第3話『夢』
エアコンを導入した。
なくて困るというものではないのだが、空気が重くて不快なので購入することにした。購入したのは初老の夫婦2人きりで営んでいる小さな電気屋で、なんと最後の一台だった。それをさっさと売り切ってしまいたかったのか、エアコンの前に立つとすぐに声をかけられた。管理している神社の拝殿に設置したいのだが、エアコンを設置したことがない。取り付けに時間がかかるようなら諦めようと思っている。駄目元でそう話してみると「それじゃあ、今日つけますよ」と申し出てくれた。エアコンの料金と工賃を支払ってすぐ店主の軽トラックに乗り込んで、3人で手分けして境内まで荷物を運びこんだ。作業は2時間ほどで完了した。
エアコンの吹き出し口に兄が手を翳した。
「すごく冷たい。中はいったいどうなっているのだろう」
覗き込んでいる。「壊すなよ」と一言告げてリモコンを手に取った。配線の関係で、恐ろしく電力を食うこの機械のために他の大型家電は一切使えなくなってしまったが、その代わりに得られた快適さは偉大である。試しに風量を最大してみると、冷えた風が頬にぶつかった。
「暑くても支障はないが、涼しいに越したことはないな。これからは拝殿内を掃除するつもりだし、作業が捗りそうだ」
汚れ具合はどんなものだろうと拝殿を見渡してみて、改めて気付いたことがある。長らく放置されていたというわりには綺麗なのだ。もちろん祭壇は荒れているし、床の隅には埃も溜まっているが、真ん中辺りに埃が積もっていることはなかった。そういえばここで目を覚ましたときからそうであった。まさか事前に誰かがわたし達のために掃除をしてくれていたはずはない。そうなると、わたし達がここへ降りるより以前に何らかの事情で人が立ち入ったことになる。
「もしかしたらこの神社の持ち主は、まだここを見捨てていないのかもしれないな」
わたしが言わんとしていることが分かったらしい兄が祭壇を指した。
「それならばまずあの祭壇をなんとかするはずじゃないか? あそこにはかなり埃が積もっている」
「中の様子を見に来ただけなのかも」
それはおかしいだろうと思いつつ言ってみる。案の定、兄は不思議そうに首を傾げた。しかしこの件についてこれ以上話し合っても答えは見つかりそうにない。早々に切り上げることにしたわたしはバケツを取って引き戸に向かった。
「なんにせよ、持ち主が来たらわたし達は終わりだ。来ないことを祈るしかない」
「それもそうだが、いったい誰に祈るつもりだい?」
揚げ足を取るようなことを言う。腹が立ったので無視して拝殿を出た。
外はやはり燃えそうな暑さだった。向拝の影から太陽の下に出ると尚暑い。こんな熱気に晒されている建物を冷やさなければならないのだからエアコン殿は大変だ。
蛇口の下にバケツを置いて捻ってみると、出てきた水はまるでお湯のようだった。気持ちが悪いのでもう一度入れ直す。七分目ほどまで満たしたそれを持ち上げて参道へと出ると兄が引き戸を開けて待っていた。
「おい、冷気が逃げる」
「でも閉めきったまま掃除は出来ないし……」
そう言いながら、兄はあさっての方向を見て固まった。まさかと思って振り向いてみるとやはり人が立っていた。何なんだこの神社は。ただの寂れた神社ではなかったのか? 何か特別なご利益でもあるというのか?
「あのぉ、この神社って無人だったはずなんですけど」
参拝客は高校生くらいの若い男だった。制服ではなさそうだが、ブラウスに薄手のスラックスという真面目そうな出で立ちをしている。手には黒のキャリングケースを持っていて、その上えらく重そうな鞄を肩から下げていた。『家出』という単語が頭を過る。
「そうでしたが、今はわたし達が管理しています」
こう言えば青年は分かりやすく項垂れた。絶望的だとでも言わんばかりである。それですぐに立ち去ってくれれば良かったのだが、青年は呆然と立ち尽くすばかりであった。お節介焼きの兄が放っておかないだろう。
「なにか事情がおありなのですか」
ほらみろ。話が長くなりそうだと早々に察したわたしは重たいバケツを地面に置いた。下手すれば掃除の計画も頓挫しそうである。
「多分あなた達が来るちょっと前だと思うんですけど、勝手に中に入ったんです。少しの間だけ場所を借りようと思って」
「おや、そうだったのですか。もしかして掃除も?」
「はい。適当に」
どうりで床が綺麗だったわけだ。つまり彼はわたし達よりも先にこの神社に目をつけ、何らかの事情があって居座ろうとしていたわけである。そこに後からやってきて拝殿を占領し、ここの管理者であると嘘をついて彼を追い返すのは……。
横目に兄を見れば目が合った。言葉はなかったが何を訴えているのかは分かる。わたしは静かに頷いてから青年に向き直った。
「実は管理をしていると言いましたが、わたし達は正式な持ち主ではありません。少々事情がありまして、自主的にこの神社を良くしようとしているだけなんです。だから中を借りようとしているあなたを追い返す権利はありません。しかしわたし達もこの神社を放っていくわけにはいかない。それでもよろしければ中へどうぞ」
強引な言い分のような気もするが、分け合おうと言っているのだから提案的にはフェアである。本当に居座られでもしたら困るというのが本音だったが、おそらく断って帰るだろう。そんな軽い気持ちで言ったのだが、最初こそ戸惑っていた青年の顔つきは真剣そのものだった。
「おれにはここ以外に当てがないんです。しばらくよろしくお願いします」
帰る気などまったくなさそうである。困ったことになった。人と神が一つ屋根の下だなんてまったく笑えない。
「当てがないって……家があるでしょう。あ、もしかして家出中ですか?」
「違います。家には日が暮れる前に帰ります。ここを使いたいのは昼間だけです」
「昼間だけ? まさか友人でも呼び集めるつもりですか?」
それは困る。と顔に出す。
「まさか。絶対呼びませんよ。昼間ってのは事情があって……あー、うん……漫画を描いてるんです。趣味ですけど。もちろん親は反対するから家では無理だし、図書館や学校も無理だし、暑くて死にそうだけどもう外で描くしかないんです」
青年は観念したように言った。しかも少し照れ臭そうだ。日本はアニメや漫画が一大産業として認められているというのに、なにを恥ずかしがる必要があるのか。年間で億を稼ぐ漫画家まで誕生しているという話もある。夢のある職業だ。
「なるほど。漫画家になるのが目標なんですね」
「まぁ、出来れば……なりたいけど」
まただ。『けど』が口癖なのか?
