最終話 滅びの果て
エレオノーラが処刑台で首を落とされてから、わずか数日のうちに王国は取り返しのつかない破綻へと転落していった。広場での大暴動は瞬く間に各地へ波及し、混乱する兵士たちも十分な対応ができず、反乱を鎮圧するどころか逆に動揺を広げてしまう。貴族たちの間では疑心暗鬼がさらに深まり、以前の派閥争いは形を成さないまま――いや、むしろ誰もが自分の身を守るために他人を排除しようと躍起になる。
かつて華やかだった宮廷は、今や荒廃した廃墟のように閑散としていた。侍女や従者の多くが逃げ出し、数少ない兵士も大半が暴徒に襲われるか、故郷へ帰ってしまう。豪奢な服装を誇る貴族は見当たらず、王宮の廊下には埃と闇が漂うばかり。誰もが絶えない暴動や略奪から身を守ろうと、身を隠す場所を求めて右往左往している。
そんな中、王太子ルシアンは王宮の深奥で憔悴の極みにあった。混乱を抑えるどころか、エレオノーラの処刑後に噴出した不満の矛先は完全に王家へと向けられ、王都の街では「王子の横暴がこの国を破壊した」という噂が大っぴらに唱えられている。民衆の支持をほとんど失った彼には、もはや反乱軍を鎮圧する兵力も十分に確保できず、頼りにしていた貴族たちは背を向けて逃げ去った。
寝台に横たわる彼の胸中には、後悔と怒りが渦巻いていた。あの処刑さえ成功すれば、国民の不満は落ち着き、王家の権威を取り戻せると信じていたのに、蓋を開ければさらなる暴露が白日の下に晒され、自分自身の不正まで暴かれた。自分を慕っていたはずのクララまでが、果たしてどこまで信頼できるのか――彼にはもはや確証がない。
実際、クララは王宮の一室で私物をかき集めながら、どうにか国外へ脱出する道を探ろうとしていた。エレオノーラが残していった数々の文書は、王太子と彼女自身の不正を証明するだけでなく、クララの暗い取引にも触れている部分があった。その秘密がいずれ公になるかもしれない恐怖は、今もクララの心を凍えさせる。
しかし、既に王都から逃れようとする貴族や富裕層は多く、彼らを狙う盗賊や暴徒が多数徘徊しているという。死の危険はどこへ行ってもついてまわり、彼女自身、いくつかの陥れによって取り繕ってきた“健気な少女”の仮面が剥がされる日が近いだろう。誰ひとり信用できず、当面の行き先もないまま、ただ怯えるしかなかった。
公爵レオポルトはというと、王都の外れで落ち延びた屋敷に隠れ住んでいたが、すでにかつての取り巻きはほとんど姿を消している。公爵家の権威など今では笑い話にすぎず、かえって反乱軍や盗賊の標的になる危険まで背負っているからだ。
彼は深い恨みと空虚感を抱えて夜ごと酔いつぶれ、自らを責めるような呟きを繰り返していた。娘を売り渡した末に得た結果は、国の混乱が際限なく拡大し、公爵家の栄華が完全に崩れ去る未来。かつて彼が誇っていた領地は放火と略奪で滅茶苦茶にされ、軍事力も四散状態。自分の命すら、いつ狙われるか分からない綱渡りの状態だった。
もちろん、助けを求めても応じる者はいない。娘を生け贄にして得た保身も無意味だったというわけだ。夜が更けるたびに周辺で略奪や火の手が上がり、今さら国を守るために立ち上がろうにも、支持を得る術は失われている。残った家臣も数名だけで、皆いつ彼を裏切って逃げ出すか分からない。そうした恐怖と絶望を拭えず、レオポルトは廃墟のような館で孤独に苛まれていた。
それらの惨状を、“かの女”はもう見ることはない。エレオノーラは、処刑台で血を散らす結末を自ら望んだかのように、その生を終えた。しかし、彼女が最後に放った暴露と混乱の火種は確実に燃え広がり、国全体をじわじわと灰にしていく。
王太子や公爵家だけでなく、地方貴族や商人、軍部の幹部たちもそれぞれの闇が露わになり、互いに責任を押し付け合い、信頼関係を崩壊させる。民衆は怒りと絶望を抱えたまま、街の至る所で衝突や掠奪が起こっていた。穀物倉庫を焼き払う者、他領からの移住者を暴力で追い出そうとする者、あちこちで法と秩序が成り立たなくなっている。
いずれ、この国の政治・経済・社会は完全に機能を失って、他国に併合されるか、あるいは隣国の支援を受けながら細々と再生の道を探るしかないだろう。だが、今この時点では目に見えるのはただの崩壊でしかない。未来にすら、わずかな救いの光すら射さない。
こうして、誰もが破滅の淵をのぞき込み、足を滑らせて地底へと転がり落ちていく。かつての華やかさなど思い出す者もなく、街路には疲れ果てた人間がうずくまり、貴族の邸宅は襲撃され無残な姿をさらす。血の臭いとすすの煙が街を覆い、人々の恨みと嘆きが空を黒く染め上げていた。
