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『その婚約破棄、慰謝料が発生します。』 ――王宮調停官は愛を裁かず、契約違反だけを記録する  作者: 平八
第1章 その不貞、証明できておりません

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第2話 では、損害額を算定します

「損害額、だと」


 レオナルドの声が、夜会場に低く響いた。


 先ほどまでの断罪めいた調子とは違う。


 わずかに、苛立ちが混じっていた。


「私は婚約破棄を告げているのだ。金の話ではない」


「いいえ」


 エレナ・ヴァルクレアは、朱筆を持ったまま答えた。


「殿下が、金銭の話になさいました」


「私が?」


「はい」


 エレナは、婚約契約書の一頁を指で押さえる。


 その動作は静かだった。


 だが、紙の上に置かれた指先を、会場中が見ていた。


「先ほど殿下は、リシェル・ローゼンベルク様を責任当事者とし、婚約準備費、贈与品相当額、名誉補償金を負担させると発言されました」


 レオナルドの眉が動く。


「当然だ。信頼を壊したのは彼女だ」


「その証明は、現時点では成立しておりません」


「だからと言って、私が責められる理由にはならない」


「責めておりません」


 エレナは、少しも表情を変えなかった。


「算定しているだけです」


 夜会場に、奇妙な沈黙が落ちた。


 責めているわけではない。


 怒っているわけでもない。


 ただ、算定する。


 その言葉が、レオナルドの激情を受け流し、彼の足元に別の床を敷いた。


 セシルが、エレナの一歩後ろで調停記録に羽根ペンを走らせている。


 彼女は会場を見回しながら、小さく呟いた。


「今の『金の話ではない』で、東側の伯爵夫人方が顔を見合わせました」


「なぜ」


「婚約準備費の話を先に出したのは殿下なので」


「記録して」


「はい。発言順も含めて記録します」


 エレナは、朱筆を一度だけ書類の上に置いた。


 筆先の赤が、白い紙の上で静かに光る。


「確認します。殿下は、婚約契約第十二条に基づく即時解除と、責任当事者への費用負担を主張している」


「そうだ」


「しかし、不貞事実の証明は成立していない」


「まだ確認中だろう」


「はい。ですので、令嬢側責任としての費用負担は、現時点では認められません」


「現時点、現時点と……」


 レオナルドは苛立ったように息を吐いた。


「君は言葉尻を取っているだけだ」


「いいえ」


 エレナは、朱筆を持ち上げた。


「条項を読んでいます」


 ただそれだけの言葉に、会場の空気が少し冷えた。


 リシェルは、まだ胸元を押さえていた。


 涙は出ていない。


 出せなかった。


 だが、息は戻っていた。


 さっきまで、自分は裁かれる側に立たされていた。


 今は違う。


 まだ救われたわけではない。


 けれど、誰かが、彼の言葉ではなく契約書を見ている。


 それだけで、膝の震えが少しだけ収まった。


 ミリアは、レオナルドの袖をそっと掴んだ。


「殿下、もうやめましょう……。わたし、こんなことで争ってほしくありません」


 か細い声だった。


 会場の何人かが、再び彼女に同情の視線を向ける。


 白いドレス。


 震える肩。


 潤んだ瞳。


 守られる者の形をした言葉。


 だが、エレナは一切その空気に乗らなかった。


「ミリア様」


「は、はい」


「争いを望まないというご意思は、記録します」


 ミリアの顔に、かすかな安堵が浮かぶ。


 しかし、エレナは続けた。


「ただし、争いを望まないことは、すでに発生した損害の消滅理由にはなりません」


 安堵は、すぐに消えた。


「そんな……わたしは、ただ殿下のお心を支えたくて」


「お気持ちは、先ほど確認しました」


 エレナの声は柔らかくならない。


「次に確認するのは、殿下のお心ではなく、婚約者用資産の使用先です」


 セシルが、黒革の補助鞄から細い束を取り出した。


 夜会の席次表。


 護衛配置表。


 王宮宝飾管理台帳の写し。


 いずれにも、王宮婚約調停局の照会印が押されている。


 レオナルドの側近が顔色を変えた。


「なぜ、そのようなものを」


「王宮主催夜会ですので、調停局から照会可能な記録です」


 エレナは答えた。


「王宮内で行われた婚約破棄宣言には、王宮内記録が付随します」


「そんな手続き、聞いていない」


