19話 オオカミ少女
オオカミ少年 = 嘘をつき通せば、いつかは真実にたどり着くと証明
した偉大なる実践哲学者。享年、推定十二歳。
ジョーク = 千冊の哲学書よりも、一つの笑いが
人々を幸せにする。
「人里離れた放牧地に暮らす羊飼いの父子がいた。ある日の早朝、少年は父親にオオカミが来ると知らせた。慌てた父親はすぐさま小屋から猟銃を持ち出す。でも、どこを見渡してもオオカミの姿はない」
「全然、正直者じゃないし、それ」
素早く村岡が突っ込みを入れる。
「いやいや、正直者さ。父親は少年が嘘をついてイタズラしたとは思わなかった。大方、キツネを見間違えたんだろうと納得したが、念のために猟銃を手にしたまま辺りを見張る。オオカミが現れたのは昼過ぎだった。襲撃に備えていた父親は無事に追い払い、お前のお陰で羊を失わずにすんだと少年を褒めた。そんな出来事が二度、三度と続いた」
「ああ、予知能力者の話なんだ」
「違うって。寓話なんだから細かいところに突っ込むなよ。まあ、父親も村岡みたいに不思議に思い始め、少年に尋ねる。どうしてオオカミが来るのが分かったのか、と。答えは簡単、本当だから。それを聞いた彼は疑問に思った。少年が本当のことを言っているのか、それとも少年の言うことが本当になるのか。そこで一つのアイデアを思いつき、早速試す。父親は少年にこう言い付ける。お前はこれから、オオカミが来る時は嘘をついて逆のことを話しなさい。来るなら来ない、来ないなら来ると。さて、明日、オオカミが来るか、お前に分かるかい?」
「正直者の息子に嘘をつけって、何かひどくない、それ」
村岡は、この寓話の端々がどうしても気になる様子だ。
「それは主題じゃないから。お前は、昔話のウサギとカメに、ウサギを起こさないカメはフェア精神に欠けているって文句を言うタイプだな」
「言わないけど」
絶対に言うと思うけどな。
「少年は、明日は来ないよ、と父親に伝える。これで彼の疑問は明日には解消する。オオカミが来れば、少年は真実を話している。逆なら彼の言葉が真実になる。そして次の日、オオカミは現れた。つまり答えは前者。それで父親は安心した。その日、家へ帰ると父親が、自分は再婚する予定で、明日、お前の母親になる人が来ると言い出した」
「何その急展開」
「気にするな。父親は自分たちが、その人と幸せに暮らせるかどうか少年に問いかけた。少年は、もちろん、とっても幸せになれるよ、と返す。次の日、母親はやって来た。穏やかで優しそうな人だった。しかしその夜、彼女は家財と羊を一切合財盗んで姿を消した。父親は怒り狂い、どうして幸せになれるなんて嘘をついたんだ、と少年を責め立てた。そこで少年は言った。だって、オオカミが来る時は嘘をつけって言ったじゃないか。少年は……」
俺の話を村岡が片手を上げて遮った。
「ちょっといい」
「なんだ」
これからというタイミングで中断させられて、俺は苛立ちを隠せなかった。
「あのさ、悪いんだけど、その話、寓話じゃなくて、アメリカンジョークなんじゃないの」
「え?」
思わず声が出る。
そんなはずはない。
しかし自分の語った内容を反芻してみると……。
本当だ。
完全にアメリカンジョークだ。
どこでどう間違えた。
寝不足で朦朧としながら、必死になって探し当てた寓話のはずだ。
いや、原因はそれ、睡眠不足である。
勘違いがどこで始まったのか知る術はないが、機能不全を起こした脳ミソはこのアメリカンジョークを、嘘のパラドックスを題材にした寓話だと思い込んだのだ。
この正直者のオオカミ少年の話には矛盾が存在している。
父親の命令とはいえ、嘘をついた時点で少年は正直者ではない。しかし、正直に嘘をついたのだから少年は正直者である。
また、仮にオオカミが現れなければ、少年は約束を反故にして真実を述べたのであり、父親を偽った嘘つきである。同時に真実を語った正直者なのだ。
正直者でありながら嘘つきでもある少年。
そのパラドックスから彼が抜け出すには、もはや沈黙するしかない。
その少年は村岡自身であると、俺は伝えたかった。
嘘を見抜き、人の本心が分かる村岡。そのために家族をバラバラにした彼女は、何も考えずに沈黙するしか生きる術がなかったのだ。
しかし、今はそれを話題にする状況にはなかった。
緊張の糸が切れた。
これまで押さえ込まれていた眠気が息を吹き返し、強烈な虚脱感に襲われる。
すでに気温は下がり、冷たい風が吹き始めていたにもかかわらず、手の平と脇に汗が滲む。
「悪い、今のなし」
俺は湿った手で顔を抑えながら言った。
村岡は、そんな俺を覗き込む。
「ちょっと、ここで待ってて」
そう告げて彼女は立ち上がり、徐々に減り始めた客の隙間をすり抜けて雑踏の中に消えた。