「出来れば? あまりなりたくないということですか?」
「違う。なりたいですよ。なりたいに決まってる。けど漫画家ってのは、なりたいからってなれるようなもんじゃない」
そう言い切る語気は強くて、気圧されたわたしは思わず閉口した、青年は慌てたように話を逸らせる。
「とにかく、夏休みの間はお邪魔するつもりです。しばらくの付き合いになると思うんで、タメ口でいいですよ。お兄さんたち、大学生とかでしょ?」
今度は大学生になった。否定する理由も見つからないので、そのつもりで話を進めることにする。
「ああ。君は高校生か?」
「はい。三年です」
「なんだ、ほとんど同い年じゃないか。それじゃあ君も『タメ口』でいいぞ」
「え? ああ……じゃあ、うん」
青年は少し戸惑ってから曖昧に頷いた。
いわゆる『タメ口』というものと敬語を使い分ける境界線がイマイチ分からなかったので、人に対しては敬語で通すつもりだったわたしは、突然訪れた『タメ口』の機会に聊か緊張していた。高天原では父母と姉以外に対して殆ど『タメ口』ではあったが、それは身分の上下がはっきりしていたからである。だが人と人の間にはもっとたくさんの関係性がある。それに、人と神では、どう比べていいかが分からなくなっていた。
青年は重そうに鞄を持ち直した。何が入っているのかは知らないが、同居を見とめた以上暑い中立たせ続けるのは申し訳がない。
ひとまず掃除は後回しにすることにして、わたしはバケツの水を参道の外へ撒いてから拝殿を指した。
「入れよ。兄上がずっと開けっ放しにしてたから多少冷気が逃げてるかもしれないけど、ここよりは涼しいぞ」
「えっ……涼しいって……室内でも夏は暑いだろ」
「なにもしなかったらその通りだが、実はついさっきエアコンを設置したんだ」
マジかよ。青年は微かに口角を上げて呟いた。
「靴はここで脱いでくれ」
青年を中へ入れて引き戸を閉めると、兄がエアコンの前で手を合わせていた。それを見た青年はポカンと口を開けている。無視するように言って、荷物を下ろさせた。えらく重そうな音がした。
「何が入ってるんだ?」
問えば青年はまずキャリングケースを持ち上げた。
「こっちは原稿とノート。こっちの鞄には資料と漫画と道具と、参考書」
「参考書?」
「親には図書館で勉強するって言ってあるから、仕方なく」
「漫画は? 息抜き用か?」
「違うよ。参考にするためさ。漫画を描く教科書は漫画だからな」
「真似をするのか?」
「んなわけないだろ。描き方とか、コマ割りの参考にするんだよ」
ちゃっかりエアコンが直撃するところに陣取った青年はどんどん鞄の中身を取り出しながら、未だにエアコンと向き合っている兄の方へ目をやった。
「あっちが兄貴なの?」
「一応な。双子なんだ」
そうか、と呟いた彼はそのまま兄を見つめていた。やはり気になるかと思って、わたしは嫌々問いかけることにした。
「で、何をしてるんだ?」
「感謝を捧げているのさ。この子、さっきからすごい音を立てて頑張っているから」
それは兄上が扉を開けっ放しにしていたからだろう。そう思いつつ「はいはい」と流せば、ようやくこちらに向き直った兄は自分の髪に触れて驚愕してみせた。
「すごい。氷みたいに冷たいぞ」
やたら感激している。それだけでも鬱陶しいのに「触ってみろ」などと言って駆け寄ってくるのだから余計に性質が悪い。適当に触ってああそうだね冷たいねと同意してやればそれで満足したのか、兄はあっさりと話を切り替えた。
「書き物をするのか?」
「書き物って……漫画を描くんだよ。そう言ってただろ」
「それなら文机が必要だろう。あれでいいかな?」
兄は枯れた榊が乗った机を指した。さすがにあれは、まずいんじゃないか? しかし床で描けと言うのも憚れる。どうしようかと迷っていると青年の方から断ってくれた。
「いや、最初から床で描くつもりだったんで、大丈夫です」
「でもきっと疲れてしまうよ。大丈夫、罰なんて当たらないよ」
そう言うや堂々と祭壇に立ち入り、榊の葉を敷いてあった布ごと退けて机を持ち上げた。その後ろ姿を二人して見つめていると、青年はこちらに体を寄せて声を顰めた。
「なぁ、あの人、本当に兄貴なの?」
「そうだが……そんなに似ていないか?」
「そうじゃなくて」
青年は更に声を顰めた。聞こえづらいので耳を近づける。
「てっきり姉貴なんだと思ってた」
随分とふざけたことを言いやがる。思わず溜め息を漏らせば青年は慌てて弁解をした。
「最初に見たときは遠目だったから、勘違いしたんだ。髪も長いし。でもアンタが「兄上」って言ったから、すぐに男だって分かったよ」
「ならばどうして改めて聞いたりするんだ」
「もしかしたらって思って。その方が面白いだろ」
なにも面白くなどない。
わたし達がひそひそと話している間、女神と間違われた兄はせっせと机を運び出していた。1つでいいはずなのに、2つも3つも発掘している。それを問うのはあとにして、気になったことがあった。
「ところで、どうして兄上には敬語なんだ」
「……なんとなく、こう、近寄りがたいというか……」
なんだそれは。確かに兄の方は浮世離れした外見をしているが、神格は同じなので納得がいかない。この気持ちをどう説明するか考えていると、机を持った兄が割って入って来た。
「場所はここでいいんだよね? ほら、萩乃も運んでくれ」
兄に言われ、なぜか先に動き出した青年について祭壇に向かった。結局、納得がいかないと伝えることは出来なかった。
ここのところわたしは発言を遮られてばかりであった。もっと思ったことをすぐ口にすることが出来たらいいのだが、そう簡単にはいかない。なんせ相手は神ではなく人なのだ。根本的な種類が違う。だから軽々しく思ったことを口にするべきではないのだ。
「さあ、どうぞ」
兄がどんどん運んできた机は埃で薄らと汚れていた。濡らした雑巾で綺麗に拭いてから並べれば、一つの大きな机になった。そこへ青年が原稿を並べるのを待っていると、彼は困ったように口を開いた。
「あの、恥ずかしいんで、作業中は見られたくないっていうか……」
「ん? そうなのか? 残念だ」
人に見せるために描いているはずなのに見られたくないとは、不思議なものである。非常に興味はあったのだが、嫌がっているのを押しきるのも憚られるので、ひとまず身を引いたわたしは彼の持ち物に手を出した。初めて手にする漫画は思っていたよりも小さくて厚かった。
「読んでもいいか?」
「どうぞ」
なにやら小道具をたくさん机に並べている青年を横目にページを捲ると、さっそく止められた。
