プロローグ 出られない
供犠の村
「降ってきたな」
山奥のうっそうと生い茂る木々を抜けながら、山野太郎はひとりごちた。
足元は泥と雪解けの水でぬかるみもたついている。一歩一歩、重い足を持ち上げては前に踏み出す。もうそれが、何歩目かもわからない。
振り返りこそしないが、後ろには太郎の歩んだ足跡が地面に深く刻まれているだろう。その足跡は、降り始めた雪により掻き消されるのも時間の問題だ。
本降りになる前に、急がなければ。
世間ではお正月、元日の午前である。曇天の空は、先程まで太陽が輝いていたというのに、太郎が山に踏み入るや、こんこんと牡丹雪に変わった。つくづくついていない。
大学の冬休みを利用して、太郎は遠路はるばる、とある村に赴いていた。
雪武村。地図にひっそりと記されるそこに、本当に集落があるのか、民俗学を専攻する太郎にとってはなんら疑問を持つことではなかったのだが、しかし、そうはいっても森が深い。
昨今はソーラーパネルで森林破壊が取り沙汰されるが、この村はそんなことは無縁なのだろうな、と太郎は内心で笑った。
それは嘲笑に近かった。時代遅れの古臭い村に、無意識に笑いを漏らしたのである。
牡丹雪が、ダウンコートに降り積もっては、溶けて染みを作り重さを増す。空を見れば、雪雲が濃さを増していた。早急に村にたどり着かねば、凍え死にしそうだった。
「積もったら、帰れなくなるぞ」
太郎の足が速まる。ぐちゃ、ぐちゃ、と泥の道を歩く。
周りの木々をおし分けて、村の深層に向かう。
地図には村があったが、本当にここであっているのだろうか。
森は整備されておらず、どころか、道すらない。けもの道をかき分けて入ってきたはいいが、今自分がどこにいるかさえ定かではない。
雪武村には、祖父の遺言を届けに来た。祖父は七日前に亡くなって、太郎の父と母と親類で、内々に葬儀を済ませたばかりである。
祖父の名前は知らない。顔も朧気なくらいだった。
都会の人付き合いなんてそんなものだ。ここ何年か――大学に通い出してからは一人暮らしで、両親の元にも帰らない。だから、両親の顔すら今は、曖昧だった。
葬儀で両親は、たいそう悲しそうに涙を滲ませていた。たいした付き合いもなかったくせに、と思ったものだが、それにはちゃんと理由があった。
葬儀が終わると、親類はすぐさま、元の生活に戻っていく。
その、祖父の遺言書が見つかったのが四日前。年が暮れた、よく晴れた朝のことだった。
「雪武村の友人に、借金がある。それを正月に返したものに、遺産のすべてを譲ることとする」
祖父の遺言がそんなものだったから、太郎は家族を代表して、雪武村に赴いた。なにしろ、遺産の額は億を超える。
両親が葬儀で泣いていたのは、このためだった。
つまり、遺産目当てと思われぬよう、小芝居を打ったのだ。
とはいえ、太郎だって遺産のおこぼれに預かれるとなったら、小芝居だって打っただろうし、こうして辺鄙な村に赴くことも厭わない。
幸いにして、太郎は大学生で冬休みだった。親類とは揉めることもなく、太郎がこの村に、祖父の借金を返しに行くことになったのだ。
代々、太郎の家は民俗学の博士として名をはせてきた。父はよくテレビなどにも出演している、らしい。太郎はその番組を見たことはないが。
太郎は基本、父母に興味がない。どんな人となりだったかも、今はもうわからない。思い出も、よく思い出せない。親不孝かもしれないが、太郎は大学生活ばかりで、実家にあまりよりつかなかった。
とはいえ、民俗学の勉強は楽しい。とくに好きなのは、わらべ歌。あれは多々意味があって、いつだれが作ったかもわからないものがあるのだから、浪漫が詰まっている。
「にしたって、こんな山奥に……見たところ、自給自足か? 外界から隔たっているし」
先ほどから、スマホは圏外を示している。とはいえ、村の中枢にたどり着けば、さすがにスマホも繋がるだろう。今どきは、どんな村でもスマホは持っているのだから、時代だなと太郎は思った。
雪が頭に降りかかり、太郎はかぶりを振ってそれをはらった。傘を持ってくればよかったが、急な天候不良なのだから仕方ない。なにより、今引き返したら、日が暮れる前に村にたどり着けない。このぬかるんだ道を夜に歩くには、危険だ。
