1 越前へ侵攻
冬の間は岐阜にこもり、永禄十三年の年が明けた二月、信長はまた上洛する。将軍へあいさつをし、二条城建築の進行具合を見物する。
「はっけよーい、のこった!」
その後は安土で相撲大会だ。名のある相撲取りを呼びよせ勝負を楽しむ。
三好三人衆が大人しかったおかげで、イベントを催したり名物の茶器を集めたりもできた。
「この畿内がここまで平穏になるとは。全て上様の御威光ですな」
「ふふ、二条城も一通りは完成しそうじゃ。この世はワシによって新しく生まれ変わるであろう」
新将軍上洛にともない改元も決定された。永禄改め、元亀へと元号が変わろうとしている。
信長に、他国へ攻めこむ余裕ができたのだ。
しかし後の人間から見たら、攻めこむ必要はあったのだろうか?
他国を侵略して領土を広げるより、足元の畿内を固めるべきではなかったのか。
おそらくあったのだ。
当時の都の状態を見れば。
権力の頂点、都がある畿内では古来から権力争いが続けられてきた。
もうドロッドロに。
なぜか? 由緒正しい勢力として寺社があるせいで、武士の勢力がのびなかったのだ。
その昔、京都に拠点を置いた平氏は貴族化し、東から来る源氏によって滅ぼされる。
天下の権力をとった源頼朝と北条氏は拠点を鎌倉に置き続け、武力を保持した。
しかし室町幕府は京都の室町に御殿を築いたのだ。
弱体化するのはあっという間だった。
畿内には将軍家と有力寺社という中規模の権力者が乱立する。武士勢力など小勢ばかり。
信長はそれらを全部統制しなければ、畿内を平定したとは言えなかった。
そして、多数の勢力を黙らせるには軍事力を見せつけるしかない。
それには多くの小勢を一つ一つたたくより、大勢力を一つつぶす方が効率は良かった。
本来であれば攻めるべきは三好三人衆だ。
(しかし奴らの拠点は四国。遠いわ)
岐阜からは遠く海を渡らなければならないのはリスクが大きすぎる。
信長はもっと近くに敵を作ることにした。
正月、信長は全国の大名に上洛を要請していた。
まあ遠くの大名が直接来ないことは念頭に入れて。
大名たちの反応としては本人が上洛したり使者だけですませたり無反応だったりと色々。
で、無反応組の中で一番攻めやすそうな位置にいたのが越前の朝倉氏である。
(予想通りじゃ)
信長も朝倉は来ないと思っていた。
なぜか。答え、朝倉は最近まで将軍を擁立していた立場だから。
信長の将軍を連れての上洛は目からウロコだっただろう。
損得で考えれば、軍を率いての上洛など正気の沙汰ではない。
六角や三好の様に、拠点が京の近くではないのだ。
しかし信長は行った。
天下を獲るためには、名実両方必要なのだ。
多額の出費を覚悟してでも信長は畿内平定と言う『名』を欲した。
その効果をまざまざと見せつけられた朝倉家は、後悔するがもう遅い。
つまり、信長の上洛によって1番プライドを傷つけられたのが朝倉家なのだ。
さらにプラスして、織田家の出自は越前の国の神官である。
朝倉家としては自家よりも格下に見ていた。頭など下げるわけない。
そして朝倉の治める越前の国は信長が攻めるのにちょうど良い場所だった。
越前とは信長の領土である美濃と国境を接している。同盟関係もないので気兼ねしなくて済むし、倒せば目立つ大勢力だし。
そして朝倉家は猛将の朝倉宗滴が亡くなった後、特に天才武将の情報を聞かない。
代わりに伝わるのは内部分裂のうわさ。
大きなカモがネギと白菜と白滝をしょって鍋まで引きずっていた。
(浅井と組めば簡単に倒せる)
信長は美人で自慢の妹を浅井長政に嫁がせていた。
長政は軍才にあふれた青年で、父親から家督を奪い六角氏の支配を脱し東近江に勢力を広げている。
気の強さも信長は気に入っていた。
「我らは琵琶湖の西から若狭に入り越前を攻める。そちはぜひ南から朝倉をたたいてくれ」
「承知いたした」
書状で作戦を確認する。
朝倉の勢力はいまだ大きいが、はさみうちには耐えられまい。
出陣の理由づけは若狭の武藤氏成敗だ。三万の軍勢を率いて都から北上する。
若狭の武藤氏は大軍にすぐ降伏した。
その後朝倉に言いがかりをつけて、進軍の向きを変える。
若狭からすぐ敦賀に向かい手筒山と金ケ崎城を立て続けに落とした。
そう、ここまでは本当に順調だったのだ。
まさか浅井長政が裏切るとは。
力による支配を嫌う方もいるでしょうが、小勢力が小競り合いしまくっている場合は有効なのです。