「ちょ、それ、3巻だけど」
「続き物なのか?」
その問いに彼は答えなかった。
「漫画読んだことねぇの?」
「ない……と思う」
青年は「マジかよ」と言った。これも彼の口癖かもしれない。
「漫画が嫌いなのか?」
「いや、別に。縁がなかっただけだ」
話を切るように1巻を手に取って、わたしは寛ぐべく板張りで胡坐をかいた。
この漫画のタイトルくらいは知っていた。上から覗いていただけなので内容までは知らないが、確か、アニメにもなったことがある人気漫画だったはずである。
開いてみると、想像以上に描き込まれた紙面に驚かされた。一大産業とはいえ所詮は娯楽作品だと若干侮っていたわたしはすぐに考えを改めることになった。あっという間に1巻を読み終えると、すぐに2巻へ手を伸ばした。
わたしが夢中になって漫画を読む間、兄はひたすらペンを走らせる青年の手元を見つめていた。何度か注意されていたようだが、聞く耳を持つ気がないらしい。兄に構っている時間が惜しいのか、早々に諦めた青年は一度だけ近所の公園までお手洗いに立っただけで、持参していたペットボトルの水を飲む以外、一度も顔を上げずひたすら原稿と向き合っていた。
わたしは9巻を閉じた。続きはいったいどうなるのだと、急くような気持ちで彼が持ってきていた漫画の巻数をすべて確かめたが、どこにも10巻がなかった。どうして9巻までしかないのだと、青年が顔を上げたら文句を言うつもりでその時を待つことにした。
障子の向こう側からは夕陽が透けて、室内が橙色に染まっていた。夏は陽が長いというが、さすがにもう暫くしたら明かりが必要になってくるだろう。そうなる前に、ここに滞在するのは昼間だけだと言っていた青年は家に帰る。そう思っていたのだが、横目に見る彼は少しもそんな様子など見せなかった。鉄のペン先でインクを刺し、紙を削るような音を立ててひたすら絵を描いている。
邪魔をするつもりも追い出すつもりもなかったが、もしや集中が過ぎて時間を忘れているのではあるまいかと思い、わたしは机上を指先でノックした。青年は気が付いてくれたようだが、手は止めようとしなかった。そのままの体勢で「なんだ」と問うてくる。語気から精一杯の愛想は感じられたが、無礼な態度であることに変わりはない。
「なんだ、じゃないだろ。もう日が暮れるぞ。帰らなくていいのか?」
「もう少し」
それだけしか言わない。もう手元も見えづらいだろうに熱心なことだ。態度で跳ね返され仕方なく彼を待つことにしたわたしの向かいで、青年を案じているらしい兄と目が合った。すると兄はわたしから逸らした視線でランプを指した。そこまで親切にしてやる義務はないはずだ。しかし兄にはその義務があるらしい。
「終わった……!」
兄が立ち上がったのと丁度同じタイミングで青年が声をあげた。深い息を吐いて脱力しながらペン先のインクをティッシュで拭っている。それから慌ただしく道具を片付け始める彼の横から原稿を覗いた。
「完成したのか?」
「まさか。見れば分かるだろ? まだまだだよ。プロと違ってアシスタントなんていないから、消しゴムももちろん自分でするんだし、アマチュアは時間がいくらあっても足りないよ」
「消しゴム?」
「下書きの線を消すんだよ」
「……全部か?」
当たり前のことだと分かっていたが、問わずにはいられなかった。案の定「当然だろ」と半ば呆れられる。
「デジタルだったらワンクリックで消せるんだけどイラストレーションソフトなんて買えないし、それに家にあるノートパソコンじゃ画面が小さすぎて作業がしにくいだろうから、欲しいならPCから揃えなくちゃならない。貯めてあるお年玉をこっそり使うにしても、そんなの買ったらすぐバレるだろうし、こんな風に持ち出して作業が出来ないっていうデメリットもあるしな。アナログの道具なら小遣いでもなんとか買い揃えられる。コピックの色を揃えるのが一番大変だったけど」
流暢に語ってくれたが、何を言っているのかはあまり理解出来なかった。
「なんか……大変そうだな」
「そうだな。時間も金もかかるししんどいのに、稼げるかどうか以前になれるかどうかも分からない。それでも漫画家になりたいと思って本当に原稿を描きはじめちゃう奴って、多分、頭のネジが1、2本飛んでるんだと思うよ」
そう語る青年の目に、障子から滲む夕陽の光がさしこんだ。泣いているわけでもないのに、どこか遠くを見つめる彼の目がわたしには、キラキラと輝いているように見えた。
「それでも描くのか?」
「うん」
迷いのない返事だった。
地上で生きた経験のないわたしでは計り知れないことであるが、人に反対される夢を追い続けるのは楽なことではないだろう。年若い青年はまだ夢を抱いたばかりだが、これから先、追い続ければ追い続けるほどに苦労は付き纏う。すぐに叶ったらそれでいい。しかし夢は遠のくばかりで、それでも諦めることが出来なかったら、それほど苦しいことはない。
「自分でも、なにしてるんだろーって思うことがあるよ。漫画を描くことが好きだからやめたいと思ったことはないけど、親に隠れて夜中にコソコソ描いたり、面白い漫画を読んで幸せなはずなのに、差を感じて落ち込んだりしたときは、いつも思う。漫画家になりたいなんて思わなかったら、こんな思いしないんだろうなって」
わたしは原稿に目をやった。漫画の良し悪しは正直よく分からないし、もしかしたら贔屓目で見ている可能性があるかもしれないが、彼の絵は綺麗だった。さっき読んだ漫画と違って線が細く少々迫力がない気もするが、人物の表情なんかはまるで人間のそれのようであった。
「よく描けていると思うが、これじゃ駄目なのか?」
「それはおれにも分からないよ。だっておれはおれが一番面白いと思うものをいつも描いてるんだ。おれはおれの漫画が一番……とはいかないかもしれないけど、面白いと思ってる。でも次はもっと面白い漫画を描く。それで出版社に原稿を持ち込んで、漫画家になる」
「直談判するのか?」
「うん。漫画新人賞もたくさんあるけど、持ち込んだら編集者から直接意見を貰えるんだ。正直怖いけど、これ以上にいい方法はない」
青年は夢に対して明確な目標を持っていた。このように切実な夢というのは、いつもわたしの胸を打った。
病から救ってほしい。父母を長生きさせてほしい。死んだ者に会わせてほしい。世界を平和にしてほしい。好きな人を振り向かせてほしい。幸せにしてほしい。夢を叶えてほしい……そう願われても、わたしには一つとして叶えてやることが出来ない。
