お蔵入り 『オヒメサマの夢』 ~決別~
選択肢を与えてあげる。あなたが何を選んだって構わない。
何かを、言われた気がした。夢の中で、まどろむ中で、記憶に引っかかることもないくらい静かな声でそれを告げられる。
「……だ、れ?」
声を出せば、寝起きらくし僅かに掠れていて、けほりと苦しげな咳が出る。
「グレイス?」
隣で聞こえる声に、今度はしっかりと目を見開いた。今いるはずもない人間の声が聞こえた気がして、一気にベッドから起き上がった。
目の前にいるのは、いつもどおりに、しっかりとした服を着込んだセシル。
「なっ、何で」
「何でって、昨日一緒に寝たじゃない。忘れた?」
「ご、誤解を招くような言い方しないで! なっ、なん。だっ」
言葉が上手く出ずに、わたしは口を開いたり閉じたりするしかなかった。
何でそんなにあっけらかんと、しかも嫁入り前の娘の目の前で。色々言いたいことがあったのに、セシルが困った顔をするから黙るしかなかった。
「誤解って、責任は取るよ?」
にっこりとした笑みに、再び脱力する。黙るしかない、なんて思うんじゃなかった。
それと同時に、ゆっくりと昨日の記憶が戻ってきて、ここが自分の部屋ではなくセシルの部屋であることを思い出した。そうして、わたしが帰れなかった理由も。
「セシルが離してくれないから、帰れなかっただけでしょ……」
「心外だな。グレイスが嫌がっていることをしたつもりはないけど?」
ぐっと言い返せずに唇をかんだ。やり込められた感が否めず、思わず睨む。
するとセシルは実に嬉しそうな顔をして、そのまま寝てしまったために皴だらけになったわたしの服ごとわたしを抱き上げた。
高そうな服が皺くちゃ。考えただけでも嫌になる。
「ん? どうなの??」
顔を覗き込まれて、ふいっと目を逸らす。素直に嫌がっていないことを伝えるのは癪な気がして、わざと返事を逸らした。
「グレイスは嫌だったの?」
その言葉に、否と答えるべきか迷う。
「じ、ぶんの部屋に帰るって言ったのに、セシルが帰してくれないから! と、いうかね。責任って言ったって」
言葉に詰まって、何を言うべきか分からなくなる。
これ以上は、女の子が言うべきことじゃない、とマザー・アグネスなら絶対に言うだろう。その教えをよく知っているので、とりあえず口を噤んだ。
「うん、責任は取るよ。まぁ、その話は追々ね」
抱き上げられていた体を地に戻され、とんと足裏に床の感覚を得る。ほっと息を吐き出して、楽しそうに笑っているセシルを見た。
「何がそんなに楽しいの?」
「朝からグレイスといられることが嬉しい、かな?」
愛してるよ、大好き。
そんな一言を言いおいて、彼は部屋から出た。ベッドサイドに置かれている小さな机の上に、いつの間にか新しいドレスがおいてあった。
それは一人で十分着られる、簡単な造りのもので、こういうところは貴族らしくないと思う。
彼が出て行ったということは、ここで着替えろということか。
「愛してるよ、か」
言葉を返す前に出て行ってしまったから、何も言えなかったけれど、時間があれば何か返せていただろうか。
返事になるような言葉を。恥ずかしいと思う間もなく。
「うわ……、恥ずかしい。無理無理」
そう自分に言い聞かせて袖を通した。それが最大の後悔になるとも知らず。セシルの言葉を、信じ始めていたのだ、愚かにも。
ずっと、このままずっと平和でいられる、なんて。馬鹿らしい考えを。
「グレイス・エインワーズ。召喚に応じよ」
いきなり開かれた扉と、剣を携えた黒い制服の騎士たち。その中に顔見知りを探して視線を彷徨わせるが、助けを求めるまでに親しい人は誰一人としていなかった。
「なっ、一体何なんだ。誰の命令だという!」
部屋に入ってきた男達に、外で待っていたセシルの声が厳しくなった。
見る間にあの柔らかい表情が固まり、本来の貴族然とした表情が現れる。怖い、というよりも、何かを恐れる子供のような顔で、大丈夫だよ、と言ってあげたくなる。
「誰の命令、ですと?」
「そうだ。彼女を召喚するには、それなりの命令がいるはずだ。一体誰が出したっ!!」
