密林の覇者
ガルディード大森林の南方。
そのエリアは年中を通して、むし暑い熱帯地域がひろがっていた。
アセロラ。
エピスシア。ウツボカズラなど。
多種多様な熱帯植物の宝庫である。
大小様々な動物や虫たちが、
そしてモンスターが日夜、生存競争を繰りひろげていた。
張りめぐらされた血管のように、
かいま見える景色には、蔦がからみにからんでいた。
ここの地名は、南密林エリア。
巷の研究者たちにより、そのように定義されていた。
暴の勢威により、エリアの覇権を握り、
征服しているのはB級モンスター。
四本腕の大猿の一群であった。
原始然とした唯我独尊。
連日連夜、略奪し蹂躙し営む。
危機意識などはみじんもなかった。
抗うものはねじ伏せる。
歯向かわなくとも、害せばいいのだから。
それは密林の覇者。
圧制者の、義務づけた理である。
根本的なまでの、理論体型であった。
ここ、イングリード島には、
ガルディード大森林を軸として、
亜人種の四か国が、東西南北に建立していた。
いわゆるひとつの亜人種。
そのような種族を、
あえて釈義するのならば、以下の通りであった。
人間と酷似してはいる。
が、明々白々と相異なる形態。
人間の視点から鑑みればおおむね、
モンスターに類別されるカテゴリーであった。
しかしながらである。
人間種のいない島内においては、
モンスターと称される存在は、このように定義されていた。
「大なり小なりの差異はあれど。
民衆の生活をいちじるしく脅かすものを指す」
威度。
その熟語はすなわち、
モンスターの序列の総称である。
SABCDの順番に劣っていく、おおまかな階級であった。
最上位に位置する、威度S級。
それはまさに神話の域であった。
数百年前の顕現のさいには、
身ひとつだけで、
世界に災厄を撒き散らした。
道程には、死屍累々の山が築かれていた。
と、叙述されているほどであった。
しかし討伐には成功しており、
ひさしく表舞台には、姿形を顕にしてはいないが。
がんらい大森林には、
威度B級未満のモンスターは生息していなかった。
いや、生存しえない。
そのように表現するほうが、的確だろうか。
明晰なことにである。
高度な隠遁の魔法や、
技能でも有していなければ逃れられない。
時をうつさずに、
淘汰されてしまうのであった。
優勝劣敗の法則は曲げられないのだ。
しごく当然である。
そこに疑念の余地は、はさめないのだから。
そのように、
理路整然づけるのならば一様に、
彼らにも、適用されなければならないはずなのだが。
密林における昼間。
それは昨夜の光景からは、一変としていた。
謎が、迷宮入り目前。
そのような毒々しき魔力の波動は、
いつのまにか雲隠れしている。
らんらんと、燃えたぎる太陽が顔を出していた。
寝坊した愚かしきご一行。
彼らはというと、
棘の木々が行く手をはばむ獣道。
道なき道を行っていた。
陽射しは身に突き刺さるかのよう。
しかし濃緑の木々が、
防いでくれているのでまだよかった。
だが、酷暑なのである。
身体に張りつく衣服は、じつにうっとうしい。
不快指数を、火だるま式に上げつづけていた。
蔦が樹木どころか、
地面を這う根にもからみつく獣道。
あたりの成木は、
見るも無惨な有り様であった。
巨大なモンスターや、
台風でも通過したかのように、
折れまがり、なぎ倒されていたのだから。
あたりには、
果実の薫香が充満している。
ひもじさに、いっそうの拍車をかけていた。
一行の頼りはひとつだ。
かすかに耳にとどく、流水の音であった。
川だ、魚だ、食料だ。
と満場一致で歩を進めてはいる。
だが、加速していく飢えとは対照的に、
歩みはひどく鈍重であった。
なぜならば、あわや蔦ごときに、
バランスをくずされて、
いらぬ怪我を負わされては一大事なのだ。
致命的な事態におちいってからでは遅いのだから。
アンリは黙々と歩きながらも、
あからさまに不可解な環境。
珍妙にすぎた疑問点について、内心でツッコミをいれていた。
暑い。暑すぎるだろ。
なんなんだ、この茹だるようなむし暑さは。
うーん。なるほど。わからない。
俺の記憶を、
かってに改竄されたんでもなければ、だよ?