祭壇の方を見れば鏡があった。神体として置かれているあの小さな鏡に人は祈る。それが無意味な行為であると理解していながらも、人は祈るのだ。
「神に願い、それで夢が叶えばいいんだがな」
そう漏らせば青年は首を傾げた。
「まぁそうだろうけど、俺はいいよ。自分で叶えるから」
あっさりと言い切られた。今度はわたしが首を傾げる番だった。
「なぜ? 夢なんだろう? 夢は願うものじゃないのか?」
「えっ、はは、あんたってちょっと変わってんな。なにもおれは不治の病を治してほしいとか、世界平和を願ってるわけじゃないし。こういう夢は自力で叶えるもんだろ。フツー」
完全に面食らったわたしは思わず兄を見た。呆けたアホ面を晒していた兄はわたしと目が合うや、大層嬉しそうに笑ってみせた。
そうか。フツーなのか。人は神に叶えてもらわなくたって夢を叶えられるのだ。そんなことにどうして気が付かなかったのだろう。わたしは少々思い上がっていたのかもしれない。願いはすべて神に向けられていると思っていた。心で祈るのは神に対してだと思っていた。だがそれは間違いだった。人は自力で願いを叶えられる。そこにどれだけの苦労があろうとも、諦めぬ限り。
気に入った。
神としてではなく、一個人として彼の夢を叶えたいと思った。
「やっべ、もう帰らないと。図書館の閉館時間とっくに過ぎてるし」
わたしは慌てて原稿を纏めようとする彼の手を止めた。
「下書きの線はひらすら消しゴムで消すだけなんだな?」
脈絡なく言ったので青年は少し戸惑ったようすだった。「おう」とくぐもったような返事が返って来る。
「この線を消すくらいならわたしにも出来る。手伝わせてくれ」
「それは、ありがたいけど……いいのか? 礼なんてなんも出来ないぜ?」
そんなものは必要ない。
「しかしこれをわたしが預かったら、今夜君が作業を出来なくなってしまうな」
「いや、それはいいんだ。どうせ夜中しか出来ないし、新しく考えてるやつのキャラデザしたいし、やりたいことはいくらでもあるから」
しどろもどろに言ってから、青年は急に真顔になって「ありがとう」と言った。それが妙に照れ臭い。わたしは話を逸らすつもりで切りだした。
「そういえば、まだ名前を聞いていなかったな。わたしは安倍川萩乃。兄は柏だ」
「島崎命」
「みこと。字はどう書く?」
「『命』と書いて『みこと』」
「命か。いい名前だな」
引き受けたのはわたしだったが、兄も手伝ってくれるらしい。わたし達は命が帰ってから早速原稿と向き合った。消しゴムというのは思っているよりも紙の上を滑らないようで、綺麗に消すにはなかなか力が必要だった。3枚目くらいになると指が怠くなってきたので、休み休み進めることにした。眠る必要がないわたし達の夜は長い。夜が明けて命が現れるまでには余裕で仕上げられるだろう。
下書きを消しながら、わたしは命の漫画を読んでいた。
主人公は士官学校の卒業を間際に控えた青年だった。しかし彼が軍人として活躍する前に母国は敗北し、あれよあれよと不幸に巻き込まれた青年はついに奴隷として売られることになってしまった。道端の檻で売りに出された青年を買い取ったのは、青年よりも少し年下と思われる少女だった。少女は『世界の果て』なる場所を目指しているという。そこまでの用心棒役に任命された青年は少女と共に旅立つことになったのだが、実は少女は災いを齎すと言われている特殊な一族の1人で、『世界の果て』を目指すのは平和の為に消滅するためであった。そうして青年と少女の悲しい旅が始まった……というところで原稿は終わっていた。編集者に認められ、とんとん拍子にことが進めばこの続きを誌面で読むことが出来るのだろう。
「いい子だったね」
唐突に兄が言った。わたしは綺麗になった原稿を束ねながら「そうだな」と適当に頷いた。なんとなく、彼のことが気に入ったと知られるのが照れ臭かったのだ。
「どうして手伝いたいなんて言ったんだい?」
「気紛れだよ。どうせなにもすることなんてないんだから」
「そりゃあそうだけれど……」
何か言いたげな目が向けられる。言いたいことがあるならハッキリ言えと伝えれば「別に」と誤魔化されたので、余計に腹が立った。
「あの子、なんだかお前に似ているね」
またも唐突だった。
「はあ? どこが?」そう返してからすぐに気がつく。「親の言うことを聞かない所が似てるって言いたいんだろ」
兄は否定しなかったが、頷きもしなかった。代わりに小さく微笑んだ。
「なんだか友だちが出来たみたいだね」
「なにを馬鹿なことを。神と人が友だちだなんてことがあってたまるか」
「なぜ? 友だちは嫌かい?」
そう聞かれても困ってしまう。なぜなら、わたし達に『友』という概念は存在しないからだ。高天原にある繋がりとは、祖が同じであったり、親子であったり夫婦であったり兄弟であったり、そうでなければ上下関係であったりする。それ以外の関係など考えたことがなかった。必要なかったからだ。
「友だちというのは、対等な存在であるべきだ。わたしは神として彼の夢を叶えてやりたいと思った。力があったらすぐにそうしていたかもしれない。それでも、わたしと彼が友のようだと言えるのか?」
「ああ……それで手伝いがしたいなどと言い出したのか」
兄はさも嬉しそうに笑った。
「困っていたら助ける。それこそが友だちってもんだろう」
翌朝、昨日と同じように大荷物を持った命がやって来た。コンビニで調達したらしいパンを持参していて、長期戦の構えである。拝殿へ迎え入れれば彼はさっそく原稿をチェックし始めた。
「ありがとう、助かったよ。お礼と言っちゃなんだけど、昨日の漫画の続き持ってきたぜ」
それこそ有難い。
「15巻で終わりなんだけど、いい終わり方だよ。打ち切られたり引き延ばされたりして上手く終われなかった漫画もたくさんあるのにさ」
「打ち切られる?」
「雑誌掲載の段階で人気がなかったり、単行本化したときに初速が遅かったりすると、長期の計画で組んでた漫画でも早々に終わらせなくちゃならなくなるんだ。厳しいと思うけど、面白くない漫画が誌面を飾れるほど甘い世界じゃないってことなんだよな」
なるほど、厳しい世界だ。そうして打ち切られる漫画家も可哀想だが、それを楽しみにしていた読者も可哀想である。ある日突然最終回の見出しとご対面なんて、笑えない冗談としか思えない。
わたしに漫画を渡してから、命は原稿を机に並べた。それから取り出したのは筆ペンと呼ばれる道具だった。白黒しか色がない原稿の黒い部分を塗りつぶすらしい。
