第2話『愛』
今日も太陽は全力を出し切っていた。地上では省エネなんて言葉が流行っておりますよ、と言ってあげたくなる。そんな笑えるくらいの炎天下で、わたしと兄は項を晒して草を引き抜いていた。しばらく雨とは縁遠かったらしい乾いた大地から雑草を根っこごと引き抜くのはなかなかに難しく、どうしても途中で千切れてしまう。生命力溢れる彼らのことなので、抜いたそばから生えてくるに違いない。そう分かっているならスコップを買え。水を撒いて地面を柔らかくしろ。と思うだろう。そんなことは分かっている。しかし先立つものがないのだからどうしようもない。あるのはこの身一つだけだ。
わたしは根が切れた雑草を背後に投げ捨てて、溜息を吐いた。拠点としているこの寂れた神社をリフォームだかリノベーションだかをしようと決めてからひたすら草むしりをしているのだが、全くと言っていいほど終わりが見えない。それどころかどうせまたすぐに生えてくるので、そもそも終わりというものがないのかもしれない。そう考えると途端に恐ろしくなって、わたしは草を掴む手を離した。
「休憩にしようか」
兄は散らかった雑草を一か所に集めた。土で汚れた手が痛々しい。刀をとって戦ったことのない貧弱な手だと尚更そう見える。しかし兄は汚れることを楽しんでいるらしかった。わたしの返事も待たずに手水場へ向かう軽やかな足取りから、そんな心情が窺えた。
わたしも手を洗うか、と立ち上がったところであることに気がついた。どうして無人となってしまった神社の水道が機能しているのだろう。思い返せば外灯だってそうだ。そのときは深く考えなかったが、外灯が点くということは電気が通っているということに他ならない。
「萩乃!」
名前を呼ばれて顔を上げたが、兄の姿は見えなかった。視線を泳がせてみると、手水場の向こう側から一本の腕が覗く。ヒラヒラと振られるそれに誘われて向かえば、兄が叢の陰を指した。そこには角材のようなものに蛇口がついただけの素朴な立水栓があった。
「見ていてね」
兄が蛇口を捻れば、出てきた水が地面を濡らした。
「おお! すごい、すごい」
「これは便利だね。手水場の水は少しずつしか出て来ないから」
水を撒いて土を柔らかくすれば、雑草を根ごと抜きやすくなるというわけだ。その代わり、手が汚れるくらいで済まなくなるだろう。ますますこの恰好が不便に思えてきた。
「ホースが必要だな。バケツでも出来ないことはないが、ホースで撒く方が効率がいい」
「ホース?」
「蛇口を延長させる道具みたいなものだ。それがあれば広場の方まで水を引くことが出来る」
「どこかに落ちていないかな?」
兄は辺りを見回した。運良くホースが落ちていた、なんてことがあるわけないだろう。バケツ代わりになりそうなものならどこかで拾えそうではあるが。
「買うしかないな」
出来もしないことを呟いて、拝殿の方に戻る。すると向拝がつくる影の中に一人の女性が立っているのが見えた。30代に入るか入らないかというくらいに見える女性は、白いジャケット――ブレザーかもしれない。申し訳ないが違いが分からない――に黒の窮屈そうなスカートという、真夏に相応しくない恰好をしていた。なんとなく、ちゃんとした仕事をしている人なのだろうと推察する。ちゃんとした仕事をしている人はみんな窮屈そうな服を着ているものだ。
ようやくわたし達の存在に気が付いた女性がこちらを向いた。なかなかの美人である。どうしたらそうなるのか見当もつかないくらい器用に後頭部で収納された髪と、少し冷たく見える大きな目が相俟って、気がきつそうな印象を受けた。
声をかけるべきか否か迷っていると、彼女の方から声が掛かった。思いの外優しそうな声だった。
「賽銭箱がないなんて、商売根性のない神社よね。明治神宮なんてお正月の3日間で13億も稼いでるっていうのに」
宮司さんですか、と彼女は聞かなかった。そう聞いてくれたら「はい」と答えられるのだが、いきなり話しかけられると困ってしまう。いかにも宮司然とした恰好をしているのだから、勘違いしてくれていたら有難いが。
返事が出来ないでいると、彼女はわたし達の姿をジロジロと見てから言った。
「コスプレ撮影?」
希望が外れた。
「違います。ここの宮司です」
「宮司? 神主のこと?」
いちいち訂正するのも面倒なので頷くと鼻で笑われた。
「嘘おっしゃい。どう見ても高校生じゃない。管理者がいるようには見えないから、家の手伝いってわけでもなさそうだし」
なかなか勘が鋭い。この女性相手に凝った嘘はつけなさそうだ。
「実は、家出中なんです」
「へぇ。その恰好で?」
「はい。いろいろと事情がありまして」
この恰好についてさらに追及されるかと思いきや、彼女は「ふぅん」と頷くだけだった。
「お友だちも?」
「友だちではありません。兄です。双子の」
「兄弟揃って家出!?」
唖然とさせてしまった。更に言えば、家出をしたわたしを追いかけて来た兄共々、家に帰る方法が分からないという有様である。ミイラ取りがミイラになった現状を知れば、彼女は更に唖然とするに違いない。
「まぁ、夏休みの間くらい好きにすればいっか。通報はしないであげるから、親が騒ぎ出す前に帰りなさいよ」
やけに物分りがいい。単に家出高校生に興味がないだけかもしれないが。
「家出の理由とか、この恰好の訳とか、聞かないんですか?」
「聞いて欲しいの?」
思わず閉口するわたしを一瞥してから、彼女は拝殿の階段に腰掛けた。どうやらもう少し滞在してくれるらしい。いろいろと聞きたいことがあったので助かった。
「誰にだって、言いたくないことや知られたくないことのひとつやふたつあるじゃない。わたしにもある。だから聞かない。話したくなったら勝手に話すんだから、わざわざ聞いたりしないわよ」
「なるほど。ところで、聞いてもいいですか?」
「わたしの話聞いてた?」
「そういう意味じゃなくて、単純な質問です」
彼女はまだ不審そうな顔をしていた。気にせず続ける。
「実は何も持たずに家を出て来たもので、困っています。手っ取り早くお金を稼げる方法はありますか?」
「売春を吹っ掛けるならお金持ちの暇そうなマダムを相手にしなさい」
冗談かと思いきや、彼女の眼差しは真剣だった。それこそ冗談ではない。不満を露わに否定すれば彼女は申し訳なさそうな顔で詫びた。それからおもむろに鞄を漁り、白い入れ物を取り出した。中から出て来たのは煙草だった。意味ありげな視線を向けられたので頷けば、彼女は遠慮なく紫煙を燻らせた。体に悪そうな匂いが鼻を掠める。
