61. 願った不幸
ヴィスタと共に白鷺の塔の屋上まで来れば、春のあたたかな日差しとそよ風が感じられた。その気持ちよさに軽く深呼吸をすれば、その穏やかな情景に似合わない程息を切らしたヴィスタが、疲れ切ったと言った様子で整えられていた椅子にドスンと音を立てて座り込んだ。
「雰囲気ぶち壊しですわ。もう少し静かにお願いできます?」
半眼でエリィが睨めば、ヴィスタもそれに対抗するように半眼で睨み返す。そのまま数秒にらみ合っていると、不意にヴィスタが短くため息を吐く。そしてエリィとは視線を外さずに、だらんと腕を下に垂らしたまま倒れ込む様にしてテーブルに頬を付けた。
「疲れた」
脱力した様にそう言って軽く目を伏せるヴィスタを見ながら、エリィも一つため息を吐いて苦笑をすると、ヴィスタのすぐ隣の席へと腰を掛けた。
「だからイオルに頼むと言いましたのに」
白鷺の塔は眺めがいい半面、屋上に上るまではそれなりの階数の段を上がってこなくてはならない。エリィにとって過度の体の負担、心臓への負担となってしまうこの階段の上り下りは、普段であればシャロムに抱えられての移動だ。しかし、今日はシャロムを連れてきていない。が、故にエリィはイオルに運んでもらうように頼んだのだ。だが、それを遮る様にしてヴィスタはエリィを抱えて塔の上まで上がった。だか
らこそのこの状態な訳だ。
「礼ぐらい言え」
「頼んでおりませんもの」
「だとしても、だ。人一人を抱えて階段を上るのは重労働なんだ」
「失礼ですわね?そこは”羽のように軽い”と言うべきところでしょう?」
乙女ゲームのメインヒーローとしては。なんて言葉を心の中で付け加えながら、エリィは呆れた様に言う。表情一つ変えずにサラリと運ぶシャロムやヨシュアを見習ってほしいと思ってしまうのは、女子として致し方ないと言えるだろう。
「羽のように軽い人間など居てたまるか」
「殿下の前だとムードやら乙女心やらが裸足で逃げ出しますわね。たまには空気を読んでいただけると嬉しいのですけれど」
「私の前だと女らしさとか可愛らしさとか言う言葉が裸足で逃げ出しているからな。読める空気が無い」
「……これでも無垢な少女のように可憐で可愛らしいとのお褒めの言葉を頂いたこともありますのよ?」
じとっとした目で半分睨みながらそう言えば、ヴィスタは黙ったままエリィの顔をじっと見つめ、その後おもむろに視線を下へとずらす。
「……それはその胸の事か?」
ニヤリと笑いながらヴィスタは囁くように言う。その瞬間、エリィはツカツカと歩み寄ると、相変わらずテーブルに突っ伏したような状態のままのヴィスタの耳をゆっくり引っ張る様に持ち上げる。するとヴィスタは僅かに呻いて体を起こした。
「人間誰しも、図星を指されると逆上するらしいな?」
片耳を手でさすりながら、ヴィスタは言う。その発言をエリィはまるっと無視して腕に下げていたいかにも令嬢が好みそうな、そしてほとんど物の入れられないバッグの口を開いた。
「なんだ、それは」
するするとバッグの中から取り出したソレを見て、ヴィスタは困惑した様に眉間に皺を寄せた。それもそのはずだ。エリィがバッグから取り出したのは紐と呼ぶにはいささか太く、縄と言うにはいささか細いそんな物。それもとんでもなく長い、という形容詞が付くものである。
「紐、ですわね?丁度今はイオル以外周りに誰もおりませんし。仕込みをしようかと」
「肉でも括り付けて罠でも仕掛けるのか?」
少しだけ揶揄うような響きを含ませて言うヴィスタの言葉に、エリィは大げさに驚いて見せるように「まぁ!」と声を上げた。
「良くお分かりですわね。そうです。餌に括り付けるのですわ」
エリィはニコニコ笑いながら紐の先を右手で、そこから1m程の所を左手で持ち、強度を確かめるかのように目の前で何度かピンと張る。その強度に満足したのか、そのままエリィはヴィスタに抱きつくような感じで腰に手を回した。そうする事でヴィスタにも意図が伝わったようで、エリィの頭の上に呆れた様なため息が一つ降ってきた。
「エサは私か」
「言うまでもありませんわね。これで殿下とこのヤケに重そうなテーブルの脚を結べば落ちても安心ですわね」
