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「陸上部のひとですか?」



 霧雨が校舎をつつむ、静かな夜だった。

 ともすると霧雨にすら消されてしまうかも知れないくらいの小さな音はしかし、靴ひもを結んでいた高校生の耳には届いたようだった。


 施錠された体育館の入り口に座って靴ひもを結んでいたその高校生は、手をとめないまま、えっ、と言って顔を上げた。彼の吐き出した白い息は、白熱灯の光にぼんやりと映る霧雨にまじって、ゆっくりと消えた。


 傘をさして、黒のブレザーに赤いリボンとベージュのボックススカートという彼の高校の制服ではないものに身をつつんだ女子高生に、彼はとまどったようすである。

 まっすぐな黒髪はボブカットで、見るものに優しげな印象をあたえる二重瞼は、不思議そうに話しかけた相手を見つめていた。


 不思議そう、というその女子高生のようすは、彼女が少し首を傾けて彼を見ていたことによってもたらされていた。

 放課後というのにも遅い時間に、ひと気のない体育館の前に生徒がいたことに彼女が疑問をいだいたというわけではなかったらしかった。

 女子高生の視線は、隆之から、彼の足元へと移動していた。彼女がスパイクを見ていることに気づいて、彼は納得したようだった。



「そうだけど。なんか用ですか」



 年頃の男子学生の同年代の異性への対応は、それが特に初対面の場合、得てして、ぶっきらぼうになりがちであるといえる。この彼も例にもれず、そうであった。

 だが対する女子高生は、相手のそんな態度に別段、気を悪くしたふうもなく答えた。



「わたし、陸上部に入ると思うので、よろしくお願いします。名前は市井早織っていいます」



 そう自己紹介をした女子高生は、彼の目をしっかり見て、一語一語をはっきりと発音した。先ほどの、小さな声と二重瞼の優しげな印象から転じて、彼女の表情は溌剌はつらつとしたものだった。



「あ……、ふかざわ。深澤隆之」



 その溌剌とした雰囲気に引かれるようにして、彼女に相対していた高校生――、隆之も、自分の名前を言った。



「明日から一年六組に行くんです。一年生ですか?」

「うん、おれは七組」

「そうなんだ。じゃあ、またよろしくね」

 朗らかに笑って、早織は首を少し傾けた。

 霧雨はかわらず、夜の校舎を静かにつつんでいた。





◆◆◇◇◆◆




 ゴトン、という鈍い音に、隆之は目を覚ました。

 見ると、こたつのテーブルの上に置いていたペットボトルが倒れていた。眠ってしまう直前にボトルキャップを締めていたらしいことに安堵して、今しがた見ていた夢をぼんやりと反芻はんすうした。


「そうだった、早織は、転校してきたんだったな」

 そう言って、すっかり暗くなった窓の外を眺めた。座ったままカーテンを閉めようと身体を伸ばして、結露ではないものに外の景色がにじんでいることに、隆之は気づいた。

「雨か」



 ――――ああ、なんか、早織と初めて会った日も、雨が降ってた気がする。



 そう思った。

 早織と初めて会ったときの記憶は、今の隆之にはもう曖昧だった。

 彼女がどんな格好をしていたのかや、自分があのときなぜ学校に残っていたのかを思い出すには、早織に対する感情は今と同質ではなかったし、当時の隆之はたとえ自身の身の回りで起こることにせよ、関心は希薄だったといえた。

 彼女と過ごした二年という時間は、彼を悔やませるに十分な効果をもっていた。文化祭や体育祭、

登下校時の昇降口、職員室、音楽室、休み時間の階段、夕日のかかる廊下――――、そういった学校特有の行事や場所に、早織と隆之が並んでいたことなど、きわめて少なかった。


 隆之は、「ああっ、くそっ」と悪態をついた。カーテンを勢いのまま閉め、こたつのテーブルにあるペットボトルの緑茶を飲み干した。

 飲み干しざま、「なんで、もっとおれは……っ」と、そこまで言って言葉をとめた。

 高校のときにもっと彼女と話していたとしても、たとえそのときから早織のことを好きになっていたとしても、現在が著しく変化していたとは、隆之はやはり思えなかったからだ。

 溌剌とした早織も、静かに微笑む彼女も、おそらく彼女がもつ本質的な優しさや空気を前にして、隆之は太刀打ちできないであろう。

 けれど早織を求める彼の心は、もはや止めようもなかった。

 会いに行こう、と思った。時計は22時を回っていたけれど、今度こそ、彼女に自分の気持ちを伝えようと決心した。そうしてドアを開けたさきに、彼は信じられないものを見ることになった。 