「神社で煙草なんて、罰当たりにもほどがあるわね」
別に罰など与えないが。と心の中で返す。
「さっきは失礼なことを言ったわね。オバサンになるとなんでも穿った見方をしちゃうみたい」
「オバサンには見えませんが」
「あはは、そりゃどうも。でも、29歳なんて高校生からみたらオバサンよ。わたしがあなた達くらいの年齢だった頃は、1つ年上でもオバサンだったもの」
鞄から携帯灰皿を取り出した。大きく開けた口の淵を煙草で叩く。折れたように灰が落ちる。するとわたしの後ろで突っ立っているだけだった兄が唐突に口を開いた。
「それって美味しいのですか?」
「全然。成人してもしなくても、手出ししない方がいいわよ。それより、お兄ちゃんのそれは地毛?」
「はい」
「いいね、とても綺麗。肌も白くて天使みたい。今時の男の子って綺麗なのね」
褒め言葉なのだろうが、神に向かって「天使みたい」とはおかしな話である。西洋で天使がどれほお偉い存在なのかは知らないが、天の使いと書くくらいだから神の僕なのだろう。神の僕。そんな存在がいればよかったのだが。
「それに二人とも、肌がとっても綺麗。化粧品販売員が言うんだから間違いないわよ。肌年齢いくつが出るかしら」
「肌年齢?」
聞きなれない単語だ。女性は「男の子だもんね」と笑って煙草を揉み消す。
「肌の年齢と実年齢は一致しないのよ。メンテナンスを怠ると、肌だけがどんどん年を取っていくわけ。乾燥とか紫外線とか外的要因と、不摂生とかストレスとか内的要因が絡み合って……話が逸れたわね。何が聞きたかったんだっけ? ああ、そうだ。手っ取り早くお金を稼ぐ方法か」
今度は鞄から口紅と手鏡を取り出した。丹念に塗り直している。この暑いのに顔の表面を気にしなくてはならないなんて、女性は大変だ。
「バイトするのが一番よね。期間限定で日払いのバイトがいいけど、今どきそんなのあるのかしら。大学生のときにレストランでバイトしたっきりだから、今どきのバイト事情が分からないわ。それに着替えもないんでしょ? その恰好で働くわけにはいかないし、そもそも面接に行けないじゃない。お兄さんの髪も引っかかりそうだし」
結論は家に帰れというわけだ。それにもし万が一そんな奇特な働き先が見つかったとして、わたし達が人に馴染んで働けるとは思えない。
女性は膝に頬杖をついて微かに唸った。それにしても、この暑い中家出高校生――ではないのだが――のためにここまで親身になる彼女はいったいなんなのだろうか。暇なのか。
失礼な感想を抱いたところで、彼女は手を打って顔を上げた。
「ギャンブルよ。運が良ければ手っ取り早く儲かる」
「でも賭け金がありません」
兄が答える。ホースは知らないのにギャンブルは知っているとは、相変わらず偏った地上知識だ。
「安価な賭け金で一攫千金が出来るギャンブルがあるわ」
意を決したように女性は立ち上がった。こちらを向いて、わざと意地悪そうな笑みを浮かべる。
「宝くじよ」
「宝くじ?」
兄と声を揃えて復唱してしまった。
「そう。競馬なら100円から一攫千金も狙えるのだけれど、高校生じゃ馬券が買えないからね。宝くじなら1枚200円で買えるものもあるから、1枚くらい買ってあげる」
ついて来いと言わんばかりに歩き出した彼女の後を追った。地上生活は短いが、地上に於いてこんな親切が稀有であることをわたしは知っている。しかし親切を働かせてくれる者に、どうして親切にしてくれるのかと問うのは失礼なように思えて、口を噤んだ。
代わりにわたしは名前を聞いた。すると先に名前を名乗ってから聞くのが礼儀だと説教を食らった。女性は説教好きだから困る。渋々あの美味しそうな仮名を名乗ったのだが、彼女は興味がなさそうな返事をするだけだった。
彼女は栖川満と名乗った。
満に連れられてしばらく歩くと、人気の多い場所に出た。神社の近所は民家ばかりなのだが、ここは商売をやっている建物が多く見られる。中でも一際大きな建物が目についた。入口の前には広い駐車場が広がっている。わたし達は脇の歩行者用道路を進んだ。彼女の目的地はあの建物にあるらしい。
「来たことあるよね?」
わたしと兄は首を振った。満は少し驚いたような顔を見せる。
「君たち結構遠くから来たの?」
「……まぁ、それなりに」
「だよね。近所に住んでる高校生がタウンセンターに来たことがないはずがないもの」
中に入るのかと思いきや、彼女は外壁を辿るように外周を歩いた。外側にも入口を持っている店の前を次々に通過していく。すると派手な幟が目についた。宝くじ売り場である。それは庇のついた一軒の小屋のようになっていて、他の店とは違いタウンセンター内部とは繫がっていないようだった。
「サマージャンボも終わったから、閑散としてるわね」
窓口の前に立つと、暇そうにしていたご婦人が慌てて姿勢を正した。真夏にこんな小屋の中はさぞ蒸し暑いのだろうと思ったが、エアコンが稼働していてかつ扇風機まで設置されているようなので、案外居心地が良さそうである。
「すみません、スクラッチを3枚ください」
「はい。600円です」
1000円を出してお釣りを受け取り、窓口の脇に避ける。満は硬貨と先ほど買った紙を一緒に差し出した。紙にはゴチャゴチャと説明文が書いてあったが、読む前に彼女から説明を受けた。
「そこの銀色の部分をコインで擦って、横一列に絵柄が3つ並んだら当たりよ」
「結果がすぐに分かるのか」
「そういうこと。外れたら、大人しくお家に帰りなさい」
彼女の一言によって、わたし達の今後がこの1枚の紙に委ねられてしまった。親切の魂胆が見えた気がする。それだけが理由とは思えないが。
先んじて満がコインを立てた。列は3列あるのだが、それを斜めに一気に削りはじめる。当たりを気にしていないような削り方だ。結果はやはりすぐに分かった。
「ハズレ。100円も当たってない」
彼女は紙を破いてゴミ箱に捨てた。わたしと兄は一度目を合わせてから、慎重に削り始めた。横から満が覗いている。3列とも先頭のひとつめを削り終えたところで、わたしは緊張を感じ始めていた。運命がかかっているからではない。金がどうしても欲しいからでもない。一柱の神として、幸運が試されている状況に緊張をしていたのだった。
