勝利の代償
東の森掃討戦は、表向きには完全勝利だった。
魔獣群は狭路で殲滅。南の村の避難民にも死者はなし。負傷者は出たが、ユアの治癒と聖堂の施療班で命に別状はなかった。
だが、俺個人だけを見れば最悪だった。
通信魔力を焼いた反動で、俺はまた寝込んだ。しかも今回は自分の家ではなく、王城の医務室だ。白い壁、消毒薬の匂い、分厚い扉。逃げ場がない。
それ以上に逃げ場がないのは、寝台の周りを囲む三人の視線だった。
「司令官。説明を」
レイナの声は静かだった。
静かなだけに、怖い。
「作戦上、必要だった」
「私が禁じました」
「禁じられたが、状況が変わった」
「司令官はいつもそう言います」
レイナは俺の枕元に立ったまま、微動だにしない。銀灰色の髪は戦闘後だというのに乱れておらず、鎧にも傷一つない。けれど、瞳だけがひどく曇っていた。
リリスは寝台の端に腰掛け、俺の手を握ったまま俯いている。いつもの軽口はない。指先に力が入りすぎて少し痛いが、言えばもっと傷つきそうで言えなかった。
ユアは俺の胸元に手を当て、治癒魔法を流している。温かな光が体内に染み込むたび、焼けつくような喉の痛みが少しずつ引いていく。
だが、彼女の微笑みは怖いほど柔らかかった。
「司令官は、どうしてわたしたちを置いて遠くへ行こうとするのですか」
「行こうとしてない」
「同じです。命を削る人は、少しずつ死へ歩いています」
反論できなかった。
俺は弱い。だからこそ、勝つためには何かを削るしかないと思ってしまう。体力も、魔力も、自分の安全も。俺が少し苦しむだけで誰かが助かるなら、そちらを選んだ方がいいと考えてしまう。
それが三人をどれだけ追い詰めているのか、分かっているつもりで分かっていなかった。
リリスが小さく呟く。
「司令官が倒れた時、あたし、貴族たちを撃ちそうになった」
「撃たなくて偉い」
「褒めないでよ。ほんとは撃ちたかったんだから」
リリスの声が震えた。
「あいつらが司令官を馬鹿にしたせいで、司令官が無理した。そう思ったら、引き金に指がかかってた。司令官の声が聞こえなかったら、たぶん撃ってた」
俺は息を呑んだ。
リリスは笑わなかった。冗談にしなかった。だからこそ、その告白は本物だった。
レイナが続ける。
「私は、司令官を侮辱した者の顔を全員覚えました」
「忘れてくれ」
「無理です。私の記憶は、あなたを守るためにあります」
重い。
だが、今の俺には軽く流せなかった。
ユアが俺の手首に白い布を巻く。祈祷文字が縫い込まれた、細い拘束具のような守り布だった。
「これは治癒補助の祝福です。外さないでくださいね」
「外すと?」
「泣きます」
「それだけ?」
「祈ります」
「何を?」
「司令官が、もう少しだけわたしたちなしでは生きられない身体になりますように、と」
「祈るな」
ユアは悲しげに目を伏せた。
「冗談です。半分は」
「半分残すな」
俺は頭を抱えたくなったが、腕が上がらなかった。
その時、医務室の扉が控えめに叩かれた。入ってきたのは父の侍従だった。彼は深く頭を下げ、封書を差し出す。
「侯爵閣下より、司令官殿へ」
レイナが受け取り、俺の代わりに封を切る。中の文面に目を通した瞬間、彼女の眉がわずかに動いた。
「父上は、何と?」
レイナは少し迷ってから、読み上げた。
「勝利を聞いた。よくやった。だが、勝つたびに自分を削るな。お前の命は、お前だけのものではない。少なくとも、今はもう違う」
胸の奥が詰まった。
父らしい言葉だった。厳しくて、優しくて、逃げ道を塞ぐ言葉。
続きがあった。
「貴族院は、お前を正式に聖女部隊の専属司令官として認めざるを得なくなった。ただし、敵も増える。味方を間違えるな。お前を役職ではなく命として見ている者たちを、決して軽んじるな」
