二重雲
「あああああ。くそっ」
『烏天狗国』。
九尾の妖狐は己の現状にとうとう苛立ちを隠せずに悪態を大声でついてから、そこらに落ちている葉を拾っては、乱暴に息を吹きかけて、『人間国』に飛ばした。
「あらあら、まあまあ」
『人間国』。圭を匿っている鈴と咲和の家にて。
圭がいる部屋で至急待っていろとの伝言を受けて待っていた雲母の眼前に突如として姿を現したのは、どっぺりと頬から足のつま先まで、およそ全体的に肉が増えに増えた九尾の妖狐であった。
雲母は口元に手を添えて、目を丸くした。九尾の妖狐は鼻息を荒くした。
「動きにくいったらない」
雲母は九尾の妖狐を注視した。
「……圭の影響、よね」
「そうだろうな」
「あらあら、まあまあ」
「言ってないで、どうにかしろ。陰陽師だろ」
「妖気の問題ならともかく。圭に命を与えているからこその影響だもの。私にはどうしようもないわ」
雲母は九尾の妖狐から圭へと身体を向けた。
呼吸は落ち着いてきているとはいえ、未だ熱は高いまま。目も覚まさず、誰かが触れるとやはり嫌がって暴れ出す。食事は雀の涙ほど。
圭が目覚めなくなってもう三か月が過ぎた。
咲和や曇晴が甲斐甲斐しく世話をしてくれているとはいえ、こうも目覚める兆しがない状態が続くと、つい、弱気になってしまう。少しだけ、短い時間だ。すぐに立ち直る。
九尾の妖狐は髪の毛をかき回した。
「あー。もうだめだ。限界だ。起こそう。無理やり起こそう。おい。往復ビンタだ」
随分と気性の荒い。圭が目覚めるまでは穏やかな性格でいてほしかった。
思いながら、雲母は九尾の妖狐を睨みつけた。
「なにが往復ビンタですか。もし圭に乱暴を働いたら、石英と共にあなたを封じるわよ」
怒り沸点がとてつもなく低くなっている九尾の妖狐。目つきを鋭くさせて、歯をむき出しにした。
「ほおー。俺を封じる?力が衰えているおまえたちには無理な話だな」
「見くびらないでくれる?今のあなただろうが、常時のあなただろうが、私たちが手を合わせれば、封じるなんてわけないから」
互いに退かず。臨戦態勢に入った視線のぶつかり合いで火花が激しく散った。
いついつまでも続くかもしれないと思われた緊張状態を解いたのは、突っかかった九尾の妖狐だった。疲れたと言って、その場に座り込んだ。雲母はおもむろに緊張の糸を緩めて、呆れた表情を向けた。
「最強の九尾様が情けないわねー」
「うっせえ」
「油揚げ持って来たから食べる?」
「いや。なんかもっとあっさりしたもんが欲しい。豆腐だ。豆腐を寄こせ」
目を見開いた雲母は思わず前のめりになって九尾の妖狐に近づいた。
「油揚げが食べたくないなんて。よっぽど重症なのね」
九尾の妖狐は鼻に皺を作って渋面顔になった。
「最悪だ。圭のあほたれ。ばかたれ。早く起きろ」
か弱い声音に、雲母の顔は険しくなった。常にない様子に、九尾の妖狐はどうしたと問うた。雲母はゆっくりと言葉を紡いだ。纏まっていない考えを無暗に言葉にしないように慎重になりなさい。そう自分に言い聞かせるように。
「ねえ。最強のあなたがそこまで影響を受けるのって、本当に圭の精神状態だけが原因だって考えている?」
「おまえの考えは?」
「…戦争時の記憶。マンドレイクに魂が呑み込まれた事。烏天狗国の地中深くに入った事。だけじゃないような気がするの。得体の知れないなにかが、圭の中に巣食っているんじゃないかって。でも、妖怪の類じゃない。それだったら、私も、石英も、あなただってわかるでしょう?妖精国の事だって、あなたならわかるはず。でも、あなたでさえ、どうにもできない。考えすぎかもしれない。ただ、色々な事が重なり合い過ぎて、消耗している。なら、魂を預けている子たちに希望を託せばいい。目覚めを待てばいい。でも、障害がほかにもあったとしたら。圭の意志ではどうにもならない事になっていたら」
九尾の妖狐は泣くまいとする雲母から圭へと視線を向けた。
静かな、しずかな呼吸。かろうじて生きているものの呼吸。
生を繋いでいるのは、圭と己の命。
生を食らっているのは、戦争時の記憶。他国の影響。
(だけ、ではない、か、)
『記憶を消してくれと願うか?願うのなら、叶えてやる。願うのなら、いくらでも叶えてやる。言え。苦しみから解放してくれと。言え…さっさと言え!』
『…いや……いやだ。あなたにはもう、願わない。絶対…いや』
圭が拒んでいなかったら、目覚めると確信していたが、