恐る恐る削っていくとふたつめの柄が見えた。下の2列は残念ながら不揃いだったが、一列目に桜の花のような絵柄が並んでいる。俄かに興奮してきた。横目に兄の手元を覗けば、兄も同じく一列だけ絵柄が揃っていた。宝箱の絵柄だった。正直どちらかだけでも当たればそれで良いのだが、対抗心を抱かずにはいられない。
「そうやって虚しい期待を抱かせるのが宝くじなのよ。ほら、早く削って」
ちんたらしてしても仕方がない。わたしは促されるままコインを滑らせた。そして露わになった絵柄を見て、息を呑んだ。
「揃った。満さん、花が揃ってる」
「うそ!? 本当に? やだ、本当じゃないの。本当に揃ってる! おめでとう。5万円よ!」
紙の右上に当たりの絵柄一覧が印刷されている。5万円は三等賞だった。一等じゃないのが不満だが、まぁ、まずまずの結果ではないか。
「おや、わたしも揃った」
兄が揃えたのは宝箱の絵だった。それはいくらかと確認して驚く。満もポカンと口を開けていた。売り場のご婦人が興味津々でこちらを見ている。満はなぜか彼女へ顔を向けた。
「二等ですよ。10万円」
「あらまぁ~……」
気味悪がるような目が兄へと向けられた。
わたしはというと、不満だった。二等を当てられてしまったら、三等が霞んでしまう。なぜ一等が引けなかったのかと少し前の自分に腹が立った。しかしよく考えてみると、宝くじというのはこの売場だけで販売されているわけではない。そもそもの話、この売場に一等のくじがなければどれだけ強運の持ち主であろうと引きようがないのだ。だが、それでも不満は残る。ギャンブル運のご利益なんてものをわたしは持ちあわせていないが、勝負運ならそれなりに自信があるので、兄よりはいい結果を引き寄せられると思っていたのだが……うまくいかないものである。
「スクラッチで良い賞を引き当てられる確率って、すごく低いのよ。それを兄弟揃って当てちゃうなんてね」
「お客さん、スクラッチ初めてなんでしょ? ビギナーズラックってやつかしらねぇ。それとも、その恰好が関係しているのかしら」
ご婦人はわたしと兄を交互に見た。窓口前に長居して大丈夫なのかと心配になったのだが、横を見ても後ろを見てもひとっこ一人いない。
「神社にご奉仕しているの?」
「……そんなところです」
面倒なのでそういうことにしておいた。察してくれたのか、満は何も言わなかった。
「ああ、やっぱり神様は奉仕してくれている人にご利益をもたらしてくれるのね。都合よく参拝に来てお賽銭だけ置いて行くだけじゃ駄目ってことか。ねぇ、神主さんが当てましたって広告貼ってもいいかしら?」
そんな便利な神通力は持ちあわせていないのだが、わざわざ彼女らが信じる神という存在についてまで否定するつもりはない。実在する神と人の心の中にいる神とは、ときとして違うものだ。わたし達を存在として認識し信仰してくれている者は、もしかしたらもうこの世にいないのかもしれない。
「神主じゃなくて、宮司でお願いします」
「宮司? それが正式名称なの?」
「そんなところです」
まただ。ここのところ曖昧な返事ばかりしている気がする。
無事に換金を終えたところでタウンセンター内に入った。自動扉を通り抜ければ、冷たい空気が頬に触れる。入って正面は吹き抜け構造の広場だった。そこから前後左右に通路が広がっていて、先の方まで見渡せるような広々とした造りになっている。これだけ広い建物を冷やすのにいったいどれだけの電気が必要なのだろうかと、どうでもいいことが頭を過った。
「ここにホースはありますか?」
さっさと歩き出した満を追いかけて兄が問う。彼女の足取りに迷いはなかった。彼女はわたし達よりもわたし達に必要な物を理解しているらしい。
「日用品のフロアにあったと思うけど」
「じゃあ軍手は?」
「普通に売ってるでしょ」
「スコップは?」
「園芸用品コーナーに置いてあると思うけど……なんでそんなものが必要なの?」
エスカレーターで二階にあがる。吹き抜けから広場を見下ろすように置かれたベンチに座っていた女性がこちらを凝視していた。
「神社を綺麗にしたいんです」
「あの神社を?」
「はい。まず草むしりをして、それから拝殿の掃除をしようと思います。幸い壊れていそうなところはないし障子も綺麗だし、どうやら電気も水も通っているようなので、」
そうわたしが口を挟んだところで満が割ってはいった。
「君たち、あそこに住むつもり?」
「しばらくは」
帰り方が分かるまで、あるいは迎えが来るまではあの神社を管理すると決めていた。
「やめておきなさいよ。死んじゃうわよ」
「罰が当たりますか?」
「そうじゃなくて、真夏にあんな場所で寝起きするなんて正気じゃない。体がおかしくなっちゃうわ」
確かに夏の熱さは尋常じゃない。流石は日出ずる国である。それとこれとは関係ないか。
「満喫に入り浸るとか、二人合わせて15万もあるんだから数日ホテルをとるとかした方がいい」
「大丈夫ですよ。だって見てください。わたし達2人とも、汗一つ掻いていない」
「それが余計に危ないのよ。そういう人ほど熱中症や脱水症状になりやすいんだから」
「そういえば満さんもあまり汗を掻いていませんね」
「顔だけね。これはただのプロ根性よ」
最初に入ったのは薄暗い店だった。明かりが足りないからではなく、壁紙や並んでいる商品の色味のせいで暗く見えるのかもしれない。微かに革と化学繊維の匂いがした。
「よく若い男の子が着てるブランドだけど、安倍川兄弟は?」
手品師みたいな呼ばれ方をされた。
「買ったことがありません」
「じゃあ好きなブランドは? ここのテナントに入ってないかもしれないけど」
「ありません」
「ない? 素材がいいから着飾る必要はないって?」
「そうじゃなくて、服を買ったことがありませんから」
うそ、と彼女の口が動いた。嘘をつくべきだったと反省する。どうしてか、段々と嘘を上手くつけなくなっていっている気がする。
「分かった! お母さんが全部用意してくれてるんだ? もしかしてお坊ちゃんなの?」
そういうことでもないのだが、咄嗟にどう答えたら良いかが分からない。わたしが黙ったのは一瞬だったのだが、満はその一瞬を重く捉えていた。
「ごめん。根掘り葉掘り。もう聞かない。それよりもさ、まずは財布よね。現金を生で持ち歩くなんて心臓に悪いもの」