「意外と原始的な対処法だな」
「物事は単純に考えた方が上手くいくとお父様もおっしゃってましたわ」
「こんなバレバレな物、つけていたら警戒されるだろう」
「お父様の準備したものですもの。抜かりはありません。キーワードを言えば見えなくなるロープですもの。ですから見えなくする前にしっかりと結んでおきませんと」
そう言ってエリィはヴィスタの腰に何周か紐を回すと、わき腹の当たりできゅっと結んだ。そしてそのままもう片側をテーブルの脚に結ぶために立ち上がろうとすると、ヴィスタが無言で紐を持つエリィの手を握って引き留めた。
「一つ聞くが」
「はい、なんでしょう?」
何ともにやけた様な、それでいて困った様な微妙な表情をするヴィスタを、エリィは首を傾げて見返す。ヴィスタは躊躇うように口を噤む。そして再び意を決した様に口を開いた。
「リズは私に死んで欲しいか?」
「は?」
至極真面目に問いかけられたことに、エリィは憤慨した様に低めの声で聞き返す。この二週間ばかり、ヴィスタを助けようとそれなりに心を砕いてきたと言うのに、あんまりな言い様だと、エリィは眉間に皺を寄せて、椅子に座りなおすとヴィスタを睨んだ。するとヴィスタはそんなエリィを見て一つため息を吐くと「すまん」と一言呟いた。
「そうですわね。先程の発言を撤回して頂けなければ、殺意を覚えてしまうかもしれませんわね?……まぁ、この間の話の続きでしたら、答えは同じです。余り私を見くびらないでいただきたいですわ」
「……ではもう一つ聞く。これは何だ」
立てた親指で自分のわき腹を指す。その意図が掴めずに、相変わらず眉間に皺を寄せたままエリィは首を捻った。
「紐ですわよ」
「そんなのは見ればわかる!……イオル」
エリィに何かを言うのを諦めたと言った感じで、ヴィスタは後方を振り返り少し離れた場所に立っていたイオルを呼びつける。そうすればイオルは少し慌てた様に足早にヴィスタの元までやってきた。
「何かご用でしょうか」
「……結び直せ」
綺麗に結んだ紐をスルスルと解くと、ヴィスタは立ち上がって紐をイオルに渡す。その態度にムッとした様にエリィも立ち上がった。
「私の結び方ではご不満だとでも?そんなに信用ならないですか」
イラついた様にそう言えば、ヴィスタは紐を結ぶイオルの為に少し手を浮かせたままの状態で、心底呆れた様な視線をエリィへと向けた。ヴィスタの腰へ紐を巻き付けているイオルはと言えば、何故か苦笑いだ。
「信用ならないのはリズではなく、結び方だ」
「しっかり綺麗に結びましたわ」
怪訝そうに言うエリィに対して、ヴィスタはイオルが結んでいる紐を見せつける様に指で指す。
「どこの世界に命綱を綺麗に蝶々結びにする奴がいるんだ」
ヴィスタの言わんとすることに気付いて、エリィはバツが悪そうにパッと視線を反らす。羞恥で自然と顔が熱くなる。呑気にも話ながら紐を結んでしまった為に、ついつい普段通りの結び方にしてしまったのだ。確かに命綱を蝶々結びにするような猛者は早々見つからないだろう。もはや死ねと言っているような物ではないだろうか。そもそもしっかりと結ぶなら女であるエリィが結ぶよりも、力のあるヴィスタやイオルに結んでもらった方がずっとしっかりしているのは明白だ。ついつい何でも自分で手を出したがる悪い癖が出てしまったとエリィは少し反省をする。それでも気恥ずかしすぎて照れ隠しに顔を背けたまま口をへの字に曲げた。
「……ほどけやすくて結構なことですわね」
苦し紛れにそう嘯いてみれば、イオルとヴィスタのブッと吹き出す声が聞こえた。その笑い声に憤慨した様にエリィは眉を吊り上げて二人を睨む。
「笑う事は無いじゃないですか。ついうっかりしちゃっただけで……」
抗議の声を上げれば、イオルは恐縮した様に詫びの言葉を述べて頭を下げた。そして今度はしゃがんでテーブルへと紐を括り付け始める。ヴィスタはと言えば、可笑しそうにニヤニヤとした笑いを浮かべたままだ。そのニヤニヤ顔にイラついてエリィはヴィスタの頬を指でつまんで横へと引っ張った。
「そのニヤニヤした顔、気持ち悪いですわ」
憮然としたままそう言うも、ヴィスタは相変わらずにやけた表情を崩さない。