「聞いていないことは、手続きの不存在を意味しません」


 その一言で、側近は口を閉じた。


 エレナは、まず席次表を開いた。


 そこには、王太子レオナルドの名と、その右隣に本来置かれるべき名が記されている。


 リシェル・ローゼンベルク。


 その文字の上に、薄く訂正線が引かれていた。


 訂正後の名は、ミリア。


 聖女候補としての敬称付きで、王太子の隣席に記されている。


 リシェルは、その紙を見た瞬間、喉の奥が詰まった。


 知っていた。


 自分の席が遠ざけられていたことは、知っていた。


 けれど、こうして書類として見ると、別の痛みがあった。


 自分は、気づかないふりをしていたのではない。


 既に、公式の紙の上からどかされていたのだ。


 エレナは、席次表を会場側に向けた。


「今夜の第一婚約者席は、本来リシェル様に割り当てられています」


 朱筆が動く。


 訂正線の横に、小さく朱が入った。


 不適正変更。


「変更後の着席者は、ミリア様」


 ミリアが息を呑む。


「わ、わたしは、殿下に案内されただけで……」


「はい」


 エレナは頷いた。


「案内を受けて着席されたことは記録します」


 ミリアの表情が少し緩む。


 しかし、エレナは席次表から目を離さない。


「同時に、婚約者席の使用利益を受けたことも記録します」


「使用利益……?」


「王太子婚約者として扱われる席に座った、という意味です」


 セシルが、記録を取りながら補足した。


「社交上は、婚約者の立場を一部受けたと見なされます」


 エレナが短く頷く。


「その表現で記録してください」


「はい」


 張り詰めた空気の中で、ミリアの指が小さく震えた。


 レオナルドは不快そうに二人を睨んだ。


「席くらいで大げさな」


 その言葉に、リシェルの指が震えた。


 席くらい。


 そう言われるほど、軽いものだったのか。


 王太子の隣に立つために、どれだけの礼法を覚えたか。


 どの家に先に挨拶するか。


 どの派閥にどの角度で微笑むか。


 誰の杯に先に目を向けるか。


 王太子妃教育の中で、何度も叩き込まれた。


 その席は、ただの椅子ではなかった。


 リシェルがそう言う前に、エレナが口を開いた。


「殿下」


「何だ」


「婚約者席は、椅子ではありません」


 エレナは、席次表を閉じなかった。


「社交上の地位表示です」


 レオナルドの表情が固まる。


「王太子婚約者席に別の女性を置いた場合、貴族社会に対し、婚約者としての扱いが移転したとの印象を与えます」


「印象にすぎない」


「その印象によって、リシェル様の名誉評価が下がります」


 エレナは、朱筆を置いた。


「名誉補償の算定対象です」


 夜会場の空気が、また止まった。


 名誉補償。


 さきほどまでレオナルドがリシェルに負わせようとしていた言葉が、逆方向を向き始めている。


 セシルが、会場の西側を見た。


「リシェル様の親族席、今、初めて顔を上げました」


「記録して」


「はい」


 次に、エレナは護衛配置表を開いた。


「王太子婚約者用護衛、二名」


 淡々と読み上げる。


「本来配置先は、リシェル様」


 朱筆が動く。


「実配置先は、ミリア様」


 レオナルドが声を荒げた。


「ミリアは聖女候補だ。護衛が必要だった」


「聖女候補としての護衛申請は、別枠です」


 エレナは即座に返した。


「こちらは、王太子婚約者用護衛費から支出されています」


「だから何だ。私が命じた」


「では、殿下の支出判断として記録します」


 同じ言葉。


 だが、二度目はさらに重かった。


 レオナルドが言い返そうとして、止まる。


 先ほど、自分で望んだと言った。


 今も、自分が命じたと言った。


 ミリアを守るための言葉が、そのまま自分の支出判断になる。


 セシルが、素早く書き込んだ。


「殿下の自己申告、二件目です」


「セシル」


「感想ではありません。件数です」


「なら記録して」


「はい。発言者、内容、対象資産を分けて記録します」


 ミリアが、震える声で言った。


「でも、わたし……怖かったんです。王宮には慣れていなくて、リシェル様はお強い方ですし、わたしは……」


 その言葉に、また会場の一部が揺れた。


 弱い。


 慣れていない。


 怖かった。


 それは、人の庇護欲を刺激する言葉だった。


 だが、エレナはそこにも乗らない。


「ミリア様」


「はい……」