そうでなければ時間が解決してくれると、甘く見ていたが、実は、そうでも、ない、の、か、
ゾッと、背筋が凍った九尾の妖狐。瞬時に立ち上がり、圭の傍に駆け寄るや、額に中指を押し当てた。声を出した。低い声。落ちていく声。
「圭。おい。圭。返事をしろ。おい」
呼吸だけ。心音だけ。脈音だけ。生きている証はそれだけだ。皮膚や肉、骨の感触がまるでない。他にはなにもないのだ。まるで底なし沼だった。そんなわけは決してないのに。押し当てた中指がその中に徐々に沈んでいくような感覚に陥る。
熱くて煩わしかった身体が今や、底冷えしている。
九尾の妖狐は舌打ちをして、額に額をぶつける。痛くしたはずなのに、感じられない。
命を与えた自分だから、このような事態に陥っている。
脳裏を掠めた。
そうだ。吸収しようとしているのだ。自分を。
九尾の妖狐は笑った。口の端を高く、たかく釣り上げて。不遜に笑って見せた。
なんなら、おぞましい笑い声さえ高々と出してやろう。
「いいだろう。俺が欲しければ、俺をくれてやる。だからそいつは」
続く言葉は発せられなかった九尾の妖狐。目を見開いたまま、凝視した。
雲母は堪えきれず、涙を流しながら、圭に駆け寄った。声を発した圭に。
九尾の妖狐と雲母が注視する中、圭は瞼を少しだけ持ち上げて、視線を向けた。
ぼんやりとしていて、はっきりとは見えないが、こんなに近くにいるのだ。誰かはわかった。口の端を少しだけ上げた。心配しないでと言いたかった。
「ごめん。ごめんなさい。もう少しだけ。眠らせて。起きるから。絶対」
「今起きろ!願え!記憶を食らってやる!」
なにを腑抜けた事を。九尾の妖狐は歯を強く擦り合わせてのち、吠えた。
耳を貫く怒号に、圭は眉をひそめた。口を開くのも、瞼を持ち上げるのも。最小限の動作。なのに、こんなにも疲れる。
疲れた、
(疲れた、なあ)
「やだ。言ったでしょ。あなたにはもう、願わないって」
目の前が真っ赤になった。次には、血の味が口の中に広がった。
我に返った九尾の妖狐は雲母の腕に噛みついている自分に気づいた。
生ぬるい温度の血が、九尾の妖狐の唾液と混ざり合って、ぽたぽたと、圭の顔に落ちた。
一つ。二つ。三つまで見届けた九尾の妖狐。ゆっくりと顎を持ち上げて、雲母の腕から口を離した。
「わる、かった」
雲母は手早く常に身に着けていた薬箱から患部を消毒、薬を塗って、包帯を巻きつけ、痛めていない片腕で、九尾の妖狐の胸倉を掴んでは引き寄せ、額に額をぶつけた。鈍い音がした。星が生じるくらいの衝撃が走った。
「今度したら本気で封じる」
殺そうとした。本気で。圭を。圭の首めがけて、牙を突き刺そうとした。
今すぐにでも封じたかった。今の自分の心境。やったら後悔する。今の自分ではない心情。
雲母は強く言い聞かせた。だめ。やるな。上った血を落とせ。冷静になれ。
「いいわね」
「ああ」
雲母は乱雑に胸倉から手を離して、消毒液をしみこませた布で、圭の顔を拭った。
「ごめんね。ごめんね。圭」
「ばば様。ごめん。ごめん、なさい」
「いいの。大丈夫。痛くないから。九尾の妖狐の攻撃なんて、蚊に刺されたようなもんよ。ほら。叩いたから、九尾の妖狐が血を吹いちゃったのよ。軟弱よねー」
「すまん。おまえも……けど。なあ。起きろよ。今。願えよ。雲母も石英も、ほかのやつらだって、おまえが起きるのをずっと待ってんだよ」
弱弱しい声音に、目頭が熱くなった。
「ごめん。起きる。起きるよ。でも、今は、無理……ねえ。もう、言わないでね。絶対。やくそく。お願い」
「悪かった」
微かに持ち上がっていた瞼が落ちると、圭はまた眠りに就いてしまった。
九尾の妖狐は雲母に向かい合って頭を下げた。雲母は睨みながらも、二度はないからと釘を刺した。いくら精神が不安定になっているからと言って、赦される事ではない。赦す気もない。
が。
必要である上に。大切な友でもあるのだ。切り捨てる気は、毛頭なかった。
「いろいろこき使うから、そのつもりでいてよ」
「………」
「そこは進んではいって言う場面でしょ。嫌そうな顔をしない」
「わ、か、た」
ならよし。ひとまずの区切りをつけた雲母。圭が告げた言葉を反芻した。意味はわからなかったが、圭の願いなのだ。了承させてやる。黙っている九尾の妖狐に向かって、再度放った。
「ねえ。圭のお願いを聴いて」
食べてもいいなんて言わないで。
はいとさっさと言え。雲母に重圧をかけられても、九尾の妖狐は頑として頷きはしなかった。
(2020.5.21)




