だが、優しいからこそ逃げ場がなかった。
今訂正しなければ、先月十六日の証言として記録される。
訂正すれば、最初の証言が不正確だったことになる。
エマは、喉を震わせた。
「もしかしたら、一日か二日、前後していたかもしれません」
会場がざわめく。
レオナルドが目を剥く。
「エマ!」
エマが怯えるように王太子を見る。
エレナの声が、すぐに挟まった。
「殿下」
レオナルドの口が止まる。
「証言者への叱責は、証言圧力として記録します」
「私は叱責など――」
「今の発言を訂正されますか」
レオナルドは、歯を食いしばった。
セシルが記録する。
「王太子殿下、証言者名を強く呼称。証言圧力の可能性あり」
「可能性で止めてください」
「はい」
エレナはエマへ戻る。
「日付を前後すると訂正されました。では、正確な日は」
「分かりません」
「時間は」
「夕刻だったと……」
「場所は」
「東回廊……だったと」
「見た相手は」
「リシェル様……だと」
「断定できますか」
エマの唇が震えた。
ミリアが泣きそうな顔で見ている。
レオナルドは怒りを噛み殺している。
貴族たちは息を潜めている。
全員が、彼女の答えを待っている。
エマは、ようやく絞り出した。
「……断定は、できません」
その言葉が落ちた瞬間、夜会場の空気がはっきり変わった。
不貞を見た証人。
その肩書きが、紙の上から剥がれる音がした。
エレナの朱筆が、ぴたりと動く。
対象人物、断定不能。
容赦のない赤が、王太子の掲げた「事実」を、証言の範囲まで削り落としていく。
リシェルは、胸元を押さえた。
怒りではない。
安堵でもない。
ただ、自分を縛っていた見えない紐が一本切れたような感覚だった。
エレナの朱筆は、そこで止まらなかった。
証言日時、不確定。
不貞行為、直接確認なし。
カリ、カリ、と乾いた音が続く。
エマはその音を聞くたびに、肩を小さく震わせた。
「以上により」
エレナは言った。
「エマ様の証言は、リシェル様の不貞を証明する直接証拠としては扱えません」
「そんな……」
ミリアが呟く。
「エマは、わたしにそう言ったんです……。リシェル様が、男の方と……」
「ミリア様」
エレナの声が向く。
「エマ様から報告を受けたのは、いつですか」
ミリアが固まった。
「それは……」
「日付を」
「覚えていません」
「場所は」
「わたしの控室で……」
「同席者は」
「……エマだけでした」
「報告内容は」
「リシェル様が、男性と会っていたと」
「不貞と報告されましたか」
ミリアの瞳が揺れる。
「そういう意味だと……思いました」
「あなたが解釈した」
「エマがそう言ったからです」
エマが顔を上げた。
その目に、一瞬だけ恐怖とは別のものが浮かぶ。
ミリアへ向けた、すがるような、あるいは裏切られたような視線。
「ミリア様……」
エレナは、その一言を逃さなかった。
「エマ様」
「は、はい」
「あなたは、ミリア様に『不貞を見た』と報告しましたか」
エマは口を開く。
だが、声が出ない。
「それとも、『男性と会っていたように見えた』と報告しましたか」
エマの指が、侍女服の布を握った。
沈黙。
セシルの羽根ペンだけが、かすかに動く。
エマは、ようやく言った。
「……男性と、会っていたように見えた、と」
ミリアの顔色が変わる。
「エマ」
今度はミリアが、はっきりと名を呼んだ。
エレナが即座に言う。
「記録」
「ミリア様、証言者名を呼称。発言直後に証言者が沈黙」
「はい」
ミリアは青ざめた。
「違います。わたしは、そんなつもりでは……」
「その表現は、既に複数回確認済みです」
エレナは、静かに言った。
「別の表現で説明してください」