それに、村には、今日、宿を取っている。正月早々、約束を破るわけにもいかなかった。
いよいよ本降りになった雪を見て、太郎は後ろを振り返る。
「帰るなら今、か」
宿なんてキャンセルすればいい。天気が回復してから、また改めて村を目指すのが、本来太郎が取るべき行動だった。
しかし、意志に反して足は村へ向かい続ける。まるでなにかに導かれるように、太郎の足取りは、軽い。
父も母も、他人事なのだ。なぜ太郎ひとりで辺境の地に行かねばならないのか。
森の木々が、太郎を阻む。帰るなら今だ、帰るなら今だ。
次第に森の木が整備され、不格好ながら道ができてくる。村が近い証拠だ。
泥だらけのスニーカーが、泥道を踏みしめる。やがて道には、砂利が敷かれる。近い。
「見えた……?」
ようやく、明かりが見える。森を抜けたその先には、確かにその村が、あるのだった。
四方を森に囲まれた、村だった。村の真ん中には川が流れていて、向こう側には山と反り立った崖が見える。
観光客対策なのか、雰囲気を出すためか、かがり火がそこかしこに設置されていた。
しかし、元旦の昼過ぎ――十二時なのに、外を歩くものなどいないに等しかった。人っ子一人、見当たらない。
元日なのだから、初日の出を拝むとか、元朝参りに向かうとか、もっとにぎわっていてもいいものを。
村の中に小さいながらも神社が見える。あとでお参りに行こうと思った。
気を取り直して、太郎は予約した旅館に向かう。道々見た、村の建物は古びている。太陽に晒されてふけていて、中には藁ぶき屋根の家などもあって、つまりこの村は、『そういうもの』――つまり古民家のテイストを売りにしているのだろうと太郎は思った。
かがり火といい藁ぶき屋根といい、それらは今どき、管理できる職人も減っただろうに。
「あれ?」
目的地の旅館への道すがら、ぽつりと太郎を見つめる少女の姿があった。雪明かりに照らされて、儚く美しい少女が、太郎に向かって一礼した。
「……お待ちしてました」
「あ……旅館の人?」
「案内役です。さ、着いてきてください」
案内役、とはなんだろうか。太郎は疑問を口にはしなかった。相変わらず、村に人の気配はない。この案内役の少女が何者かすらもわからない。
泥にぬかるむ足を動かして、ようやく辿り着いた旅館に、少女はまた、太郎に頭を下げると、どこへともなく消えるのだった。
太郎は門扉を潜り、玄関を横にスライドさせた。ガラガラ、と古風な音がした。
「ごめんください」
旅館ももれなく、古民家というにふさわしい造りだった。宿というほうがしっくりくる。木造平屋の、木でできた家である。
しかし、広さは十分で、ホテル顔負けの部屋数は、外観からもよくわかる。が、太郎以外に客はいないようで、宿は静まり返っていた。
むっと炭の匂いがした。ぱちぱちと火の爆ぜる音。
一酸化炭素の独特のにおいがこもり、太郎はしかし、その光景に釘付けだった。
「囲炉裏がある……!」
パチパチとまた火が跳ねて、かじかんだ手に血が通うのが分かった。じんじんと指先が痛む。もうだいぶ歩いた。
今更になって寒さが体に押し寄せて、太郎は両手をこすり合わせた。赤くかじかんで感覚がない。
いかんせん、この村は不便だ。
村の入り口まではバスが出ていたが、森の中は歩かねばならなかった。その森も、小一時間も歩かされて、靴の底がだいぶすり減った。
雪が薄らと地面に積もり始めている。今日は泊まって、明日の昼に帰る予定だが、またあの森を歩くのかと思うとげんなりした。
村とはそういうものだ。外界からの客に気を遣うこともなく、森は生来のまま生い茂り、道らしい道もなかった。
太郎はすうと息を吸い込んだ。早く宿に上がって、暖を取りたい。先ほど呼びかけたのに誰も出迎えてくれないから、太郎は急いるように、
「あのう、予約した山野です!」
もういちど、玄関から奥の大広間に向かって声を張り上げた。すると、きし、と音を立てながら、奥の間のふすまが開いた。
不思議な造りの、家だった。
宿の造りは、外から見たら普通だ。しかし、中は四角くぐるりと一周する廊下があって、真ん中に大きな部屋――先ほどふすまが空いた部屋――があって、その隣に囲炉裏の大広間。廊下を挟んで、囲炉裏を囲むように四角く設置された部屋が九つ。玄関脇には土間の台所。
