第1話 役立たずヒーラー、最後の依頼
早朝の森の奥で、魔狼が吠えた。
低く、湿った声だった。木々の葉が震え、枝に溜まっていた朝露がぱらぱらと落ちる。その音に紛れて、もう一匹が左へ回り込む。
ミナ・リースは息を止めた。
前に出ているのは、剣士のグレン。旧パーティ「紅蓮の剣」のリーダーで、討伐数と報酬の話になると目の色が変わる人だ。右には弓使いのカミラ、後ろには攻撃魔術師のイザーク。盾役のバルドは、グレンより半歩前に出て魔狼の突進を受け止めている。
そしてミナは、一番後ろ。
回復係の定位置。
いつもの場所。
「グレンさん、左に一匹回っています」
「見えてる!」
返ってきた声は鋭かった。
見えているならいい。そう思おうとしたけれど、グレンの左膝に走った細い震えを、ミナの目は見逃せなかった。
さっきの踏み込みで負担がかかっている。
痛みはまだ小さい。戦闘中の本人は気づかない。けれど、次に深く踏み込めば膝が逃げる。踏み込みが逃げれば剣筋が浮く。剣筋が浮けば、魔狼の牙が届く。
だから、ミナは杖を握った。
光を大きく出してはいけない。回復魔術を派手に使えば、グレンは怒る。まだ怪我もしていないのに魔力を使うな、と。カミラは何も言わないかもしれないけれど、イザークは鼻で笑うだろう。
傷もないのに治癒魔術。
そんな無駄なことを、と。
ミナは小さく息を吐き、グレンの膝へ細い魔力を通した。治すほどではない。支えるだけ。関節の周囲を薄く包み、踏み込みの瞬間だけ負担を散らす。
師匠の声が頭の奥で響く。
「壊れてから治すな。壊れる前に支えろ」
魔狼が跳んだ。
「せやあっ!」
グレンの剣が横に走る。膝は落ちない。踏み込みは沈み、剣は魔狼の首を斜めに斬った。
血が飛ぶ。魔狼が土に転がる。
「よし、一匹!」
グレンが笑った。
ミナは胸を撫で下ろす。けれど、その瞬間、カミラの右手がわずかに震えた。弓を引き絞る指に疲労が溜まっている。昨日から連続の依頼で、彼女の手首はもう限界に近い。
カミラは冷静だ。だから気づかれにくい。崩れる寸前まで、平気な顔で狙い続ける。
ミナはまた、光を絞った。
回復ではない。震えを沈める。痛みを消しすぎない。指先の感覚を鈍らせれば、今度は狙いがずれる。
細く、浅く、必要な分だけ。
矢が放たれた。
木の陰から飛び出そうとした魔狼の目の上に、きれいに刺さる。
「二匹目」
カミラは短く言った。
褒めてほしいわけじゃない。ミナはそう自分に言い聞かせる。これは自分の仕事だ。見えなくても、気づかれなくても、仲間が無事ならそれでいい。
そう思いたい。
そう思えたら、どれだけ楽だろう。
******
「イザークさん、魔力循環が乱れています」
「集中しているんだ。話しかけないでくれるかな」
イザークは杖を掲げたまま、冷たい声で返した。
彼の周囲に赤い魔力が集まっている。火属性。魔狼の群れをまとめて焼くつもりだ。成功すれば派手で、強くて、誰の目にも功績がわかる。
でも、詠唱の三節目で魔力が少し跳ねた。
乱れている。
昨日、彼は魔力回復薬を節約していた。本人は認めないけれど、蓄積した疲労で回路が乾いている。今のまま大きな火球を撃てば、術式の端が荒れる。火力は出る。けれど、狙いが広がりすぎる。
前にいるグレンとバルドを巻き込む。
「イザークさん」
「黙って」
ミナは唇を噛んだ。
言葉では止まらない。
だから、魔力を通す。
回復魔術の流れを、治癒ではなく循環補助へ組み替える。乾いた水路に薄く水を引くように。詠唱の拍に合わせて、跳ねた魔力を内側へ戻す。
イザークの火球が完成した。
「焼き払え、フレイムランス!」
赤い槍が森を裂いた。
魔狼の群れが炎に包まれる。焦げた毛の匂いが、湿った土と混じって広がった。グレンは巻き込まれない。バルドも盾を下げずに済んだ。
「見たか、今の火力!」
グレンが笑う。
「イザーク、相変わらず派手ね」
カミラが肩をすくめる。
イザークは満足げに髪を払った。
「まあ、この程度ならね」
ミナは杖を下ろした。
心臓が少し速い。魔力式を組み替えるのは、ただの回復より神経を使う。特に、相手に気づかれないように薄く流す時は。
それでも、うまくいった。
誰も怪我をしなかった。
それでいい。
そう思った直後だった。
バルドの盾に、最後の魔狼が体当たりした。
「ぐっ」
重い音。盾の裏で、バルドの左腕に衝撃が沈む。骨は折れていない。でも、肩の筋が伸びた。力が抜ける。
ミナは反射的に駆け寄りかけた。
「来るな! 後ろで待ってろ!」
グレンの声が飛ぶ。
待っていたら、バルドの盾が落ちる。
でも、前に出れば邪魔だと言われる。
ミナは足を止め、杖の先だけを向けた。痛みを消しすぎるとバルドは無茶をする。だから、痛みは残す。握力だけ戻す。肩の奥に入った衝撃を散らし、盾を持ち直せる程度に支える。