今もって涼しさ残る暮春、だったはずなんだけどなぁ……。
まったく、どれだけ眠りこけていたんだ。
とでも、自身を怒鳴りつけたくなるほどだけど。
もしや、もしやだ。
いつのまにか、
季節は真夏へと移ろってでもいたんだろうか?
しかし、解せない。
故郷では、盛夏でもここまで暑くはないんだからね。
まあ、うん。アレだな?
天変地異的なナニカだ。
もしくは、
神気あふれる何者かの仕業であるんならば、
有りえるのかもしれないんだよ。
どのようにせよ、だ。
ここは、イングリード島で間違いないですよね?
と、凶悪なモンスターでもいいから問いたい。
それにしても飢えがまずい。
まずいぞ。このままでは、ルゥが餓死してしまう……。
むろんながら、
そのように簡単に餓死などはしないのだが。
アンリはたまらず立ちどまった。
ひっきりなしにだ。
顔中を濡らしていく汗を、
忌々しげに手の甲でぬぐった。
ルゥはというと忙しない。
怯えてでもいるのか。
アンリの衣服である粗悪品。
青いボロ布をしっかりと、
とがった爪先によりつかんでいる。
キョロキョロと、視線は行ったり来たりしていた。
肩口にて、
不安げに右往左往するちいさな頭。
頭頂部を、アンリはゆっくりとなではじめた。
ルゥは男の子だというのに、怖がり屋さんだなぁ……。
であるのならば、心もとない。
共闘すべき仲間と見なすには、頼りがいはなかった。
ところがである。
アンリはルゥを、みじんも卑下してはいなかった。
普遍的な亜人たちから、
親の仇のように、嫌忌されている顔立ち。
低劣なるお顔のほうも、
とても愛嬌があるじゃないか、と思っていた。
それに言語のほうも問題はない。
面妖なる身ぶり手ぶり。
おちゃめなボディランゲージにより、どうとでもなっていたのだから。
そして何はさておき、
普遍的な亜人種には、とうてい受け入れられぬ難点があった。
忌み子である。
そのような問題点が邪魔をする。
重くのしかかってくるのは、明白であった。
しかし、アンリは鼻で笑う。
笑えてしまうのだ。
そのような些末な事柄は、重要ではない。肝要ではないのだから。
なにより、自身も忌み子。
同様の咎を背負う者なのだ。
しかれども、
己が忌み子として生を受けなかったとしても、
アンリがこう言ってのけるのは、想像にかたくなかった。
それがどうした。
それがどうした、と言うんだろうか、と。
なぜならば俺は、
生まれや種族に対して、貴賤を当てはめる。
そんなフザけきった愚か者ではないんでね、と。
当然、アンリは知らない。
ルゥという個の背景を。つちかってきた経験則なども。
至福につつまれていた歳月も。
厭忌に蝕まれた決断も。
運命の邂逅が、必然じみた死を阻害していたことも。
然りではないか。
出会って間もないのだ。
知りようもない、が正しいのだろう。
しかし、暴こうともしなかった。
暴いてなんになるというのだ。
陰鬱たる過去があるのだろう。とは想像がついていたのだから。
それならば、ルゥなのだ。
もしもいつの日か、
経緯を紐解いてくれる時が来るのならば、
誰でもない、ルゥ自身からであるべきなのだから。
となれば、肝要な事項はひとつ。
それはルゥの、涙ながらの決心であった。
忌み子である自分を、
世界から卑下されている己を、
なんにも取り柄などない自らを、頼ってくれた。
縋ってくれたのである。
だれもが拒否するはずの、
触れたくもないはずのその手を、握ってくれた。
そして、
ほとばしるかのような達成感。
もの暖かな熱情までもを、与えてくれたのであった。
ルールを曲げつづけていく。
そう、自嘲ぎみに嘯いた自分に同調し、
肯定までもをしてくれたのだから。
