3話 すぎてゆく日常
土曜日ということもあり、家に帰ると行く時はいなかった父さんが出迎えてくれた。
父さんに自分の選んだことを話そうと思うんだけど、気恥ずかしくって言い出せず、母さんに任せて自分の部屋に飛び込む。母さんの声が扉越しにも聞こえてきて、慌てて洗濯物に埋れて寝転がる。母さんが僕のことを喋るのを隣で聞くのは拷問に近い。誇張癖と親バカが混じって手の施しようがないのだ。
先生にはあんなにするっと言えたのに、どうして父さんには言えないんだろう。でもやっぱり「女の子になる。」なんて恥ずかしい。声に出すなんて無理だ。そういえば母さんにも直接言った訳じゃなかった。……先生にだから言えたのかな?
ゲシゲシと足で揺らされ起こされる。
「こっちに来ないと思ったら、洗濯物に埋もれて何やってんの。」
「……寝てた、っぽい。」
「寝るならタオルケットにしなさいな。せっかく洗った洗濯物が汚れるでしょ。」
「別に寝るつもりじゃなかったから。」
それに今はもう僕の部屋になったのに、今だに取り込んだ洗濯物の一時保管場所(兼、雨の時の洗濯干場)として使ってる母さんも悪い。そもそも僕が埋もれてたのは僕の洗濯物だから、母さんが何か言う筋合いは……あっ、これは違った。
「ふうん。まあ、ちょっと疲れが出たのかもね。」
あれ? いつもならもっとうるさく言うのに。構えていた僕が少しバカっぽい。それになんだか気を使われる感じが少しむずかゆい。
「もうすぐご飯だから。」
そういって戻っていく母さんに、鼻をきかせてみればビーフシチューのにおい。どうやら今日は父さんが主体のメニューらしい。
うちの父さんは割と料理ができる人で、メニューの豊富さは母さんに負けるけど、ビーフシチューやカレー、ハンバーグなんかの洋食系家庭料理は父さんの方く上手に作った。
今日のメニューはビーフシチューにハンバーグ、それにほうれん草の胡麻和え。少し場違いな胡麻和えは母さんの料理だ。
母さんと父さんはメニューに対する考え方、特に野菜について少し違う。例えば父さんは今日みたいにシチュー系があればハンバーグに少しの付け合わせをするだけで問題ないだろう、と考える。対して、母さんは野菜料理が一品ないと野菜不足に感じるらしい。
僕としては……どうだろう。全体の野菜の量で考える父さんの方が合理的な気はする。けど、付け合わせによく出てくる人参のグラッセやブロッコリーはそんなに好きではなくって、それよりは胡麻和えとかの方が好きだな。
夕食が終わるとこれからの話。
あと二週間で夏休みが始まる。だから手術は夏休みの間に行う方向で話を進めることになった。手術はあの病院では無理らしく、三つ隣の県にある似たような手術に実績がある大学病院で行う予定だ。
問題はその後のこと。言ってしまえば「いつ僕の学校での性別を女にするのか」という一点につきる。僕もさすがに今の学校に女の子として通うつもりはなかった。だから、選択肢は大きく二つ。
一つめは、引っ越さない選択。今の学校で卒業までは男として過ごし、中学校を県外の私学にしてその時に性別を変える。これから女の子っぽくなるって言っても、小学生の間くらいは先生の協力があれば隠せるだろうと、先生も言ってくれた。
二つめは、引っ越す選択。夏休みの間に学校と性別を変えて新しい人間関係を作ること。一時的には父さんの単身赴任先に転がり込むか、おじいちゃんおばあちゃんの家に寄せてもらってもいい。
いずれにせよお金と仕事の話が絡むから、僕の意思だけではどうしようもない話だった。
「母さん今の仕事辞めるつもりなの。だからお父さんが仕事に通いやすい範囲で住む場所を決めようか。」
わりとごちゃごちゃすると思っていた話し合いは母さんの手によって早々に終幕した。
「うちの会社の社長がちょっと前代替わりしたんだけどね。その関係でいろいろあって。」
驚き固まる僕に母さんはそう説明した。
「ほんとに?」
うちの母さんは自分が仕事をしていること自信にしているみたいだった。だから僕は母さんが仕事を辞めるなんて考えてもみなかったのだ。
「元々迷ってたのよ。だから芳春が背中を押してくれて感謝してるの。」
その言葉に嘘はないように見えて少しほっとする。
「あんまり気にしちゃダメよ。親ってのは子供に何かやってあげることが何より楽しい生き物なんだから。」
「……そうなの?」
「そうよ。」
母さんは相変わらず妙なことを断言してしまって、それがなんだかおかしい。
「じゃあ母さん、明日から洗濯物とか手伝わなくても、」
「それとこれとは別。」
らしかった。
月曜日の朝、職員室で先生を捕まえて夏休みの間に引っ越すことを話す。
「やっぱり親御さんの仕事の都合か?」
ふと返ってきた言葉に迷う。……どう言おうか。そう言えば考えてなかった。
