挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

ブックマークする場合はログインしてください。

安物

作者:クラン
 郵便受けから新聞を取り出すと、すっ、と足元に茶封筒が落ちた。何気なく拾って差出人を確認すると、おや、と声が出た。曲線的な女文字で、小野(おの)百合子(ゆりこ)と書かれていたのだ。

 百合子は昨日、一泊二日の小旅行へと旅立った。なんでも、女友達と日光まで猿を見にいくらしい。たかが猿のためにわざわざ、なんて思ったが、気前よく見送ってやった。予定通りならば、今日の夕方には帰ってくる。そんな彼女から封筒が届いていることが不思議だったが、切手も消印もないので、おそらくは昨日のうちにこっそりと郵便受けに入れておいたのだろう。

 一体何事だろうと、小首を傾げて玄関を過ぎ、リビングのソファに腰をおろした。まじまじと茶封筒を見つめる。表には「笹川(ささがわ)(ひろし)様」とだけ書いてある。住所も郵便番号も無い。裏には彼女の名前だけ。やはり、郵便受けに忍ばせておいたものだろう。

 そういえば、彼女と付き合って一週間ほど経った時期、確か大学三回生の秋頃だったと思うが、同じように、宛名と差出人の名前だけの手紙を貰ったことがある。ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします、みたいな内容だったか。いまどき手紙でこんなことを伝える彼女がなんとも奥ゆかしく、また、愛おしかった。

 大学卒業と同時に同棲生活を始めて半年が経った。私は土浦(つちうら)の自動車部品メーカーに就職し、彼女はコンビニのアルバイトをしている。こぢんまりとしているが2LDKの部屋を借りており、無駄な浪費さえしなければ充分に暮らしていけた。それに、私の父は貴金属買取業でひと財産を築いた人間である。他人様からは厳格な人と言われているが、子煩悩である。それゆえ、こちらの生活が苦しくなれば電話一本で、向こう半年は暮らせる程度の金は振込んでもらえるだろう。父に頼みごとをするのはなんとなく自尊心に傷が付くようで嫌なのだが、それでも、素寒貧になってマンションを追われることがないということは少なからず心の支えになっていた。百合子には、働かなくてもいいと伝えてあるのだが、どうも気後れがあるらしい。それもそうだろう。私だって、彼女のように貧しい出ならば同じように遠慮する。幾ら余っているとはいえ、他人様のお金で生活するのは嫌で嫌で仕方がないだろう。恩情は時に、苦しいものだ。父の会社に入ってゆるゆると働くこともできた私が、あえて別の方角に歩き出したのも、情を啜るまいとする気持ちからである。

 しばらく封筒を眺めていたが、次第次第に浮ついた気分になっていることを自覚し、姿勢を正した。あんまりでれでれしているのは情けない、気を静めてさっさと開けてしまおう。私は自分自身の立ち居振る舞いには敏感な男であった。誰も見ていなくとも襟を正して背筋を張る、そうあるべきだと信じていた。

 封を開けると、丁寧に畳まれた便箋が幾枚か入っていた。

 居住まいを正し、慎重かつ丁寧に開く。礼には礼をもって返す。折り目の美しい便箋に相対する態度として相応しい厳粛さでもって、それを広げ、読み始めた。

 すると、その一行目で既に、私の少なからず浮ついた気分は砕かれてしまった。



 拝啓

 この手紙を見つけて、さぞや吃驚していることと思います。あるいは、浮き浮きした気持ちになっているかもしれません。そんな貴方に、まず謝らなければなりません。なぜならこの手紙は、お別れのための手紙なのですから。貴方を気落ちさせてしまったことと、一方的にお別れを告げねばならない非礼を謝ります。申し訳ございません。けれども、許されようなどとは思っておりません。それは必要のないことです。もう、お会いすることはありませんもの。

 貴方は、私に男ができたと推測するかもしれません。ですが、それは思い違いです。私は、想うひとの他に男を作るような、そんな不埒な女ではありません。生活に飽き飽きするような高飛車な女でもありません。ただつつましく生きていたいと、それだけを願う気弱な女です。

