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第29話 ここにはいられない

第三部からは、一日一話、朝七時公開です。

今日の夜七時に、四人目の登場人物紹介を投稿します。

十二月八日。昼。

美術準備室の床に、一本の巻物が広げられていた。

母に持たされた箱に入っていた、祖父の形見の巻物だった。前半には、息の殺し方、歩き方、心臓の沈め方が、古い字でびっしりと書き込まれている。そのどれもが、子どものころに祖父との「遊び」で仕込まれたものだった。

息、鼓、熱を聴きて。

美雪さんが、その一文を指でなぞった。

「……やっぱり、そうです。これは、虚喰の感知のしかたそのものです。何百年も前に、誰かがそれを知っていた」

「問題は、後ろの方なんです」

透は、巻物の後半を広げた。

そこから先は、読めなかった。漢字とも仮名ともつかない記号が、ぎっしりと並んでいる。小さいころに一度だけ見せてもらったとき、祖父はこの並びを指でなぞり、「これは、お前にはまだ早い」と笑った。その祖父が亡くなった今、これを読めるのは伊賀の祖母だけだ。

「伊賀の、祖母なら読めるはずです」

「……伊賀」

朝倉さんが、地図を見た。

「三重やろ。ここから、どれだけあると思っとうと」

「関門を越えれば、あとは霧の外です」

美雪さんが、巻物の記号を見つめたまま言った。

「……もし、ここに『門』のことが書いてあるなら。どうやって閉じるか、どうやって近づくか。何百年も前に、それを知っていた人がいたなら」

彼女は、顔を上げた。

「私は、それが読みたい」

◇

理由は、ほかにもあった。

回収隊と灰鷺は、まだ香椎の外れでにらみ合っている。けれど、それはいつまでも続かない。灰鷺は、美術準備室の場所まで知っている。二つの組織がまた同時にこの学校に手を伸ばしてきたら、そのとき巻き込まれるのは美雪さんだけではない。

ひなたも、大庭さんも、陸も。

「……ここには、いられない」

言ったのは、美雪さんだった。

「私がここにいる限り、この学校は、狙われ続けます」

朝倉さんは、しばらく黙っていた。それから、小銃の負い紐を握り直した。

「林さんを本州まで護送する。それは、自衛官の任務として、私がやる」

「松尾さんたちは」

「ここに残す。この学校を守る人間が、要るけん」

二人が、透を見た。

透は、巻物を巻き直していた。窓の外から、ひなたの笑い声が聞こえた。

「……行きます。祖母は、僕が行かないと会ってくれないんで」

それから、少しだけ付け足した。

「……それに、僕の背中、守ってくれるって言いましたよね。あれ、朝倉さん以外には、頼みたくないんで」

朝倉さんは何か言いかけて、やめた。それから、ふいと窓の方を向いた。耳の先が、少しだけ赤かった。

◇

その日の夕方、堤先生は住民たちを四階の一番大きな教室に集めた。

「霧島くんたちが、明日、ここを出る」

教室が、ざわめいた。

堤先生は、黒板の前に立っていた。その黒板の隅には、まだ子どもの字で書かれた【かげぼうし ありがとう】の落書きが残っている。

「影法師が、おらんようになる」

先生はそこで一度、言葉を切った。

「水が勝手に置かれることも、鍵が勝手に開いとることも、もうない。群れの中から、誰かを連れて帰ってくれる人も、おらん」

誰も、何も言わなかった。

「やけん、約束してほしい」

堤先生は、教室の全員を一人ずつ見た。

「影法師がおらんでも、自分たちで生き延びる。物資は、うちらが分ける。見張りは、うちらが立つ。子どもは、うちらが守る。あの子が帰ってきたときに、一人も欠けとらんように」

教室の後ろで、大庭さんが新しい杖で床を一度だけ叩いた。

「……当たり前たい」

古賀さんがうなずいた。由美さんがうなずいた。松尾が腫れの引いた顔で、背筋を伸ばした。

最後に、教室の隅で塩崎が小さく頭を下げた。

透は、その教室の入り口の柱の陰に立っていた。誰にも気づかれずに。

それで、よかった。

◇

廊下に出ると、ひなたが待っていた。

「お兄ちゃん、どっか行くと?」

「……ちょっと、おばあちゃんちに」

「いつ帰ってくると?」

透は、少し考えた。

「……わかりません」

ひなたは、唇をきゅっと噛んだ。泣かないように。あの夜、コンビニの裏口で見たのと同じ顔だった。

それからポケットから何かを取り出して、透の手に押しつけた。

いちご味の飴だった。

「お守り。ひなたの、最後の一個」

「……最後なら、自分で食べてください」

「お兄ちゃんにあげると」

ひなたはそう言って、透の胸に一度だけ耳を押し当てた。

「……やっぱり、この音好き」

透は、何も言えなかった。

飴を、胸ポケットにしまった。前にもらった包み紙と、陸のカードの隣に。

お読みいただきありがとうございます。

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明日の三十話で第三部終了です。

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