「キーワード教えるの止めようかしら」
唇を微妙にへの字に曲げ確かめ面をしながらエリィがそう言っても、ヴィスタはまるで堪えた様子はない。
「もう!私は真剣なのですから、殿下も少しはシャンとしてくださいませ」
「すまん、すまん」
少しだけ怒ったように言えば、ヴィスタはにやけながらも一応形ばかりの謝罪を口にする。そんなヴィスタに呆れつつも、エリィは椅子の上に置いたままの鞄を再び開け、中からヨハンより預かったキーワードを記したメモを取り出した。
「私が最初に読むので、ちゃんと復唱してくださいね?」
「ああ」
そう言ってエリィは折りたたんだメモを開いた。
「……」
「どうした?」
エリィはメモを見た瞬間、ほんの少しだけ表情が抜け落ちた様な、呆れた様な表情を浮かべ、すぐさま気を取り直したかのように咳払いを一つした。
「金の切れ目は命の切れ目。明朗会計、ニコニコ安心一括払い三千万」
「……なんだそれは」
「キーワードです」
「ボッタくりか」
「まずはどこが明朗会計なのかを問い詰める所から始めたらどうでしょうか」
チベットスナギツネのような表情のままエリィが言えば、ヴィスタは少しだけ遠い目をしながら、死んだ目で呟くように復唱する。するとヴィスタの腰に巻かれた紐はじんわりと空気に溶け込む様にその輪郭を消した。
「元に戻すのも同じキーワードか?」
「それは取りあえず後で、ってことで。お父様はこれで絶対殿下は安全だと言う自信があったんでしょうね……」
ヴィスタからは視線を外して遠くを見たままエリィがそう言えば、ヴィスタもあえて追及せずに同じように遠くの空へと視線を投げた。
「そろそろヨシュア、来るかしら」
何の気も無しにエリィがそう呟けば、ヴィスタは少しだけ眉を顰めてエリィを見る。そして何を思ったのか、椅子に座ったままエリィの腕を急に引き寄せた。
「何をするんですか」
突然の事によろけて、エリィは尻もちをつくような感じでヴィスタの膝の上へと倒れ込んだ。そのまま怒ったようにエリィが体を捩ってヴィスタの方へ振り向き、抗議の声を上げれば、それを狙ったかのように、ヴィスタのもう片方の手がエリィの頬に添えられた。その手とヴィスタの近づいてくる顔の行動の意図に気付き、エリィは慌ててその手を払いのける。
「悪ふざけが過ぎますわ」
そう言ってエリィが睨めば、ヴィスタは面白くなさそうにしながらも、すぐにその手を放して肩をすくめて見せた。
「キスの一つぐらい減るもんじゃあるまいし」
悪びれもせずにそう言うヴィスタの頬をエリィは力任せに引っ張る。ヴィスタが本気でキスしようと思えば出来た筈なのに、どこか試す様なその行動にエリィは訝しむ様にしながら片眉を吊り上げた。
「私の精神力がガリガリ削れます」
エリィがそう言えば、ヴィスタは不機嫌な顔のまま頬をつねったままのエリィの手を軽く払いのけた。そしてそのままエリィの顎に手を添えると、そっと親指で唇をなぞる。
「ヨシュアに許したなら私だって権利はあるだろうが」
「なんでそれを……!」
エリィが思わず反応してそう言えば、ヴィスタは苦々しい笑みを浮かべた。
「やはりか」
そう言ってヴィスタはエリィに添えたままの手とは逆の手で、己の顎から首のあたりを少し捻る様に擦る。そして大きくため息を吐いた。
「お前たちの態度が余りにも露骨だからな。何かあったと思うのが当然だろう。……飼い慣らしていたはずの犬に反撃を食らったか」
「そんなんじゃ……」
「ヨシュアを追い詰めたのは何だ?」
射貫くような眼差しを向けられ、エリィはその威圧感に気圧される様に息を飲む。それでも、胸の前で握った手にぐっと力を込めて俯きかけた顔を上げ、ヴィスタを見据えた。
「追い詰めてなど居ません」
「今までのアレなら、リズを思っていても行動に出すことも言葉に出すこともできなかったのではないか?」
そう言いながらヴィスタは思案するように目を細めて眉間に皺を寄せる。そして一言、「ああ、そうか」と呟いた。
「私と同じことを言ったのだな?お前が年を越えられないと」
確認でもするように言われた言葉に、エリィはハッとした様に目を見開き、そして視線を落とした。
