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姫と騎士  作者: いつき
番外編
114/127

間幕 『だけ』の悲しさ

 どんなに遠くへ行っても、たとえ死んでさえ、わたしの心がこの国を離れることはないだろう。

 ずっと、ここに留まり続けるだろう。この国が、わたしの知っている国である限り。愛しい民がいる限り。

「だから、体がここから離れることはあまり関係ないのよ、アレク」

 辛い顔はしなくていい。

 痛い思いもしなくていい。

 わたしのために眉なんてよせなくていい。

 ただそのままを受け取ってくれればいい。

 そうすれば分かるだろう。わたしがどんなにこの国を、民を愛しているか。どれほど、アレクが大切か。

「俺を、おいて……? ティア、一人で嫁ぐって言うのか」

 どうして、いつもは冷静な顔をこんなときだけ歪めるんだろう。いつもどおりに鉄面皮を、その顔に張り付ければいいのに。

 そうしてくれれば、真っ白な決意に染み一つなくいられたのに。

「あっちは寒くて、農作物が育ちにくい土地ね。こことは何もかもが違う」

 誤魔化すようなわたしの言葉に、アレクは怒ったようにこちらの肩を掴んだ。痛くはないのに、手を払い除けようとする。

 彼に触れられているという事実に、なんとも言えない焦燥感を感じた。

 染みを作る前に、決意をしまっておきたい。誰にもばれることなく、この悩みをどうにかしてしまいたい。

「どうして、ティアだけ? 俺はっ」

「ここへ残って、シエラの手伝いをしてくれるかしら、アレク。信頼できる人を、あの子に残したいの」

 自分にはもう、必要ないのだ、この温かさは。

 この優しさは、甘えたくなるくらい優しくて、暖かくて。すがりそうに何度もなった。その度に己を律するのは辛くて、しんどかった。

 だから、この優しさと、温かさと決別したかった。帰り道が示されているうちに。引き返せる道が残されているうちに。

「ティア。俺は、必要ないの? そばにいなくて、ティアが泣きたいときどうすればいい?」

 泣きたくなることは、多分もうないだろう。一生、その感情とは別れるつもりでいた。

 だってそもそも感情があるから泣きたくなるのだ。だったら、その感情ごと凍らせてしまえばいい。何も感じなくなるくらいに。

「そばにいると、約束したのにね」

「俺は、そのためにここにいる」

 彼が手を伸ばしてわたしを抱き締める。逃れようともがくのに、彼の手は動かない。

 口を開いて叱責しようとすれば、それは容易く塞がれた。彼の大きな手が、わたしの口を覆う。

「命令は、聞かないから。君から離れる命令なんて」

 聞きたくもない。

 苦悩混じりのその言葉に苦く笑い、それから塞がれた口を彼の手に押し付けた。剣を扱うのに慣れた彼の掌は硬く、書類を裁くことを主とするはずの彼の職業を疑う。

 騎士ではあるが、その手はまるで戦うためだけにしかないようだった。他の役割だってたくさんあるはずなのに。

「ティア」

 優しく呼ばれて、口を塞いでいた手が離れた。

 頬を包まれて、引き寄せられる。鼻の先が触れるほど近づいても、互いの息が唇を湿らそうとも、二人の瞳が動揺によって揺れることはない。

 ただ逸らせない瞳が、相手の瞳を逃がすまいと射抜くのみだ。ゆっくりと唇が近づき、しかしどちらからともなく離れた。

 その行為が許されないと思っているためか、はたまた逃げ道がなくなると自覚しているからか。

「アレク、止めましょう。お互い、辛いだけだわ」

 笑って言ったつもりだった。いつもどおりの微笑みだったはずだった。

 それなのに、アレクは一層辛そうな顔をして、こちらを抱き締めるのだ。恋情というには、あまりにも必死すぎる。