ミリアは言葉を失う。
レオナルドが、苛立ったように声を上げた。
「侍女の言い間違いだろう。重要なのは、疑わしい行動があったことだ」
「いいえ」
エレナは即答した。
「重要なのは、疑わしい行動を不貞と断定し、公開断罪の根拠にした過程です」
夜会場が、また静まる。
エレナは、手紙の写しを持ち上げた。
「次に、この手紙です」
エマの肩が跳ねる。
「エマ様」
「はい……」
「この写しを作成したのは、あなたですか」
「……はい」
「原本を見たのですね」
「はい」
「原本は、どこで入手しましたか」
「東回廊で……落ちていたものを」
「拾得記録は」
「ありません」
「誰に渡しましたか」
エマの目が、今度こそミリアへ向いた。
ミリアの顔が強張る。
エレナは待った。
逃げ道を与えるためではない。
証言者自身の口で、記録に残すために。
エマは、震える声で言った。
「……ミリア様に」
会場がどよめいた。
レオナルドがミリアを見る。
ミリアは、首を横に振る。
「わたしは、預かっただけです。中身を確認したら、殿下に相談しなければと思って……」
「原本は」
エレナの問いは短い。
「え……」
「手紙の原本は、現在どこにありますか」
ミリアの唇が震える。
「それは……殿下に……」
レオナルドが顔を強張らせた。
「私は写しを受け取っただけだ」
ミリアを見る。
ミリアも、レオナルドを見る。
ほんの一瞬。
互いに、責任の置き場を探すような視線だった。
リシェルは、その視線の往復を、どこか冷めた気持ちで見つめていた。
真実の愛。
そう呼ばれていたものが、原本の所在を問われただけで、互いに責任を押し付ける沈黙へ変わっていく。
胸の奥で、何かが静かに離れていった。
セシルが淡々と記録する。
「原本所在確認時、ミリア様と殿下が相互に視線確認」
「記録」
「はい」
エレナは、もう一度問う。
「原本は、どこにありますか」
ミリアは答えない。
エマは真っ青な顔で俯く。
レオナルドは、怒りと焦りを混ぜた表情で沈黙している。
その沈黙を、エレナは少しだけ待った。
そして、朱筆を手に取る。
カチリ。
留め具の音が、夜会場に響いた。
筆先が、手紙の写しの横に置かれる。
「証言者の直接確認内容、不貞に該当せず」
カリ。
「証言日時、不確定」
カリ。
「対象人物、断定不能」
カリ。
「原本所在、不明」
カリ。
「写し作成者、ミリア様側筆頭侍女」
カリ。
「原本受領者、ミリア様」
最後の一行に朱が入った瞬間、ミリアの顔から血の気が引いた。
エレナは、静かに告げた。
「現時点で、この手紙はリシェル様の不貞を示す証拠ではありません」
誰も声を出せなかった。
「むしろ、ミリア様側で入手、複写、提出された出所不明文書として扱います」
レオナルドが一歩前へ出る。
「エレナ・ヴァルクレア。言葉に気をつけろ」
「選んでおります」
エレナは、朱筆を閉じなかった。
「次に確認するのは、ミリア様です」
ミリアの肩が震えた。
「わたし……ですか」
「はい」
エレナは、手紙の写しを机上に置く。
「この出所不明文書を、どのような判断で殿下へ渡し、リシェル様の不貞疑惑として扱わせたのか」
夜会場の視線が、ミリアへ集まる。
先ほどまで守られるために使っていた涙は、もう彼女を完全には守ってくれない。
エレナは、ミリアの名が記された受領欄の横に、朱筆を置いた。
その赤い筆先は、誰かを脅すためではなく、これ以上の言い逃れを許さない境界線のように見えた。
「ミリア様」
静かな声だった。
「涙は感情の証明にはなりますが、事実の証明にはなりません」
ミリアの肩が、はっきり震えた。
エレナは言った。
「確認します」




