【第7話 自分の声を聞く日】
視察当日。 成美はもちろん、朝から完璧な仕事モードだった。
スケジュールを頭に叩き込み、資料に目を通し、
念には念を入れて準備を整えてきた。
だが、連日の残業の疲労は隠しきれず、
待ち合わせの車に乗り込んだ瞬間、
運転席の幸也からじろりと視線を向けられた。
「……眠そうだな」
「えっ? ごめんなさい、そんな顔してました? 大丈夫です!」
ハッとして背筋を伸ばし、いつもの笑顔を作る成美。
幸也はそれを見て、フッと息を吐いた。
「……そうか」
言葉短くそう返したものの、幸也の視線はずっと成美に向けられたままだ。
そして車を走らせて少し経った頃、ぶっきらぼうに言った。
「寝ていいぞ」
「え?」
「移動中くらい寝ろ」
成美はぽかんと目を丸くした。
「でも……仕事の移動ですし」と躊躇する成美に、
幸也は前を向いたまま言った。
「視察先に着いたら起こす」
少し迷ったものの、幸也の迷いのない声に押されるように、
成美は「……じゃあ、お言葉に甘えて」と小さく頷き、そっと目を閉じた。
◇
赤信号で車が滑らかに止まったところで、成美はふと目を覚ました。
ぼんやりとした意識のまま横を見ると、幸也が黙ってハンドルを握っている。
(……この人、ずっとこんな感じなんだな)
「大丈夫?」とも聞かない。
「疲れてる?」とも聞かない。
ただ、「寝ろ」と言う。不思議だった。
なのに、嫌じゃない。
むしろ、変に気を遣わなくていい気がした。
ぼんやりと幸也の横顔を見つめていると、視線に気づいた幸也が片眉を上げた。
「何だよ」
「え?」
「さっきから見てるだろ」
「……あ、ごめんなさい」
「何だ」
成美は少しだけ考えて、素直に口にした。
「……なんか、変な人だなって」
幸也は一瞬だけ呆れた顔をし、それからフッと鼻で笑った。
「それ、お前のことか?」
その笑い方に、成美の胸の奥が少しだけ温かくなった。
◇
午前の仕事はスムーズに終わり、二人は近くの定食屋へ入った。
「何食う?」
「ん……なんでも大丈夫です」
いつもの癖で、咄嗟にそう答えた成美に、
幸也はメニューを開いたまま低く言った。
「それ、一番困る」
「え?」
「『なんでもいい』って言われると決められねぇだろ」
成美は慌ててメニューに目を落とした。
「じゃあ……これ」と適当に指さすと、
幸也の静かな視線が射すように降ってきた。
「それでいいのか?」
「はい」
「本当に?」
「……はい?」
首をかしげる成美に、幸也はまっすぐ目を合わせて尋ねた。
「お前、自分が食いたいもん選んでるか?」
成美の思考が、ピタリと固まった。
仕事の会話ではない。
だから、いつものように
「相手が困らない答え」を選ぶこともできなかった。
「どれでもいい」ではなく、
「自分は何が食べたいのか」を、この男は真っ直ぐに問うてきている。
成美は戸惑いながら、もう一度じっくりとメニューを見つめ直した。
選んだのは、小さな写真ののった定食だった。
「……これ、食べてみたいです」
幸也は「じゃあそれでいい」とだけ言い、店員を呼んだ。
(この人といると、自分のことを考えさせられる……)
成美の胸に、不思議な波紋が広がっていた。
◇
午後の予定も滞りなく進み、
予定よりかなり早く視察が終わった。
「……もう終わったんですか?」
「終わった」
「じゃあ、帰ります?」
「は?」
「え?」
「まだ時間あるだろ。ちょっと付き合え」
そう言って車を走らせ、到着したのは大きな木々のある静かな公園だった。
ベンチに並んで座り、缶コーヒーを飲む。
「……なんか、こういうの久しぶりです」
最初は落ち着かず、
時間を気にしたりスマホをチラチラと見たりしていた成美に、
幸也は缶コーヒーを傾けながら言った。
「急ぐ用事でもあんのか?」
「いえ……」
「じゃあ座ってろ」
その言葉に、成美は肩の力を抜いて深く腰掛け直した。
なんにもしていない時間が、ゆっくりと過ぎていく。
それなのに、不思議と肩の力が抜けていくのを成美は感じていた。
しばらくして公園の池に目をやると、
鴨が不器用に水に飛び込もうとして失敗した。
それを見た幸也が「どんくせぇな」と呟き、
成美は思わず「くすっ」と声を上げて笑った。
幸也もつられるように笑う。
その瞬間、成美はハッとした。(あ、私……今、楽しいんだ)と。
◇
帰りの車内。 流れる街灯の光を眺めながら、
成美は静かに口を開いた。
「今日は……楽しかったです」
「仕事だろ」
「そうですけど……」
成美は少しだけ考えて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……仕事じゃない時間も、楽しかったです」
隣でハンドルを握る幸也が、チラリと成美を見る。
「……そうか」
それだけ言って、幸也はまた静かに前を見据えた。