王太子ルシアンも、首都奪還を試みる計画を立てていると噂されるが、そのための軍勢をまとめられる状況にはない。そもそも、暴露された不正があまりに露骨で、すでに配下からも信頼を失っているのだ。焦りと恐怖、そして失意のなかで、もはや何をどうすればいいのか分からず、ただ王宮の残骸で頭を抱えるにすぎない。
クララも同様で、日常生活の安全さえ確保できず、心細くなっている。まだ“王太子に寄り添う悲劇の少女”という仮面を捨てておらず、必死に誰かの同情を得ようとしているが、もはや誰も信じてくれない。自分と同じく愛想を使う相手を何とか見つけようと躍起になっているが、そんな者はこの世界にほとんど残っていない。
レオポルトの屋敷にも程なく暴徒が押し寄せ、一夜にして灰と化したとも囁かれる。抵抗する力も乏しく、かつての権威を誇示する看板は逆に敵意を煽るだけになっていたのだ。生死の行方は不明だが、仮に生き延びたところで誰も助けを差し伸べる者はいないだろう。
そして、そんな地獄に落ちた王国の姿は、遠く他国の間でも「あそこはもう駄目だ」と噂される始末。特に商人たちは取引先を失うことに怯え、近隣の領主は武力介入の好機を伺う。惨状のなか、国を統率する機能は崩壊し、王家の名は辛うじて残ってはいても、実質的に誰も従わない。“国”と呼べるものが存在するのかさえ疑わしいありさまだ。
けれども、誰ひとり救われないこの世界の中心には、確実にエレオノーラの残した足跡がある。彼女の処刑をもって混乱が終わるどころか、むしろ炎はさらに激しく燃え広がった。その事実こそが、彼女が最期まで計画を貫徹し、自分もろとも王国を奈落へ落とすことに成功した証である。
今となっては、あの処刑の現場で見せた美しい微笑が、破滅と同義の凶兆だったのだと、多くの者が後になって思い返すかもしれない。だが、その時には既に財産も地位も国土も、何もかもが瓦礫に変わっている。エレオノーラが残した数々の裏取引の証拠や噂は、まとまった統治を不可能にするほどの不信を生み出し、この国には真っ暗な未来しか残さなかった。
こうして、王国全体が壊れていく。わずかな戸惑いの声や祈りの声が、凶暴な叫びや無気力の沈黙へとすり替わり、やがて音のない廃墟へと帰していくだろう。ルシアンもクララもレオポルトも、結末はきっと悲惨を極めることになる。今さら何をしても彼らを助けてくれる者はいないし、個々の生死さえ定かではない――ただ、国全体が滅びの道を歩いていることは紛れもない事実だ。
エレオノーラは首を落とされながらも、その笑みを通じて自らの勝利を確信していた。誰もそれを止めることはできなかったし、処刑後の世界すらも、彼女が予測した通りの崩壊へと突き進んでいる。それこそが、彼女が長年の恨みと絶望を抱え、最後まで緻密な策略を張り巡らせた果てだった。
一切の救いなどない。奇跡もなく、魔法もなければ、真に国を憂う人間もいなかった。人々はただ己の利益を守り合い、互いを裏切り合い、結局は誰ひとり幸福にたどり着けずにいる。今この瞬間をもって、王国は事実上崩壊したのだ。
もし、エレオノーラが生きていれば、その光景をどこまでも優雅に見下ろし、もう一度笑ってみせただろう。しかし、それを見届けることなく、彼女は運命通りに散った。だからこそ、彼女の死後に訪れた完全なる終末には、皮肉にも彼女の意思だけが通底しているように見える。
誰もが破滅へ進んだ。王太子も、純潔を装った少女も、公爵としての権威を誇った男も、汚職まみれの貴族たちも、善悪さえ曖昧なまま自滅への行進を踊りきった。そこに掬い上げられる者はおらず、ただ廃墟の静けさが、かつての賑わいを嘲笑うように残るのみ。
そうして、月日が流れた先で、この王国の名を記憶する者がどれほどいるだろうか。富を誇った貴族たちや、華やかだった宮廷の宴は、すべて塵へと帰した。その最後の瞬間、処刑台で首を落とされた女の微笑みを覚えている者がいたとしても、それは悪夢の名残としか語られない。
まったく、誰も救われないまま。そこには、痛烈な虚無が残るだけだ。いくら真実が暴かれても、正義を掲げる者がいても、結末は変わらなかった。エレオノーラの計画が、すべてを巻き込み潰した以上、そこから逃れ出る光はない。
まるで、崩れ落ちた城砦の瓦礫の上を、冷たい風が通り抜けるような静寂と暗闇。それがこの世界の行き着く果てであり、死者も生者も平等に打ち捨てられる光景だ。何も得られず、どこにも行き着けない――まさに、救いなき終焉と呼ぶほかはない。
かくして王国は、名もなく滅びへと沈んだ。王族も貴族も、民衆さえも、結局のところ自らの欲や恐怖に呑まれ、自滅する道を選んだのだ。エレオノーラが最後に見せた微笑みだけが、この壮絶な幕引きにわずかな彩りを与える。彼女こそが唯一、最期まで己の意志を貫き、国を道連れに散るという“勝利”を果たしてみせた。その痕跡だけが、静かにこの大地に刻まれた――それ以外、何ひとつ残るものはない。
(完)