医務室が静まり返る。
レイナ、リリス、ユア。
三人の視線が俺に集まった。
俺は目を逸らしたくなった。けれど、逸らせなかった。
「……俺は、お前たちを軽んじているつもりはない」
「分かっています」
レイナが言う。
「ですが、司令官はご自分だけを軽んじます」
リリスが俺の手を両手で包み直す。
「それが一番きついんだよ。司令官が自分を雑に扱うと、あたしたちの大事なものまで雑にされた気がする」
ユアが祈るように微笑む。
「司令官がご自分を愛せないなら、その分、わたしたちが愛します。重くても、苦しくても、逃がしません」
逃がしません、という言葉が甘く響いたのが問題だった。
俺は弱っている。だからだろう。普段なら危険信号として処理する言葉が、今は少しだけ温かく聞こえてしまった。
「命令を追加する」
三人が背筋を伸ばす。
「俺が自分を雑に扱いそうになったら止めろ。ただし、暴走するな。貴族を撃つな。王城を浄化するな。俺を監禁するな」
「条件が多いですね」
「お前たちのせいだ」
レイナがほんの少し微笑んだ。
「では、止め方の許可範囲を確認します。手を握るのは?」
「許可」
「抱き締めるのは?」
「状況による」
リリスが身を乗り出す。
「泣き落としは?」
「卑怯だから禁止」
「えー」
ユアが首を傾げた。
「看病の名目で、司令官の家に通うのは?」
「事前に許可を取れ」
「では、毎日許可を取りに行きます」
「そういう抜け道を探すな」
少しだけ、空気が緩んだ。
重く曇っていた三人の目に、ようやく光が戻る。俺はそのことに安堵して、同時に責任の重さを噛みしめた。
彼女たちは強い。戦場では誰よりも頼もしい。
けれど、俺に関してだけは驚くほど脆い。
俺が傷つけば曇り、俺が倒れれば壊れかけ、俺が笑えば救われたような顔をする。そんな感情を向けられる資格が自分にあるとは思えない。
それでも、向けられてしまった以上、逃げるわけにはいかなかった。
夜になり、医務室の灯りが落とされた。
普通なら三人はそれぞれの住む場所へ戻る時間だ。レイナは騎士団宿舎へ。リリスは兵舎へ。ユアは聖堂へ。
だが、三人とも動かなかった。
「帰れ」
「司令官が眠るまで」
「眠ったら?」
「見守ります」
「帰れ」
結局、俺が折れた。
椅子に座ること。寝台に入らないこと。俺に触る時は許可を取ること。その三つを条件に、三人は医務室に残った。
リリスが俺の手を握り、ユアが髪を撫で、レイナが足元で静かに剣を抱く。
その距離感は危うい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「司令官」
眠りに落ちる直前、レイナの声が聞こえた。
「あなたが弱いことを、私たちは知っています」
リリスが続ける。
「でも、弱いから守りたいんじゃないよ」
ユアの声が、祈りみたいに重なる。
「弱いのに、誰も見捨てないから、愛しいのです」
胸が痛かった。
俺は返事をしようとして、できなかった。喉が詰まって、言葉にならない。
だから代わりに、握られた手を少しだけ握り返した。
三人の息が、同時に止まる。
たったそれだけで、彼女たちは救われたように黙り込んだ。
重い。
本当に重い。
けれどその夜、俺は初めて思った。
この重さを、怖いだけで終わらせたくない。
俺が彼女たちを指揮するのなら、この愛の行き先まで間違えないようにしなければならない。
戦場だけじゃない。
彼女たちの心も、俺の盤面なのだから。
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