満は近くに陳列されていた黒の財布を取った。チャックを開けて中を見ている。やたらと入り組んだ構造をしていた。
「こっちがいいです。こっちの方が見やすくていい」
「いや、それ、鞄だし」
わたしが手にしたクールでスタイリッシュな鞄が却下されたところで、後ろから店員の大袈裟な声が聞こえた。振り返ると、アバンギャルドでアウトローな恰好をしたマイブラザーが立っていた。……無理にカタカナ語を使うのはやめておこう。
ところで兄はなにをしているのか。
「お客さんめっちゃ似合ってますよぉ~!髪色も超格好いいし、なんていうか、クールっスよね。スタイリッシュな感じもいいけど、そのアバンギャルドな髪色生かしてちょっとアウトローに攻めてみるのもいいんじゃないっすか?」
カタカナ語は極力使わない方がいいかもしれない。
「どう? 似合うかな?」
「似合わない」
「はっきり言うなぁ……。あのお兄さんは褒めてくれたのに」
「それが仕事だからな」
正直言うと似合っていた。すっかり地上に馴染んでいる。畜生。
「いいじゃない。格好いいよ。セットで買えば?」
「ヒュウ~! ありがとうございまぁす!」
「ちょっと待って」
「なになに、お兄さんもフルコーデしちゃいますか?」
「わたしは弟です。ああ、そうじゃなくて、兄上、そんな恰好で草むしりが出来るのですか?」
隣で店員が「兄上! カッコイー!」と言った。少し黙っていてくれ。
渋々試着室に入り、元の恰好に戻って出て来た兄を伴って店を出た。散々騒いでおきながらなにも買わなかったことを申し訳なく思っていたのだが、店員の男はわたし達のことなどすっかり忘れたかのように新たなお客を煽てていた。
「動きやすくて野外活動に適している服、なんて言われたらジャージしか出てこないわよ」
次に入った店で、わたし達はジャージを購入した。満の勧めもあって、有名なスポーツ用品のものにした。店員に断って試着室で着替えをさせてもらったので、ついに宮司を卒業である。服も履物も機能的で着心地がいい。一時は惑わされた兄だったが、今はすっかりジャージに落ち着いている。しかし満は不満そうだ。
「着替え用までジャージだなんてつまらない。小物入れを財布代わりにしちゃうし。ちょっと頓着しなさすぎじゃない?」
「興味がないので」
機能性を重視した服には縁がなかったので、わたしはこのジャージという服をわりと気に入っている。高天原に持ち帰りたいくらいだ。それに財布代わりにした小物入れは、長い紐がついていて首から下げられるという便利さである。
「まぁ……あの恰好のままよりは目立たないからいっか。高校生だし」
やけに気の毒そうな顔をされた。
それから日用品のフロアへ連れて行かれて、先端にシャワーヘッドがついたホースを買った。ただのチューブのようなホースよりも散水しやすいらしい。バケツと雑巾、軍手やタオルも買って、園芸コーナーではスコップと、満に勧められた麦わら帽子も買った。
店員さんが可能な限り収納して袋に入れてくれたのだが、それでも大荷物になった。
「ちょっと寄りたいところがあるんだけど、いいかしら?」
大荷物が幅を取って迷惑が掛かりそうだったので少し躊躇ったのだが、満が返事を聞かぬまま歩き出したので、ついて行くしかなかった。それにここまで面倒を見てくれた恩もある。てっきりタウンセンター内のどこかへ行くものだと思っていたのだが、満は外へ出た。10分ほど歩いて、辿り着いた喫茶店に入っていく。わたし達も後に続いた。
「あの席に座ってもいいですか?」
店内はガランとしていた。満が指したのは明らかに大人数用の席だったが、店員は笑顔を浮かべて了承した。
「3名様ご案内いたします」
席につくと水が運ばれてきた。注文が決まったら呼んでくれとだけ言い残して店員が去る。向かいに座った満が、端に置かれていたメニューをわたしたちの方へ向けて広げてくれた。
「わたしは決まってるから、どうぞ選んで」
メニューには横文字が多かったが、大体どういうものなのかは分かった。以前アイスティーを飲んだときに自分が甘党であることを知ったので、何となく甘そうなのを選ぶ。
「カフェモカで」
「お兄ちゃんは?」
「えっと……満さんはなにを注文しますか?」
「普通にアイスコーヒーだけど」
「じゃあわたしもそれで」
メニューを閉じるとすぐに店員が来た。呼ぶまでもなかったらしい。提供カウンター付近では暇そうなフロア係が数人おしゃべりに夢中になっている。
「アイスコーヒー2つとカフェモカのアイスを1つ」
「かしこまりました」
店員が去るのを待ってから満に聞いた。
「この喫茶店が好きなのですか?」
「え、なんで?」
「寄りたいところがあるって言っていたから」
「ああ……」
少しバツが悪そうな顔をした。
「まぁ、それなりにね。朝からやることがあって疲れてたから、休憩もしたかったし」
「仕事ですか?」
「うん。実は今日から夏休みなんだけどね、やり残したことがあったから、ちょっとだけ。そのちょっとのためにバッチリメイクして気合の入った服を着なくちゃいけないなんて、本当面倒臭い。接客しないんだからどうでもいいかと思ったんだけど、そういう訳にはいかないし」
飲み物が来た。満も兄もなにも入れずにストローをくわえた。見るからに甘そうだからこのままでいいだろうとわたしもそのまま口にしたのだが、思いの外苦かった。上に乗っている生クリームとチョコレートソースが甘かったからか余計に苦く感じる。こっそりとガムシロップを2つ投入した。うん。美味い。
「仕事帰りに付き合わせてすみません」
兄が小さく頭を下げた。満は慌ててグラスを離し、手を振って否定した。
「やめてよ。どうせなんの予定もないからって、暇つぶしに付き合っただけなんだから」
「でも、本当に助かりました。満さんに出会わなければ途方に暮れていたことでしょう」
「大袈裟ね。ところで必要なものはもう揃ったの?」
頷けば満は「良かったね」と呟いて、煙草を一本くわえた。近くを通りかかった店員が申し訳なさそうな顔をこちらへ向ける。
「申し訳ございません、お客様。こちらのお席は禁煙となっております」
「あ、ごめんなさい。つい癖で」
「喫煙席がございますが、ご移動なさいますか?」
「いえ、この席がいいので」
「わたし達は構いませんよ」
「ううん、違うの。この席がいいのよ。窓際席だし」
