2-1 高崎降矢
家の外で賑やかに騒いでいる学生達の声で目が覚める。
何か夢を見ていたはずだが……今はその楽し気な現実味溢れる雰囲気に呑まれてすっかり非現実的な世界は散ってしまった。
寝ている時に見る夢は支離滅裂な設定、展開が多いものの、普段自分が意識しない深層意識すら捉えるような手段としては最も手軽かつそれなりに効力があるものだと私は認識している。
夢という舞台に登場した存在は八割方何かしら重要なファクターを占めていると考えられる。それが当人にとって望む物なのか、望まぬ物なのか、はたまた二割で存在するまるで関係無い物なのか。それを確認するためにも一旦その存在と、その存在を寝ている時間にまで引き込む自分と向き合ってしまえば否応にも自己認識には繋がって来る。
寝ぼけた頭でそこまで考え、不意に自覚した頭の痛みに夢乃は頭を押さえる。
二日酔い等ではない。昨日飲酒した記憶は無く寝る前には……あぁそうだ、今テーブルに突っ伏している事が全てて、いつも通り疲労を自覚できずに気づけば落ちていたのだろう。
そこまでハッキリと眠気を振り払えば、もう一つ頭痛の要因と思われる鳴り続けていたアラームに気づくことができた。
少し高い音色で鳴り響くそれは否応にでも不快な思い出を想起させる。今でも忘れる事は無い、適当に入った食事処でサラダを食べている際、無農薬で培養した上に商品の運搬中生命を維持し続け、調理前の洗浄からも逃げ延びて一匹の小さなイモムシが出されたメニューに混ざったのだろう。そう、その細長い体を半分前後まで欠けさせて。まだ僅かにぴくぴくしていた事からもう片方の体がどこにあるかは想像に難くなかった。アラームの音源はその時店で流されていた音楽で、意図的に探し当ててアラーム音として設定してある。
流石の夢乃もそれには多少思うところがあった。
何しろ己の意思とは関係なく、数多の不幸が重なり、それでいて食用に適さない生物の踊り食い。
一つ深呼吸するとコップの水を少し多めに飲み、サラダ以外を完食した後に、特に苦情も申し立てずに次の目的地へと向かった。ただ、それだけ。誰も悪く無いのだから。店に訴えれば食費を浮かせサービスに何か付けてくれたかもしれないが、別に金銭欲や食欲が人並みにある程ではない。わざわざ他者が困る様子を楽しむ趣味も無かったためただ手間だけを惜しんだ。
そんな毎度毎度苦い記憶を思い出し、本能的に眠りから覚ませてくれるアラームを止めると時間が目に入る。
今日は朝から仕事がある日。多少寝過ごしたものの、早めにアラームをかけておくようにしているため時間は十分にある。外に居た学生達は部活動か何かだったのだろう。
身支度を整えている中チラッと鏡に映った自身の顔。
寝ている状況が状況だったからか、疲れが溜まっているのか普段より少し顔色が悪い。いつもより濃いめに化粧を施さなければいけない。
身支度を整える前に常温で放置……保存している飲料水のキャップを外し、ケースから取り出した粉状の薬を口に含んだ後、幾つかの錠剤やカプセルを唇で挟み水を飲み込むと同時に口に入れる。
本来ならば朝食後だが仕事中に何か口にするかもしれない。元々食欲が多い方ではない夢乃にとっては胃の粘膜の方よりも余分な食事の方が問題だった。
全ての身支度を終え、最後に今回の依頼人の情報を確認して家を出る。
高崎 降矢。高校二年生、男性。
動機は、家族不和にいじめだ。
ニット帽に伊達メガネをかけて、ファーストフードの窓側の席から視界の端に一人の男性を度々捉える。
特徴は特に何もない。髪は短くもないが切り揃えられており、ここからでは無精ひげも無いように見える。あるのはあらかじめ知らされていた服装だけ。
心細く私という存在の接触に不安でも覚えているのか、上着のポケットに両手を入れながら下から右へ、下から左へと視線を彷徨わせているぐらい。
そう珍しい反応じゃない。むしろ以前接した杉原健一という人間の方が少ない。
彼も多少なりとも不安を抱いていたようだが、面と向かって接している感じ佇まいに自信を見せたのはその根源が彼なりに後ろめたいものではなかったからだろう。
待ち合わせ三十分前からここで待機し、高崎は時間の十分前からあの様子で、今は待ち合わせ時間から約十分ほど経過しようとしている。
特に不審な点は無い、か。辺りを警戒する割にこちらの存在に気づくどころか、時計や携帯電話の類を確認し今予定の時間が過ぎている事に気づいている様子も無い。
そろそろ合流するかと飲んでいたはずのコーヒーを持ち上げて、全然中身が減っていない事にどこか寂しさを覚えながらゴミ箱に投げ入れた。
「おはようございます」
「……」
「夢乃です。高崎降矢さんですよね、おはようございます」
一度目の挨拶が自分に向けられたものではないと思っていたのだろう。
そっと寄りかかっている壁に並び立ち、声を掛けたら一度目は無視されてしまったので二度今度は名前を告げて声を投げかけると、ハッとしたような様子でこちらに振り向く少年。
「お、おはようございます……高崎、です。
夢乃さんてあの、メールでやり取りしていた……?」
視線が交わり、ようやく気づく。あぁ、この少年は違う、と。
真っ先に抱いた感想は失敗したという後悔。
少年の目は虚ろにやせ細り、くぼんだ周囲についていけず目立つまあるい眼球はギョロギョロと周囲へと警戒を走らせて「死にたくない」そう叫んでいるように見えた。
まるで飢えたハイエナ。彼は餌を求めている、己より弱い存在が隙を曝せば喉元に食いついて血肉を啜る心構えが存在する。
「はい、その夢乃ですよ。
少し落ち着ける場所に行きましょうか。お待たせしてすみません」
「いえ、大丈夫です」
「あぁいや、実は私がここまで歩いて来て少し疲れてしまっていて。恥ずかしながら座りたいな、と。
場所はどこでも良いので、何か行きたい場所でもありますか?」
強がりたいのであれば強がれば良い。その虚勢がどれほど自らを苛むものだったとしても、私でもそうするのだから。
「夢乃さんはどこか行きたい場所は無いんですか?」
「私は別に。それに今日一日は高崎さんのものですから」
「うんと、そうですね……」
少し迷うように髪の毛をガシガシと撫でる少年。
フケが飛ぶほど衛生管理を疎かにはしていないようだが、動かした腕の手首には幾つかの細い傷跡が残っていた。
躊躇い傷ありの、刃物で付けたような裂傷。十中八九リストカット。
手首を隠す気も見せびらかす様子も無い事は常習性が無い事が察する事ができた。最近傷つけて、今傷よりも気にするべき私という存在が居るから意識から外れてしまったのだろう。
「カラオケとか、どうでしょうか」
悪くないアイデアだ。私達の年齢から居ても不自然ではない場所だし、個室で防音、飲食物まで買える。
問題は私自身にほとんど歌う習慣が無いという事だが。
「とても良いですね、是非行きましょうか」
そんな懸念をおくびにも出さず、私は笑顔を振りまく……あぁ、今日一日はきっと後悔する結果になるのだろうなぁと内心憂いた。
時間も、労力も、金銭も、司法に感づかれる危険性も。ただそうした懸念はメールでやり取りだけでは払いきれない。やはり身振りや表情から察する事の出来る情報はあまりにも多すぎる。
まぁ、一抹の希望か、あるいは絶望。そのどちらかが存在する限り、私は今から仕事を投げ出さずに動き続けるのだが。