 そこには、早織が立っていた。



「早織……! おまえ、なにやってんだ」



 ほとんど叫ぶようにして、隆之は怒鳴っていた。彼の目は早織を睨み、頬は上気して赤かった。

 早織は、そんな隆之のようすに驚いたらしく、足を一歩引いた。けれど思い直したように、口を真一文字に引き結び、決意した表情で顔をあげた。



「隆之君。隆之君は、なんにも言ってくれないよね。わたしは、心配してるのに」



 そう言った早織は、どこか心配そうにも、怒っているようにも見えた。

 雨の匂いをまとった湿気が、ドアや欄干にしっとりと帯びている。



「心配? 心配してるからって、こんな時間に家に来るやつがあるかよ。おまえ、いつからここにいたんだよ。なにやってんだよ」



 隆之は怒っていた。けれど自分が何に対して怒りを抱いているのか、わからなかった。早織の羽織る水色のショールが、細かい雨の湿気を吸って生地がたゆんでいることや、彼女の細い指先が頼りなげに傘を握っていることが、どうしようもなく隆之の心を乱した。

「わたしになにか、話があるんじゃないの? この間からずっと、悩んでいるでしょう?」

 心配気に隆之を見る早織をつつむ空気は、どこまでも静かだ。音もなく街に降るこの雨のようだった。

 隆之は堪らなくなった。彼女の瞳から、目をそらした。

「おまえこそ、なんでも俺のやること許してるんじゃないのか? おまえは、優しいんだよ。俺には、おまえは優しすぎる……」



 隆之は、前髪をくしゃりとつぶした。

 早織の持つ傘の先から落ちた滴が、コンクリートににじんでいた。

 霧雨は、音もない。

「それは、わたしのせいなんでしょう? 隆之君が悩んでるのは、わたしのせいでしょう」



 早織は隆之が視線を下に落としていても、隆之を見つめている。



「おまえは、考えたことがあるのか? なんで、いきなり抱き締めたりしたのかとか、あんな時間に家に来たりしたのかとか」

「考えてるよ。ずっと、隆之君が思うよりずっと、わたしは……」

「じゃあ、なんでか教えてくれ。俺は、おまえの友達なんだろ? だったら、なんでも言ってくれるんだろ」

「そうよ、友達よ。でも、友達じゃなければ、心配しちゃいけないの? わたしは、隆之君の友達でなければ、なにも言えないの?」

「なに言ってんだよ、おまえ……」

「優しいのは、隆之君のほうよ。隆之君は、気づいてくれたもの……」

「気づくって、なにに?」

「わたしが、あまり話さなくなったことを、隆之君はずっと知っててくれたよね?」

「それは……」



 ――――そうだった。彼が早織を意識しだしたのは、早織のそんなようすに気づいたゆえだったからだ。



「そうに決まってるだろ」知らず、そう言っていた。

「何年、そばにいたと思ってるんだ……」



 気づいたから、好きになったのか。気づくまえから、気にしていたのか。そんな境界は、今となっては意味をなさないだろう。けれど。

「おまえは、どうやったら俺を許してくれるんだ? どうやったら俺を、好きになってくれるんだ」

 早織が、目を見張ったのがわかった。

 隆之は、頭を下げて言った。

「頼む、早織。俺を好きになってくれ。俺はおまえが、好きなんだ、早織」



 ぱさり、と早織の傘が地面に倒れたのがわかったのと、それは同時だった。

 隆之は早織に、抱き締められていた。

「もっと、早く言ってよ」そう言った早織の声は、涙声だった。彼女の手が隆之の服を、強くつかむ。

「早織――――――……」



 好きだと言えなかった。静かに微笑む早織に出会ってから。

 顔をあげたら、きっと彼女は、首を少し傾けて、微笑む姿を、見せてくれるのだろう。

 そんな優しい彼女に、ずっと言えなかった。



「もっと早く、聞きたかった」

 肩の上から聞こえてくる、いまだ少し涙にぬれる声に、返した。

「言えるかよ」



 早織に抱き締められたまま、隆之は彼女の背中に手を回した。

 彼女が好きだから、言えなかった。



「好きだなんて、言えない」







初出:

【好きだと言えない】2012.10.07

【好きだと言えない2】2012.11.14

【好きだと言えない3】2012.12.31

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