 思えば、貴方はお金のことばかり気にするお方でした。大学生の時分から、一度の食事や些細な買い物でさえ領収書を必ずとっておられました。自動販売機の前で、お水の金額をメモしていたことも、ちゃんと覚えております。そうしておいて、後で必ず帳簿にボールペンを走らせる、こまめな貴方。一緒に暮らすようになってからはなお一層、気忙しい様子で帳簿を睨んでいましたね。けれど、決してけちではない。お洋服も、靴も、ちゃんとした物を買って、何度も何度も使いまわすようなことはなさらない。同じ物を何年も身に着けるのはみっともない、とでも思っていらっしゃるのかしら。

 けれども、貴方のこまめなところは、生活するのに必要な習慣だってことくらい、私にも分かっております。私は、貴方ほどちゃんとした家計簿はつけられませんもの。どうしたって細かいところで間違いが起こってしまいます。だから、帳簿はあなたに任せきりにしております。いいえ、私、嘘をつきました。貴方が完璧だから任せているのではありません。私が帳簿に触れようともしないのは、貴方を怒らせるのが恐かったからです。大学時代に、私が貴方から頼まれて近所のスーパーマーケットで買い物をしたときの領収書を捨ててしまったことがあったでしょう。覚えていらっしゃいますか。あのときの貴方は、本当に恐かった。買い物から帰った私は、言いつけ通り、合鍵で部屋に入って貴方のお帰りを待っておりました。師走も半ばを過ぎた時期でしたから、帰宅した貴方がほっとできるように、暖房で部屋を暖めておきました。お帰りになった貴方は、すぐさま私を労ってくださいましたね。よく覚えています。ありがとう、と、その一言で私はとても幸せな気持ちになれました。けれども、私が領収書を捨ててしまったことを知った貴方は、何も言わないでスーパーマーケットに行ってしまわれました。私をひとりきり、アパートの部屋に置いて。呆然としてしまいました。金額は一円違わず覚えていて、それを伝えたのにもかかわらず、貴方は行ってしまわれた。二百八十円のティッシュを買ってこいと言われ、その通りの商品を買ってきたのですから、二百八十円に違いないのです。でも、貴方にとっては領収書と値札以上に確かなことなんてないんですのね。身に染みました。エアコンのぬるい風が肌を舐めて、私はなんだかとてもみじめな気分になってしまいました。お店からお帰りになった貴方は、一瞥だけ、たった一瞥だけを向けて、私に帰れと仰いました。たったそれだけ。一瞥と、短い言葉。寒空の下、私はとぼとぼ帰りました。怒鳴ってくれたなら、殴ってくれたなら、私にも幾らか救いはあったでしょう。氷のような眼と、針のような言葉。幸せを墜落させるのに、これ以上の方法はないことを、貴方は知っていらっしゃったかしら。ほんの手心のつもりで、つとめて冷静になさっていたのなら、それは愚かな態度ですわ。

 以来、私も貴方と同様に、領収書やら金額のメモやらを欠かさない習慣をつけました。だって、悔しいじゃありませんか。お金についてこだわりがあって、それで冷たくされたからお別れしましょう、なんてあまりに不誠実で私は耐えられない。私は乙女を傷つけるべからずを吹聴して居直る女では、決してない。貴方があのような態度をとるのはお金に関することだけで、あの日のことも、度が過ぎているとはいえ貴方が正しかったに違いないのです。だからこそ私は、あの日の一事で一層身を引き締め、ちゃんとした女になろう、貴方に相応しいだけの女になろうと努力しました。

 そう、お金のこと自体は、お別れする直接の理由ではありません。しかし、順を追って、必要な事柄だけを綴っておりますので、ひとつの要因であることに違いありません。領収書のことを書いたのは、私自身への戒めでもあります。そして、次に綴る事柄もまた、私への戒めの意味があります。

