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姫と騎士  作者: いつき
番外編
122/127

キスに思いを込めて 6

~掌に触れるは懇願~


 これが夢だと、わたしはきちんと認識していた。そう、これは夢だ。

 大丈夫、夢なんだから、現実になるわけがない。

 それなのに、わたしは目の前の石を静かに見つめていた。これは夢だ、そうだ。大丈夫、大丈夫だから、だからっ。

 石に刻まれた名など、気にしなくてもいい。読もうと身を乗り出さなくてもいい。それなのにわたしの体は前に傾いて、その石の名を口にする。

 広い広い草原に、ポツリと立つ石は不気味なほど目立っていた。

 ……墓標だと、誰もが分かるほど。

「ア……」

 だめ、口に出してはダメ。それは、その名前は絶対に出しては。読みたくない。口に出したくない。

 あぁでも本当は、夢の中のわたしは、分かってる。これが誰のお墓か、なんて。分かりすぎてる。

 彼を殺したのは――わたし、だ。

 ベッドから飛び起きて、わたしははっと荒い息をついた。夢だった、そう。本当に夢だった。

 一人草原の中立っている夢。誰かの、彼の墓標の前に立ち竦んでいた夢。何もできず、何もせず、ただ時が流れることさえ気にせず立っていた。

 今更何もできないと、絶望をその身に抱えて。ただ彼の前にいて、悔やむことも謝ることもせずに立っていた。青い、青い草原の中。

 この夢を初めて見たのは、もう何年も前のことだ。

 鮮明に覚えている。彼がわたしを庇って怪我をしたときが始まり。それ以来、定期的に見ている夢だ。

 もう目覚めてもその夢を振り払う気力などなかった。覚えているから。何度も何度も繰り返し繰り返し見ているから。

 だから、ときどき現実と間違えてしまうくらい鮮やかに覚えている。目を瞑ってさえ、思い描けるくらい。

「アレク」

 試しに、隣で寝ている彼の名を呼んだ。一緒に暮らし始めた当初、この夢を見るたびに彼の息を確認していた。止まってないか、荒くないか、健やかか。

 それを何度も繰り返すうち、それが無駄だと知ってからは、ただ彼の寝顔を見つめる。

 それだけで激しい動悸は静まると、もう分かっていた。知っているのだ、わたしは。彼はとても無邪気に眠っていると。

 とても、幸せそうに。だから名前を呼んで、その子供のような寝顔を見つめて、それから安堵を得る。

 彼は確かに、ここへいるのだと。墓標の名を読むわけじゃなく、ここへいる確かな存在として呼ぶのだ。

 手の届く、その距離にいるんだと、わたしはちゃんと分かっている。夢の中でさえ、それを疑うことはない。

 それなのに、わたしはまたこんな夢を見て心が揺れる。きちんと、分かっているはずなのに。投げ出された手をそっと持ち上げる。

 剥き出しの腕は暗闇の中でほんのりと浮かび上がり、つぶさに観察するのにはもってこいだった。

 肩から続く二の腕は余計な脂肪はついていない。細身だと思っているわりに、しっかりと筋肉がついていた。

 そうか、彼は騎士隊の隊長か。今更呟いて、その筋肉の筋を指でなぞった。肘のところまで来て、今度は傷を一つ一つ確かめた。

 大きな傷はそこだけ色が違う。少しだけ浮き上がっていて、質感も違うようだった。ツルツルとしていて、何だか妙に気になる。

 それから手首を手で掴んだ。わたしの手では、当然一回りできない。他の隊士から見ると、結構小柄なくらいなのだが。

 長身ではあるが、なにぶんそんなに厚さはないと思っていた。どうやらそれは比較対象が大きすぎただけのようだ。

「大きいのね、案外。あの剣を振り回すんだから、それも当然、ね」

 傷の目立つ手の甲。筋がしっかりと入って、それでもどこか優美だと思う。

 貴族の手の面影が、ほんの少し覗いた。筋と筋の間を指でなぞって見たり、手の厚さを確かめたりする。ここにも筋肉ってあるのね。わたしの手とは違う。

 それから指に移り、その長い指を一本一本確かめた。細くは、ない。だけど長い。

 すっきりとして、少しだけ節が目立つ。爪は整えられていて、笑った。彼はわたしを傷付けないように、と言っていたのを思い出した。情事のときに引っかかないように、かしら。