それならば明白である。
もはや、単純明快であった。
ルゥは守るべき仲間なのだ。
それどころか、
昵懇の仲と称しても過言ではない。
種族は違えど、
血をわけた兄弟のようなものじゃないか。
そのようにアンリは考えていた。
なればこそである。
強固な意思を武器に、あがく。抗うのだ。
兄弟仲良く、たがいに力を合わせて、
惨憺たる結末を向かえぬように、と。
しかしシンプルではある。
あるのだが問題は山積みだ。天をうがつほどの勢いであった。
ありていに言って、
アンリは弱いのである。
大森林内の、
序列になぞらえるのならば、
その立ち位置は下から数えたほうが早い。
それは純然たる事実であった。
アンリは早十年、
生まれてこのかた、戦闘経験など皆無。
忌み子であるために、庇護されていた立場なのであった。
外出した経験ですら、
片手の指でたりてしまう始末。
ましてや、殺生などもってのほかであった。
あまつさえである。
桁外れた体内魔力を保有していようが、
有効活用できない道理があったのであった。
かくいう、この闇の妖精族には才能がない。
魔法の素質というものが抜け落ちている。欠落していたのであった。
いわゆる魔法とは、
亜人種やモンスターがもちいる序開魔法。
ひいては、人間種がもちいる汎用魔法に別れていた。
序開魔法とは、
火。水。風。地。闇。光。
それら六属性に区別されていた。
基本的には体内の魔力を調整する。
そののち、具現化して行使するものであった。
古来からである。
聖の妖精族とは、魔法の技術に長けた種族だ。
他の種をたやすく凌駕するほどの、スペシャリストであった。
一般的なエルフである祖父は、
練達の師、と称されるほどの魔法の名手であった。
なればこそ、
アンリは頭を下げて教えを乞うた。
しかし断固として、
祖父はかたくなな態度を貫く。
教示してはくれなかったのであった。
それならばと、アンリは行動する。
隠れて、蔵書をあさりつつも勉学にはげんだ。
けれども、
それは悲壮をもたらすほどの、むなしき行為であった。
なぜと問うに、
習得できたのは初歩の魔法のみ。
という、醜態をさらす結果となったからであった。
指先がぼんやりと光る。
指先から水がチョロチョロと流れる。
指先に微細な火をともすだけ。
かろうじて火と水、光。
それらの属性の資質はあるようであった。
だがそれは、血迷っても攻撃とは呼べない。
お粗末にすぎたシロモノであった。
前述したとおりに、
アンリに魔法の才はなかった。
しかしながらである。
並の亜人種と比較するのならば、
身体能力はきわめて高かった。
が、それに意味はないのだ。
大森林の悪鬼羅刹どもには、とうてい比べるべくもないのだから。
ここでひとつ。
ことさら、疑問が浮かびあがるのは自明の理であった。
そう、照臨扇鷲。
または、幻惑鳥翅揚羽。
それら強大な化生を視認しているというのに、
どうしてアンリは怯えない。
ビクビクと、震えおののかないのだろうか、と。
しごく、ことは瞭然であった。
魔法の資質と対をなすように、
アンリにはたんに、恐怖という情動が欠如していたのであった。
生まれてこのかた。
物心がついてからただの一度も、
彼に萎縮の二文字はなかった。
血が凍る思いもない。
肌がくりだつこともなかった。
いくどかの死線に遇した時はあれど、
臆病風に吹かれたこともなかったのであった。
真相は闇のなかである。
忌み子の咎がそうさせるのか。
闇の妖精族の血脈が、そうさせているのか。
空漠たる恩恵。加護持ち。
という不可解な事象が、起因しているからなのか。
可憐なる小鳥のさえずり。
鳴き声を聞きながらも、アンリは内心で独りごちる。
