キスに思いを込めて 5
~瞼に落とすは憧憬~
正しい人間への憧れなら、ずっと以前から持っている。
生まれ持った正義感や、正しさ、そんなものを自分は欠片も持っていないから。だから真っ当な人間は好きだし、自然に味方がしたくなる。助けたくなる。
アレクも、今目の前で剣を構えている人間も、言うまでもなく姫様も。皆、自分が持っていないものを持っている。
たまにその正しさを苦々しく見つめるけど、それでも求めている。
「プルー、仕事が好きなのはとてもいいけど、休息も必要だと思うんだ」
「元凶が言うかっ!!」
女性にしては長身なプルーが、その涼やかな顔に怒りを混ぜて叫んだ。この瞬間がたまらなく好きだ。
どんな嫌味を言われても、最近では眉一つ動かさなくなってしまった彼女が、その凛々しいと表現される顔を歪める瞬間が。
柳眉が寄せられ、いつも引き結ばれている口から鋭い声が聞こえてくる瞬間が。正しい人間ゆえの、感情の揺れを眺めるのが好きなんだろう。
「寝不足、足元がふらついてる」
「お前のせいだ!」
「俺? そうだっけか?」
彼女の剣を避けて、ニ、三歩飛び後退する。
足元がふらついてても、さすがはプルーというか、しっかりと打ち下ろされた剣は先ほどまで自分の頭があった場所を空振りした。
あー、本気なんだ。そう思うと自然と口角は上がる。
彼女と真正面から打ち合うつもりなど全くなく、彼女の振り下ろす剣を右へ左へと避けた。剣が自分の真横を掠る瞬間、自分は確かに生きているのだと思う。
「楽しいなぁー、こういうの」
「……私は、嫌いだ」
そうだ、だからお前は正しい。
お前は命のやり取りに魅力を感じない。剣で身を立て、剣に縋って生きているくせに、お前は剣を生きる指針にはしない。
人を傷付けることを厭い、恐れている。
だからお前は真っ当だ。
戦いに身をおいて、人を切ろうとお前は自分が思うより穢れて何かいない。お前が自分を嫌うほど、人として外れていることをしているわけでもない。
「お前には、向いてないんだ。何回も言ったろう? お前に騎士なんて職業、向いてない」
お前は優しいから。違うな、お前は弱いんだよ。
言い直して、にやりと笑う。目の前の瞳が、怒りと羞恥で燃えた。そうだ、お前はこれを口にするたび自分の未熟さに歯噛みする。
そういう意味で言ってるんじゃないって、何度言っても分からないんだ。
「そういうことをいうエイルが嫌いだ!」
「知ってる、お前は……」
お前は一生俺に心を許してはいけないんだ。お前は俺を許してはいけない。一生恨み続けてくれなきゃ困る。
じゃなきゃ、困るんだ。
俺が今までやったことを、俺は後悔しないから。罪だという奴には言わせておけばいいとさえ、思うから。
だから神に許しを請うこともしない。お前から恨まれて、許されなくて、それに少し安堵してるんだ。
そして強がれる。
「プルーは真面目すぎるんだろうなぁ。もっとサボった方がいいぞ。何ならやり方、教えてやろうか?」
「結構だ。そんな暇があるんだったら、書類をさっさと片付けて訓練する。ティア様の護衛だってあるしな」
俺がお前に向ける感情は、多分他の人間が持つようなものとは少しずれているんだろう。
恋情とか、劣情とか、多分そんなものじゃないんだろう。お前を大切にしたいというのとは違うんだ。
お前の正しさも正義感も、見ていて気持ちいいくらい『正しい人間』だ。だけど俺は、それに憧れながらもいつかそれが崩れるんじゃないかと恐れている。
それが怖いとも思う。
でも守りたいとか、多分そう思ってるわけじゃない。お前が壊れても、穢れても、正しくなくなっても、お前はお前だから。
生真面目で、融通が利かなくて、ときどきいつか死ぬんじゃないかと思うくらい仕事熱心で。それで、男装するには不釣合いなくらい繊細だ。
とても弱いんだ。お前は、剣を持っていい人間じゃないから。多分その全てを、遠くから見てたいんだろう。