 わたしはいつも跡を残すから、見習わなければいけないな。跡はつけるけど。侍女たちが変な気を万が一にも起こさないように。わたしのよ、と。

 そんな観察を続けて、なんの気なしに裏返した。

 掌が見える。暗闇の中でも、その手が貴族の手とは似ても似つかないことは分かった。できては潰れた肉刺が、固い皮膚が、彼は『守護する側』の人間なのだと主張する。

 親指の付け根辺りに小さなかたがあって、その原因が剣なのだと分かる。

 そこへ唇を寄せた。愛しい手だと思ったから。大きな掌に、いつもわたしを庇うその手に。隠しきれない愛しさを込めて。確かな血が通うそこへ。何度も何度も口付けた。

 怖いんだ、本当は。もうずっと、怖かった。恐ろしくて、たまらない。

 いつかこの手が冷たくなるのかと思うと、本当に怖い。暖かな手が、冷たくなっていくなんてもう二度と経験したくない。

 そんなことは、わたしの手が冷たくなった後でやって欲しい。

「おいて逝きたいわ……」

 おいて逝かれたくないから。

 だから、わたしより早く走らないで。わたしより早く、歩かないで。

 手を繋いでいたって、あなたは急に手を離してしまうから。手を離して、その剣を持って、わたしの前に出てしまうから。わたしはそれが嫌で嫌でたまらないのに。

「お願いよ。わたしが滅多にしない我がままよ。ここは夫として、是非とも叶えるべきでしょう?」

 そうよ、わたしが滅多にしない、最大級の我がままよ。

 宝石なんていらない。地位もいらない。騎士の妻という肩書きも、王族の資格も。自由も、幸せも、何も。別に安全だっていらないのよ。

 わたしが欲しかったものは、とっくの昔にもらってるから。

 もうね、十分すぎるほどもらってるの。これ以上望んだら、きっとレイティア様に嫉妬されるくらいよ。母様にも怒られるわ。

 あなたはわたしに、王族ではない『わたし』をくれた。この女性らしい話し方をくれた。守るよりも守られることが悲しいと教えてくれた。傷つくより、傷つかれる方が辛いと教えてくれた。

 王族として必要ないことを、女の子として必要なことを、教えてくれた。

 強がっていた頃のわたしが見たら、多分怒るんだろう。王女だった頃のわたしが見たら、あまりの情けなさに呆然とするだろう。

 それでもいい。弱くなったと思われていい。恋をして、大切なものを見捨てたと思われたって構わない。それが、わたしに対する戒めだ。

 それを覚悟で、道を選んだ。彼の手を取った。王である象徴の指輪を抜いた。王族の紋章を隠した。

「好きよ、大好き。愛してるの。ううん、それだけじゃなくて」

 彼の掌に唇を押し当てたまま、言葉を紡ぐ。足りない、圧倒的に何かが。

 言葉か、色か、声か、想いか……。何が足らないから、自分の口から出る言葉はこんなにも呆気ないのか。政務報告を読むように、素っ気ないのか。彼のように、甘くないのか。

「仕方ないな、ティア」

「え……」

「仕方ないなぁ」

 目を見開いて、彼を見る。しっかりと開いた瞳に、目を丸くする。

 あぁ、全部、聞かれてのね。わたしの恐れも、想いも、悩みも夢も。全部、あなた分かってたのね。相変わらず、あなたはそんな人ね。いつだってそうだ。

「すぐ、追いかけるよ」

「嫌よ」

 即答した。それ以外に答えが出なかった。彼の言葉に、頭を振って嫌だという。だって本当に、嫌だった。

「ううん、先に逝くのは許すけど、長く離れるのは許さない」

「早死にするかもよ?」

「それでもだよ」

 仕方ないなんて、言わないで。あなた、もっとゆっくり歩いてくるべきよ。

 わたしは、もしかしたら長くないかもしれないんだから。王族が短命なのは、あなただって知ってるでしょ?

 ここ数年、天寿と言える年齢で死んだ王族いないのよ? それを、あなたはちゃんと知ってるの? この金髪が、白くなる前にいなくなっちゃうかもよ?

 それでも、あなたついてくるの?