まずは、なにがなくとも、
ここでの暮らし。生活基盤をつくらなければならないんだよ。
俺だけならば、
着の身着のままでもかまわない。
そこらへんに、てきとうにだよ。
ゴロ寝でもしていれば問題はなかったんだけど、ね。
だけど、いまは状況が違う。
まるきり違いすぎていたんだよ。
その最たる理由は、ルゥだ。
命を賭しても守るべき、
最愛の弟も一緒だったんだからね。
しごく単純。当然の話だった。
やはり、やはりだよ。
弟に野宿はキツいだろう。
ゴロ寝なんて、もってのほかだろうからね。
だからこそだ。
家なんてものを、高望みしてはいないけど。
寝起きするような場所ぐらいは、確保しておきたかったんだよ。
うーん。だけど、ダメだな。
八方塞がりとはこのことだよ。
現状として、
見通しなんてものは立っていなかったんだから、ね。
けれども、
これはある種の好機。幸運。
言われるまでもなく、チャンスなんじゃないだろうか。
このわけのわからない、
不思議な森で目覚めたことは。
ふいに、アンリは目を閉じた。
思考の渦に身をゆだねていく。
脳裏に去来しているのは過去。純然たる感謝の気持ちであった。
いまもなお、
行方知れずではある。
さりとて産みの母にも、アンリは感謝をしていた。
忌み子の隠匿は重罪なのである。
だというのにもかかわらず、
危険を承知でかくまい、慈しみ育ててくれた祖父。
彼にいたっては崇敬している。とほうもないほどに敬愛していた。
しかしながら、遅かれ早かれ、不幸は。
離別の時は迫りつつあったのだ。
ありがたくも匿われてはいる。
いるが、明るみに出た時がまずい。まずすぎるのだ。
ようするに、
自身の存在のせいで、祖父が命を落とす。
死刑に処される可能性があったのだから。
いわゆる、
死への恐怖という概念。
そのような観念は、アンリには理解すらもできなかった。
もとよりアンリは、
己のちっぽけな命になど関心はない。
いくぶんすらも、興味を持てなかったのであった。
なればこそである。
ただ、漠然と死ぬ。
その時が来たのならば、ただ敢然と死ぬのみ。
そう、
捧げる覚悟はとうにできていたのだ。
けっして望みはしないのだろう。
愚かだと怒られて、悲しんでもくれるのだろう。
しかれども、祖父のためになりうるというのならば。
かといって、
祖父の無意味な死だけは許せない。
断固として、アンリには許容などできなかった。
なればこそである。
祖父には、
なにも説明せずに姿を消して、
悠々自適に、
亜人種のいない山奥にでも隠れ住めたらなぁ。
と、アンリはおぼろげに願っていたのだった。
けれども、現実は無情である。
そのような、
都合のいい場所など見当もつかなかったのだ。
もしくは、
どこかに存在していたとしても無意味。
俺の実力ではどうせ、たどりつけはしないんだろうなぁ。
と懐疑的に考えていたのだった。
それゆえにこそである。
たんたんと、
自身の最期の姿も断定していたのだった。
祖父の許しもえず、
かってに家を飛び出し、たあいもなく捕まり、終わる。
それはそれは凄惨かつ、遺憾なものになるんだろう、ね、と。
それなのにもかかわらずだ。
いまのいままでアンリには、
雲隠れを決断できぬ理由があった。
自身は匿われている身なのだ。
当然のように、外出などもってのほかである。
生まれてから十年。
そのほとんどの時間を、アンリは地下室で過ごしていた。
だが、そうだとしてもである。
温和な祖父との二人暮らしは、幸せに満ち満ちていたのだ。
しかしそれは、
悪魔のささやきとなりうるのだ。
アンリの強固な決心をにぶらせる。
そう、もう少しだけならば。
と甘言がささやく。先送りにさせてしまっていたのだから。