 その手を振り払おうとして失敗した。振り払おうとして上げた手さえ、辛めとられてきつく抱き締められた。

 そして同じように繰り返す。

「ティアが泣かないように、そばにいたかった。泣きたいとき、支えられる位置にいたかった。……それさえ、俺には許されないのか?」

 許されないんだ。

 許してはいけないんだ。

 もうこの手は、わたしを守るためだけに存在する手ではないのだ。この手は、多くのものを救う手。多くのものを支える手。

 その力強さを知るのは、もう自分だけではない。

「俺が、何のために騎士になったかっ」

 ティアを。

「ティアだけを守りたかった。ティアだけが大切だった!!」

 その『だけ』が辛かったのに。

 彼には様々な役目があって、それを果たせるだけの実力もあった。その実力に見合う努力をしていた。

 しかし、彼はそんな数多の役目の中から、本来選びとるはずではない騎士を選んだ。

 本当なら、選択肢にも入っていない『騎士』という役を。そしてそれに全てを捧げてしまった。漆黒の髪と瞳の定めから逃れ、公爵家を捨てて。

 平凡な、結婚なんていらないと言い切った。

 彼が望めば、この国の運命さえその手に委ねられることになるかもしれないのに。彼はその可能性をすべて捨てた。

 そのかわりに手に入れたものの、何と役に立たないこと。彼の利益には、何もならない。

 悲しいくらい、彼が手に入れた『女王の騎士』の地位は、意味がない。

 それなのに彼は、意固地にもその地位を守ろうとする。一人を守ろうとして、それ以上のものを失ってしまった。

「それを、終わりにしよう」

 ずっと、それが分かっていたのに逃がしてあげることができなかった。自分が彼から逃げられないように、自分も彼を縛り付けたかった。

 だから彼をずっと手放さなかった。いつでも手放せるなんて嘘だ。自分はアレクの手を離せなかった。

 彼にはたくさんの可能性があるのに、たったひとつのところへ縛り付けた。

 ずっと、まるで呪いみたいに。彼からすべてを奪い取った。奪い取って、彼がここにいることを心配していた。

「全部」

 しかも、まるで彼が望んでその道を選んだかのように。わたしには何一つ責任はないんだという顔をして。

 嫌になるくらい、わたしは卑怯だ。

「わたしは他所の国に嫁ぐ。あなたはここに残り、王を守る」

 ずるいわたしに、最後にできることなんて限られていた。国も民も守れなくなったわたしは、ただのお姫様になる。

 何も知らず、王宮の中で王の訪れを静かに待つ、ただのお飾りの王族。

 そんなところに、どうしてアレクを送れる?

「ねぇ、アレク。大好きよ、わたしもあなたが。あなたがわたしを守ってくれようとしてくれたように、わたしはあなたの未来を守りたい」

「守ってほしくて、ここにいるわけじゃない」

 彼は守る側の人間で、被保護者ではない。加護を与えるもので、ただ望むだけのものではない。それは嫌というほど分かっていた。

 ここではわたしが、『王女様』が被保護者であり、加護を望むものであり、何者からも守られる存在である。

「知ってるわ。でもね、守らせて」

 大好きよ、本当に。言葉にしてしまえば、それは正しくなくなってしまうけど。きっとわたしの思っている意味とは違う意味であなたに伝わってしまうのだろうけど。

「あなたは、わたしだけを守る人じゃないって思わせて」

 自慢の騎士だから。

「君のためなら、俺はどうなってもいいのに」

 それは知ってる。アレクはそういう人間だ。それも嫌というほど知ってる。彼がわたしを守って傷ついたときから、ずっと分かっていたことだ。

「君の傍に、いれるだけでよかった」

 わたしはもう、傍にいるだけじゃ足りないかもしれないよ?