「……よくいらっしゃいました」
「あ、はい。予約した山野です。あの、祖父の遺言で、この旅館に借金を返しに」
なにしろ、この村の人間は銀行の通帳というものすら持っていないらしい。だから太郎は、後生大事に、肩掛けバッグに二百万円を忍ばせて、この山道をのぼったのである。
太郎がバッグをがさごそと漁り、分厚い茶封筒を取り出した。
宿の旦那が、眉を下げて笑った。まるでなにか、歓迎されていないような、よそよそしい笑みだった。
「遠くからわざわざ……おじいさまは、ご愁傷さまでした」
「ああ、はい」
太郎は札束を入れた封筒を宿の旦那に渡すが、旦那はそれを拒んだ。
旦那に向けて差し出した茶封筒が、ぐしゃりと音を立てて押し返されたのだ。
しかし、太郎は今一度旦那に茶封筒を差し出す。どうせ、社交辞令で一度は突き返されることは予想内だった。
しかし、太郎の考えは一蹴される。
「受け取れません。これは、おじいさまに差し上げたのです」
「でも、遺言では、返せと」
「ああ、ああ。それでも、もらうわけにはいかないんです」
だんだん面倒になって、太郎はいったん、宿に上がることにした。
茶封筒を大事にバッグにしまい込み、太郎は靴を脱いで、きれいに揃えた。スニーカーの中に水が染み込んでいて、靴下まで濡れている。
旦那が、太郎を囲炉裏の前に促した。
どうにも、この村は異様だ。
村人がひとりも外にいないし、宿だって、やはり太郎以外に客はいない。
宿の中に人間の気配は感じられない。聞き耳を立てたって、なんの音も聞こえなかった。
「じゃあ、とりあえず、泊まっていいですか」
「いいですよ。そうだ、あなた」
あなた、なんて、他人行儀にもほどがある。太郎は「なんですか」と不機嫌に答えながら、座布団が敷かれた囲炉裏に向かった。ピカピカの板張りの床は、きしみすらしなかった。
床の廊下を突っ切って、囲炉裏の周りは畳張りだ。なんだかちぐはぐな気もするが、暖かい空気に触れて、太郎はずず、と鼻をすすった。
「いらっしゃるには理由があるのでしょうが。この村は、『出ない村』と呼ばれています」
「出ない村?」
「はい。この村の外には、出られないのです」
「はあ? 出られないって。ホラー映画じゃあるまいし」
「いいえ、いえ。この村は、出ない村。ですが、正月だけは外界とつながるのです。だからあなたさまはいらっしゃれた」
「はあ。なんですか、それ」
「帰るなら今のうちです。いや、もう遅いかも。この村から出るには、松の内に呪いを解く必要が――」
旦那が言葉を濁した時、ふいに、廊下から気配がした。
太郎が振り返る。女の子が、いた。闊達そうな、美しい女の子だった。長い黒髪を揺らしながら、太郎と旦那を見て、眉をひそめた。
「またそうやって村の言い伝えを外の人に話して」
「英恵! おまえは、いつもいつも、手伝いもしないで遊び歩いて」
英恵と呼ばれた少女は、奥の部屋から出てきて、太郎に向かって、笑った。それは、先程の少女だった。
旦那とは違う、歓迎の笑みだった。
「さっきの!」
「はい。かごめ旅館にようこそいらっしゃいました。お客さまはみんな、この宿が分かりづらいみたいで。私がいつも案内役をしているんです」
ようやくほっとして、太郎は後ろを振り向いた。背中の暖炉が暖かい。
「うちのお父さん、村のおきてとかそういうのに縛られてて。大丈夫、なにもおかしなことなんてない、ただの辺鄙な村だよ」
英恵と呼ばれた娘は、またきれいに笑った。年のころは、太郎と同じくらいだろうか。背は百六十くらいで、体型は太くも細くもない、好ましいものだった。
英恵に向かって、太郎は座ったままに頭を下げる。背中で、囲炉裏がぱちぱち弾けている。
囲炉裏の灰が、宙を舞う。もう少し温まったら、泊まる部屋に案内してもらおうと思った。
「あ、俺。山野太郎です。祖父の遺言でここにきて」
「私はここの宿の跡取り娘。野庭英恵」
「跡取り娘?」
「そう。この村、もうほとんど若い人がいないから。私がここを継ぐの。で、こっちは私のお父さん。野庭忠人。元はお医者さまだったから、堅物なの」