だというのにもかかわらずだ。
神の見えざる手か。
気づけば、僥倖の渦中。
このような、摩訶不思議な森のなかにいたのであった。
もちろん、
いまだに断定できてはいない。
いないのだが幸運にも、
亜人種の影は見つけていなかったのであった。
それどころか、
昨夜もなんなく越せたのだ。
生命が吹けば飛ぶような場所。危険地帯ではないんだろう。
とも踏んでいたのだった。
あまつさえ、
人生においてのはじめての仲間。
ありがたくも心たかぶる贈り物。
最愛の弟まで、用意されていたのであった。
つまりはである。
アンリにはいつの間にか、
耐え忍んででも、生きつづけなければならない理由が。
ルゥを守りぬきたい。
という、生き甲斐が与えられていたのであった。
たんてきに言って、
アンリは神の存在に関心はなかった。
しかしこのような因果が、
神のお導きによるものなのだとしたら、
奉謝の念どころではない。
いまやもう、崇拝してしまうほどの心地であった。
眼前の最愛の弟。
ルゥを眺めつつも、
アンリは胸中により、決意を吐露していった。
嬉しかったんだ。
ほんとうに嬉しかったんだよ。
なぜならば、さ。
はじめてのことだったんだ、頼られるのは。
じゃあ、守りたくなる。
困ったものじゃないか。
この命に代えても、守りたくなってきてしまうんだから、ね……。
おじいちゃん……。
俺さ、もう少しだけ生きるよ。がんばってみるよ。
なにが正解かなんて不明瞭。
不確かな難事のど真んなか。渦中にはいるけど、さ。
なにを差しおいてもだ。
ルゥだけは。義理の弟だけは、生かせられるように。
この命尽きるその日まで、せいいっぱい生きていくよ。
二人で。手を取りあって。
「そういえば、ルゥはとても博識だよなぁ。
ほんとうに、きみがいてくれてよかったよ」
「ギィ……?」
頭をなでられる人形。
ルゥは、意図を掴めなかったのか。
小首をかしげる。不思議そうに目を見開いた。
微細な表情ではある。
あるのだがたちまちのうちに、
アンリは破顔していった。
内心でだけ、烈火のごとくまくし立てていく。
なんという、罪つくりなお顔。
神のイタズラじみた、愛くるしさなんだろうか。
これはモテる。モテるぞ。
妙齢のゴブリンの女性たちが、
放っておかないのはあきらかじゃないか。
だが、しかしだ。
弟へと、そのよこしまな魔手をのばそうとするんならば、
まずは、この俺を倒してからにするんだな。
と、アンリは血気盛んである。
空腹だというのに、
ムダに息巻いては体力を浪費していた。
だが、数秒前の彼の発言。
博識という言葉の裏には、とある理由があったのだ。
それはついさきほどのこと。
かくいうアンリが、今生とおさらばしかけた顛末。
とあるハプニングにあった。
それは朝も早くからである。
起床してすぐさま、
川へと向かっていた最中に起こっていた。
アンリの魔法により具現化した水。
それしか飲食していないお二人。
彼らの状態はというと、疲労困憊であった。
いまやもう、空腹の極地。
などと、呼んで然るべしゾーンへ突入していた。
すると、アンリの足下になにかがある。
たわわに実った果実。
てのひら大ほどのアセロラが、ひとつだけ落ちているではないか。
むろんのことに、冷厳たるトラップ。
罠以外のなにものでもないのだが、
危機的状況により、
アンリのなけなしの頭脳は、にぶっていたのであった。
なればこそである。
まるで誘われるかのように、
かぶりつかんとするのは生物の性であった。
ところがすんでのところで、
その愚行を制止してくれたのは義理の弟。博識なルゥであった。
アンリ以外にはおぞけが走るであろう、
必死の形相により、
ギィェー!