てっきり満はわたし達に遠慮しているのだと思ってそう提案してみたのだが、断られてしまった。窓に面した席だからといって、外に絶景が広がっているわけでもないのに不思議である。
「あ、ケーキでも食べようかな。ここのチーズケーキすごく美味しいのよ。前に一度食べたことがあるの。君たちもどう?」
チーズケーキか。果たして甘いのか酸っぱいのか、見当もつかない。せっかくなので頂くことにした。
ケーキ3点の注文を受けた店員が提供カウンターへと戻っていく。それを見送っていた満の視線が店内を見回した。その視線は店の出入り口で止まり、それから窓の外へと移された。この席の窓からは出入り口の外側が見える。女子高生3人組が扉を開けたところだった。
「ねぇ、彼女とかいないの?」
恐らく女子高生から連想したのだろうが、随分と唐突である。
「嫁なら何人かいますが」
「何それ。あ、分かった。二次元でしょ? それとも、アイドル?」
単純に伴侶のことを言ったのだが、意味が通じなかったらしい。沈黙を肯定と受け取った満が笑い出した。
「別に偏見はないけどさ、人は見かけによらないものだね。あ、名前は言わなくていいよ。アニメもアイドルもさっぱり分からないから」
そう言うや満は再び出入り口へ視線を向けた。何かがあるのかと思ったが、わざわざ問うほどのことでもないだろう。あまり視線を追いすぎると気を悪くするかと思いこっそりと出入り口へ目を向ければ、今度は満よりも数歳年上に見える女性の集団が入口に立っていた。来店客数が多い時間帯なのかもしれない。
店内へ入り席へと向かう集団を満は視線で追っていた。彷徨っていた視線が定まると、今度は少しも動かさなかった。あの集団の中の誰かを彼女が見つめているのは明らかだった。
「お待たせしました。ベイクドチーズケーキです」
ようやく満の視線がこちらに戻って来た。無表情が一転して笑顔に変わる。
「美味しそう。チーズケーキのこのシンプルさがいいのよね」
フォークを刺してみると思いのほか柔らかくて驚いた。しかも何やらねっとりとしている。恐る恐る口にすると微かな酸味が広がった。それは次第に薄れて、控えめな甘みだけが舌に残る。なるほど美味しい。わたしには少し物足りなかったが、甘いものが苦手な人には丁度いいのかもしれない。
ケーキを食べながら満は饒舌だった。仕事の話やテレビの話、化粧品の薀蓄なども得意気に話していたが、どれも深くまでは話そうとしなかった。他愛ない話の中には何一つ、彼女に関する情報は含まれていなかった。
「ちょっとお手洗いに行ってくるわ」
皿を空にした満が席を立った。鞄を持って立ち去る彼女を見送ってから、わたしは一向にケーキを食べ進めようとしない兄へ顔を向けた。
「苦手ならもらうぞ」
「ああ、頼むよ。甘すぎるのか、食べきれそうにない」
これが甘すぎて食べられないというのならケーキ類は全滅だろう。こんなに個人差があるとは、味覚というのは不思議なものである。
「すみません」
ケーキを頬張りながら通りかかった店員を引き留めた。女性店員がテーブルの横で立ち止まる。
「期間限定のトロピカルサマーパフェ1つください」
「かしこまりました」
「まだ食べるのか?」
語気に呆れが含まれていたので返事はしなかった。その代わりチーズケーキの残りを一口に放り込めば、兄はそれ以上文句を言わなかった。
「あの女性、満さんの知り合いなのかな」
兄が目で誰を指しているのかはすぐに分かった。わたしはそちらを見ずに答える。
「どうだろうな。知り合いだったら声をかけるはずだろう」
「わたし達がいたからかもしれない」
声を顰めながらも兄の視線は例の女性へと向けられていた。あまり見過ぎると不審に思われるぞと注意しようと思ったが、その時はその時だ。まさか見ていたというだけで騒ぎが起こるはずもない。ところでパフェはまだだろうか。
「なぁ、喫煙席はあっちだろう?」
「ああ。隔離しているようだな」
店の一角には透明な壁に仕切られた喫煙席が設けられていた。四人掛けが2つ、あとはカウンター席だ。サラリーマンらしき男が2人中に入っている。飲み物を片手に煙草を吸っていて、そのせいか心なしか室内が白く靄がかっているように見えた。
「あの席からじゃ木が邪魔で出入り口が見えない。だから満さんはこの席が良かったんじゃないかな。満さん側からだったらわざわざ覗き込まなくても出入り口が目に入る」
わたし達は窓を背にしたソファー席に座っていた。対面する満は通路側の座席である。そちらからは窓の外が一望できるのでもちろん出入り口は視野の中だ。だからどうしたという話だが。
「つまり満さんがここに来たのは、あの女性を見るためだったんじゃないかな」
トロピカルサマーパフェが届いた。黄色やオレンジのフルーツが乗っているそれは想像よりも大きい。ソフトクリームが溶けてはいけないので早速食べ始める。乗っているフルーツは酸味の強い種類のはずだが意外と甘かった。加工されたものなのだろう。
「どうしてわざわざそんなことをするんだ。深読みし過ぎだろう」
持ち手の長いスプーンでクリームを掬いながら、わたしは例の女性へ目をやった。彼女が座るテーブルには若干年齢にばらつきのある女性たちが集まっている。盆明けの平日ということも考慮すると、おそらく主婦の集りとかそんな類のものだろう。
満が見ていたのは、まっすぐな黒髪を肩辺りまで垂らした控えめで大人しそうな風貌の女性だった。一縷の隙もなく化粧を施し、窮屈な服を着こなす満とは正反対のタイプかもしれない。付け加えて言うと、満の方が美人である。
「でも」と言いかけて兄は口を噤んだ。満が戻って来たからだ。
「お待たせ。厚化粧は直すのが大変だわぁ」
見ればまるで汗など掻いていなかったかのように肌も髪も整えられていた。そして彼女の視線はやはり例の女性へと向かった。その中にわたしは羨望、嫉妬、憎悪、憐憫など知っている限りの感情の存在を探したが、なにも見つけることは出来なかった。
「あ、パフェ食べてる」
「美味しいですよ。満さんもどうですか」
「えー、いらない。ケーキ食べたし」
2杯目のアイスコーヒーを満が頼んで、それを飲み終わるのとわたしがパフェを食べ終わったのは、ほぼ同時だった。なんとなく店を出る雰囲気になったので、颯爽と伝票を取って立ち上がる。
「お礼も兼ねて、わたし達が払います」