 貴方は私に、色々なお洋服を贈ってくださいました。あんまり頻繁にくださるものですから、とっても気後れしてしまって、何度も断っているのに笑顔で、君によく似合うと思って買ってきたんだ、なんて言われると私もまんざらでもない気持ちにさせられます。嬉しいやら申し訳ないやらで、いつも胸がいっぱいでした。けれど私、気付いていましたの。私が昔から持っているお洋服やアクセサリー、靴や鞄を貴方が気に入っていないことに。お付き合いしてから一年ほど経ったある日――お付き合いを始めて一年目の記念を終えた数日後のことですから、よく覚えております――貴方と水族館でデートをしましたね。エイの裏側が、間の抜けた顔みたいだと笑いかけても、イソギンチャクの触手の間で遊ぶクマノミを見てあら可愛いと言ってみても、貴方は気のない返事ばかり。よく視線を追ってみると、私のことばかり見ていらっしゃる。頬を赤らめて、なんだか恥ずかしいわ、私をちらちら見ていらっしゃる、なんて思ったのですが、そうではなかったのですね。水族館を出て、海辺のレストランでお食事をしているときに、貴方、ご自分でなんて仰ったか覚えていらっしゃるかしら。贈った服は、みんな、気に入らなかったかい。そう仰ったのですよ。言われて初めて、私は気がつきました。貴方は私を見ていたのではなく、お洋服を見ていたのですね。貴方に見つめてもらっていると思い込んで、ちょっぴり嬉しくなっていた私はまるで道化ですね。ふふふ、悔しい。

 貴方からいただいたお洋服は、みんな気に入っておりました。だって、貴方が私のために贈ってくださったんですもの。だからこそ私は、大切に大切にと、扱っておりました。あの日私が贈り物のお洋服を着ていかなかったのは、ほんの些細な気持ちからです。海辺の水族館ですから、潮の匂いがついてしまったら嫌だと思ったのです。せっかく貴方からいただいたものを、わざわざ汚してしまうのは申し訳なく思っただけのこと。たかが潮の匂いに、そう注意深くなる必要はなかったのですが、もしも、とか、万が一、とか考え出すともう迂闊に着てはいけなくなってしまったのです。貴方はきっと、私の衣服という衣服、アクセサリーというアクセサリー、そのほか小物や靴まで、私を染めてしまいたかったのでしょう。そのことに気がついたのは、数日してからです。貴方の気持ちを知った私は、とっても嬉しくなってしまいました。ひとりの男の人に染められるのは、嬉しいものです。頭のてっぺんから足の先まで彩りたいという意思に気付くのは、なお嬉しい。貴方は私のことなどとっくに理解していて、そのうえで飾ろうとしているのだと、私は思いました。以来私は、お気に入りだった桃色のフレアスカートも、大学入学のお祝いに母からもらった、四葉のクローバーを模した銀のブローチも、箪笥の奥や小物入れの中にしまいこんで、身に着けることはやめました。それが、私への贈り物の返礼であり、愛の証明だと頑なに信じ込んでいたのです。

 ばかな小娘。今でも小娘に違いないけれど、あのときよりはずっと進歩しています。なぜって、あの頃の私は滑稽だったと反省できるんですもの。愛は盲目と言いますでしょう、私、確かに盲でしたわ。ちゃんと貴方を見つめれば、お別れすべきお方なのだと気付くことができたはずですもの。私は愛に目隠しされて、貴方を見誤っていました。

 お金と、お洋服。戒めとしてはもう充分。最後に、ごく最近のことだけ書いてしまって、全部、終わりにしましょう。

 ついさきほど起こったことです。といっても、この手紙をお読みになるのがいつ頃か、はっきりとは分かりません。でも、いつお読みになるのかなんて、大したことではないように思われます。大事なのは、なにがあったか、それだけです。

 アルバイト先から帰った私を貴方は出迎えてくれました。そうして、日曜日なのにご苦労様、と肩を揉んで労ってくださいました。ああ、なんて優しい人なんだろう。私は心底安らいでしまいました。ちょっと待っていてね、と残して貴方は寝室の方へ行って、それからすぐに引き返してきました。両手で掴んだ赤い箱。