作業を見ていると、フニャフニャと頼りないペン先で器用に隙間まで塗っていくものだから感心した。しかし思いの外塗りつぶす箇所が多いらしく、これもなかなか大変そうである。
「これはわたしには出来ないか?」
「えっ……いいよ。手伝わせるためにここへ来たわけじゃないから、気にせず漫画読んでてよ」
「これ以上は原稿に人の手を入れたくないか? 正直に言っていいぞ」
「そんなこだわりはないよ。ただ、結果的にエアコンまで借りちゃってるのに、これ以上何かしてもらうのは悪いと思って」
本当は手出しされるのが嫌なんじゃないかと思い、彼の反応を注意深く見てみたが、そんな様子はなかった。プロになったら他にも任せる作業が出てくるだろうから、当然かもしれない。
「そのペン、3本ある?」
兄も手伝う気らしい。やる気満々で差し出された手を見た命は少し照れ臭そうに笑ってから「あるよ」と呟いた。それからはもう、遠慮をするようなことは言わなかった。
筆ペンは3本どころか、筆箱いっぱいに入っていた。同じものばかりがギッシリ入っていて聊か気持ち悪い。取ろうとした兄が一瞬躊躇うと、命は急に言い訳のようなことを言い出した。別にそんなに慌てることじゃないだろうに。
「消費が早いから箱で買ってるんだ。定期的に買いに来るからってお店の人には伝えてて、ちゃんと迷惑が掛からないようにしてるよ」
良い心がけだが、そんなことは今はどうでもいい。それよりも今は原稿を早く仕上げなくてはならない。
威勢よくペンの蓋を開けたはいいが、いざ原稿と向き合うと緊張した。なんせ消しゴムと違って取り返しがつかないのだから無理もない。
「ちょっと練習させてくれ」
「それじゃあこれ使ってよ。ボツ原稿。このバツマークがついてるところがベタ部分」
「ベタ?」
「漫画の黒く塗りつぶされたところだよ」
なるほど。専門知識や業界用語には疎いので、つい質問を飛ばしてしまう。
「あ、柏さん上手い」
兄は臆せずどんどん塗り進めていた。もたついている様子もなく、素人目に見ても綺麗に塗れている。
「筆はよく使うからね」
得意気に笑っている。兄が出来るのだからわたしも出来るだろうと作業を始めてみたが、どうも筆先と仲良くなれないらしく、すでに三か所ほどはみ出している。これじゃ駄目だということくらい、わたしにだって分かった。
「修正する方法はあるのか?」
「あるよ。ホワイトっていって漫画専用のやつもあるんだけど、おれはポスカの白でやってる」
「よく分からないが、とにかくこれで消せるんだな?」
「そうだけど……はみ出したの?」
「少しな」
なんとなく隠しながら言えば覗き込まれた。
「はは、下手くそ」
言われてしまった。初めてなのだから仕方がないだろという言い訳は兄の手前出来そうもない。偉そうに手伝うなんて言ってこのざまかと呆れる。しかも修正を始めてみると思いのほか手間がかかった。これじゃあ手伝いどころか足手まといである。
「わたしが頑張るから、萩乃は漫画を読んでいていいよ」
兄の提案に抵抗したい気持ちはあったが、素直に従うことにした。3人で進めたら早く完成すると思っていたのに、とんだ計算違いが起きたものだ。
気を遣わせまいと大人しく漫画を開いてみたが、全然内容が入ってこない。漫画の続きよりも、わたしは完成した命の漫画の方が見たかった。
わたしは焦っていた。わたしは、わたしが地上にいられる内に命の夢を叶えたかった。命に拘る理由はない。ただわたしは、誰でもいい、誰かの願いを叶えてみたかった。
わたしが想像していたよりもベタという作業は早く終わった。慣れないことで少し草臥れたようすの兄とは違い、命は早速ペンを持ちかえて別の絵を描き始めている。
「2人のお蔭で超早く終わったよ。お蔭でもう1個ネームを持ち込めそうだ」
文字と絵が落書きのように混在したノートを見ながらシャーペンを大雑把に動かしている。あんなに細かい絵がこんな風に生まれるとは、不思議なものだ。
「あの漫画が認められないと思っているから、もう1つ用意しておくのか?」
「そういう訳じゃないよ。持ってく漫画に自信はあるけど、まさかあれだけで認められて漫画家にサクッとなれるとは思ってない。だから、こんなのも考えてるんだぜってアピールしたい。それに何回も行けるわけじゃないし、一回でたくさん案を持って行ったほうがお得だろ」
わたしは表紙にマジックペンで大きくタイトルが書かれたノートをとった。捲ってみると中身はシャーペンで描かれた荒い漫画だった。これがネームというやつらしい。
「これと、今描いているやつを持っていくのか?」
「うん。こっちはまだキャラデザの段階だけどね」
キャラデザとは何かと問えば「キャラクターデザイン」と返された。登場人物の外見や性格の他に過去や、漫画の内容におけるポジションまで考えるそうだ。人一人を想像で作りだすとは、彼の方がよっぽど神らしいことをしている。
漫画も読み終わってすることもないので、わたしは命が絵を描くようすをボンヤリと眺めていた。役目を終えた兄は、わたしが読み終えた漫画の1巻を読み始めている。最初とは逆であるが、見られることにすっかり慣れてしまった命はまったく気にしていないようすでシャーペンを走らせた。
今度の漫画の登場人物はカタカナの名前ばかりだった。そのせいかどうかは知らないが、描きあがっていくキャラクターの殆どが目鼻立ちのハッキリとした顔をしている。なかでも飛び切り美人に作られているキャラクターが目にとまった。しおらしいポーズをとる絵の横には『美人』なんて注釈も描いてある。
「これがヒロインか?」
指して言えば「違う!」と怒られた。
「これはサブキャラ。ヒロインはこっち」
紙が差しだされる。こちらの少女は座っている絵だった。余白には愛らしく微笑む表情なんかがたくさん描き込まれている。愛嬌は感じられるが、あまり可愛くないな。という感想は言わないでおいた。しかしなんとなく察したらしい命が補足する。
「素朴な感じの女の子にしてるんだよ。主人公が結構気性の荒いやつだから、そいつとのバランスを考えて」
「しかし……目立たないな。こっちのマリアベーラというキャラクターの方が美人じゃないか」
「そりゃそういう設定にしてるからな」
マリアベーラというキャラクターは修道女のような服でシンプルだが、ヒロインは王族という設定を表すように豪華な服を着ていた。髪型も違っているのでそれぞれ個性はあるのだが、やはりサブキャラであるはずのマリアベーラに目がいってしまう。キャラクターが魅力的なのはいいが、そのせいでヒロインが霞んでしまうのは漫画的にまずいのではないか?