との奇声を上げつつも、叩き落としてくれたのであった。
果物は落下し、割れる。
無惨にも、地面に散乱する果肉。
あたりには、芳醇な匂いが立ちこめていた。
アンリはというと愕然である。
空腹から、ルゥがとち狂ってしまった。
と、失礼にもほどがある誤解をしていたからであった。
だがそこに偶然、
ネズミ系モンスターが通りがかったのだ。
これ幸いと、果肉をむさぼる。
しかし、つぎの瞬間であった。
突然、泡を吹いてひっくりかえったのであった。
そして、真っ白なお腹にである。
毒々しい斑点が、無数に浮かびあがったのだ。
文字通り、帰らぬネズミに。
骨すらも残さずに、消滅してしまったのであった。
そのような経緯を回顧しつつも、
アンリはなぜか、胸中で愉快そうにのたまった。
あぶない。いやーあぶなかった。
ほんとうにヤバかったよね?
いっさいとして、ネズミか?
哺乳類的な動物が消滅してしまったメカニズム。
仕組みは、理解できないけれども。
こちらは誠心誠意。
真剣な想いにより、決意したそばからだよ?
ハハハ。
食あたりで事切れちゃいました、残念。
なんて愚の骨頂じゃないか。
お笑いの世界に生きすぎているだろ……。
うん。たしかにだよ。
敬愛してはやまない祖父。
おじいちゃんからも、
口を酸っぱくして、こう教わってはいたんだよ。
拾い食いはよすように、ってね。
だからこそやはり、なにごともルゥか。
なにはなくとも、すべてはルゥのようなんだよ。
なぜならば、
昵懇の仲たる弟はとても博識なんだ。
ひいてはどうやら、
この奇怪な森に詳しいようなんだからね。
もしかしたらここで、
生まれ育ったようにも考えられるけど、
それも今は些事というもの。
とりあえずで、ルゥなんだよ。
しっかりと、ルゥに判断をあおぐこと。
それを指針として、生活していこうじゃないか。
情けのなさすぎる人生訓。
あらたな心得を胸に、アンリはうなずいていた。
いぜんとして、アンリはご機嫌である。
眼前のちいさな頭頂部を、なでつづけてはいたのだが。
いやおうもなく、
その手がピタリと止まったのだ。
その理由はひとつ。
アンリの視界のすみをなにやら、
怪しげな陰がちらついていたのだから。
「うん?」
アンリは神妙な顔つきである。
おもむろに、遠目の木の上方。たくましい枝のほうを指差した。
そして、情けのなさすぎる人生訓。
心得を尊守するべく、問いかけてみた。
「ルゥ。あそこになにかあるぞ。
巨大で真っ黒なシロモノが……。
いったい、あれはなんだ?」
「ギ、ギィ……!」
たちどころに、ルゥは悲鳴を上げた。
アンリへと、足早に身を寄せていく。
「ええ、昨夜からずーっとですよ。
それにしても、間抜けな寝顔でしたね」
巨大で真っ黒なシロモノがである。
そのように想起しているのかは、さだかではなかった。
けれども、アンリたちを夜通し、
監視しつづけていたのは事実なのであった。
当然のように、
生まれつき能天気なエルフ。
楽観主義者には、知る由もなかったが。
いまもなおも、
真っ黒なシロモノは興味しんしんとばかりだ。
木々の上方。
幹の上に立ちつつも、こちらをうかがっているようであった。
そう、それこそが密林の覇者。
まがうことなき、エリアの旗頭。
歴戦の戦士然とした、
四本腕の大猿の雄であった。
体長は有に、二メートルを越えているだろうか。
まさしく筋骨隆々である。
威風堂々なる立ち姿であった。
一見するにゴリラ。
それと類似してはいるが、似て非なる怪物だ。
名称の通りである。
特徴的な四本の腕は、
両肩と両脇の下に、二本ずつ生えそろっていた。
際立っているものはひとつ。
過去に、死闘でも繰りひろげていたのだろうか。
見る者を圧倒させるであろう、隻眼であった。
左目の傷痕は、なまなましい。