「当たり前だ」

「ど、して」

 別に、泣きたいわけじゃない。彼の強い瞳に、捕らわれた。

 そんな目で見ても、わたしだってあなたが早死にするのは許せないんだけど。あなたは国のために、皆のために、長く生きるべき人よ。

「君のいない世界に、興味がないから」

 ちょっと違うかな、と彼がベッドの中で少し笑った気がした。

 顔はよく見えないけど、多分優しく笑ってるんだろうと思う。口付けたままになっていた掌をあっさりと引かれた。あ、と声を上げて抗議の意を伝える。

 すると次の瞬間、しっかりと抱きしめられた。愛しさとか、嬉しさとかよりも先に寂しさが表に出た。わたしたちは個人なのだと、今更なことを思った。

「君のいない世界を、生きる意味がない」

 わたしは、彼の世界が耐えられないと思っていた。

 彼がいないと、世界に丸裸で放り出されたような不安を持つのだろうとそんなふうに考えていた。だけど彼はそうじゃなくて、生きる意味がないんだという。

 どうしてだろう。彼にはやることもなすべきことも、山ほど用意されているのに。それなのに彼は、あっさりと意味がないという。

 わたしのいない世界に、意味なんてないと。

「不思議そうな顔してるけど」

「不思議だもの」

「そうかな?」

 彼が穏やかに笑ってから、わたしの手を掴んだ。それから、さっきわたしがしたように、わたしの掌に唇を押し当てた。

 ひやり、と背筋が冷えた。彼の唇は思ったよりずっと冷たくて、わたしの掌から熱を奪っていく。

「世の中には、君に逢うために生まれてきた、なんてことを言う人間がいる」

 実際、わたしは何度か言われましたけどね。だけど誰の言葉も、わたしの心を揺さぶることなんてなかった。

 わたしに会うために生まれてきたのに、あなたは今まで何をしていたのと、問いかけたこともあるくらいだ。

「でも、そうじゃなくて」

 アレクが、とてもとても静かな声でわたしに話しかけてくる。

「俺は、君がいるから生まれてきたんだ」

 『いる』から。会うためじゃなくて、守るためでもなくて、君がこの世界に『いる』から。

 君が生まれてくるから、少し先にこの世界へ来たんだ。存在するから、存在する予定だから、だからこの世界に、俺は生まれたんだよ。

 そんなことを、アレクは言った。どう返したらいいか分からなかった。

「守りたいよ、一緒にいたいよ。でもそれ以上に、君が存在することに意味はあって、君がこの世界に確かにいて、息をして、生きてるからこそ、俺はここにいるんだと思う」

 つまり裏を返せば。

「君がいなくなった後に、どうして俺がここへい続けなければいけない道理がある?」

 君がいるから、生まれてきたのに。

 君がいなくなって、どうして生き続けられる?

「ティアはもう、十分別れを経験してるからね。君を先に逝かせてあげるつもり。手を引っ張って引き止めようなんて考えてないよ」

 だけどね、でもね。ずっと覚えておいてね。

 子供じみた言葉が、何故か悲しく思ってしまった。彼が掌に唇を押し当てて、また笑った。わたしが施した口付けより、もっとずっと、甘くて辛くて痛かった。わたしのものよりずっと、切実だった。

「君はとても弱いから、伴侶をなくす痛みは僕が背負うけど」

 『俺』から『僕』へと変わった一人称。

 それは、ずっと昔、一番仲のよかった時期に彼が使っていた人称だった。だからだろうか、すっと耳に馴染んで違和感もなくなる。

 もう『僕』なんて可愛らしい言葉は似合わないくらい成長したのにね。

「だけどそれをずっと我慢することなんて、僕にはできなくて。君のいない世界を、生きていくことなんてありえなくて」

 君の存在が、君の生きているという確かな感触が、それだけが。

「僕を、僕としてこの世界に縛り付けているんだから」

 わたしにそんな意味はないのに。わたしにそこまでの力なんて存在しないのに、彼はわたしをしっかりと抱きしめてから笑った。

 『そんなことないよ』と冗談めかしに笑いながら、わたしの掌へのキスを続ける。手首から掌に、掌から、手首に。

「ねぇ、お願い」

 長く生きてとも言わない。僕より早く死なないでとも言わない。死んだ後も傍にいてとも言わない。

 だから、どうか。

「君と離れる時間を、君なしで生きていく時間を」

 ――そんなに、長くしないで。そんなこと、願わないで。

 お願いだから。

「夫の、最初で最後の我がままだよ」

 彼と、わたし。

 お互いに、どちらがよりお互いを必要としてるんだろうなんて、どれだけ依存してるんだろうなんて。そんなことを考えた。

 彼だろうか、それとも。

 間違いなく、依存してるのはアレクなのですが。ティアはだんだん依存しているけど、アレクは病的なまでにティアに執着してるんだと思う。

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