父親、という紹介に、太郎は眉をひそめた。先ほども確かに「お父さん」と呼んではいたが、父というには白髪と皺が多い――つまり、老けすぎなのだ。
戸惑う太郎を見て、英恵がふっと笑った。よく笑う少女だ。
「おじいちゃんだと思った?」
「ああ、いや……正直に言えば」
宿の旦那――忠人は、どう見ても七十は超えている。英恵の年齢といえば、太郎と同じくらい――つまり、大学一年生かそこらだ。
英恵の肌は張りがあって、けれど化粧っ気はない。自然本来の美しさだった。
宿の中は、囲炉裏以外に暖がないのか、英恵の鼻は真っ赤だった。
「太郎くんは……大学生?」
「あ、うん。一年」
「ええ、じゃあ、同い年だ? 敬語なしでいいよ」
「あ、はい」
「もう。だから敬語はいらないって。じゃあ、部屋に案内するね」
英恵に促され、太郎は立ち上がった。
もう少し、囲炉裏に当たっていたい気持ちもあったが、囲炉裏は共用スペースなのか、早々に英恵に追い出される。
太郎と英恵は宿の奥に進んでいく。宿の九つある部屋のうち、奥の一番広い部屋に案内される。
畳張りの部屋だ。青臭いにおいは、清々しい。張り替えたばかりなのか、畳は青々している。古い畳は黄ばんで、香りもなくなる。
案外、この宿は流行っているのかも知れない。
「ここ、好きに使って。食事は朝昼晩、七時と十二時と十九時に持ってくるから」
「ああ。うん。それで、英恵さん」
「もう、英恵でいいよ」
「あ、うん。英恵……。この村に入ると出られなくなるって。お父さんの話なんだけど」
「ああ。あれね。私も毎年聞かされて耳にタコができたわ。この村はね、一年中雪に囲まれているから、外に出られない。っていうのは本当。でも、外に出ていった人もいるんだよ」
「そ、そっかあ。なんか、お父さん、妙な凄みがあったから、本当の話なのかと」
「ふふ。じゃあ、試してみる?」
英恵が座布団を出し、太郎はその上に座った。誰も使っていなないのか、座布団のカバーはふけているのに、綿はふかふかのままだった。
その弾力の上にあぐらで座る。太郎は英恵に向かって、言葉を紡ぐ。なるべく砕けた口調を意識する。
「試すって?」
英恵も、太郎の真ん前に座って、右手を口元に当てて、小さな小さな声で、
「この村から出られないのが本当か嘘か」
先ほど忠人は、正月のうちなら引き返せると言っていた。つまり、明日になったら、太郎はこの村から出られなくなる、ということだろうか。そんな馬鹿な話、今時誰が信じるのだろうか。
「はは。面白そうだね」
「面白そう? 太郎は変な人ね。普通、怖がるものだけれど」
「怖いのはあるよ。でも、俺、大学では民俗学を専攻してて」
「……へえ、そうなんだ。じゃあ、この村から出ていけるか、見に行こうよ」
英恵がせかすように、太郎を立ち上がらせた。先ほど、座布団を出してきたくせに、今すぐに太郎をこの村から追いだしたいようで、つまり英恵も、閉鎖的な村意識にとらわれているのではないかと太郎は思った。
太郎の手を、英恵が掴む。そのまま立ち上がらされて、英恵はさも当たり前のように、太郎の手に絡みついた。
非常識だ、と太郎は思う。いくらなんでも、友人にだって、こんなに密着はしない。
けれど、村という場所は、基本的に、人間同士の距離が近いのかもしれない。
やんわりと英恵の手をほどく。
「いいよ、じゃあ、行ってみようか」
しかし、太郎も太郎で、英恵の話に乗ることにした。どうせ、忠人の話なんて嘘っぱちだ。こんな村、一日も早く出ていきたい。
だから太郎は、二百万円の入った肩掛けバッグを片手に、今来たばかりの宿を、出て行ったのだった。
外の道は雪で薄く染まっていた。五センチといったところだろうか。だが、これくらいならまだ帰れる。太郎と英恵は、村の入り口にある森までの道を歩く。
自然と、会話が続いていた。英恵が気遣うからだ。
「この村はさ、昔から言い伝えだの伝承だの。古臭い考えばかりで。私も嫌になっていたんだよね」
「へえ。じゃあ、出ない村、っていうのも、ただの言い伝え?」
「うん……それは今から、太郎によるかな」
よるかな、とはどういう意味なのか、太郎は聞き返せなかった。
雪が降っているのに、英恵は軽装だ。赤のカーデガンに、ダウンのベストを羽織っているだけだ。
