第1話 婚約破棄の宣言は確認しました
夜会場の中央で、リシェル・ローゼンベルクは立ち尽くしていた。
音楽は止まっている。
つい先ほどまで柔らかく響いていた弦の音も、笑い声も、杯の触れ合う音も、すべてが遠ざかっていた。
代わりに残っているのは、視線だった。
貴族たちの視線。
好奇心。
困惑。
同情。
そして、隠しきれない期待。
誰かが破滅する場面を見逃すまいとする、あの湿った期待だ。
リシェルの正面には、王太子レオナルドが立っている。
金糸の刺繍が施された礼服。
整った顔。
よく通る声。
王国の未来を背負う者として、誰もが彼を美しいと言った。
リシェルも、そう思っていた時期がある。
少なくとも、婚約が結ばれたばかりの頃は。
けれど今、彼の隣には別の女性がいた。
白いドレスをまとった、聖女候補ミリア。
か弱く、震える肩。
潤んだ瞳。
守られることに慣れた立ち方。
彼女はレオナルドの腕にそっと寄り添い、まるで自分こそが傷つけられた側であるかのように、白い指で胸元を押さえていた。
「リシェル・ローゼンベルク」
レオナルドの声が、夜会場に響く。
「私は今、この場で君との婚約を破棄する」
息を呑む音が、あちこちから漏れた。
リシェルは唇を開いた。
だが、声が出なかった。
今、この場で。
王宮主催の祝賀夜会で。
貴族たちが見守る中で。
婚約者である王太子から、婚約破棄を宣言されている。
それだけで、もう十分すぎるほど屈辱だった。
だが、レオナルドはそこで止まらなかった。
「理由は、君の不貞疑惑だ」
会場が大きく揺れた。
ざわめきが広がる。
誰かが扇で口元を隠した。
誰かが露骨に眉を上げた。
誰かが、リシェルから一歩だけ距離を取った。
不貞。
その言葉は、令嬢にとって刃だった。
証明されていなくても、噂になった時点で傷が残る。
否定しても、否定したという事実だけが広がる。
リシェルは、ようやく声を出した。
「殿下。わたくしは、そのようなことを――」
「言い逃れは見苦しい」
レオナルドは遮った。
その声には、迷いがなかった。
自分は正しいことをしている。
この場にいる全員に、真実を知らせている。
彼は、そう信じている顔をしていた。
「婚約とは、信頼の上に成り立つものだ。君はその信頼を裏切った」
「裏切ってなどおりません」
「では、この手紙は何だ」
レオナルドが、側近から一枚の紙を受け取った。
広げて見せる。
距離があり、リシェルには内容までは見えない。
だが、周囲の者たちには十分だった。
紙がある。
王太子が示した。
なら、何かあるのだろう。
それだけで、空気は傾く。
「君が密かに男と会っていた証拠だ」
「そのような手紙に覚えはありません」
「覚えがない、か。都合のよい言葉だな」
取り巻きの令息たちが小さく笑った。
その笑いが、リシェルの頬を打つ。
手袋の中で、指先が冷えていく。
リシェルは自分の両手を握りしめた。
泣いてはいけない。
泣けば、認めたように見える。
怒ってもいけない。
怒れば、醜く取り乱したと見られる。
笑うこともできない。
黙れば、何も言えないのだと見なされる。
どうすればいいのか、分からなかった。
何を選んでも、負ける気がした。
ミリアが、小さく首を振った。
「わたし……リシェル様を責めたいわけではないんです」
その声は、か細かった。
しかし、夜会場にはよく届いた。
「ただ、殿下がずっとお苦しみだったので……。わたし、見ていられなくて……」
何人かの令嬢が、ミリアに同情するような目を向けた。
リシェルは、その視線に耐えた。
苦しんでいたのは誰なのか。
婚約者に会うたびに、隣にミリアがいた。
贈ったはずの花が、いつの間にかミリアの部屋に飾られていた。
王太子妃教育の予定が変更され、その空いた時間にミリアが王宮へ招かれていた。
リシェルの席が、少しずつレオナルドの隣から遠ざけられていた。
それでもリシェルは、騒がなかった。
王太子の婚約者として、感情的になってはいけないと思っていた。
王宮を乱してはいけないと思っていた。
笑って、耐えて、飲み込んできた。
その結果が、これだった。
「ミリアは、君のしたことを知ってもなお、私を責めなかった」
レオナルドが、ミリアの肩を抱く。
「彼女は優しい。弱く、傷つきやすく、それでも私を支えようとしてくれた」
「殿下……」
ミリアが涙ぐむ。
その姿に、会場の空気がさらに傾く。