縦に横断するように、きざみこまれていた。
じつに雄々しいものである。
まぎれのない王者の風格を、いかんなく発揮していた。
茹だるような気候のなか。
身体中から流汗しつつも、大妖魔と覇者。
両雄の眼光は交錯していた。
それはいわゆる、確認。言外のふくみなのだ。
鋭利なる目配せにより、
不毛に終止するであろう、会話をおぎなっているのだから。
どちらがより高みにいるのかを、
どちらがより強いのかを、
骨の髄まで知らしめてやろうではないか、と。
風雲急を告げる、南密林エリア。
このエリアにおける、逸脱者同士の対峙であった。
両者から放たれてはやまない波動。
濃密なる殺気はおどろおどろしい。
周囲から、音という音を消し去っていた。
おおむねではあるが、
ルゥは緊迫感に気圧されているのかもしれない。
いやにクリアにである。
ルゥの喉が鳴った、一拍ののちであった。
さきんじて、四本腕の大猿が動いた。
だしぬけにも、四本の腕を鷹揚にひろげていく。
そして、
天を貫かんばかりの咆哮をとどろかしたのであった。
さすがの覇者。
旗頭たる獣と言ったところか。
音の暴力はけたたましい。
まるで、あたりは被災地である。
超音波の暴風にでもさらされたかのようだった。
木々は折れ曲がる。
激しく振動していた。
葉と葉がこすりあわせられる音色が、騒がしい。
色あざやかなオウム系モンスターが、数十羽。
奇声をわめきたてながらも、一斉に飛びたっていった。
いましがた、雄叫びが止んだ。
そろりと、
四本腕の大猿は地面に降りたった。
より鮮明に、姿態があらわとなる。
被毛は短くも、ダークブラウン。
それに、刈りそろえてでもいるかのようだった。
被毛は逆立っている。
炎天下の陽炎のようだ。透明な闘気を体中にまとっていた。
ルゥはというと、
両耳を両手でふさいでいる。
震えつつも、半泣きの有り様であった。
これは余談ではあるがおまけに、
せっかく治りかけていた、初日の古傷。
右耳の鼓膜のほうをまたやられていた。
是非もなし。
さあ、決闘と参らんではないか。
などといわないばかりだ。
密林の覇者の眼光はするどい。
戦闘準備も意欲も、万端のようであった。
逃げおくれて、竦んでいた小鳥が一羽。
意を決したのか。
飛び去った瞬間、転じた。
まさしく烈火のごとくだ。
密林の覇者は怒涛の勢いであった。
邪魔をするな。
邪魔をするものは、うむを言わさずに殺すぞ。
などと暗唱してでもいるかのよう。
軽々と木々をなぎ倒す。
木の葉や粉塵を撒きちらしつつも、疾駆した。
しかれども、
そうは問屋はおろさなかった。
愕然とすべきことに、
密林の覇者は疾駆してはいた。
いたのだが背を向けたのだ。
ようするに、
アンリたちとは正反対の方角へと、
脱兎のごとく逃走していったのだから。
「はぁ?」
まさに混沌であった。
ルゥの流暢なる亜人語。
疑問符が、
口をついて飛びでてしまうのもムリはなかった。
おそらくではある。
あるがルゥの脳内には、
血で血を洗うような地獄絵図。
凄惨きわまる、覇権戦争でも描かれていたのだろう。
しかしそれとは、
やけにかけ離れた平和的な解決には、
ルゥも愕然のようである。
滑稽にも、
口をポカンと開けた様相によりフリーズしていた。
これは憶測ではあるが、ルゥと同様に、
四本腕の大猿も竦んでいた。
ただたんに、怖じけづいていただけなのかもしれない。
なぜならば、常時である。
絶対者の華奢な肉体からは絶えず、
甚大なる威圧感が、
魔力の波動が放散されつづけているのだから。
それはある種、心を。行動を阻害するのだ。
たとえるのならば、
道を極めし達眼の士が、
行使する拘束魔法のようなものなのだから。
なればこそである。
無遠慮にもがんじがらめと、
大猿の骨身へと巻きついていたのだろう。