対して太郎は、脱いだばかりのダウンコートに、念のため持ってきた手袋をはめている。でも、むき出しの耳が痛い。
しんしんと、雪が降っている。村にはやはり、人ひとりも顔を出さない。
雪の降る音は、静かだ。だけれど村の静けさのせいで、かえって雪の音が耳につく。なんとも言えない、音だった。
十五分ほど歩いて、ふたりは村の入り口の森の前に足を止めた。
これでこの村とはおさらばだ。
借金は返せなかったけれど、断られたのだから仕方がない。これでは、両親に怒られるかもしれない。だが、それなら、両親が今度こそこの村に来て、借金を返せばいいだけの話だ。
太郎はもともと、遺産なんてどうでもいい。いや、確かのお金は欲しいけれど、この村に来て、気が変わった。
ここには、一日たりともいたくない。
「じゃあ、俺はこのまま帰るから。この二百万円、お父さんに渡してくれる?」
それでも一応、太郎は最後に英恵に頼んだ。遺産に目がくらんだわけではない。と思う。ただ、祖父が返せというのだから、返さねばならないものなのだろう。
バッグから札束の入った茶封筒を取り出して、英恵に渡す。英恵はそれを、はてな顔で受け取った。
「なに? 二百万円って」
「なんか、俺の祖父がお父さんに借金してたらしい。で、その借金を返したものに、遺産のすべてを譲るってさ」
「へえ、おじいさんの遺言」
「うん」
「お父さんとお母さんは一緒に来てないの?」
「……? うん、俺だけ来ることになったんだ」
両親はもう年だし、太郎も太郎で、民俗学を専攻するからには、こういった地図にしか存在しない村を見るのは、好きだ。だからひとりでのこのこと来たのだが、知っているとはいえ、閉鎖的な村がこうも太郎に冷たいとは思わなかった。
それに、忠人にも歓迎されていなかった。村人が外にいないのだって、明確に太郎を拒絶しているからだろう。
なら太郎は、ここにいるべきではない。
「じゃあ、ばいばい」
茶封筒の中身を確認して、英恵が太郎の背中を押し出した。まるでごみを掃き出すかのように、英恵の手は、力強かった。
太郎が一歩、足を前に踏み出す。そのまま、二歩、三歩。
太郎の足が、自然と走った。
なぜだか、走った。
なんだか不思議な村だった。太郎をまるで歓迎していない。人っ子一人、村の外には誰もいない。人の気配はある。公園も川も。家屋にだって、洗濯ものは干してあったし、なのに誰も、誰とも会わなかった。
極めつけは、予約したのに、宿では出迎えもない。渋々出てきた忠人は、太郎に白い眼を向けている。そうだあれは、よそ者を排除しせんとする、冷たい目だった。
その娘である英恵だって、太郎をこの村の外に追い出したい。太郎の居場所は、この村のどこにもない。歓迎されない来客ほど、居心地が悪いものはない。
明日帰るのが今日に早まっただけだ。そう、別に、今帰れば、まだ太陽は沈み始めてもいないし、森を抜けるまでは、どうにか陽もあるだろう。
太郎の足が、来たときよりもさらにさらに泥にとられる。でも、もうそんなこと、どうでもいい。必死に足を動かす。疲れを押しのけて、ただひたすらに、この村を出ていきたかった。
しかし、十分ほど走ったところで、足がもつれて転んだ。地面を見、膝をつく。ジワリと膝から血がにじむ。ジーパンの青が、赤色に染まって紫ににじんでいる。
痛みはあるのに、それなのに、太郎の頭は、冷静だった。
「痛ってえ」
膝を見て、このジーンズはもう捨てようと思った。血は洗ってもなかなか落ちないし、この土地の土交じりの汚れは、洗っても落ちない気がしたからだ。
膝に手を当てて立ち上がる。足を踏ん張って、屈めていた上半身を起こしていく。ゆっくりと。
そして、起き上がった体とともに、視線を上に向ける。
「……英恵?」
「太郎?」
太郎は確かに、森の中を走っていたはずだ。なのに、なんで目の前に英恵が――森の入り口が見えるのだろうか。
右を見て、左を見る。森がない。走っていたはずの森の景色が、一瞬にして、森の入り口――英恵の隣に切り替わったのだった。
なにがなんだかわからない。走った時は流れなかった汗が、今更になって吹き出した。
おかしい。なにかに化かされているのだろうか。
「なんで英恵がいるんだよ」
「それはこっちのセリフ……え、まさか、本当に出られないの?」