「そうだ、思いついたぞ」
思わず両手を打った。今度は何を言い出すんだ、と言わんばかりに胡乱げな目を向けられる。そんなにこのヒロインに思い入れがあるのだろうか。創作者の気持ちというのはよく分からない。
「このヒロインを和風にしたらどうだ?」
「名前『オフィーリア』なのに?」
「印象に残るだろ。普通の着物じゃ映えないから、神御衣を着せよう」
「なんじゃそら」
神御衣を知らないらしい。口では説明しづらいので、ボツ原稿の裏に姉上が着ていた神御衣の絵を描いた。
「巫女さんみたいな服だな」
あまり芳しくない反応である。いいアイデアだと思って言ってはみたが、こうなると流石に自信をなくしてくる。所詮はまともに漫画を読んだことがない神の意見なのだから、仕方がない話ではあるが。
しかし命はなにやら考え込んだ様子でわたしの絵を見つめていた。和風の意見は取り入れないにしても、なにか新しいアイデアが浮かんだのだろうかと待っていると、ふいに顔を上げた。
「絵、下手過ぎ」
返す言葉もなかった。
完成原稿とネームの入った鞄を持った命が神社に現れた日、わたしたちは久しぶりに白衣に袴という恰好をとった。いつもジャージ姿のわたし達が出版社に行くのにもジャージを着ていくのではないかと案じた命に「ちゃんとした服で来てくれ」と言われた結果だった。わたし達が持ちあわせている服の中では断トツでちゃんとしている恰好なのだが、命はわたし達を見るなり顔を歪めた。
「コスプレかよ」
少し怒っている。緊張しているのかもしれない。
「残念ながら私服だ」
「マジか」
やはりこの格好はおかしいのか、命は少し黙って悩んでいたが最終的には諦めることにしたらしい。
「まぁ、なんか似合ってるし。別にいいか」
命の背中を追いかけて、わたし達は長い人生で初めて電車に乗った。ホームや路線どころか切符の買い方すら分からないわたし達に対し、一から丁寧に教えてくれた命がわたし達のことをどう思っていたかは知らない。
「もしかしてボンボンなの?」とちょっと意味が分からないことを聞かれたが、これも分からないと言えば更に変に思われると思い取り敢えず頷いてみせた。それが正解だったのか、その後はなにを聞いても訝しむようす見せることはなかった。
辿り着いた出版社のビルはオフィス街のど真ん中にあった。他にもその出版社の名前がついたビルはあったのだが、漫画の編集部があるのは今目の前にあるビルだけだという。
今さら怖気づく命に代わって、ガラス扉の外側から中を窺ってみた。広いエントランスにはスーツ姿の人からTシャツにジーンズという緩い恰好の人までさまざまな人が見える。
「行かなくていいのか?」
少し離れたところで他人のふりをしていた命に声をかける。さもここには用事はないという風に装っているが、荷物の雰囲気からしてバレバレだ。
「行くよ。行くけど、もうちょっと待って」
さっきからそればかりである。確か14時の予定で、15分前にここへ着けるように出たと命が言っていたはずだから、そろそろ時間が迫っているだろう。
時計を持っていないので、わたしは命の腕を取って時間を確かめた。長い針が12を指そうとしている。早く着きすぎるのは迷惑になるというが、遅刻はまずいだろう。原稿を見てもらう以前に会ってもらうことすら出来なくなるかもしれない。
キリがないので引き摺ってでも中へ入ろうとするや、兄の方が先に動き出した。
「あ、時間になったね。お邪魔します」
平然と中へ入っていく。慌てて追いかけるようにしてエントランスを進み、受付の前に立った。腹を括ったらしい命が、約束があることと名前を告げれば4階へ行くように案内される。エレベーターに乗っている間も終始、無言だった。
エレベーターを降りると、あの綺麗で広々としたエントランスからは想像もつかないくらい雑多で狭い場所に出た。いや、本来の姿はただのオフィスビルのようだが、壁中にポスターが貼られていて、あちこちにパネルや飾りなんかが置かれているせいで散らかっているように感じるのだろう。
4階に行けというざっくりした案内だけだったが、目的地はすぐ目の前に現れた。命がその誌面を飾ることを目標とする漫画雑誌の編集部である。命の話によると、ここから『世界一の漫画』が誕生したらしい。それがどういったものかは知らないが、とにかく凄いのだそうだ。
ここからはさすがに命が先陣を切る。開けっ放しの扉を潜れば、そこは更に雑多なものが詰め込まれた場所だった。廊下と違い、こちらは単純に散らかっているようすである。
机はたくさんあるのに人はあまりいなかった。それでも紙束の山の間に頭らしきものは見えるが、こちらに見向きもしない。いったい誰が命の原稿を見てくれるのだろうと思って待っていると、奥の方で丸い体をした男がこちらに向かって手をあげた。
「どうも、大石です」
椅子をかき分けてこちらに向かって来る。
「島崎命です。今日は、ありがとうございます」
「君が持ち込み? そっちの2人は?」
「手伝いをしてもらったので、来てもらいました」
「合作ってこと?」
「違います。漫画を描くのはぼくだけです」
「へぇー、まぁ、アシスタントってことか」
緩い反応である。命の緊張などお構いなしだ。
「じゃあ、こっちで」
大石に続いて編集部を出た。通路を進むと少しひらけた場所に出る。仕切りに囲まれた4人掛けの席へ通された。編集者の横に座るわけにいかないので、そちら側の椅子を引き寄せ、3人並んで腰掛ける。なんとなく居心地が悪いので、わたしと兄は命の少し後ろへ椅子を引いた。
「それじゃあ、さっそく」
「あっ、はい」
原稿を差し出す。どれだけじっくり採点されるのだろうかと構えていたのだが、大石は思いの外サクサクと原稿を捲っていった。あっという間に最後まで見終えてしまう。その程度の作品だということだろうか。
「うん。いいんじゃない」
見終えた原稿を揃えながら言う。いまいち喜んでいいのかどうか分からない反応だ。
「設定が暗いしキャラデザが若干中二くさいけど、話は面白いと思うし表情も上手い。背景やパースはもっと勉強した方がいいけど、絵に個性があっていいと思う」
言いながら大石は名刺を取り出した。
「この原稿を修正したり新しい漫画を描いたりしたら、他所には持って行かずにぼくに見せてください」
「は、はい」
呆然としたようすで名刺を受け取った命を放置したまま、大石は再度原稿を捲った。
「コマ割りが細かすぎるから、見せるところは見せるために大きくとってメリハリをつけた方がいいよ。ほら、ここなんか、いい表情が描けてるのにコマが小さくてイマイチ印象に残らない。余分なシーンはカットして、もう少し大胆なコマ割りを考えてみて。あとは設定だね。二人とも暗いキャラっていうのはどうかと思う。これから明るくしていくにしても、最初の印象がこれじゃあなかなか暗いキャライメージを崩せなくなりそうだ」
結構な言われようである。編集者というのは基本的にダメ出しをする職業なのかもしれない。その後もダメ出しは暫く続いた。よくもまぁそんなにスラスラと意見が出てくるものだと感心してしまうくらいだ。しかも半分くらいはなにを言っているか分からないので殆ど流すように聞いていたのだが、命となぜか兄は、最後まで一語一句聞き漏らすものかと言わんばかりの姿勢で大石の言葉に何度も頷いていた。
「まだまだ若いんだから、焦らないようにね。もっと色んな漫画を描いて力をつけましょう。それで戦えるようになったら、ぼくは島崎さんを全力で推します。だから今はとにかく描き続けてください。しんどいと思いますけど、今はとにかく描くことです」
「はい」
驟雨の如きダメだしを食らったが、命は少しも落ち込んでいなかった。むしろその目は爛々と眩いくらいに輝いていた。
「意見を取り入れてさっそく描き直してみます」
そう言うや命は腰を上げた。まだ話すことがあるだろうと思っていたわたしは、咄嗟に命を制止する。その場にいる全員がわたしを間の抜けた表情で見つめた。大石はいい。しかしまさか、兄はおろか命すらあれの存在を忘れていたのか?