掴みかからんばかりの声に、黒い制服を着た、そしてその上に黒いマントを羽織っている男が訝しげな顔をした。
所属によってマントが違うから、そこを見ればどこの騎士か分かる、と教えてくれたのは確かアレクさんだった。
黒いマントは、そう。
エイルさん達が所属する、第三部隊。通称、警備隊だ。しかも、黒いマントの裾に一本白いラインが入っているから、精鋭である一軍、黒の騎士団ということになる。
エイルさんが団長をしているところだ。
そんな今思い出しても仕方のないことを呆然と考えていた。
「控えていただこう、セシル・ボールウィン様。貴殿には関係のないことだ」
「関係ないだとっ!」
「そう、関係ないと言っているの。分からない? わたしが出した命令です」
ざっと騎士たちの波が割れる。その先から現れたのは、少しだけ厳しい目をした王女様。一斉に頭を垂れた騎士たちに見向きもせず、ティアはセシルの顔を見据えた。
セシルが呆然と立ち尽くしている。
「控えなさい。セシル・ボールウィン。王代行の命令よ」
「ティア」
「呼び方に気をつけて。公の場で、その呼び名を許した覚えはありません」
呆然としたようにセシルが呼んだ名を、ティアはぴしゃりと呆気なく跳ね返した。
それからわたしに視線を送り、僅かながら苦い表情をその顔に映し出す。周りが騎士に囲まれて、もう何も考えられなくなっていた。
「……アレクは、このことを知っているんでしょうか? リシティア、様」
「今日実行するとは、知らないでしょうね。教えてないから。今、大臣方とわたしの護衛体制について話しているわ。
だから、長々とボールウィン大臣補佐の足止めを喰らっているわけにはいかないの。そこを退きなさい」
つい、とティアが足を一歩進めた。一方で騎士たちの波を押し分けるようにして、セシルもティアに近づく。
二人が数歩を残して向き合った。
「アレクに、相談もなしか」
「アレク隊長は、あくまで騎士でしかありません。わたしの決定は、あくまでわたしの考えです」
「ティア!!」
叫ぶような声が、縋るような声に聞こえた。懇願するような、痛々しい声でしかなかった。恐れていたことが現実になったというような、そんな悲痛な声だった。
思わず、セシルに駆け寄ろうとする。しかし。
「グレイス殿はこちらへ」
緩く手を引っ張られ、抵抗する間もなくセシルから引き剥がされた。懸命に身をよじるのに、全くもって抵抗の意味がない。
痛くもないのに、わずかな悲鳴が漏れた。怖い、離れてしまう。恐ろしい。セシルが遠くなるっ。
「おいっ!!」
セシルの声に険が交じる。しかし騎士たちはそれを気にしていなかった。
明らかに正しいのは、目の前にいる王女以外の何者でもないと、そう信じ込んでいるかのようだった。この人たちに見えているのは、完璧な王女様。
誰も彼女の言葉を疑わないのか。誰もが彼女を正しいと思うのか。彼女は、本当に全知全能のように扱われているのか。
「グレイス、召喚に応じなさい」
「拒否権はあるの?」
絞り出した声は、以前よりずっと強かった。前よりずっとしっかりとしていて、そして意志を持って出していた。
流されることもなく、ただ自分の意思で拒否することをこの人に伝える。
「あなたが、わたしの命令を拒否する権限を持つ、か? あると思ってる? セシルにさえないのに?」
セシル・ボールウィン、あなたにもその権限はないのよ。
「一緒に来て。話はそれからよ。皆、撤退の準備して。アレクが帰ってくる前に」
ティアの言葉一つで、騎士たちが一斉に動き出す。抵抗しようとしても、腕を掴んでいる手は動かずに、どんどんセシルから離れていった。手を、伸ばして、その指先を掴もうとした。
まるで、あのときみたいだ。彼の手を掴み損ねた、あのときみたい。
そう思うと同時に、彼の指がわたしの指に絡まった。今度は、掴んでくれた。諦めかけていたのに、彼はしっかりと腕を伸ばして繋ぎとめてくれた。
「グレイスっ」
「……せ、しる」
