第30話 浄化作戦
第三部からは、一日一話、朝七時公開です。
今夜七時、五人目の登場人物紹介を行います。
十二月八日。夜。
出発の前の晩、避難所ではささやかな夕食会が開かれた。
理科室に残っていたおつまみの最後の一箱を開けた。古賀さんが隠していた日本酒が一本出てきて、大人たちが少しずつ回し飲みした。ヴィッキーさんが、どこで覚えたのか、トランプの手品を次々に見せた。子どもたちが声を出さずに、口だけ大きく開けて驚いた。
誰も、大きな声は出さなかった。それでも、笑っていた。
透は教室の後ろの壁にもたれて、それを見ていた。
大庭さんが透の隣にやってきて、酒の入った紙コップを差し出した。
「飲め」
「未成年じゃないですけど、弱いんで」
「一口でよか」
透は、一口だけ飲んだ。喉が焼けた。大庭さんは、くつくつと笑った。
「……戻ってきい」
大庭さんはそれだけ言って、また自分の席に戻っていった。
◇
夜が更けたころ、霧の上で低い音がした。
飛行機のエンジンだった。霧が来てから、初めて聞く音だった。
みんなが、一斉に天井を見上げた。音はゆっくりと頭の上を横切り、北の方へ遠ざかっていった。
しばらくして、見張りの古賀さんが階段を駆け上がってきた。手に、濡れた紙の束を握っている。
「……空から、降ってきよった」
校庭いっぱいに、白い紙が散らばっていたという。
堤先生が一枚を受け取って、ろうそくの明かりにかざした。それから、みんなに聞こえるようにゆっくりと読み上げた。
『封鎖区域内に残っておられる皆様へ』
『政府は、十一月二十日、霧の発生している福岡県北部一帯を「封鎖区域」に指定しました。現在、区域の境界には自衛隊の警戒線が設けられ、関門海峡をはじめ、区域に通じる道路、鉄道、橋、トンネルは、すべて通行を止めています』
『警戒線にたどり着いた方は、自衛隊が保護します。保護された方には、健康確認のため、指定の施設に一定期間とどまっていただきます』
『政府は、区域内において「浄化作戦」の実施を検討しています。区域内に残っておられる方は、一日も早く、警戒線まで退避してください』
堤先生の声が、そこで止まった。
誰も、何も言わなかった。
――警戒線まで、退避してください。
霧の中を、何十キロも。群れのあいだを抜けて。子どもと年寄りを連れて。ここにいる誰に、それができるというのか。
書いた人間は、たぶんそれをわかっている。
ひなたが由美さんの服の裾をつかんで、聞いた。
「……じょうか、って、なに」
由美さんは、答えなかった。ただ、ひなたの頭を強く抱き寄せた。
◇
透は、教室の中を見回していた。
大庭さんが、紙コップを握りしめている。古賀さんが、天井を見上げている。堤先生がビラを握ったまま、動かない。
そして、教室の真ん中でヴィッキーさんが笑っていた。
トランプの束を手にしたまま、隣の子どもの頭をなでて、何でもないような顔で。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。浄化って、きれいにするってことやろ? 怪物を、ぜーんぶ退治してくれるんよ、きっと」
その声は、明るかった。いつも通りに。
けれど、彼女の手の中でトランプの束が、指が白くなるほどきつく握られて、くしゃりと折れ曲がっていた。
透は、それを見ていた。
――知ってたのか。
それとも、知らなかったのか。
どちらにしても、彼女の手は嘘をついていなかった。
◇
夜中、透は屋上にいた。
明日の朝、ここを出る。関門まで、およそ八十キロ。霧の中を、美雪さんを連れて、朝倉さんと三人で。その関門にも、もう警戒線が張られている。
屋上のドアが開いた。足音で、わかった。
朝倉さんは透の隣に並んで、同じ霧の街を見下ろした。
「……聞いたね」
「聞きました」
「急がんといかん」
「はい」
しばらく、二人で黙っていた。
霧の向こうに、いくつかの窓の明かりがにじんで見える。ろうそくや懐中電灯の小さな明かり。その先は見えない。けれど、名島の団地にも、呉服町のビルにも、天神の雑居ビルにも、同じ明かりがあるはずだった。息を殺して、それでも生きている人達の明かり。
「浄化、なんて言い方しとるけど」
朝倉さんが、霧の街を見下ろしたまま言った。
「区域ごと、焼くってことやろ」
朝倉さんは、手すりを握る手に力をこめた。
「……焼かせんよ」
「あの明かりは、一つも焼かせん」
透は、何も答えなかった。答えなくても、たぶん伝わると思った。
朝倉さんは、手すりから体を離した。
「行こう、霧島くん」
「……まだ夜中ですよ」
「寝ようって意味」
一瞬、心臓が跳ねた。
――寝よう。二人で?
……そんなわけない。それぞれの寝床で、に決まっている。
「紛らわしい言い方しないでください」
朝倉さんはほんの少しだけ笑って、屋上のドアの方へ歩いていった。
透はもう一度だけ、霧の街を振り返った。
いくつかの窓に、小さな明かりがともっている。
――どうか、消えませんように。
必ず帰ってくると、透は誓った。
四部予告 「伊賀の母」
封鎖された霧の街を出て、関門まで八十キロ。
その先には、自衛隊の警戒線が張られている。
透と朝倉さんは、美雪さんを連れて霧の外を目指す。
行き先は、祖父の巻物を読める、ただ一人の人がいる場所。
透の故郷、伊賀の山里。
そこで待っていたのは、穏やかに笑う母と、
見えないはずの透を探す、ひとりの少女だった。
「――見ーつけた」
浄化作戦の期限が迫るなか、
霧島の家に眠る、四百八十年前の記憶がひらく。
必ず帰ると誓った街へ、もう一度戻るために。