「ネームはどうするんだ?」
命はあっと声に出して鞄を引っ掴んだ。あまり時間は取らせないと前置きを置いてから、ノートと数枚の紙を大石に渡す。
「おおまかなあらすじと設定とキャラデザだけなんですけど、どうですか?」
大石はノートの文字を追いながら、時折キャラクターが描かれた紙に目をやった。
「これはまた壮大な話を持ってきたね。ファンタジーが好きなの?」
「はい。指輪物語が好きで……」
「正統派ファンタジーって感じか。うちには今いないな」
「ダメでしょうか?」
「いや、いいんじゃない。ぼくは好きだよ」
大石はしばらくキャラクターの資料を注視していた。それからおもむろに紙を机に広げてから、一枚を指す。
「特にこのヒロインがいい。キャラデザ上手いね。そっちの仕事も出来るんじゃない?」
はっとした。紙の中のヒロインは、神御衣を着ていた。
「こっちの漫画も描いてみてよ。ぜひ読ませてほしい」
そう言われて描かないという選択肢はない。二つ返事で命は頷いた。それからキャリングケースに原稿とネームをしまって、堅苦しい挨拶と一礼を残し去ろうとしたとき、大石に引き留められた。
「そういえば島崎さん、その年だと高校三年生だよね? 進路はどうするつもりなの?」
問われた命は「もちろん漫画家を目指します」とは答えなかった。暗い顔で黙っている。どうしてか尋ねようとして、大石に遮られた。
「他人がどうこう言う問題じゃないけど、重要なことだからね。ゆっくり考えた方がいい。大学に行きながら漫画家を目指している人も沢山いるし、うち以外でデビューするという手もあるしね。嬉しい話ではないけど」
「はい。すみません」
「謝ることじゃない。漫画家は尊敬すべき職業だと思っているけど、他人が積極的に勧めて良い職業じゃないからね。やっぱり」
大石の横顔は暗かった。厳しい世界だと言いたいのだろう。事実、誰でも努力すればなれるというような職業ではないことはわたしにも分かる。描く漫画が面白くて売れなければその職業で居続けることすら出来ないのだから。
しかし、夢なのだろう? 命はわたしに『夢は叶えるもの』だと言ってくれた。そのチャンスがあるならば掴むべきである。大石は命の漫画を面白いと言った。そう言ってくれた人と共にのし上がれるチャンスを逃すべきではない。躊躇うのは母親が反対するからか? そんなことで諦めようというのか……?
わたし達は再度一礼して踵を返した。
「また明日行くよ」
神社へ帰る途中、別れ際にそう言うまで命は一言も話さなかった。
その命の沈黙の意味が、わたしには最後までまったく分からなかった。
翌日、命はいつも通り現れた。机にノートと原稿用紙を並べてさっそく下書きを描き始めている。この段階でわたしに出来ることはなにもないので、彼が新たに持ってくれた漫画を読むことにした。参考にしていると言っていた漫画とはまた毛色が違っていて面白い。未完らしいので、恐らく永遠に続きを読むことが出来ないのが悔やまれるのだが。
「描きあがったらまた見せにいくのか?」
手が止まっていたので話しかけると、命は少し間を置いてから頷いた。
「完成している漫画も描き直して見せるのか?」
「うん。夏休み中に描き終えることは出来ないだろうけどね」
高校生の夏休みはもうすぐ終わりの時期だった。
「どうやって描くつもりだ? 平日は学校があるんだろ」
コソコソと描き進めていては完成に時間がかかってしまう。するとそれに比例してデビューも遠のくだろう。やはり夢を叶えるには、母親に打ち明ける必要がある。そして恐らく命もそう思っている。わたしは命が決断するのを待っていた。信じていた。例え家族と縁が絶えようとも夢を叶えてくれるだろうと。
「誰か来た」
声に反応して顔を上げると、兄が引き戸の隙間から外を覗いていた。漫画を置いて立ち上がり、兄に代わって隙間を覗く。参道の真ん中に女性が立っていた。何かを探すように辺りを見回している。嫌な予感がした。
「ただの参拝者だろう。まさか拝殿にまで入って来ることはない。放っておこう」
常識人であれば物音を立てない限りこの引き戸を開けたりはしないはずだ。わたしは引き戸から離れ、元の場所に座り直した。しかし兄は隙間を覗いたまま離れようとしない。
「何か探しているみたいだ。落し物かな」
「いったいいつ落としたというんだ。命が来て以来誰も来なかっただろう」
「わたし達が離れた間に来ていたのかもしれない。こんな暑い中探し物なんて……」
まさかと思った。
「手伝おう」
そのまさかだった。堪えきれずに盛大な溜息が漏れる。しかし別に探し物を手伝うのが嫌だというわけではない。ただ嫌な予感が消えてくれないのが気になっていた。
「命は描いていろ。わたし達だけで出る」
時間がないことを誰よりも分かっている命は頷いてペンを握り直した。
再度立ち上がると、兄はすでに扉を開けていた。真っ白な光が板張りを塗り潰している。靴を履いて階段を下りていく兄を追えば、女性と目が合った。まさか拝殿から人が出てくるとは思ってもみなかったのか、驚きを露わにしていた。
「何かお探しですか?」
「この神社の人?」
兄の問いかけを無視して、女性は詰め寄るように聞いてくる。嘘をつくことに躊躇いはあったがやむを得ない。そうだと返せば女性は一度深い呼吸をしてから口を開いた。
「息子を探しているんです。高校生の。こちらの神社へ入っていくところを見たと聞いたのですが、ご存じですか?」
彼女が誰を探しているかは明白だった。間違いない。この女性は命の母親だ。そう分かるや、わたしは咄嗟に否定を口にした。
「ずっとここにいましたが、人が来た気配はありませんでした。見間違いでは?」
「……あなた方が知らぬ内に入り込んで隠れているのかもしれません。境内の中を確認してもいいですか」
もはや問いかけではなかった。彼女は命が中にいると確信している。その根拠は分からないが、嘘をついた以上こちらもそう簡単に折れるわけにはいかない。
「拝殿とはいえ、神の坐る場所へ部外者を立ち入らせるわけにはいきません。お引き取りを」
彼女は聞かなかった。わたしと兄を押し退け拝殿へ向かおうとする。肩を掴んで制止すれば更に勢いを増した。
「命がいるんでしょう!? あなた達がどういうつもりか知らないけど、警察を呼ぶわよ!? 命を返しなさい! 命!」
「落ち着いてください! まずは話を……!」
「母さん!」
階段の上に命が立っていた。その拍子に力が抜けた手から彼女は逃れ、命に駆け寄っていく。
「どうしてこんな所にいるの」
「母さんこそ、どうして……」
「お隣の美希ちゃんが図書館に行くっていうから、あなたの様子を見て来てくれって頼んだのよ。そしたら、あなたはいなかったって。それでご近所さんに聞いてみたら、あなたがこの下の階段を登っていく姿を見たって。これはいったいどういうことなの」
母親はさっきまでとは違い冷静だった。それが逆に恐ろしい。命の横顔は心なしか青褪めて見えた。
「この人たちに嘘までつかせて、いったいあなたはここで何をしていたの」
「お母さん、それは」
そこまで言いかけて兄に止められた。口出しするなということらしい。しかしこのままだと命があまりにも……。
「命。今が大事な時期だってあなたも分かっているでしょ? このままじゃ第一志望に行けなくなるわ。それでもいいの?」