バルドの腕が止まった。
「おおっ!」
盾がもう一度上がる。
グレンが魔狼の横腹へ剣を叩き込む。カミラの矢が続き、最後にイザークの火の矢が刺さった。
魔狼は倒れた。
森に、ようやく静けさが戻った。
******
「楽勝だったな」
グレンは剣についた血を払いながら言った。
ミナは膝に手を置いて、小さく息を整えていた。派手な傷はない。だから、回復係としての出番は少なかったように見える。
実際には違う。
グレンの膝。カミラの手首。イザークの魔力循環。バルドの肩。
どれも放っておけば、どこかで崩れていた。
でも、見えない。
見えないものは、評価されない。
「ミナ」
呼ばれて顔を上げる。
グレンがこちらを見ていた。額には汗が浮いているが、表情は明るい。討伐数は十分。依頼は成功。彼にとって今日はいい日だ。
「はい」
「お前、今日も最後まで後ろにいただけだな」
胸の奥が、少しだけ冷えた。
「あの、私は」
「怪我人も出てない。回復係としては暇だっただろ」
グレンは悪びれもせず笑った。
ミナは杖を握り直す。言いたいことはある。いっぱいある。膝の負担を軽くしたこと。手首の震えを抑えたこと。魔力の乱れを整えたこと。盾を落とさないようにしたこと。
でも、どれも証明できない。
証明しようとすると、たぶんこう言われる。
なら、もっとわかるようにやれ。
「ミナは慎重すぎるのよ」
カミラが矢筒を整えながら言った。
責める声ではない。けれど、庇う声でもなかった。
「後方にいるのは大事だけど、何かしたなら報告くらいはした方がいいわ」
「報告、ですか」
「ええ。まあ、何もなかったならそれでいいけど」
何もなかった。
その一言が、ミナの中で小さく沈んだ。
イザークが肩を回しながら近づいてくる。
「回復魔術は必要だよ。必要ではある。ただ、戦闘中に貢献できないなら、神殿の治療で代用できる場面も多い。これは事実だ」
「イザークさん」
「誤解しないでほしい。君を責めているわけじゃない。役割の問題だよ」
役割。
ミナはその言葉を口の中で転がした。
自分の役割は、傷が開いてから光ることだけなのだろうか。
倒れてから治すことだけなのだろうか。
壊れる前に支える仕事は、役割ではないのだろうか。
バルドが盾を背負い直した。彼だけは、少し首を傾げている。
「でもよ、今日は妙に体がもった気がするんだが」
「調子が良かったんだろ」
グレンが軽く流した。
「お前、昨日肉食ってたしな」
「そうか?」
「そうだ。行くぞ。報告が先だ」
ミナは、開きかけた口を閉じた。
言えばいい。
今なら、まだ言える。
でも、グレンはもう背を向けている。カミラは矢を数え、イザークは討伐証明になる魔狼の牙を集めている。
誰も、ミナを見ていない。
******
ギルドに戻る頃には、空が赤くなっていた。
討伐証明を出すと、受付の鐘が軽く鳴った。魔狼の群れを予定より早く片づけたことで、紅蓮の剣には追加報酬が出るらしい。
グレンは上機嫌だった。
「これで次の依頼も選べるな。大物を狙うぞ」
「でも、連戦になるなら一日休んだ方がいいわ」
カミラが言う。
「休むなら半日で十分だ」
グレンは笑って、報酬袋を受け取った。金貨の音がする。ミナの取り分はいつも通り。一人分より少し引かれた額。
「あの、分配が」
「回復薬の補充費を引いてる」
「でも、今日は回復薬は使っていません」
「今後使うだろ」
ミナは袋を見下ろした。
軽い。
それでも宿代と食費にはなる。文句を言える立場ではない。そう思ってしまう自分が、少し嫌だった。
グレンたちは酒場の奥の席へ移動した。ミナもついて行こうとして、足を止める。
テーブルの向こうで、グレンが声を落としていた。
「次からは攻撃魔術師をもう一人入れる」
ミナの指先が冷たくなる。
イザークが眉を上げた。
「火力を増やすのは賛成だけど、人数はどうするんだい?」
「一人減らせばいい」
「誰を?」
答えは、聞く前からわかっていた。
それでも、耳を塞げなかった。
「回復だけのやつに一人分の報酬を払う余裕はない」
グレンの声は、酒場のざわめきに紛れるほど低かった。
けれど、ミナにははっきり聞こえた。
回復だけ。
後ろにいただけ。
何もなかった。
胸の奥で、何かが小さく音を立てた。割れたのか、沈んだのか、自分でもわからない。
ミナは杖を握りしめる。
今日、誰も倒れなかった。
誰も大怪我をしなかった。
誰も死ななかった。
それは、何もなかったからじゃない。
何も起こさせなかったからだ。
でも、その言葉を口にする力は、今のミナには残っていなかった。
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