「なら帰るか」
「え?」
「仕事、するんだろ?」
「そう、だが」
さっさと剣をしまって踵を返す。プルーは慌てたように後を追いかけてきた。
最初はその生真面目さに腹が立つこともあった。憐れだと蔑みを込めて見たこともあった。ただ悲しいと、自らの罪を重ねてみたりもした。
そして何度か、役に立たないといって泣かせた。仕事から外したり、安全なところで待機させたり。
あぁ、そうだ。眠り薬を盛ったこともあったっけ。
あのときは殺されるかと思った。真面目に怒ってたもんなぁ。後にも先にも、あそこまで冷えたお前の目を見た瞬間は訪れないだろう。
「仕事、する気になったのか。エイル」
「ん? あー、まぁな。そろそろやらなきゃ、ウチの優秀な副隊長ぶっ倒れるからな」
やってやるよ、と面倒くさそうに呟けば、後ろから『元々お前の仕事だ!』とお叱りを受ける。
そうだったっけ、ととぼけて後ろを振り返れば、プルーは少しだけ嬉しそうな顔をした。
お前なぁ、冷静沈着で氷の目を持つ副隊長が、そんな顔しちゃダメだろ。最近、お前のファンだって言う他の隊の人間が、この辺にいるんだぞ。
少しでも近づければーなんて。
「そうそう、プルー。ちょっとこっち来い」
「何だ?」
「いいから、こっちに来いって。隊長命令だぞ」
プルーが訝しげに、しかし反抗する態度など一切見せずにこちらへと近づく。
ダメだな、プルー。お前油断しすぎ。正直、張り合いがないくらい警戒心が薄い。
ここでアレクなら、まず間違いなく一歩下がって剣に手を伸ばすところだ。どうやら俺の笑顔は胡散臭いらしい。
姫様でさえにっこりと笑ってアレクを近くにおくほどだ。侍女たちはそそくさと逃げる。全く俺をなんだと思って。
しかし言い訳できないのは、今自分の頭の中にある考えがよくないものだからだ。もし覗かれたら、プルーだってさすがに飛び退るだろう。
いや、むしろ冷たい笑顔で剣を抜かれるかもしれない。間違いなく切り捨てられるような気がしてきた。
でも残念ながら、プルーは俺の考えが読めないらしく、小さく首を傾げながら俺の前に立った。
女性にしては長身だ、と言っては見ても、さすがに目の前まで来ると身長の違いを感じるくらいにはなる。少し視線を落として、彼女の顔を見た。
「お前のそういうところ、本当にときどき不安になるなぁー」
「は?」
「いやいや、お前はもっと警戒心を持つべきだよ」
そう言いながら、プルーの頬を持つ。がっと顔を赤らめた。
おぉ、いい反応。しっかり顔赤らめとけよー。
「こういうことだ」
そう言って、彼女がぎゅっと瞑った瞼にキスを落とした。ちゅっとわざとらしくリップ音もつけてやる。
それから殴りかかろうとした手をしっかりと体の間で固定して、耳元で小さく呟く。周りに声が一切漏れないように、静かに。
「しぃー、黙って聞けよ。柱に人間がいるからさ」
「っ」
「牽制だよ、牽制」
柱に人間がいるといった瞬間、プルーは全ての動きを止めた。
馬鹿だな、牽制の意味を考えないとダメだろ。そもそも柱に人間が隠れていたとして、こうする理由をお前は考えないわけか。
隠れているという事実で十分ということか。本当にお前って、馬鹿だなぁ。上司に弄ばれてる自覚ないしな。
だから姫君に『全力で逃げて』と言われても、首を傾げるんだよ。
「プルー」
「なっ、何だっ」
「お前さ、自分で思ってるよりさ」
お前は自分が思う以上に俺を救ってるよ。どん底まで突き落としたのもお前だけどな。そんなこと、優しいお前には絶対教えないけど。
お前の正しさが羨ましいんだ。持てないと知っていても、欲しいと思ったことは何度もあるんだ。
持てないと知って、なら持っている人間を守ろうとも思ったことはあるんだ。全部、憧れてるんだよな、結局。
一生近づけない、正しさに。
この二人はずっとつかず離れず……。