 立派な置時計でした。本当に、涙が出るくらい素晴らしい品でした。ガラスに縁取られているため裏から見ると歯車の動きがよく見えて面白い。表の文字盤を隈どるように、模型の薔薇が埋め込まれていて、それはもう素敵な、私には勿体ないくらいの時計でした。

 でも貴方は、私が使っていた置時計を捨ててしまいましたね。古くなっていたし、安物だからいいだろう。もっともなお言葉です。だって、昔から使っているのですもの。掌に乗ってしまうくらいの小さな、褪せたプラスチックの時計は、貴方から見れば不用品なのでしょう。それくらい私にだって分かっています。それでもなお、古い時計で起きていた理由まで、貴方は考えてくださらなかったのかしら。

 物にはすべからく過去があります。貴方はご存知かしら。その、貴方が安物と判断した時計に、過去の私が宿っているとはお考えにならなかったでしょうね。過去についてはわざわざ記しません。未練がましくて、嫌ですよ。

 見るからに高価で素敵な時計をいただいた私。その代わりに、馴染みの時計を失った私。本当に、本当に幸せそうな笑顔を向ける貴方。

 ありがとう。私はそう答えて微笑みました。うまく笑えていたでしょうか。自信がありません。大切な物を失ってなお、笑顔を作るほかない気持ちを、貴方は味わったことがおありでしょうか。きっと、ないでしょう。だから簡単に、物を贈るのです。

 たかが時計、と鼻で笑うかもしれません。笑っていただいて結構です。事実、大層な思い出など詰まっていないのですから。長年寄り添ってきた、ただそれだけです。けれど、今度のことで思い知らされました。貴方は、私の時計を安物と仰った。物への愛は、値段で表現できるのでしょうか。私にはとてもできませんが、貴方にはきっと、値段こそが愛なのね。貴方は帳簿を愛し、新しい高級な品で身の回りを彩らないと気が済まない。貴方の愛って、狭いのね。

 時計のことだけでお別れしてしまうのは大げさだとお思いになるかもしれません。私も少しは、そう考えて踏みとどまろうとしました。けれども、無理。ほんの些細な事柄が幾重にも積み重なり、いつしか私を圧し潰してしまうことが実感せられました。貴方はきっと、それらは一様に些末で、長い年月によって心が通じ合えばなんとかなるだろう、こっちも君のことを尊重して、哀しませるようなことはもうしない、なんて仰るでしょう。

 違うのです。貴方はきっと変わらない。変わらないままに繰り返され、降り積もった齟齬は私を埋めてしまいます。だって、貴方に私の気持ちなんて、分かるはずないもの。

 取り返しのつかない段になる前に、今、きっぱりとお別れ申し上げます。貴方と暮らしたマンションにあるのは、貴方からの贈り物ばかりです。好きになさってください。私自身の持ち物は、もうまとめてしまいました。旅行鞄ひとつきり。こんなに少なかったのかと、自分でも吃驚しております。まるで、貴方は貴方の物のなかでしか暮らしていなかったみたいですね。ちゃんと、私がいたのに。

 それでは、さようなら。

 かしこ

 追伸

 あゝ、旅行にでも行こうかしら。行くのなら、日光がいいわ。なんにも考えないで、お猿さんを眺めたい。すぐ行ってしまおうかしら。明日にも。



 深い、長い溜息が出た。いつしかソファに深く凭れて、足は伸びきっている。

 手紙を放り投げ、天井を仰ぐ。そういえば、と思って、ゆるゆるとした動作でシャツの胸ポケットからスマートフォンを取り出した。百合子に電話をかけようとしたところで、指が止まってしまった。

 なぜ手紙でなければならなかったのだろうか。

 笹川はいつまでも、その理由を考え続けた。



 電源の切られた最新型スマートフォンがベッドの下に放られていることに、笹川が気付くことはないだろう。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