一
慶応元年、いわゆる幕末の頃の話。
知らない人もないと思うが、京に新選組という組織があった。
もともとは、都の治安を任されていた会津藩が、人手に事欠き、臨時雇用した浪人者の集団である。
ところがこの前年、どうした訳か、尊攘激派が良からぬ謀議をしている宿屋にまぐれ当たりして、みごと一網打尽という大戦果を挙げた。
これで一躍名を売って、勢いに乗った彼らは、さらなる組織拡大を目論み、三月上旬には京の外れにある壬生村から、都心の西本願寺へ屯所を移転。
局長の近藤勇が「兵は東国に限る」などと言い出して、
その片腕である土方歳三が、江戸から五十余名を隊士に加えて京に戻ってきた。
それが、この年の五月の話である。
で、ここから物語の本筋に入るのであるが、
その新入り隊士の中に、瀬山多喜人という、ひょろ長い青年がいた。
色白で切れ長の眼をした優男である。
「あー暑いったらありゃしねえ。やってらんねえぞ、こりゃあ」
六月のある日、沖田総司率いる新選組一番隊に加わり町へ巡察に出た瀬山は、愚痴をこぼしながら列の最後尾をだらだら歩いていた。
やがて、隊が四条通りに差し掛かったところで、彼はフイと列を離れ、路地の一本に滑り込んだ。
隊務を抜け出し、懇ろになった女の家で、ひと涼みする腹積もりである。
大雑把な沖田の性格を見越して、一人くらい隊士がはぐれても気にしないことも計算づくだ。
彼は五月に江戸で採用されて、今は六月、
この年は五月と六月の間に閏五月というのがあったから、つまり入隊して二カ月足らず。
しかも、この女というのが人妻だったから、新米隊士としてあまり褒められた素行とは言えない。
折しも京は、祇園会の最中。
ただ、この年の祭りは少々盛り上がりに欠けていた。
少し政治向きの話になるが、昨年に起きた「禁門の変」で、祭りの目玉である山鉾の大半が焼けてしまったせいだ。
政治の季節である。
このクーデター紛いの政変を起こした長州藩に対して、幕府は藩主親子の責任を問い、江戸に引っ立てよと命じて、のらりくらりと交わされ続けている。
祭りを間近に控えたこの頃は、まさにそうした政情不安を理由に、元号も改まったばかりの時期で、
斜陽が囁かれる幕府としては、断固たる処断を世に示す必要に迫られていた。
そこで、将軍御自ら「長州へ攻め入らん!」と上方まで出張ってきて、都から目と鼻の先にある大坂城にその大軍が駐留している。
人々は今にも大戦が始まりそうな気配に気を揉んで、なおのこと年に一度の大イベントにも身が入らない、という雰囲気だった。
さて、この日は茹だるような暑さで、
隊列を離れた瀬山は、少々寂れた街の一画で足を止め、周囲をうかがった。
人妻が一人寂しく留守を預かる町屋は、格子窓に青い朝顔の蔓が絡んでいた。
「まったく、このご時世に笛や太鼓とはイカレてやがる」
瀬山は表通りの喧騒に毒づきながら、ガラリと扉を開けた。
ちょうど土間に柄杓で水を撒いていた女が振り返った。
「あら、おこしやす。敷居を跨ぐ早々、悪態どすか?」
瀬山は頬を緩めた。
「馬鹿どもが浮かれるほど、間男も心安くシケ込めようってもんさ。が、まずは一杯、水をもらおうか」
この界隈の男衆は、それぞれ町内の山鉾を組み立てたり、幔幕を張ったりと祭りの準備に忙しく、みな家を空けている。
その女は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、湯呑を差し出した。
目元の涼しい、スラリとした美女で、名を千といった。
瀬山は湯呑を一息に飲み干し、顔をしかめた。
「おいおい?こりゃあ、冷酒じゃねえか?」
「駆けつけ一杯。このご時世、先に正気を失った者の勝ちどす」
「は、悪い娘だ」
瀬山はさっそく千に覆いかぶさった。
しかし、盛り上がったところで、裏通りの犬が吠え始めた。
「野良犬め。気が削がれる」
千が上体を起こし、裏口の方に向かって叫んだ。
「これクロ!ほたえな」
「クロ?」
「あれはうちで飼うとる土佐犬どす。裏に繋いであるんよ」
「土佐犬ってあの、でっかいのか?犬は苦手なんだが」
当時の土佐犬というのは、芝犬をひと回り大きくしたような犬種で、
我々が思い描く現代の土佐犬と姿は異なるが、獰猛なのは変わらない。
「へえ、ここ5日ばかりエサを抜いてましてなあ。気が立ってますのやろ」
「な、なんでまた?」
「さあ?亭主の言うには、なんや粗相をやらかしたらしゅうて、まあ、躾みたいなもんどすなあ」
「今の俺にはお預けを食ってる犬の気分がよく分かる。旦那を殺してやりたい気分だろうぜ」
我ながら上手いことを言ったと瀬山が悦に入っていると、
「おう!帰ったぞ!」
外から叫ぶ声がした。
予定外に早く亭主が帰って来たらしい。
千は慌てて着物の袂を合わせると、瀬山の背中をぐいぐいと押した。
「大変!多喜さん、押し入れに」
「な、なんでこんな時間に?」
「ええから、早よ!」
千は、有無を言わせず瀬山を押し込んだ。
瀬山は不承不承カビ臭い押し入れで息を潜めていたが、
しかし、二人の話に聴き耳を立てていると、どうも雲行きが怪しい。
「で、おせん、亭主はいつ帰ってくるんだ?」
…ということは、どうやらいま入ってきた男も、自分と同じ間男なのだろうか。
「もうしばらくは帰って来いへんはずどす。そやけど、石川様こそ、こんな時間にどないしはったん?お勤めの方はええんどすか?」
「せっかく京に出てきたが、俺に言わせりゃ新選組もそろそろダメさ。さっさとトンズラしようぜ」
石川…?
新選組…?
襖の隙間から覗くと、そこにいたのは筋骨隆々としたニヤケ面の男だった。
その男が腰に差している悪趣味な拵えの刀に、瀬山は見覚えがあった。
「俺も猩々丸も、お前に会えるのを心待ちにしていたんだぜ?」
そう、あの声は石川三郎。
瀬山と同期入隊の若者で、刀マニアの変態野郎だ。
“猩々丸”というのは石川が刀につけた名前で、彼はその刀を溺愛していた。
瀬山は自分のことも棚に上げて、千の浮気に腹を立てたが、聞こえてきた話はさらに物騒だった。
「うちも待ち遠しいわ。早よ、私を連れて逃げてえな」
「ああ、二人で所帯をもつんだ。しかし見知らぬ土地でやり直すには先立つものが必要だからな」
「お金なら、主人の貯えが…」
「だな。早いとこ、亭主を消しちまおう」
なんと二人は本物の亭主を殺す相談を始めたのである。