地上では男性側が支払うという風習があるようなので、それに則ったつもりだった。かなりスマートな切りだし方だったと思うのだが笑われた。
「家出少年に奢ってもらうなんて人生で初めてだわ。普通なら断るところだけど、ついさっき君たちが大金を掴んだところを目撃したばかりだしなぁ」
レジへ向かいながら満は嬉しそうに笑った。それから「よろしくね」と言い残して先に店を出てしまった。お金の出し方がまだ不慣れだったのでそばにいて欲しかったのだが止むを得ない。札だけ出して釣りをもらったところで外へ出る。満は出入り口付近で煙草を吹かしていた。綺麗に塗り直したはずの赤い口紅が煙草にベッタリと移っている。
「君たちさ、しばらくはあの神社にいるんでしょ?」
「はい」
「奢ってもらったし、今度はわたしが何か差入れでも持っていくよ」
それじゃあ礼をした意味がなくなってしまう。どう断ろうかと考えていたのだが、纏まる前に話が変わった。
「これから実家に顔見せに行かなきゃならないから、もうお別れね。久しぶりに楽しかったわ」
「こちらこそありがとうございました」
「それじゃあ」と小さく手を振って、彼女は陽炎の向こうへと消え去った。見送りを終えたわたし達は荷物を持ち直し、炎天下を歩き出す。陽は微かに傾いて陽射しはいくらかマシになったように思えるが、体感温度にさほどの変化はなかった。
境内へ続く長い階段を登りきったころには夕暮れの時間だった。ひとまず荷物をすべて拝殿の中に置いてから、ホースを持って蛇口へと向かう。今すぐに草むしりをするつもりは少なくともわたしにはなかったが、とにかく買ったものの性能を試してみたかった。
見開き一枚しかない説明書にざっと目を通してから、蛇口へホースを繋げた。兄にはその場で待機してもらい、ヘッド部分を持って参道の方へとホースを伸ばす。買ったのは巻き取り式で家のような部分にホースを収納出来るタイプの物で、長さは20メートル。参道を挟んで向こう側にも余裕で水を撒くことが出来る。
わたしはホースを宙へ構えてから合図をした。
「いいぞ、水を出してくれ。蛇口を回る方へ回すだけだ」
了解、という返事をもらってすぐに手応えがあった。背後でホースがうねる。しばらくして役目を終えた兄が駆け寄って来た。見るからにワクワクしているようすでわたしの手元を覗いている。
「いくぞ」
持ち手を強く握れば水が吹きだした。小さな穴から押し出される水は弧を描き、柔らかく落下しては地面の色を変える。地上を焼き尽くすような太陽に晒されていた雑草たちは、水を浴びて生き生きと輝いているように見えた。
これはまずい。咄嗟に手を緩めて水を止めると、横から不満が飛んできた。
「わたしにもやらせてくれ」
ホースを捕まえようとしたので、反対側へと逸らして避ける。
「今日はホースの性能を試しただけだから、もう撒かなくていい。意味なく水を撒けば雑草が余計に元気になってしまう」
水やりのために買ったわけではないのだ。納得させてからホースを巻き取って収納していると、今度はそれをやらせてくれと言い出した。ほら、と巻き取りのハンドルを握らせれば、えらくご機嫌な様子で手を動かし始める。まるで人間の子どものようだと思った。
こぢんまりと纏まったホースはそのまま水道のそばへ置いておくことにした。説明書に書いてあった通り、蛇口はきちんと閉めてある。それからわたし達は拝殿へと戻って、買った物を片っ端から開封していった。はじめに満の提案で購入したアウトドア用の電池式ランプを点けると、外が薄暗くなってきた今でも室内が明るくなって便利だった。初めから分かっていたことだが、この拝殿には電気は通っているらしいが肝心の電灯がひとつもない。まぬけなわたし達がすっかり失念していたことに気が付いてくれた満へ、わたし達は揃って感謝した。
ゴミは買い物袋に放り込んで、スコップと軍手と麦わら帽子のセットを2つ用意した。準備は万端だった。日が昇って外が明るくなったらすぐに作業を始められるだろう。
荷物が片付くと、わたし達はどちらともなく縁側へ出た。外はすっかり暗くなっていたが、外灯のお蔭で境内の中くらいはまともに見渡すことが出来る。夜だというのにねっとりと纏わりつくような暑さだった。今日は熱帯夜という奴かもしれない。
室内もそうだが、板張りは非常に座り心地が悪かった。正座をしても胡坐をかいても体が痛くなるのだ。
「座布団が欲しいな」
足を投げ出し、手を後ろについて背中を仰け反らせる。高天原では何もかもが揃っていて、あれこれが必要だと考えることはなかった。もしかするとそこにある物で満足していただけなのかもしれないが、とにかくあそこは退屈だが快適だった。地上では必要なものはすべて自力で用意しなくてはならない。これはこれで楽しいと思えるが、やはり不便ではある。
独り言のようなわたしの言葉に「そうだね」と返した兄はまったく平気そうだった。きちんと正座をしたまま、木に囲まれた空を見上げている。
「いつになったら月が拝めるのだろうね」
兄の言葉につられて夜空を見ると今日もまた月がなかった。地上に初めて降りた日から今日までに見た夜空をすべて覚えているが、月を見たことは一度もない。おかしいとは思っていた。なんとなく面倒だから口にしなかったのだが、今夜ついに兄の方から切り出された。
平然とした口調だった。わたしはというと、困っていた。
帰る方法が分からないというのに、月の不在に困惑した兄が突如「帰りたい」などと言い出したらどうしようと、困っていた。
「なぁ、また宝くじを当てないか」
兄は無言だった。元より返事を期待していたわけではないので、気にせず続ける。
「言い出すときりがないくらい行ってみたいところがたくさんあるんだ。神社を巡って管理してくれている者達に礼も言いたい。タクシーを乗り回せるくらいの大当たりを引いて、地上を満喫しようじゃないか」
なるべく冗談めかして言えば兄は「それは楽しそうだな」と笑った。その後も二人して縁側に横並んだまま地上の観光名所や季節の行事など他愛ないことを話していたのだが、ついに月の話題が戻されることはなかった。
「うわ」
静かな境内に控えめな声が響いた。声の主は鳥居の下に立っていた。薄暗い外灯越しでは姿がよく見えないが、声と服装から女性であると分かる。街が眠る程の深夜ではないが、女性が一人で寂れた神社に参拝していい時間ではないので訝しんでいると、女性は躊躇いもなく参道を進んでこちらに向かってきた。警戒心のない人間だなと思ってすぐ、彼女が満であることに気が付いた。