「追いつめてなど居ません。でも……そう、ですわね。ヨシュアには言いました。私の最期は6月22日だと」
思い返してみれば、それを告げた日以降のヨシュアはどこかおかしかった。乙女ゲームの強制力だと勝手に自分で納得していた。いや、確かにその影響もあったはずだ。あの夜会の時、ヨシュアは確かに言っていた。最近何だか感情がコントロールできないと。だが、それでもヨシュアは好意を見せてくれることはあっても、直接的な言い回しや行動はほとんどとらなかった。
あの日の翌朝、何故かヨシュアが朝から絡むと言うか過保護だと違和感を感じた筈だ。学園のテラスで、ヨシュアからキスされそうになって、その後成り行きで喧嘩をしてしまったのですっかり忘れていたのだ。それだけではない、あの夜会の日、エリィの最期の日を告げたヨシュアは確かに言った。「僕を好きになってよ」と。あの日から始まっているのは間違いないように思われた。
「同情?お兄様を諦められないまま死ぬ私が可哀想になったってこと?」
ぼんやりと床へ視線を這わせながらそう呟けば、呆れた様に「馬鹿か、お前は」と言う声が転がった。その声に、そう言えばヴィスタと話していたのだな、と思いだして再び顔を上げれば、冴えない表情で、覇気のない苦笑いを浮かべたヴィスタが居た。
「惚れてる女が死ぬと分かってていつも通り、平静で、なんていられる男など居る訳ないだろうが」
酷く悲しそうに笑うヴィスタの目が印象的で、エリィは戸惑った様に視線を反らし、前を向く。そうする事で外れたヴィスタの手はそのままエリィの腰へと回された。立っているか座っているかの違いはあれども、あの夜会の日と同じようにヴィスタは後ろから抱きしめるようにして、顎をエリィの肩の上にのせる。
「三か月後か」
「……何事もなければ、ですわね」
エリィの耳元のすぐ近くで、まるで感情を抑えるかのようにヴィスタは大きく息を吸って、そしてゆっくりと吐き出した。
「だからヨシュアはガラント伯の庶子を得ようと焦って動いたのか」
まるで独り言の様な小さな声でヴィスタは言う。その内容にエリィは訳が分からないと言った様子で目を丸くした。
「それとこれとは話が別でしょう?」
なぜそうなるのか分からないと言った調子でそう言えば、ヴィスタはフンと鼻で笑った。
「同じだな。彼女はこの国最高の医師となりえる魔力を持っている。その魔力を持って直接患者の病を治す等は今までの魔力保持者からは到底考えられない奇跡の力だ。正に聖女と言ってもいい。その彼女の力をもってすれば、リズの病を治せるかもしれない。そう考えたのだろう」
「だとしても、婚約する必要などどこにもないではないですか」
そう静かに問いかければ、ヴィスタは冴えない表情のまま視線を遠くの空へと投げた。
「リアンナ嬢はヨシュアに特別な好意を抱いている。だからこそ、恋敵であるリズの病をそう簡単には治療しないだろう」
「そんな言い方はリアンナ様に失礼ですわ」
「本当の事だ。怪我と違って病を治すのは相当な魔力を使う様だ。自分の命を削るに等しい力。それを無償で提供しろと言う方が失礼ではないのか」
「それはそうかもしれませんが……」
「リアンナ嬢の魔力の代償にヨシュアとの婚姻と考えれば彼女自身も納得するだろう」
「そんな物々交換みたいな言い方。そんなのヨシュアが納得するわけがないですわ」
「納得はしなくても、迷いはする。そしてリズの為に決心したのではないか?そうでもなければヨシュアがリアンナ嬢を選ぶメリットが何一つない」
「……どう、して?」
「アレが受けてないだけで、見合いの話は山ほどある。侯爵家の血筋で、王子の側近だ。好きでもない娘たちの中で、社交において不利になるであろう平民の血が混じる娘を選ぶ理由が無い」
「そんな言い方……!」
「それが事実だ。綺麗ごとを並べ立てても意味がないだろう?元々彼女の血筋を考えれば、多額の持参金付きで金に困ってる男爵家などに輿入れさせるのが妥当なところだ」
「でも、彼女には類まれなる治癒の力があるではないですか」