「怖かったことは、護衛を必要とした理由にはなり得ます」


 ミリアの瞳がわずかに明るくなる。


「では……」


「ただし、婚約者用予算を使用してよい理由にはなりません」


 明るさは消えた。


「必要であれば、聖女候補としての護衛申請を行うべきでした」


「そんな、わたしには分からなくて……」


「分からなかったことは、受けた利益を消しません」


 エレナは、護衛配置表に朱を入れた。


 目的外使用疑い。


 その文字が見えた瞬間、会場の端にいた王宮財務官が、手にしていた杯を落としかけた。


 彼は慌てて隣の部下に目配せする。


 ただの婚約破棄ではない。


 王太子の私情に、王宮予算と婚約者用資産が使われた疑い。


 それは、恋愛の問題ではなく、会計監査の問題だった。


 財務官の部下が、青ざめた顔で小さく頷く。


 セシルはその動きも見逃さなかった。


「財務官が部下に指示を出しました」


「内容は」


「恐らく、関連支出の確認です」


「推測は不要です」


「はい。では、財務官側に動きあり、とだけ記録します」


「それでいいわ」


 エレナは、三つ目の書類を開いた。


 宝飾管理台帳。


 王宮の照明を受けて、金の縁取りが鈍く光る。


「婚約記念宝飾一式」


 リシェルの胸が、また痛んだ。


 それは、知っている品だった。


 王太子との婚約一周年を記念して、王宮宝飾職人に作らせた首飾り。


 婚約者として初めて公式夜会に出た時、身に着ける予定だった。


 だが、受け取りの日に体調不良を理由として延期され、その後、品は王宮で保管されていると聞かされていた。


 エレナの声が続く。


「発注目的。王太子婚約者用公式宝飾」


 朱筆の先が、台帳をなぞる。


「受領記録。ミリア様」


 夜会場が、今度こそ明確にざわめいた。


 リシェルは、ミリアの胸元を見た。


 白いドレスの上に、淡い青石の首飾りが輝いている。


 美しいと思っていた。


 聖女候補によく似合っていると、無理に思おうとしていた。


 あれは。


 自分のものだったのか。


 いや。


 物として惜しいのではない。


 それを身に着けて、ミリアは今、レオナルドの隣に立っている。


 王太子の隣で。


 リシェルを不貞だと責める場で。


 リシェルのために用意されたはずの首飾りをつけて。


 その事実が、指先よりも胸の奥を冷やした。


「これは……」


 ミリアは、首飾りに手を添えた。


「殿下が、わたしに似合うからと……。わたし、贈り物だと……」


 レオナルドがミリアを庇うように前に出た。


「私が贈った。彼女に責任はない」


 エレナは、彼を見る。


「では、殿下の贈与判断として記録します」


 三度目。


 同じ言葉が、夜会場に落ちた。


 今度は、誰もすぐには息をしなかった。


 レオナルドの顔から、少しずつ余裕が消えていく。


 彼はミリアを守っているつもりだった。


 だが、庇うたびに、ミリア側の受領記録ではなく、自分の判断として朱が入っていく。


 セシルが、低く言った。


「殿下、ご自身でミリア様への利益供与の根拠を積み上げておられます」


「セシル」


「失礼しました。感想ではなく、発言記録上の整理です」


「なら、件数だけを記録して」


「はい。殿下の自己申告、三件目です」


 エレナは、宝飾管理台帳の該当欄に朱を入れた。


 婚約者用宝飾の目的外贈与。


 筆の先が、紙をわずかに鳴らす。


 カリ、と乾いた音。


 それは剣の音ではない。


 怒号でもない。


 けれど、夜会場の誰もが、その音を聞いた。


 エレナは三枚の書類を机代わりの記帳台に並べた。


 席次表。


 護衛配置表。


 宝飾管理台帳。


 その三つに、朱が入っている。


「現時点で確認できる事項を整理します」


 レオナルドが口を開きかけた。


 だが、エレナは彼の声を待たなかった。


「一つ。リシェル様の不貞事実は、証明されておりません」


「二つ。婚約者席は、ミリア様へ変更されています」


「三つ。婚約者用護衛費は、ミリア様の護衛に使用されています」


「四つ。婚約者用公式宝飾は、ミリア様が受領しています」


「五つ。以上のうち複数について、殿下ご自身が判断したと発言されています」


 夜会場の空気が、重く沈んだ。


 さっきまでリシェルに向いていた責めの空気が、反転したのではない。


 まだ、完全に変わったわけではない。


 だが、少なくとも、誰も軽々しく笑えなくなっていた。