「ただいまー」

「お帰りなさい。えっと、アレク怒ってる?」

 彼女はいつだってそうだ。隠し事が下手くそなくせにわざわざ何かを隠そうとする。今回だってそうだ。

「で、ティアは何を隠してるんだ?」

「そうね。ちょっと、あの……。うん、話したいことがあって」

 一緒になるということは、四六時中一緒にいるということの同義ではなかった。確かに無理やりぶん取った一週間の休みはずっと一緒だった。

 あれは自堕落な生活だったと思う。一日中ベッドの中にいて、二人で色んな話をした。小さい頃の話とか、そういう色んなこと。

 彼女と会ったときの記憶は俺の方が多く、年を経るごとに彼女の記憶のほうが鮮明になっていった。

「話したいこと?」

「う、ん。あの……怒られることが分かってるけど」

 彼女が相手を怒らせると自覚している上で話すことは珍しい。親しい相手だとなおさらだ。

「怒られるって自覚してるんだ」

「アレクに、怒られることは承知してるけど。言わずにはいれないことだから」

 ごめんね、とティアが笑った。こういう表情をするとき、彼女は少し寂しげだ。逃れられない定めのせいか、俺が彼女を理解することはない。

 彼女のことだけを考えているのに、それを分かる日はきっと来ないのだろう。

「ねぇ、アレク。覚えてる? わたし『だけ』を守りたいって言ったこと」

 覚えてるも何も、いつも思っていることだった。彼女だけを守りたいって、彼女だけが大切だって。それはもう何年も前に好みに刻んだ誓いだ。

 忘れることなどありはしない。魂にさえ刻み付けてしまいたいと思ったほどだ。たとえ死んだとしても、忘れるはずはない。

「ねぇ、今もそう思ってる?」

「思ってるって言ったら?」

 思っていない日なんてない。いつもいつも、それだけを考えてる。彼女のために、そうであろうとし続けている。それがどうしたというんだ。

「アレクは、いつまでも縛られてるんだね」

 ティアに? 王族に? 一体何に。

「それが幸せだけど」

 それは彼女が決めることじゃない。俺が縛られて満足してるんだ。縛られることで、彼女自身を縛ってる。王族という鎖で絡め取られるより強く、運命の赤い糸なんかよりずっと汚く。

 彼女を、一生離せないから。

「幸せだと、勘違いしてるだけだったら? アレクにはもっと、もっと、やるべきことがあるとしたら?」

 何が彼女をそこまで不安にさせるんだろう。

「何を、言われた?」

 丁寧な言葉なんて、口から出るわけない。

「誰に、何を言われた? 答えて」

 彼女に害なすものを許すほど、自分は優しくない。慈愛に満ちているわけでもない。寛大なんて、そんなことない。

 いつもは優しいとか、寛大とか言われているけど。それは問題の中心が彼女に関係ないからだ。彼女に関係ないなら、誰が失敗しようが何をしようが関係ない。

 だから優しいと言われるのだし、事実部下を厳しく叱ったこともない。それは裏を返せば、その失敗の結果どうなろうが自分にはさした問題ではないからだ。

 上司の素質がないのは、百も承知だった。

「別に、ずっと考えてたの。ずっと、王女だったときからずっと」

 ぽつりと彼女が言う。それからまた顔を上げて、静かに言った。

「あなたの手は、わたしを助けるためだけの手じゃないの。それを、ずっと自覚してほしかった。ずっと、分かってほしかった。この手は」

 そう言って、こちらの手を取る。剣を使い始めて長い手は、決して公爵家の息子の手ではない。大切に育てられた、貴族の子息の手ではない。それでもこの手が嫌いではなかった。

 ごつくなる度、傷つくたび、彼女を守れるという実感を伴った。剣を難なく操れるようになり、思ったととおりに動かすたびに、彼女を守って見せると自負した。

 それのどこが悪いのだ。

「ねぇ、結婚して、一緒にいるようになって、わたしはもう守られる人ではなくなった」

「妻を守りたいと思うのは当然のことだ。違う?」

 確かに、仕事で守るべき人ではなくなった。だけど元々、王女として彼女を守ったわけではないのだから、どちらにしろ同じことだった。

 愛しいから、大切だから、傍にいてほしいから、守る。

「この手はね、アレク。もっとたくさんのことができる手なの。剣を操るだけの手じゃないの。だからね、もっとたくさんのものを守って?」

 彼女が笑った。今度はとても優しい、柔らかい笑みだった。

「わたしだけなんて、悲しいこと言わないでね」

 彼女の手が、俺の手を握ったまま首を傾げる。それからゆっくり自分の体に押し当てた。自分から見れば、薄いとしかいいようのない腹だ。腕を回せばすぐ引き寄せられる、頼りない体。

