キスに思いを込めて 1
グリル・パルツァーの『接吻』から。素敵な言い回しだなぁと思います。
"Kus"(1819)
Auf die Hande kust die Achtung,
Freundschaft auf die offne Stirn,
Auf die Wange Wohlgefallen,
Sel'ge Liebe auf den Mund;
Aufs geschlosne Aug' die Sehnsucht,
In die hohle Hand Verlangen,
Arm und Nacken die Begierde,
Ubrall sonst die Raserei.
Franz Grillparzer
~手の上なら尊敬~
白いドレスに金糸が広がる。その様子を自分はそっと遠くから見つめていた。
その上に、王冠を頂くために跪いた彼女は静かに下を向いていた。祈るように手が握られ、その口元はしっかりと閉じられている。先王の喪が明けてからすぐ、戴冠式は行われた。
様々な問題があったが、彼女は変わらず王冠をその頭上に置き、女王の地位に就く。
手を伸ばそうにも伸ばせない、許されない距離に彼女がいた。
「リシティア・ローゼ・ルラ・リッシスク。汝をこの国の王と定める」
機械的に拍手をし、一切の表情を消してその王冠を見つめた。その指に嵌る指輪を見る。
国王たる証であるそれは、ユニコーンが細かく彫られたものだ。彼女を縛る首の紋章と同じ。この国はどれだけ彼女を縛り付けるつもりなのだろう。
首に、その指に、体に、血に。
ありとあらゆるところに、この光国が刻み付けられている。彼女からそれを引き剥がすことなどできないのだろう。第一彼女はそれを望んでなどいないのだから。
ぐっと拳を握り締め、どこにもやれない想いに唇をかみ締める。
どれだけ厄介なのだろう。決して手に入りはしない人を愛し続けてしまう。
ずっと、ずっと。心の奥底にしまってある心などに、一体何の意味があるだろう。何の得があるのだろう。自分は無力で、彼女を守るには力が足りなくて。
「お前も、女王の護衛だな」
「ボールウィン大臣、いらしていたのですか」
仕事場でこの父と顔を合わせるのは嫌いだ。私情に塗れた己の心を見透かされている気になる。
お前は穢れた心から護衛の仕事を選んだのだと、そう突きつけられる。だからなるべく無関心になろうと努力した。何を言われても、心動かさぬよう。簡単に表情を表に見せぬよう。
それなのにこの父ときたら、息子を苛めるのが好きらしく、度々こちらの様子を見に来ていた。
「王族は遠い。女王は、もっと遠いだろう」
そんなこと、知っている。
先王の具合が少しずつ悪化するたび、自覚するようになった。何度思っただろう。このまま彼女を連れて逃げようと。
実行できない、馬鹿な考え。彼女が絶対に許さない、自分の欲に忠実すぎる考え。そんなもの、捨ててしまえればいいのに。
彼女が王女として生活するように、自分は騎士として生活してきたはずだ。
自然に、彼女を守るようにしていたはずだ。それなのに、傍にいる以上を求めてしまいそうだった。自分のものにならない彼女を。
「それで、大臣は何がおっしゃりたいのでしょう」
「そうだな、父としての助言だ」
父の顔をして、笑った。食えない狸だと思う。
子供にさえその本性を見せない。きっと兄も父の本当の顔など知らないのだろう。彼はそういう人だ。
王族に仕え、先王に仕え、そして今、彼女に仕えようとしている。
「何でしょう」
「リシティア様は強い。しかし、ティアはただの女の子だよ」
父の声に、情が交じった。慌てて視線を上げれば、少しだけ気まずそうな顔が見える。
あぁ、とそのとき唐突に理解するのだ。彼もまた王族に魅入られた人間なのだと。その王族が、誰かは知らないけれど。
「早く行きなさい。女王陛下がこちらを見ている」
くすくすと、すぐさま元の顔に戻った父が笑った。ぐるりと振り向けば、こちらを少しだけ不機嫌そうに見つめる彼女と目が合った。
戴冠式を終えた彼女は、これから城下を回るパレードに行く手はずのはずだ。それを案内するのも自分の役目だった。
「女王陛下、心よりお喜び申し上げます。あなた様の御世に祝福がありますことを」
跪き、決まりきった挨拶を口にする。それから自らの腰に佩いた剣を外し、彼女の足元におく。彼女の顔を、見ることもなく。
そして絶対の忠誠心を込めて、手のひらを自分の胸に押し当てて宣言するのだ。
「この身、この心を全て陛下に捧げます。この身が朽ちるそのときまで、永久の忠誠をあなたに」
何もいらない。全て捨ててもいい。だから、どうか。
祈るような気持ちで、その言葉を続ける。しかし忠誠の言葉を続けようと口を開いた途端、目の前の彼女は低く笑いながら剣を取り上げて、こちらの肩をその剣で叩く。
まるで騎士を任命する儀式のように。
「わたし、この国が好きよ」
そう言った彼女は、リシティアのようでいて全く違っていた。口元に笑みを乗せ、美しく笑ってはいるもののその目に冷徹なまでの強さを秘めてはいなかった。
ただ国のために全てを背負う、小さな体の少女がいるだけだ。その細い肩に重過ぎる荷物を載せ、たった一人で立つ姿。
それでもそんなことおくびにも出さず、ただ優しく笑うのだ。
「ほんの短い間だけど、わたしは女王よ」
返事さえできず、ただ俯いて騎士の礼を取る。絶対の忠誠を示すその格好に、大臣達がざわめいているのが分かった。
好きにしろ。
彼女の信頼を勝ち得ることができるのであれば、彼らは関係ない。
「シエラに渡すとき、この国がどこまでも栄えていることを願うわ」
願う、じゃない。彼女の中でもうそれは決まっていることだ。
あとは彼女の考えているとおりに進めるだけ。知っている。彼女はそういう人間だ。なんそつなくこなしてしまう。
その裏に隠された努力など見せないまま。冷淡な白薔薇姫に相応しく。
「何より愛しいこの国へ、わたしも全てを捧げるわ」
彼女が愛した、彼女が愛す、この国、民、歴史……その全てを。
自分は守るのだ。彼女が振るえぬ剣となり、彼女が必要としない盾となり。全てを背負い込む彼女を支えるのだ。
輝く金糸が王冠より光を照り返す。澄んだ瞳の色が強い意思を宿して煌めいた。強く、気高く、美しい姫君が、今日玉座についた。
今までよりずっと多く、高いところへと行ってしまった。
それでも諦め切れない自分は、その手を恭しく掴み、手の甲へと一つ口付けを落とした。
騎士がする口付けらしく、手袋の上から触れるだけの、儚いキスを。お互い身につけている手袋が、体温を完全に遮断しているのが恨めしい。
その手袋を剥ぎ取って、その爪先に口付けてしまいたかった。
「アレク」
「何でしょう、リシティア様」
ティア、今ここでこの名を呼べないのは、自分の心が弱いせいかな。
それとも君が、とても遠いと感じているせいかな。目の前にいる君は間違いなく『ティア』なのに、何も言えなくなるよ。
「わたし、大丈夫だから」
僅かに揺れた語尾に、伏せられた瞳に、ドレスを握った指先に。
こんなに近くに、彼女がいた。
尊敬してるよ、だけどそれだけじゃないんだ。その気高さも美しさも知っているけど、君が弱いとちゃんと知ってるよ。
先王を亡くして、君がどれだけ不安か、分かるよ。
だからどうか、今は泣かないで。色んな人が見てるから、君の弱さを吐き出したりしないで。
ティアの顔は、女王じゃない顔は、今だけ隠して。