したがって、恐怖心による動作の抑制。
畏怖めいた観念による逃避。
それらの明瞭な行為から察するに、
大猿はこのように思慮していたのかもしれない。
化物に、見つかってしまった。
逃げなければ殺られる。
逃げても殺られるのかもしれない。だが、逃げなければかならず殺られるのだ。
強大なる大妖魔にである。
相対した、か弱き獣の思考が、
そのように推移していくのは明晰。もはや、必然とも呼べるのだから。
おおよそ、
睨みを利かせていたわけではないのだ。
たんに蛇に睨まれた蛙と、
成り果てていただけなのだろう。
つい先刻の天を衝くような怒号。
それもまた、
だんじて威嚇などの趣意ではなかったのだ。
己の身を拘束せんとするナニカ。
不可視なる波動を、
打破したかっただけなのかもしれなかった。
だからこそである。
強引にも、
封印を解き放ってみせた大猿は、
勇気を奮いたたせて疾駆。逃避したのだと察せられていた。
一方、アンリはどこ吹く風。
恐怖心などみじんもなかった。
あまつさえ、なぜか。
それはそれは、夢見心地なご様子であった。
ゆるみきった面持ちは奇異である。
ある種の、精神病をわずらっているかのようだった。
「ゴリラ、だよな。ルゥ、ゴリラだったよな?
猿か? 大猿なのか?
いいや、ゴリラだ。ゴリラ以外の何者でもなかったんだよ。
あれは……、まがうことなきゴリラだった。
ここらにたくさん、生息しているのかなぁ、あのゴリラ。
それにしても、なんというヤバめなゴリラなんだろうか。
はじめてのゴリラだ」
ゴリラの大盤振るまい。
いまやもう、満漢全席であった。
一足さきに、
ルゥは正気づいていたのだが。
ゴリラという単語の八連発。
はなはだしき列挙のほどには、ジト眼であった。
けれども、自明なことにである。
四本腕の大猿と言えども、
生物学的にはゴリラで誤りなどはないのだ。
ルゥは精根尽き果てたかのよう。
頭の弱い子でも見るようなまなざしにより、
おざなりの首肯だけを返した。
しかし、侮ることなかれ。
破天荒はブレない。
ヤッカイな薬でもキメているかのよう。じつに浮世離れしていた。
いともたやすく、常識の垣根を超えていったのだから。
泣く子も黙る南密林エリア。
そこに、混沌が。
ぎょうぎょうしき、混沌空間が再構築された。
「うーん。そうだなぁ」
「……ギ」
「……餌づけでもしたかったなぁ」
「え、ええ? はぁ? はぁ?」
繰りかえされた疑問符の羅列。
リフレインした亜人語は、小康状態の密林に響きわたっていた。
常識的に一考して、だ。
あのような獣を、飼い慣らせる道理がないではないか。
なにを宣ってているのだ、コイツは?
とでも、ルゥは言いたげである。
半眼を維持しつつも、固まっていた。
「だけど、餌づけるものがないじゃないか。
くそう。特大のアセロラではダメか? 死んでしまうのか……?
いや、わからないぞ。
ゴリラならば、だ。
あの隻眼のゴリラならば、なんらかの消化じゃないな。解毒能力を持っているかもしれないんだ。
そう、あのゴリラは例外だよ。
ゴリラを侮ってはならない。と、肝に命じるんだ。
悔しい。とても悔しくはあるけど、まずは俺たちの餌づけが先決だろう。
だけどゴリラが。
ああ、ゴリラゴリラ……」
大猿が逃走していったさき。
見るも無惨に成り果てている方角に、アンリは釘づけ。
名残惜しそうに眺めていた。
もちろんのことである。
ルゥはというと、ドンびきのようである。
スゲーヤベェやつ、を見る目であった。
フゥと、ひとつため息をつく。
いらだちを隠さぬままに、アンリの片腕を引っぱる。
そのまま歩を進めていった。
アンリはされるがままである。
千鳥足になりながらも、要所から視線ははずさない。
かすかな声音でつぶやいた。
「ルゥにもゴリラにもご飯を……」