「そうだな。彼女を取り込むことによって国への影響力を増そうと考える者は出てくるだろう。妾や第二夫人として、ならな。だが父親が宰相、兄が王女の配偶者、自分が王子の側近。ここまで後ろ盾も地位も揃っているのに、わざわざ正妻に彼女を選ぶ。誰が聞いても正気じゃない」
気持ちの上では納得できない思いが溢れそうであっても、頭の中で冷静な自分が、ヴィスタの言っている事は決して偏見でもなんでもなく、それが当然の事であるという事が分かる。人がみな平等でないなんてことは、子供だって知っている。そんなことを平然と言えるのはただの夢想家だ。そもそも人が平等であるのならば、貴族だって生まれる筈がない。
「それなのに彼女を正妻にと言うのは、彼女に類まれなる治癒の力があったからだ。妾でも、第二夫人でもなく正妻にと言うのは、何が何でも彼女の力を手に入れたかったからだ。理由は、もう言う必要はないだろう?」
「私の、ため。そうだと言うのですか」
絞り出す様に低い声で言ったエリィの言葉に、ヴィスタはあえて返事もせず、小さく息を吐く。
「仮に彼女が正妻となって子を産んだとしよう。だが、彼女の子には爵位を授かる資格がない。それは彼女の血が平民交じりだからだ。その場合一般的には血筋の正しい第二夫人を迎えて子を産ませるか、血筋の正しい養子をもらうことになるだろう。だが彼女は育ちも平民だったが故に、それを不誠実だと拒否している。そして、ヨシュアは第二夫人も妾も設けない事を彼女とガラント伯に約束した。それこそ正気の沙汰ではない」
その言葉の意味するところを考えて、エリィは信じられないような気持ちで口元に手を当てた。
「リアンナ様は、ヨシュアを好きなのではないのですか?」
「好きだから許せないという事だろう」
好きな相手を自分と同じ所に押しとどめることのどこが好意と言うのだろうか。あれだけ才能があって、それを生かせる実力と環境があって。けれど、それを自分の代で捨てることが決まっている。一代限りの爵位。彼がどんなに努力して地位や名声を得ようとも、それがなかった事にされる未来。そんな未来に希望なんて持てるのだろうか。
まるで自分の事のように悔しく思ってエリィは歯噛みする。彼をそんな立場に追いやろうとしているのもまた、自分である事にも許せない気持ちでいっぱいになった。そんなエリィの気持ちを察したのか、ヴィスタはエリィのお腹の前で重ねていた手を宥めるようにポンポンと叩いた。
「そもそも、王家としては彼女の能力に懐疑的だ。それを知っていながら慎重派のヨシュアが手を出そうとすること自体がありえない」
「彼女の力は本物です。私も目の前で見ましたし……」
「怪我は、確かに治すのだろう。だが病は……微妙なところだな」
「微妙?」
「治った者もいれば、そうでない者もいる」
何とも難しい顔をしながらヴィスタがそう言う。
「だが確かに怪我を治すという事だけ見ても、特異ではあるし、王家に取り込もうと言う動きが無かったわけではない」
「私と同じ様に、ということですか」
そう呟けば、ヴィスタは短く「ああ」と答えた。その事に少しだけ不快感を覚えながらも、それが政略と言う観点で言えば決してありえない話ではないと納得する。怪我人を瞬時に治せる者がいるとしたら、仮に戦が起きた時にとんでもない兵力を抱えることと同等だ。
「父上の側妾にと言う話は出ていた」
「……親子ほどの年齢の差があるではありませんか」
渋い顔をしてそう言えば、ヴィスタは少し笑ったようだった。
「リズと違って彼女の血筋では、妃にはなれない。そして正妃を迎えていない私では側妾は作れない。ならば父上しかいないだろう?」
「まるで犬の子を迎えるような言い方ですのね」
「確かにな。だが、国外に流れる恐れを考えれば仕方が無かった。ヨシュアとの見合いの話が上がって国で一番ほっとしたのは、彼女でも彼女の父親でもなく、間違いなく私たち王家だろう」
「なんだか納得いきません」
「国の為に望まない結婚を強いられるのは王家でも変わりがないという事だ。彼女が国外へ流れ、敵対すれば、多くの民の血が流れる危険がある。それを考えれば望まぬ結婚など取るに足らない事だろう?」
「だとしても、側妾だなんてあんまりですわ」
「だからヨシュアとの話が出てホッとしてるんだ。父上と母上の仲は良好だ。側妾として彼女が上がったとしても顧みられる事が無いのはわかりきっていたからな」