もちろん本当のことを言うつもりはないけど、端から端まで嘘をつくのは何か違う気がする。
「いえ、僕の都合です。」
「…………。あー、その、高槻。いじめとかあったか?」
あっ、そっか。そういう風にも聞こえるんだ。
「あっいや、それは全然ないです。えーっと、いわゆるポジティブな理由で、引っ越したいと思うことができて。」
そう、この引っ越しはきっとポジティブな理由。
先生は僕の言葉を考えていたみたいだったけど。
「……そうか、ならまあよかった。がんばれよ。」
そう言ってくれた。
それからは少し打ち合わせ。引っ越することをみんなに伝えるのかどうか。伝えるならその方法は、僕が自分で少しずつ広げるのか、先生が朝の会で一気に広げるのか。そういうことを決める。
結局、終業式のちょうど一週間前に先生から伝えてもらうことを決めた。今日伝えてしまってもいいんじゃないかって言われたけど、なんとなく僕の引っ越しをそんなに長く惜しんでくれる人はいないと思ったから。
「母さん! 中学校って制服なんだよ!」
ドアの音を聞くなり玄関まで駆け寄った僕の心境を想像してほしい。
「…………なに当たり前のこと言ってんの?」
仕事用の靴を脱ぎながら母さんはあきれたように言う。
「だって! 女子の制服って……」
「……ああ、そうういことね。」
そう、きっかけは先生の言葉だった。僕の転校を中学受験のためとか、進路のためのものだと納得したらしい先生は、僕との話題にすごそうな中学校の話を多くした。
そのなかで「女子なら制服のかわいさみたいなものを基準に選ぶ子も多いんだろうけどな」という言葉があって、それで思い出したんだ。女子の制服って……
「やっぱり、スカートははきたくないのね。」
母さんの言葉にうなずく。
「いや、あんまりにもことが淡々と運ぶから、服装とか大丈夫なのかなってお父さんとも言ってたんだけど。」
それを早く言ってほしかった。だいたい母さんはスカートとか全然はかないし、だから僕も宮川さんみたいな格好をすればいいやって、そう思ってたのに。
「やめる? 手術するの。」
「……やめない。」
「じゃあ、私服の学校を探さないとね。」
「あるの?」
一応調べてたんだけどね、と言って母さんはプリントアウトしたらしいいくつかのページを見せる。
「引っ越す辺りならいくつかあるみたいだけど。でも、だいたいは有名な私学みたい。」
「……つまり?」
「中学受験、がんばろっか。」
かくして先生の勘違いは、現実となったのだった。
僕が引っ越すことを先生から伝えてもらってからの一週間、終業式までの日はおおよそ僕の思っていた通りで。
教室の反応はよくもなく悪くもなく。一応興味はある、そんな感じ。いつもはあんまり話さない人が話しかけきたり、夏休みの雰囲気に塗りつぶされてしまわないくらいには、いつもと少しだけ空気が違った。
クラスで一番残念がってくれたのは知幸君で、好きな本の話が合できる人がいなくなるのを寂しそうにしていた。年賀状を送るよと言われてビックリする。メールじゃないのかと返すと、メールは続く気がしないんだと知幸君は笑った。
一年に一回手紙を書く方が続く気がするとの言葉に、なんとなく納得してしまって、僕も書くよと返してしまう。まだ家が決まっていないことを言うと、引っ越ししたら教えてと住所を渡された。
朝、この学校での、それにたぶん男子としての最後の登校。集団登校の集合場所にはいつもより少し早くついた。
一番乗りを期待したけど集合場所にはもう最初の一人が来ていて、同じ学年の千夏ちゃん。もうそんな風には呼ばないけど、それ以外の呼び方はわからなかった。
「おはよう。」
「おはよう。」
小さい頃は家族ぐるみで遊んだりもした仲だけど、3年生くらいからは話すことも減って、最近は集団登校の間に少し喋るくらい。
でも、今日はなんとなくいつもより言葉が出てこない。
口を開いたのは千夏ちゃんだった。
「……芳春君、引っ越しちゃうんだよね。」
そういえばこの話を千夏ちゃんとしたことはなかった。
「うん。」
「遠いのとこ?」
「どうだろう、三つ隣の県だから。慣れたらそんなに遠くないって父さんは言ってたけど。」
「……もう会えないのかな。」
少しだけおどろいた。どうやら僕は千夏ちゃんがそんなに悲しんでくれるとは思ってなかったみたい。
「えっと、家がね、引っ越す家がまだ決まってなくって。たぶん夏休みの半分くらいはこっちにいると思うんだ。だから、その間はラジオ体操にも顔出すと思うし……」
言ってからしまったと思う。僕はもともと理由を見つけてはサボっている方だったし、特にこれからは色々あるから、そんなつもりは全然なかったのに。
でも、隣を見ると千夏ちゃんが笑ってて。久しぶりに見たその顔に、まあいっかて思えた。
主人公の名前を「吉春」→「芳春」に変更しました。
高槻 芳春 が主人公のフルネームになります。