悪魔の画家と小さな魔物
空も運河も宵闇に染まった夜の王都に、小さな光がぽつりと灯り、水面を照らして移動している。
それは、オスカルが魔法で動かしているゴンドラの先端に取り付けられているランタンの光だった。
大通りから逸れた場所にある運河を通っているため人影はなく、辺りはとても静かだ。
聞こえてくるのは、穏やかな波の音と緩やかな海風の音くらい。
人々が寝静まった街の上に広がる空では無数の星が瞬いており、平和な夜だ。
それなのに、ランタンの明かりに照らされているオスカルの横顔は険しい。もしもロゼッタとブルーノが今の彼を見たら、別人のようだと思うだろう。
「機密とはいえ、ロゼッタ嬢に嘘をつくのは心苦しかったな」
ぽつりと呟いた言葉は海風に溶けて、誰にも聞かれないまま静寂の中に消える。
吐き出してしまえば罪悪感が消えるかと思ったがそのようなことはなく、ただ虚しさだけが残った。
薔薇の妖精のように美しい少女は、オスカルの正体を知っても奇異なものを見るような眼差しを向けてくることなく、気さくに話しかけてくれた。
そんな稀有な人間を裏切ってしまったようで、苦い想いを抱き続けているのだ。
ゴンドラが古びた小さな橋の前に差し掛かると、オスカルは魔法の呪文を詠唱し、ランタンの光を消した。
あっという間に暗闇がゴンドラごと彼を飲み込んだが、オスカルは目の前が見えなくても臆することなくゴンドラを進める。
宙に手を翳して呪文を詠唱すると、暗闇は舞台の幕のように両側へと開き――その奥に、光が灯された美しい庭園が現れた。
潮風の香りに、甘い花の香りが入り混じる。
庭園の四方は大きな屋敷に囲まれており、まるで中庭のようだ。
船着き場にゴンドラを停泊させて庭園に降り立ったオスカルは、珊瑚色の薔薇が咲く生垣の影に視線を走らせる。
その視線の先、生垣の陰から、珊瑚色の瞳を持つ平民の少女――アリスが現れた。
薄暗い庭園で彼女の珊瑚色の瞳と白金色の髪は仄かに光を宿しており、その姿は人外めいている。
「また来たの?」
やや棘のある声で尋ねられたが、オスカルは口元に笑みを浮かべると、胸に片手を当てて丁寧に礼をとった。
「ええ、私が描いた絵画を確認しにきました。使命を果たしたのであれば、絵画に込めた魂を解き放たねばなりませんし、万が一悪用されそうであれば、助ける必要がありますから」
「……」
口を噤んだアリスの珊瑚色の瞳が、薄暗闇の中でもわかるほど拒絶の気配を漂わせているが、オスカルは気づかないふりをした。
「使命を終えた絵画は、本当に燃やさないといけないの? 燃やすなんて、絵画に込められた魂が可哀想だと思わないの?」
アリスとは顔見知りで、今までに何度かこの場所を訪れた際に会話を交わしたことがある。
初めはオスカルに興味を持ち、嬉しそうに話しかけてくれたアリスだが、『魂込めの絵画』が使命を果たした際には燃やすということを伝えてから、すっかり嫌われてしまった。
「絵画は使命があるからこそ存在し、その存在が永遠ではないからこそ、人々はその絵画に心動かされるのです。それに、『魂込めの絵画』は燃やす前に絵画にかけた魔術を解いているので、痛みや苦しみはありません」
「でも、もし使命を果たしても、絵画に描かれた人が『まだ現世にいたい』と思っていたら、燃やすと可哀想だよ」
「依頼者と描かれる方が納得したうえで制作しているので、問題ありません」
「……はあ。悪魔に私の声なんて届かないよね」
「ええ、残念ながら」
いつもなら『悪魔』と呼ばれると傷つくのだが、不思議と目の前にいる少女に呼ばれても心が凪いでいる。
彼女が本心でそう呼んでいるのではなく、自分を絵画から遠ざけるために必死で知恵を絞った結果、そう呼んだのだと分かっているから受け流すことができた。
「ところで、先日はご自身の手の者を使って、街中でロゼッタ嬢の後をつけていましたね。彼女を巻き込んではいけませんよ」
「巻き込むだなんて、嫌な言い方をしないでほしいな。ロゼッタ様が『魂込めの絵画』に興味を持っているし、ロゼッタ様はあのお方と仲良くなれそうだから、二人を引き会わせたいだけ」
「ダメですよ。あなたはあのお方のためだと言って、これまでに何人もの珊瑚色の瞳を持つ少女をこの場所に誘っては、彼女たちの記憶を消してきたでしょう。被害者を増やしてはなりません」
珊瑚色の瞳を持つ少女がまた誘拐されるようになり、街の人々は黒霧の魔女が起こした事件を思い出して、恐れている。
しかし、黒霧の魔女による誘拐とは違い、今回の事件では子どもたちはみな戻ってきた。それも、攫われていた間の記憶を失った状態で。
魔女の次は――魔物の仕業なのではないか。
魔物の中にはセイレーンのように人を魅了する種もいることから、平民の間ではそのような噂も流れている。
「でも、ロゼッタ様は特別だから大丈夫。ロゼッタ様はなんだか……他の子と全然違うんだ」
「どれほど彼女が特別に思えても、あなたとは違うということをご理解ください。あなたはご自身が特別な存在である自覚を持って行動しなければなりません」
「本当に、ロゼッタ様は特別なんだ……」
眉間に皺を寄せるアリスの表情を見る限り、やはり説得することは難しそうだと悟る。
この小さな魔物は厄介だ。巧妙に人を動かすから、周囲にいる者は翻弄されてしまう。
(あのお方と境遇が似ているからか、誰もこの方を強く咎めようとしない。ロゼッタ嬢にはブルーノさんがいるし、現シルヴェストリ公爵閣下や国王陛下がロゼッタ嬢に関心をお持ちだから、強硬手段をとることはないと思うのだけど……心配だなぁ)
オスカルは小さく溜息をついて、生垣に咲く珊瑚色の薔薇を見つめた。
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