リシェルは、自分だけが別の場所に立っているような気がした。
同じ会場にいるのに、自分の声だけが届かない。
レオナルドは続けた。
「私は、真実の愛を選ぶ」
その言葉に、会場がまた揺れた。
真実の愛。
美しい言葉だった。
美しい言葉ほど、強い。
それを掲げられた瞬間、リシェルは醜い障害物になる。
愛を邪魔する婚約者。
冷たい公爵令嬢。
王太子を縛る女。
そう見えるように、場は整えられていた。
「君には、婚約契約第十二条に基づき、責任当事者として婚約準備費、贈与品相当額、名誉補償金を負担してもらう」
リシェルは、耳を疑った。
「わたくしが、ですか」
「当然だ。信頼を壊したのは君だ」
レオナルドの声に、迷いはない。
「ローゼンベルク家にも、正式に通知を送る」
喉が詰まった。
婚約破棄だけではない。
名誉だけでもない。
家にまで、損害が及ぶ。
父はどう思うだろう。
母は。
妹は。
ローゼンベルク家は、王家との婚約を誇りにしていた。
その婚約が、娘の不貞によって破棄されたと広まれば。
リシェルだけでは済まない。
家ごと、沈む。
「……わたくしが、悪かったのでしょうか」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
誰に向けたものでもなかった。
ただ、自分の中からこぼれた。
間違えたのは、自分だったのか。
耐えたことが悪かったのか。
黙っていたことが悪かったのか。
信じようとしたことが悪かったのか。
その小さな声に、レオナルドは勝ち誇ったように頷いた。
「ようやく認める気になったか」
その瞬間だった。
「認めた記録にはなりません」
静かな声が、夜会場の入り口から届いた。
大きな声ではない。
だが、不思議とよく通った。
会場中の視線が、入口へ向く。
そこに、一人の女性が立っていた。
濃紺の調停官服。
胸元には、王宮婚約調停局の徽章。
手には、黒革の書類鞄。
感情の読めない灰色の瞳。
年若い令嬢たちの華やかさとも、王宮婦人たちの柔らかな微笑とも違う。
その女性は、夜会場に入ってきた瞬間から、場の空気を楽しんでいなかった。
見ていたのは、ただ一点。
レオナルドの手にある紙と、リシェルの立たされている位置だった。
女性の後ろには、栗色の髪の若い書記官が続いていた。
書記官の名は、セシル。
王宮婚約調停局に配属されてまだ日は浅い。
けれど彼女は、書類よりも先に会場の空気を読んでいた。
笑っている者。
距離を取った者。
ミリアの涙に同情している者。
リシェルの親族席で、誰も立ち上がれずにいること。
そして、レオナルドの取り巻きたちが、リシェルではなく互いの顔色を見て笑っていること。
セシルは、それらを忙しく目で拾っていた。
レオナルドが不快そうに顔を上げた。
「何者だ」
女性は、淡々と一礼した。
「王宮婚約調停局、上席調停官。エレナ・ヴァルクレアと申します」
会場がまたざわめいた。
婚約調停局。
その名を聞いて、何人かの貴族が顔色を変えた。
婚約破棄。
慰謝料。
名誉補償。
贈与品返還。
それらを扱う、王宮の専門機関。
できることなら関わりたくない部署。
その調停官が、今この場に来た。
レオナルドは眉を寄せた。
「調停局を呼んだ覚えはない」
「はい。殿下からの申請は受けておりません」
「ならば、なぜここにいる」
「婚約契約第十二条を根拠とした公開解除宣言が行われたためです」
エレナは、少しも怯まない。
「当該条項を用いる場合、調停局への事前届出、証拠原本の確認、相手方への弁明機会付与が必要です」
レオナルドの表情が、わずかに強張った。
「これは王家の婚約だ。私の意思で解除できる」
「婚約解除の意思表示は可能です」
エレナは言った。
「ただし、相手方を責任当事者とし、婚約準備費、贈与品相当額、名誉補償金を負担させる場合、証明手続きが必要です」
レオナルドは、手にした紙を掲げた。
「証拠はある」
「拝見します」
エレナは歩み寄った。
王太子の側近が一瞬ためらう。
だが、彼女は待たなかった。
差し出された紙を受け取り、目を通す。
沈黙。
夜会場全体が、その沈黙を見つめていた。
エレナは顔を上げる。
「写しですね」
「何?」
「原本ではありません」
「内容が重要だろう」
「証拠能力の確認では、内容と同時に原本性を確認します」
エレナは、紙を折らずに返した。