「……ここで、私なら私だけを見てくれる人でないと結婚は嫌だと言えば、私も彼女と同じなんでしょうね」
先程までリアンナを非難する気持ちがいっぱいだったのに、ヴィスタと話している内に段々とその気持ちもしぼんでいってしまった。そもそもそんな状態に追い込んでいるのは自分であるというのは否定できない。
軽く深呼吸をしながら、昨日の朝の事を思い出す。一人で思い悩むエリィに「何が不安なのか」とヨシュアは問いかけていた。あれは、暗にエリィが己の死について思い悩んでいると解釈してしまったのではないだろうか。そして彼はエリィにキスした後に言った。「これで最後だから」と。
「昨日の朝、これで最後だからって、そう言って……」
そう口に出せばはっきりした。彼のあの言葉はキスの終わりを言ったのではなかった。その意味に気付いた途端、エリィは急に足元の支えを失ったような感覚を覚えた。ふわふわと安定性のない物の上に立っているような奇妙な感覚。寄る辺のない水面の葉のように、心細さでいっぱいになる。
――あの”終わり”は、決別の意味だったのだ。
ヴィスタの言葉が本当なら、ヨシュアはエリィの為に、ただそれだけの為にリアンナとの婚約を決めたことになる。自分の幸せを考えず、エリィの為だけに。死ぬのが決まっているエリィの代わりに、エリィの元を離れ、自分の未来を捨てるつもりなのだ。
なんてバカな事を、と目の前が暗くなる気持ちを抑えきれず、両手で顔を覆う。
「ヨシュアは、馬鹿みたいに優しいんです」
「そうだな。リズの事になると正気を疑うほどにな」
ヨシュアの事を考えると自然と目が潤んだ。ぐちゃぐちゃの気持ちの中に、それでも仄暗い小さな感情を感じて、エリィは子供のように小さく首を振った。そんなエリィをヴィスタはゆっくりと自分の方へと引き寄せて頭を抱え込む様に抱きしめる。
「私ずっと、お兄さまが好きだったんです」
「知っている。最初からあきらめている好意を、恋と呼ぶかは私には分からんが」
「確かに好きだったんです。側に居れば幸せだった」
「諦めている事に気付かせようとずっと思っていた」
「婚礼の日取りが決まったと聞いて、悲しい気持ちもあったけれど、仕方が無いと思う気持ちの方が強くて」
「ああ」
「でも、ヨシュアの婚約の話を聞いた時、凄く頭にきて」
「私は損な役回りだな」
「嫌で嫌でたまらなかったんです。許せなかった」
「許す必要などないだろう」
「でも、殿下の話を聞いて。少しだけ。ほんの少しだけ、嬉しいと思ってしまったんです。私の為に自分の未来を捨てようとしている事が」
「セシル、セシルと言いながら、いつでもヨシュアを連れ歩くのは中々に不愉快だったぞ」
「死んでしまうと決まっているから、私は周りの人たちの幸せを願ってました。願っていると思っていました」
「清々しいぐらいに強情にそう言い張っていたからな。知っているよ」
「だけど。だけど、みんなやヨシュアの幸せを願いながら、誰よりもヨシュアの不幸を願っていたんです。……私にずっと縛られていて欲しかった」
嗚咽交じりにそう言えば、ヴィスタは大きくため息を吐いた。
「こっぴどく振ってくれるな」
呆れた様に苦笑しながらそう言って、ヴィスタは自分の肩口にエリィの顔を押し付けた。瞼から零れ落ちそうになっていた雫は、そのままヴィスタの上着に吸い取られていく。
「私みたいな良い男を振ったら、もう後が無いぞ」
「はい」
「私の立場からしたら、今回の婚約は何が何でも後押しをしなければならないわけだが」
「わかってます」
ヴィスタは軽くエリィの頭を撫でながら、わざとらしく声を出しながら大きくため息を吐く。それでもその声には何も陰りはなく、よくよく聞いてみれば優しさが滲んでいるのが分かる。ヨシュアだけではなく、ヴィスタもそうとは見せないだけで、いつもいつもエリィを思いやる気持ちが垣間見えていた。少し難はあるとしても、頼もしい味方であることには違いないのだ。
「アレが良いのか」
「……はい」
そう小さく返せば、ヴィスタは頭をガシガシと掻いて背もたれに大きく寄り掛かった。