「この国があるから、わたしは生きていける。ここに民がいるから、わたしはここへいることができる。アレクといることができる。……子供を、授かることができる」

 ふわりと彼女がこちらに抱きついた。しばらく意味が上手く受け取れず、固まったままだった。

「ね、意味分かった?」

「ごめん――理解できない」

 何が言いたかったのか分からず問い返す。彼女は今、なんと言った?

「こういうときだけ、鈍感なのね。あのね、言いたいことっていうのはね」

 彼女が耳元でそっと先程の言葉を解説してくれる。柔らかい言葉が耳から入り、やがてゆっくりと頭の中に浸透していく。音が記号となり、記号が脳へと届いて情報になる。

 それがゆっくりと感情を形作り、自分の体を動かした。

 彼女を抱きしめ、肩口に顔を埋め、それからやっとのことで言葉が紡げるようになる。この感情を、どう表そう。

「ねぇ、アレク。守りたいのは、わたしだけ?」

「いや、君に関わる全てを守りたいよ」

 言い換えたところで、彼女中心なのは変わりない。だけど少なくとも彼女『だけ』ではなくなった。守りたいものが増えるというのは、こんなにも嬉しいことなのだろうか。

「兄さんが喜ぶ。父さんも、母さんもかな」

「グレイスもきっと喜ぶわよ。もう一人くらい作らないのかしらね。セシルも娘がほしくないのかしら」

 くすくすと耳元で笑い声がする。それに気がついて、慌てて体を離した。

「あのっ、抱きしめていいのかな。大丈夫? 気分悪くない? えっと、色々用意しなくちゃいけないよね?!」

「アレク、しゃべり方が戻ってるわ。少し落ち着いて」

「落ち着けるわけないだろう?! 連絡、どうしよう。やっぱり王宮が先かな。でも兄さん達にも言わないとダメだし」

 彼女の静止など聞けるわけもなく、慌てて扉を開いて何人かの使用人を呼ぶ。すぐさま来てくれる彼らに最低限の説明をすれば、彼らはこちらと同じように破願して、慌しく様々な用意に向かった。

 色々することが頭を巡って、どれから整理すればいいのか分からない。大抵こういうときはイライラするものなのに、何故か胸が弾んでいた。

 何からしよう。何をどうしよう。屋敷中走り回りたいくらいだ。

「あ、アレク」

「走らないでよ、絶対」

 彼女にそれだけいい置いて、まずは早馬で知らせを送ろうと下の階へ急ぐ。そこにはもう使用人一同が勢ぞろいしていて、一斉に笑顔で声を上げた。

「おめでとうございます。旦那様、奥様」

「ありがとう。付き添ってもらった人にも黙っててごめんなさいね。どうしてもアレクに一番に伝えたくて」

「滅相もないことです、奥様。わたくしたちは嬉しい知らせが聞けただけで、とても嬉しいですもの」

 彼女が笑って、こちらに向き直る。それからわざとらしく咳払いして、それから言った。いつもの強い彼女でもない。他国の使者を相手にしていたあの妖艶な彼女でもない。

 ただただ可愛らしい、大切なお姫様だった。

「わたしに関係ある人は、この国の皆よ。だから、あなたはこの国にいる人全員を守らないといけないの」

 その笑顔に誘われるように手を差し伸べて、それから彼女を抱き上げる。強く抱きしめるわけにもいかないから、膝を抱えて抱いた。

「仰せのままに」

 誰より大切で、愛しくて、自分のものだけにしてしまいたい人。

 主役カップルでしたー。

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