「ば、そんなわけっ!」
太郎は今一度、森に足を踏み入れる。右足、左足の順に足を踏み出して、十分きっかり。しかし、やはり同じ場所で躓き転んで、起き上がると森の入り口に戻っている。
「はあ!? なんでだよ!?」
「太郎、落ち着いて」
「これが落ち着いてなんか! くそっ!」
もう一度、森に入る。けれどやはり、きっかり十分で足がもつれる。
何度繰り返しても、どんなに注意していても、十分経つと、足がなにかに取られて転ぶのだ。何度も、何度も。
歩いても、走っても、迂回しても、曲がっても。なにをしても、森の入り口に戻ってくる。汗だくになりながら、太郎は最後には、あきらめたように立ち尽くした。
「は……? 俺、この村から帰れないわけ?」
「太郎? ねえ、なんで? なんで……もしかして、太郎が『言い伝え』なの?」
何度も隣に『戻ってくる』太郎を見て、耐えきれなくなったのは英恵の方だった。
きゃあ、と英恵がその場にしゃがみ込む。言い伝え、とはなんのことだろうか。
たしかに、この森に案内されながら、この村には言い伝えがあるとかなんだとか、英恵自身も説明していた。けれど、英恵はそれらを信じていないと言った風に、鼻で笑ったばかりなのに。
太郎がしゃがんで、英恵の肩を揺らした。泣いている。
英恵の意識が太郎に向かう。畏怖。
太郎に向ける感情が、とうとう忠人と同じものに、変わった。
「英恵、この村、なんかヘンだ」
「だから嫌だったの。私生まれてこのかた、この村の外を知らないのに。なのに、突然太郎がこの村に『入って』来て」
「ま、待って。なんだよ、それじゃあまるで」
「お父さんの言ってること、私知ってたの」
忠人が言っていたこと、とは、出ない村、のことだろう。
今なら帰れる、とも言っていたのに、これじゃあ話が違う。
「この村は、閉ざされているはずなの。だから、村の外からは誰も入って来られないはずなの」
英恵が言うには、この村は呪われているのだという。だから、この村で生まれた人間は生涯、この村から出られない。
だからこそ、太郎が足を踏み入れた時、村には人がいなかった。異質な存在を、村は受け入れなかった。外からの人間は、禍をもたらす。
この村はまさしく、呪われていた。外に出られない。つまり英恵は、十九年、この世界――村という小さな小さな世界しか知らずに生きてきた。
英恵ですら外部の人間に少しばかりの嫌悪を示すのだから、長いこと村の中だけで生きてきた大人たちからしてみれば、太郎なんて見たくもないのは容易に想像がついた。
閉じた世界は、時に外のものを拒絶する。例えば、因習村なんかがいい例だった。
「英恵。でも、俺はなんでこの村に入れたんだ?」
「それは……この村が、呪われた村だから」
英恵は続ける。
この村は、いつからか外に出ることも入ることもできなくなった。『出ない村』だと親から言われ育った子供たちは、外の世界に焦がれながら育ち、やがてはこの村を受け入れて、その風習に染まっていく。
それこそが村の呪いだ。
けれどひとつだけ、この村を救う方法がある。
この村は、一年のうち正月の一日だけ、神に許された人間が『入ってくる』。そして、松の内のうちに村の呪いを解くことができれば、人々は閉鎖された村の外に出ることができるのだとか。
その呪いがなんなのかは、村の人間にもわからない。
「そんな話……民俗学的にはありだけど。本当にあるなんて」
「太郎。助けて。私、この村はもう嫌なの」
なにが嫌なのか、とは聞かなかった。
見れば英恵は震えている。この村の呪いは、太郎が証明してしまったようなものだった。
だったら、本当に、太郎にこの村の呪いを解く力が、あるのだろうか。
かじかんだ手を、ぎゅうっと握りしめる。
太郎は深呼吸する。どうやら本当に、太郎は閉じ込められてしまったらしい。にわかに信じがたいが、この村は『呪われている』。
「英恵。詳しく教えてくれないか。俺もなにがなんだか」
「ごめんね、太郎、ごめんなさい、許して」
英恵がボロボロと泣いている。太郎は英恵を立ち上がらせて、元来た道を引き返していった。英恵の家――宿までの道は妙に寒く、太郎はこの村に感じた違和感の正体を、探っていく。