 リシェルは、エレナの背を見ていた。


 この人は、まだ自分を慰めていない。


 大丈夫だとも言っていない。


 味方です、とも言っていない。


 でも、リシェルが飲み込んできた一つ一つを、紙の上に戻している。


 席。


 護衛。


 宝飾。


 言えなかった違和感が、書類の上で形を持っていく。


 レオナルドは、低い声で言った。


「私は、ただミリアを守ろうとしただけだ」


「確認しました」


 エレナは答える。


「では、ミリア様を守るために、婚約者用の席、護衛、宝飾を使用したということでよろしいですね」


「違う。そういう言い方をするな」


「では、訂正されますか」


 レオナルドが詰まる。


 訂正すれば、ミリアを守ったという言葉が弱くなる。


 訂正しなければ、婚約者用資産の目的外使用が残る。


 どちらを選んでも、先ほどまでのようには逃げられない。


 セシルが、羽根ペンを止めずに言った。


「殿下が初めて、回答前に沈黙されました」


「記録して」


「はい」


 レオナルドは、答えなかった。


 ミリアは涙を浮かべたまま、周囲を見た。


 先ほどまで自分に向けられていた同情が、少しずつ揺らいでいる。


 誰も彼女を罵ってはいない。


 だが、誰も以前のようには見ていない。


 それが、彼女には分かったのだろう。


「わたし……そんなつもりじゃありませんでした」


 ミリアの声は震えていた。


「リシェル様の席を奪うつもりなんて……。首飾りだって、殿下がくださったから……」


「ミリア様」


 エレナは、静かに言った。


「その言葉は、受領の意思がなかったという主張ですか」


「え?」


「席、護衛、宝飾について、受領を拒否した記録があるかを確認します」


 ミリアの目が泳いだ。


「拒否……」


「拒否されたのであれば、確認します」


 エレナは、セシルを見る。


「ミリア様からの返納申請、着席辞退、護衛辞退、宝飾返却届は」


 セシルは手元の控えを確認した。


「ありません」


「確認しました」


 エレナはミリアへ向き直る。


「そんなつもりではなかったことは、受領記録の不存在にはなりません」


 ミリアは何も言えなかった。


 レオナルドも、すぐには口を開けなかった。


 夜会場のどこかで、誰かが小さく息を呑む。


 その音が妙にはっきり聞こえた。


 エレナは、賠償目録の白紙を取り出した。


 そこにはまだ、何も書かれていない。


 彼女は朱筆ではなく、黒の記録筆を取った。


 朱は、否定と訂正の色。


 黒は、残すための色。


 エレナは、目録の一番上に、丁寧な文字で名前を書いた。


 王太子レオナルド。


 その隣に、項目を書く。


 婚約者席の不適正変更。

 婚約者用護衛費の目的外使用。

 婚約者用宝飾の目的外贈与。

 公開断罪に伴う名誉補償算定対象。


 レオナルドの喉が動いた。


「私の名を、どこに書いている」


「賠償目録です」


「なぜ私の名がある」


「現時点で確認できる支出判断者だからです」


 エレナは、顔を上げる。


「請求先の仮置きとして、殿下のお名前を記載します」


「仮置きだと」


「はい。最終確定ではありません」


 エレナは、少しも勝ち誇らない。


「ただし、リシェル様への請求として処理する根拠は、現時点で確認できません」


 会場に、静かな衝撃が走った。


 リシェルは、息を止めた。


 さっきまで、彼女は請求される側だった。


 婚約準備費。


 贈与品相当額。


 名誉補償金。


 家を沈めるかもしれない金額が、自分に向かっていた。


 それが今、目の前で止まった。


 まだ解放されたわけではない。


 だが、少なくとも、その矢印は自分だけを向いていない。


 エレナは、賠償目録を閉じない。


 朱筆と黒筆を並べたまま、王太子を見る。


「殿下」


 声は静かだった。


「真実の愛を選ぶことは、自由です」


 レオナルドは、何も言わない。


「ですが、その費用を婚約契約に負わせることはできません」


 夜会場の灯りが、賠償目録の白い紙を照らしていた。


 エレナは続ける。


「次に、名誉補償金を算定します」


 レオナルドの顔色が、はっきり変わった。


 リシェルは、その瞬間を見ていた。


 自分を責めていた声が、初めて沈黙した瞬間を。


 そして、エレナの朱筆が、まだ乾いていないことを。

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