満は「こんばんは」と言いながら白いビニール袋を下げた手を振った。
「まさか本当にここで寝泊まりするつもり?」
「ええ、まぁ」
満が目の前に立ったので、わたし達は階段の両端に寄って真ん中を開けた。そこへ満が腰掛ける。余らせた足を組みながら、彼女は鞄から取り出した煙草に火を点けた。ため息のように煙を吐く横顔はなんだか疲れているように見える。昼間に会ったときとは違う服装で、しかもえらくめかしこんでいる様子なので、どこかに出掛けた帰り道なのかもしれない。
「ネカフェにでも行ってるだろうと思ってたんだけど、一応買ってきて良かったわ。これ、差しいれ」
煙を前へ吐きながら差し出された。袋を開けてみれば飲み物の他にスナック菓子やクッキーなど雑多な種類の菓子がいくつも入っていた。厳選して選んだというよりは、適当なものを入れたという雰囲気である。
「わぁ、ありがとうございます」
満を挟んで向こう側から袋を覗き込んだ兄が歓声をあげた。
「あ、これだけわたしの」
満は水のボトルを抜き取った。すると白いボトルが2本残った。
「カルピスが嫌いな子どもなんていないわよね」
「へぇ。どんな味なのですか?」
「……飲んだことないの? そうねぇ……青春の味って感じ」
どんな味だ。
「まぁ飲んでみたら分かるわよ。美味しいから」
知識通りキャップを捻れば音を立てて蓋が空いた。わたしの真似をした兄もキャップをバキバキいわせている。一口飲んで、わたしは満の言葉に納得した。青春の味の方にではない。これが嫌いな子どもなどいないという方にだ。
二人して美味しいと感想を漏らせば満は「なら良かった」と笑った。菓子も頂いていいかと聞いてから、わたしはチョコレートクッキーが入った袋を取った。兄はすでにスナック菓子を口へ放り込んでいた。またも馬鹿のひとつ覚えのように美味しいと連呼するわたし達に対し、満は微笑んで頷くだけだった。
しばらく満はなにも言わなかった。煙草を吹かしながら、たまに器用に水を飲むだけだった。満がここへ差しいれをしに来ただけではないと思っているのだが、わたしには正しい問い方が分からず、黙っていることしか出来なかった。
「満さんも頂いてください」
菓子箱を兄から差し出された満は、僅かの間それを黙って見つめてから手に取った。
「久しぶりに食べちゃおうかな」
前と同様、小さな入れ物で煙草を揉みけし、棒状のクッキーにチョコレートがかかった菓子をチマチマと齧り始める。
「お菓子はあまり食べないんですか?」
「うん。買って帰って家で食べるっている習慣がついちゃうと瞬く間に太るからね」
満はじっくりと味わうように菓子を食べた。その向こう側では兄がカロリーなど気にしない勢いでスナック菓子を食べている。軽快な咀嚼音が少々喧しい。
ボトルを開けようとして、菓子で汚れた右手をどうしようかと困っている兄へ満は持参のウェットティッシュを一枚取って渡した。えらく面倒見がいい彼女は菓子の箱を膝へ置いて、2本目の煙草に火を点けた。昼間に兄がそれは美味しいのかと聞いたときには「全然」と断言していたが、彼女にとって煙草は菓子よりも口を癒してくれるものらしい。
「美味しいものを食べに行くはずだったのに、夜の神社で家出高校生とコンビニのお菓子を食べてるなんて、本当、人生って分からないものよね」
なるほど、と思って改めて彼女の恰好を確かめた。ちょっと散歩を、という風には見えない服装である。
「予定がなくなったのですか」
「うん。そう。ドタキャンされたの」
苛立たしげにまだ長い煙草を揉み消して、満は新しい煙草を取り出した。
「本当は明日から2日間だけ休みが重なったから小旅行に行くつもりだったの。それが無理になった埋め合わせで今夜レストランへ行く予定だった。それがドタキャン。この埋め合わせはかならずするからって言ってたけど、埋め合わせの埋め合わせってなんなのよ。何回埋め合わせれば気が済むのよ。どんだけ埋め合わせが好きなのよ」
「小旅行の相手は恋人ですか」
尋ねれば満は少し間を置いてから頷いた。その横顔はえらく不貞腐れている。成熟した女性の顔で手には煙草を持っているというのに、そんな表情を見るとまるで可愛らしい少女のように見えるから不思議だった。
「絶対埋め合わせをするから、なんて必死に言っていたけど、心の中ではどう思っているか……。そうやって適当に濁せばいいって思っているのよ。わたしなんて、あの人にとってはその程度の女なの」
「そんなことはないでしょう。その人にどんな急用があって予定を取りやめたかは知りませんが、きっと悲しんでいると思いますよ。恋人なのですから」
恐らく慰めではなく本心から兄はそう言った。満は少しも表情を変えずに、煙草の先から立ち上る一筋の煙を見つめながら呟く。
「結婚しているのよ。彼には、奥さんがいるの」
その場がシンと静まりかえった。
わたしは彼女がしている行為の名前を知っていた。かく言うわたしにも2人ほど妻がいるが、それは高天原に限らず神の世界においてさほど珍しいことではない。しかしこの芦原中国では、およそ世間に認められる関係などではなかった。
男が1人、それを好ましく思う女が2人。子孫繁栄にはなんの差しさわりもない。とはさすがに言えない。わたしは家出高校生としてなんと答えるべきか迷った。兄はと言うと、呑気に新しいスナック菓子を物色していた。少しは空気をよんでほしいものである。しかも選んで取ったのは『じゃがりこ』だった。食べたことはないが、明らかに咀嚼音が煩そうである。
兄がボリボリいわせるのを満はまったく気にしていなかった。
「たった2日。重なった休みにたった2日間だけ彼を独占できるはずだった。だけど奥さんが突然帰省をキャンセルしたから、その2日間はなくなった。その代わり夜景が綺麗なレストランで食事をするはずだった。それも奥さんが理由でキャンセルになった。彼は今頃、体調が悪いフリをしている奥さんの看病をしているんでしょうね」
「体調が悪いフリ?」
「ええ。元から体が弱い人らしいけど、今日はピンピンしてた。旦那が会社へ行っている間は家を抜けだして喫茶店でお茶して、帰って来るまでに帰宅してしおらしく「おかえりなさい」を言うんだから強かよね」