「分かってるよ」
命の呟きに母親は顔色を変えた。
「全然分かってないじゃないの! こんな所で油売って……それとも何? ここで勉強をしていたとでもいうの!?」
「うるさい! 第一志望に行けなくなって困るのは母さんの方だろ!」
命の一喝には母親だけでなくわたし達も驚いた。
「ここではずっと漫画を描いてた。おれは漫画家になりたいんだ。出版社にも行った。編集さんにも褒めてもらった。もう次の漫画も描き始めてる」
「な、何を言っているの。漫画家なんて、そんな、馬鹿なこと……」
「馬鹿なことなんかじゃない。おれは本気だ。だからもう、口出ししないで」
「口出しってなによ。わたしはあなたのことを思って、」
「それは母さんの希望だろ!? 良い大学を出て良い会社に入って稼いで母さんたちに親孝行する息子が欲しいだけなんだろ! なんせ、おれしかいないもんな。だからなんでも決めようとするんだ。一人しかいないから、」
そこで命の言葉が途切れた。母親が思い切り命の頬を打ったのだ。それを見たわたしの心が揺れた。わたしは湧き上がる何かを吐きだすように声を荒げた。
「どうして漫画家になってはいけないんですか!」
「認められるわけないでしょ! わたしは命の為を思って言っているの」
それこそ認められるはずがない。
「子は親の言うことに従わなくちゃならないなんて誰が決めたんですか。命の将来は命が決める。親に子の夢を潰す権利はない。子を想うなら少しは応援してあげたらどうですか」
「あなたは他人だからそんな無責任なことが言えるのよ。わたしだって命を応援してあげたい。でもね、子どもが間違いを犯そうとしているときにきちんと注意してあげるのが親というものなの」
漫画家になることが間違いだというのか。思わず握りしめた拳が震える。
「さあ命。帰るわよ。遅れを取り戻さないと」
命は俯いたまま黙っていた。しばらくしてから、耳を澄まさなければ聞こえないほど小さな声で呟く。
「帰らない」
「……え?」
「認めてくれるまで帰らない!」
「勝手になさい!」
被せるように叫んで母親は踵を返した。去って行く後姿を並んで見届けたわたし達は、それからしばらくの間、一言も言葉を発しなかった。
姿が完全に見えなくなってから、拝殿へ戻る命の後ろをついてわたし達も中へと入った。漫画の続きでも描くのかと思いきや、命は少々乱暴に荷物を片付け始めた。
「帰るのか?」
「うん。色々とありがとう。母さんに謝ってくるよ」
「夢を諦めるのか?」
返事はない。
「君は漫画家になれ。親に従う必要なんてない。命の人生は命のものだ。どうするかは自分で決めて良いんだぞ」
「でもこのままじゃダメだろ。そりゃ夢の為なら何でも捨てられるという人はいるよ。けどおれは母さんも大事なんだ。母さんはおれのことを考えてくれてる。漫画家が駄目だと言う理由も良い大学に行けって言う理由も分かってる。だから本当は母さんに心配なんてかけたくない。けど夢を叶えようとするならば、それは無理だ。どちらかを選ばなくちゃならないんだ」
鞄を背負って命は立ち上がった。
「短い間だったけど、楽しかったよ。ありがとう」
夏休みの終わりまではまだ少し時間があったが、命は「また明日」とは言ってくれなかった。もう二度と彼と会うことはないだろう。なんとなくだが、わたしにはそう思えてならなかった。もしかしたら数か月後、あるいは数年後に命はここへ決断の結果を教えに来てくれるかもしれない。しかしその時にはもうわたし達は地上にいないだろう。
わたしは命の夢が叶うときを見ることが出来なかった。
命が去って行くのを黙って見つめていたわたし達は、その姿が消えるやどちらともなく拝殿へと戻った。人が一人減っただけなのに、涼しい室内はえらく広いように感じる。
わたしは不要になってしまった机を元の場所へ戻すべく持ち上げた。つい荒くなる足取りで運んで、埃を立てながら机を置く。
「怒っているのか」
兄の問いかけにも振り向きすらしなかった。兄は気にせず続ける。
「命はなにも母親の言うことを聞かなければならないと思っているわけじゃないよ。母親の言うことが絶対に正しいから決断を迷っているわけでもない。多分、命自身も不安で迷っているのだろう。反対を押し切ってでも難しい夢を追いかけ続けるほうがいいのか、真面目に勉強をして第一志望に合格する方がいいのか」
夢は叶えるものだと言った命がそんなことで迷うはずがない。兄の推察は到底受け入れられないものだった。
「それならばどうして夢など抱くんだ。夢は叶えるものだと言っておきながら、実は叶える気などなかったのではないか」
「それは違う。ただ、叶わない夢というものはこの世にたくさんある。それはお前も分かっているだろう。地上には叶えない夢や叶えられない夢、抱くだけの夢や目指すだけの夢がある。しかし命は本気だった。本気で叶えようとしていた。けど、それでも叶えられないことだってある。何もかも振り払って夢を叶えられるほど、人という生き物は強くないのだ」
そう言って兄は引き戸を開け放った。ムッとした空気が流れ込んでくる。その代わりという風に、室内の埃が外へ出て行った。
「命の決断がどうなるかは分からないけれど、あの子が自分で決めたことだ。もしかしたら時が過ぎて後悔するときが来るかもしれない。しかしそれが人生というものなのだろう」
随分と知った風な口を利く兄に反論したい気持ちは山々だったが、ひとまず黙った。わたしは別のことを考えずにはいられなかった。
昔、わたしは似たような決断を迫られたことがあった。父の言うことに従うか、己の感情に従うか。もちろんわたしは己をとった。自分の道は自分で決めるべきであると信じていたからだ。しかし今になって、違う選択肢もあったのではないかと思う。人がそうであるように、神もまた弱い生き物なのかもしれない。
「自分でした決断に後悔するとは、人とは難儀なものだな」
「ああ。けど、神も変わらないよ。そうだろ?」
ドキリとした。まさか見透かされているわけではあるまい。
「兄上は?」
「あるよ。後悔したことなんて、たくさん。姉上だってそうだ」
「姉上が?」
「そうだ。お前を突き放したことを後悔している」
「嘘だな。あの人がそんなに弱いわけないだろ」
「強いか弱いかなんて関係ないさ。姉上は神位や立場でしっかりと線引きをするような方だが、身内だとどうしていいか分からないんだろう。だからつい突き放すようにしてしまうのだ。今だって、きっとお前のことを案じている。姉上はわたしよりもお前の方を気にかけているからな」
すぐに納得することは出来なかった。なんせ姉とは数百年揉めてきたのだ。そう簡単に仲良しこよしにはなれない。
しかし、そうだな。高天原に帰ったら、地上での土産話くらいはしてやってもいいかもしれない。
外から一陣の風が吹いた。高天原にはない雑多な匂いを含んだ、いかにも地上らしい風だった。頬にぶつかるそれを感じながら、わたしは心の中で高天原を想った。地上に降りてからそう日にちは経っていないというのに、えらく懐かしく感じてしまう。
高天原に帰りたい。
ふっと滲み出たように、そう思った。
諸事情から、連作短編として続けられるような雰囲気が残っておりますがこれにて完結です。
読んでくださった方がいましたら、ありがとうございます。