ぐっと握られて、引き戻される。それなのに、それなのにその手は無情にももう一つの手で弾かれた。
白い、穢れを知らないたおやかなお姫様の手だった。
「誰か、セシルを大臣宅まで送ってやって。そのままそこで待機させてちょうだい。大臣にはわたしから話すから、少々手荒になってもいい」
「ティアっ」
「早く!」
三人がかりでセシルが羽交い絞めにされた。そしてそのまま、引きずるような形で外へと出される。公爵家の長男という立場さえ、王女の前では何も意味を成さないのだろうか。
「ティアっ!! 離してくれ!! ティアっ!!」
「控えろと言っているんだ! それ以上口出しするのなら、登城する権限さえ取り上げるぞ」
冷え冷えとした、声は口調が荒い。いつも出しているお姫様のしゃべり方とは違う、為政者の言葉だった。ただ命令を下すためだけに使われる、言葉達だった。
「それでもいい。何もいらない! だから!!」
そこまでが限界だった。何をすべきか見えてしまったというほうが正しかった。
彼は、公爵家の長男で、跡取りで、ボールウィン家は彼の中の一部なのだ。どんなに忌んでも、嫌っても、彼はそれから離れられない。
「ティア、わたし、行くから」
「グレイスっ。やめて!! やめてくれ!」
ぽん、と出した言葉は思っていたよりもずっと軽くて、何でもなかった。悲しくもなかったし、セシルとの別離の意味も含んではいなかった。
ただわたしは、ティアについて行くだけで、それはセシルが言うような危険も何も感じない。
「そう? なら、セシルはアレクの部屋にでも軟禁させとくわ。そういう手配してくれる?」
一気に戻る口調と声。いつもどおりの優しいものだった。さっきの雰囲気が嘘のように、彼女は王から王女に戻る。
その変わり身の早さに呆然とした。彼女の中でその使い分けははっきりとしていて、それを造作もなく行えるらしかった。
これが、王族なのか。あの優しい王様でさえ、そうなのか。一体王族って、何なの?
「はっ」
騎士たちの短い返事とともに、セシルの体が動く。懸命に抵抗しているように見えたが、さすがに騎士三人がかりだとどうにも出来ないらしく、動きがだんだんと鈍くなり、ついにはだらりと力を抜いた。
「グレイス、止めて……。本当に、止めて」
泣き顔のような、その顔が目に映る。大丈夫だよ、というように笑えば、今度こそ彼は俯いてしまった。
「本当に、どうでもいいんだ。家なんて。必要ないよ、君さえいれば。君さえいれば、本当に、何もいらないんだ」
だから、わたしは彼から何も奪って欲しくないのだ。彼には全てを手に入れて欲しいのだ。彼だからこそ。
「俺のためだと思うなら、行かないって言って」
「言ったって、無理やり連れて行くわよ?」
「それでも、グレイスの意思で行かせたくない」
ティアを睨む目は鋭く、まるで人を刺すような目だった。対称的にティアの目は穏やかで、ゆったりと微笑んでいる。
「セシル」
「君を、一度でも友人だと思った俺が馬鹿だった」
セシルが笑う。
「君は所詮、王族でしかなかった。何度も、そう言い聞かせてたのに、何度も絆されてしまったよ。君は、王女以外の何者でもないのに。俺が、甘かった」
失望したような声とは、こんな声のことを言うのだろう。何も信じないと、体中で叫んでいた。
「わたしを、信じていたの? あなたたちの、味方になると?」
「少なくとも、最後の最後では助けてくれると思ってた。俺のためじゃなくて、グレイスのために」
甘かったと、笑うなら笑えばいい。だけど、君がグレイスを助けてくれたから、だから信じる気にもなれた。
途切れ途切れに、セシルはそう語った。
「君を、信じるんじゃなかった」
「無駄口を叩く元気があるなら、精々わたしのためじゃなく、この国のために働くのね」
ティアが嫣然と笑って、それからセシルは強制的に連れて行かれた。それが、二人の決定的な決別だった。
「連れて行って、王のいる部屋に」
どうなるのか。
そんなことはもうどうでもよくなっていた。
題名のとおり、決別のお話でした。誰と誰の決別がメインかは計りかねますが。山場……わたしの頭の中が。