そして村岡は二本の缶ジュースを手にして戻って来た。
「はい」
と彼女は素っ気無く言って、二本とも俺に渡した。
「なんだよ、お前は飲まなくていいのか」
「だって約束でしょ、カルピスは二杯だって」
何のことか思い出すまで、やや時間が必要だった。
村岡の話を聞く報酬はカルピス二本。
それが約束。
律儀なヤツだ。
一本は村岡に返した。
彼女は特に遠慮もせずに素直に受け取り、フタを開けて一口だけ飲んだ。
一方、俺はカルピスを一気に飲み干す。異様に喉が渇いていた。
それを見て、彼女が自分の分を何も言わずにそっと俺に差し出す。
その飲み口をしばらく凝視した後、俺は手を振って断った。
「私はさ」村岡は両足を前に放り出す。「あんたが思っている程、悩んでないし困ってないからさ」
慰めようとして言っているのか、ただの気休めなのか、それとも真実なのか、もはや分からなかった。
まともに頭が働かない。
「だといいんだけどな。俺には村岡が孤独に見える。嘘だらけのこの世界でお前は一人だ。だってそうだろ。お前は嘘もつけず、沈黙するしか生きて行く方法がないんだから。少林寺の映画が好きなのは、師匠たちに憧れているからだと思ってた。でも違う。映画なんて嘘を形にしたものだけど、少なくとも、師匠たちの肉体と技術は嘘じゃない。お前はきっと、本物の何かを探しているんだ」
正直、俺は自分で何を言っているのか把握していなかった。
ただ思いついたことを並べ立てただけだった。
西の稜線に沈みかけた太陽に向かって、オオカミが山の頂上から遠吠えをあげた。
その遠吠えには、聞く者の鼓膜を突き抜けて、体を内部から震わせるような力強さがあった。
だが、ひどく物悲しかった。
「ニホンオオカミって絶滅したんだっけ」
村岡が遠目にオオカミを眺めながら言った。
「ああ」
「最後の一頭って、どんな気持だと思う?」
「寂しいんじゃないのか、やっぱり。俺にはよく分からないが」
オオカミの気持ちに思い馳せるだけの余裕は俺にはない。
眠気がどんどんと勢いを増していた。
「それなら二頭だったら?」
二頭になったところで絶滅は避けられない。それが雄雌であったとしても結果は同じだ。
近親配合の先に待っているのは破滅だ。
村岡は何が言いたいのだろうか?
俺が答えられずに困惑していると、村岡は「思いついたら話して」と言ってから、腕時計をチラリと確認した。
「急がないと帰れなくなるけど」
それは拙いな。汽車を逃すと帰る手段はタクシーしかない。土曜はバスの時間が平日とは違い、夜の便はないのだ。
しかし、そうは思っても体が動かなかった。
鉛のように重いとは、こういうことかと実感する。
見かねた村岡は俺の手を取り、半ば引きずるようにして動物園を出て駅に向かった。
どうにか発車寸前の汽車に飛び乗り、空席を見つけて座る。
そして不覚にも俺は眠りに落ちた。
「着いたけど。あんた乗り換えでしょ。早くしないと乗り遅れるよ」
村岡の声で俺は目を覚ました。
視界はおぼろげ、頭はぼんやり。
その状態でフラフラと席を立って汽車を降りた。
間もなく発車のアナウンスが駅に流れ、背後で扉が閉まる。
汽車が動き出すと同時に鳴らした警笛の音で、ようやく正気を取り戻した。
おかしい。
辺りを見回しても村岡がいない。
一緒に降りるはずだ。
あのガラス張りの新築駅で俺は汽車を乗り換え、彼女はそのまま家に帰る予定だった。
しかし、目の前にあるのは真新しい駅ではなく、錆付いたプレハブ小屋の駅舎。
誰もいない寂れたホームに俺は一人立っていた。
記憶にない場所だった。
駅舎に既視感を覚えたが、それは俺が知っている物とは違った。
新築の駅はどこに行った? まさか足が生えて逃げ出したわけではあるまい。
その時、ズボンのポケットがブルブルと震えた。
スマホのバイブレーションだ。
バイブ機能を設定した記憶はない。
不審に思いながらもスマホを取り出す。
そして俺の手にはスマホと、それと一緒にポケットに入っていた二千円が握られていた。
ついでに、この二千円にも身に覚えはない。
取りあえず金のことは後回しにして、スマホを確かめる。
村岡からメッセージが入っていた。
『私も嘘がつけるよ。二千円入れておいたからタクシーでも乗って』
なるほど、彼女は俺を騙して手前の駅で降ろさせたのだ。
このメッセージは俺が寝ている間に、彼女がスマホを弄ったに違いない。
見られて拙いものは入っていないから勝手に触っても構わないが、彼女には別な件で説教する必要がありそうだった。
良い嘘と駄目な嘘について徹底的に教え込む必要が。
と言うのも、タクシーで俺の家に帰るには、村岡が寄越した金額では到底、足りないのである。