「現時点では、不貞を証明する資料としては扱えません」
場の空気が、初めて揺れ方を変えた。
リシェルは、息を吸うのを忘れていた。
さっきまで、自分の方へ傾いていた刃が、ほんの少しだけ止まった気がした。
ミリアが不安げにレオナルドを見る。
「殿下……」
「だが、証言者がいる」
レオナルドは声を強めた。
「ミリアの侍女が、リシェルが男と密会していたと証言している」
エレナの後ろで、セシルが小さく呟いた。
「証人、多い方が強いと思っている顔ですね。数さえ揃えれば、事実になるとでも」
エレナは振り返らずに言った。
「感想は不要です」
「失礼しました」
「ただし、観察は続けてください」
「はい。聖女候補側の侍女席、今、二人が目を伏せました」
「記録して」
「もう書いています」
レオナルドが苛立ったように言う。
「何をこそこそと」
「証人の利害関係を確認しています」
エレナは答えた。
「ミリア様の侍女であれば、証言者は当事者側近です。証言能力が直ちに否定されるわけではありませんが、単独では不貞証明の根拠として不足します」
「君は、私の言葉を疑うのか」
「調停では、王太子殿下の言葉も証拠の一つです」
エレナは、静かに言った。
「証拠のすべてではありません」
会場のざわめきが止まった。
レオナルドの頬に、初めて怒りの色が差す。
「無礼だぞ」
「調停記録上、必要な確認です」
「私は王太子だ」
「はい」
「ならば――」
「王太子殿下であっても、相手方に名誉補償金を負担させるには証明が必要です」
エレナの声は、変わらなかった。
冷たいのではない。
温度を上げない。
そのこと自体が、強かった。
リシェルは、初めてエレナを見た。
この人は、自分の味方なのだろうか。
分からない。
エレナは、リシェルに優しい目を向けてはいない。
慰めてもいない。
かわいそうだとも言わない。
だが、さっきから一度も、リシェルを責める前提で話していない。
そのことが、なぜか胸の奥に届いた。
エレナは、黒革の鞄から一冊の書類を取り出した。
婚約契約書の写し。
調停局保管印が押されている。
「婚約契約第十二条を確認します」
彼女は、細い朱筆を取り出した。
王宮婚約調停局の公務用朱筆。
封蝋よりも深い赤をした筆先が、夜会場の灯りを受けて、静かに光る。
カチリ、と硬質な音がした。
筆の留め具を外す音だった。
夜会場で、朱筆。
その場にいた貴族たちの何人かが、そこで初めて顔色を変えた。
レオナルドが怪訝な顔をする。
「何をする気だ」
「婚約破棄理由の適用条件を確認します」
エレナは、契約書を開いた。
「不貞、またはそれに準ずる重大な信頼毀損行為が認められた場合、婚約解除は可能です」
「ならば――」
「ただし」
エレナは、朱筆の先を条項の下へ置いた。
「認められた場合、です」
細い朱線が、紙の上に引かれる。
ただ一本の線。
それだけで、レオナルドの言葉が止まった。
「現時点で、不貞事実は証明されておりません」
ミリアが、小さく震えた。
「そんな……わたし、ただ殿下をお支えしたくて……」
エレナは、初めてミリアを見た。
「お気持ちは、調停対象ではありません」
ミリアの瞳が揺れる。
「ですが、殿下の隣に立って婚約者席を使用された記録、婚約者用護衛を同行させた記録、婚約記念宝飾の受領記録は、確認対象です」
ミリアの唇から、色が消えた。
レオナルドが怒鳴りかける。
「それは私が望んで――」
「では、殿下の支出判断として記録します」
エレナは、即座に返した。
会場の空気が、また変わった。
今度は明確に。
リシェルへ向いていた好奇の視線が、少しずつレオナルドとミリアへ移る。
セシルが、低く言った。
「はい。綺麗に二歩下がりました」
「誰が」
「殿下の取り巻きです。先ほどまで笑っていた三名です」
「記録して」
「もう記録しています」
エレナは契約書を閉じなかった。
朱筆を持ったまま、レオナルドを見る。
「婚約破棄の宣言は確認しました」
静かな声だった。
「不貞による即時解除の適用は、現時点では認められません」
リシェルは、胸元を押さえた。
涙が出そうだった。
でも、泣かなかった。
まだ何も終わっていない。
けれど、自分が何も言えずに沈められるだけの場ではなくなった。
それだけで、呼吸が戻った。
エレナは、淡々と続けた。
「では、次に損害額を算定します」
夜会場のざわめきが、そこで完全に止まった。