わたしは昼間に彼女が見ていた女性の姿を思い出した。兄が言った通り、満はあの女性を見るために喫茶店へ行ったのだ。
「随分と良い旦那さんなのですね。体調が悪いと言っても死ぬわけじゃないのに、満さんとの食事を断ってまでそばにいてあげるなんて」
不倫をしている段階で俗にいう『良い旦那』ではないと思うが。兄の返事やはりずれている。
「ただビビりなだけよ。奥さんの行動があまりに突飛なものだから、浮気に勘付いているんじゃないかってね。実際そうだと思うけど。それに、後ろめたさもあるんじゃないかしら」
「旅行まで計画していたのに、今さら後ろめたいと?」
「1人目を産んだ後でもう2度と子どもを産めない体になった嫁を騙して浮気をしている。おれは最低な男だな。ことある毎に彼は言うの。そうねその通りよってわたしが言わなかったから、わたし達は関係を続けてこられた。でももう、潮時ね。奥さんは完全に気が付いている。だからそろそろ言ってあげなくちゃならないのよ。クソ野郎ってね」
随分とひどい言いようである。おそらく満は妻の方ばかりを優先する男に愛想が尽きたのだろう。それで別れようと思ったのならば、その方が良いと思った。無理やりにでも終わらせた方が良い結果を産むことも世の中にはある。
満はほとんど燻らせていただけの煙草を一口だけ喫んだ。フィルター近くまで燃えていたそれを片付けてからは、水を飲んだり菓子を齧ったりするだけで何も話そうとしなかった。菓子の感想を話す兄に対して相槌だけを返す横顔は、愛想が尽きた男に「クソ野郎」と言うような女のそれではなかった。
しばらくすると彼女は帰ると言って立ち上がった。道は暗いし、どうせ時間は有り余っているので家まで送ろうかと提案したが、下に車を停めてあると言う。
参道を並んで歩いた。ここまでで良いからと言って階段を下りていく彼女の後姿が見えなくなるまで見送ると、わたし達は拝殿へと戻った。食べ散らかした菓子の残骸を片付け、縁側に腰かける。虫の声が喧しい夜が戻って来た。
わたしはカルピスをちびちび飲みながら、一晩中、満のことを考えていた。
それから3日後、すっかり雑草が取り除かれた神社に満は現れた。簡素な服装に薄化粧で、遠目からだとすぐに彼女だと分からなかった。
「なんだかすごく綺麗になってる。まさか本当に居座るつもり?」
笑いながら、彼女は持っていた袋からカルピスを取り出した。有難く受け取って、以前と同じく席をあける。3人並んでボトルを傾けた。
「青春の味がしますね」
兄の言葉に満が笑う。
「やめてよ、恥ずかしい」
「満さんが言ったのですよ」
「まぁ、そうだけどさ」
そう言いつつ満は鞄を開けようとして、やめた。彼女が何を取り出そうとしたのかはすぐに分かった。遠慮なんて今更である。
「煙草ですよね。どうぞ」
「ううん、いいの。もうやめたから」
「やめた?」
「うん。禁煙しようかと思って」
体に悪いし、前からやめたいとは思っていたから、などと語りながら、彼女は落ち着かないようすで指を絡めたり腕を擦ったりしていた。煙草には中毒性があると聞く。頻繁に吸っていたとしたら、禁煙も容易ではないだろう。
「あー、辛い。吸いたい。禁煙なんて余裕って思ってたけど、辛いわー。本当にきついから、君たちは成人してからも吸っちゃ駄目よ」
そんな風に満は他愛ない話をして笑うだけだった。まさか禁煙宣言をしに来ただけということはないだろう。痺れを切らしたわたしは満に問いかけた。
「クソ野郎とはどうなりましたか」
満の表情が固まった。聊か単刀直入過ぎたかもしれない。不躾を叱られるかと思ったが、満は怒らなかった。ただ静かにカルピスのボトルを見つめている。その横顔が何を思っているのか、わたしにはまったく分からなかった。
「あの人の夏休みはとっくに終わってるから、今頃はあくせく働いているでしょうね。子どもと、奥さんのために」
切なく揺れる視線に直感する。彼女の愛想は尽きてなどいなかった。
「いいんですか、それで」
「いいの。あの人のことなんて、もう、どうでも。ただわたしは、悔しいのよ。一番になれなかったことが。わたしはあの人の、一番になれなかった。ただそれが悔しい。悔しいからずっとしつこく粘ってきたけど、もうダメなの。終わりなの」
絞るように言い切った満の目から涙が零れ落ちた。不覚にも、わたしはその横顔に目を奪われた。人の美しさは神のそれに及ばない。しかし今の満は、それを超越した美しさを放っていた。
「なにビックリしてるのよ。オバサンだって泣くときは泣くのよ。言っておくけどね、女はオバサンになると涙脆くなっちゃうものなの」
取り出したハンカチで目元を拭ってから、満は顔を上げた。潤んではいるが泣く気配はない。彼女は吹っ切れたように明るく微笑んだ。
「君たちと出会えて、楽しい夏休みが過ごせたわ。ありがとうね」
「お礼を言うのはわたし達の方ですよ。途方に暮れていたわたし達を満さんは救ってくれました」
兄が言えば満は「大袈裟ね」と笑った。それからすぐに立ち上がってこちらを振り返る。別れの気配が漂い始めていた。見送るために立ち上がろうとしたわたし達を彼女は制止した。
「そのままでいいわよ。それじゃあ、また、ご縁があれば」
まるでまた明日にでもここへ来る予定があるように彼女は『さよなら』を言った。
気が付いたときには、わたしは立ち上がっていた。
「満さんも、いつかきっと誰かの一番になる日が来ますよ。クソ野郎よりももっといい男と出会って、あなたはその人の一番になるんです」
少しだけポカンとしてから、満は「ありがとう」と笑った。それから鳥居を出て姿が消えるまで、彼女が振り向くことは一度もなかった。
「お前は本当に優しい男だよ」
なんだか満足そうに兄が笑うので、わたしは「うるさい」とだけ返してカルピスを飲み干した。なにがおかしいのか、兄はまだ笑っている。
「おまえがああ言ったのだから、満さんの今後は幸運の連続だな」
馬鹿なことを言う。わたしには人を幸せにする力などありはしない。もし彼女が今後大きな幸福を掴んだとして、それはわたしのお蔭などではない。彼女が自力で掴んだものなのである。
人は神の力を必要としない。心で祈りそれが叶ったとすれば、それは己の成果である。
なぜならば人は、神の力などなくとも自力で歩きだせる生き物だからである。