擲果満車の加護
南密林エリアは、朱に染まりつつあった。
大猿の影も、
むしむしとした酷暑も、いくぶんかは鳴りをひそめている。
あざやかな鳥や虫の鳴き声が、あたりに響いていた。
奇想天外。
魅惑のゴリラ事件からは、数時間ほどが経過していた。
待望の、待ちこがれている目的地。
河へとむかい、
ご一行は道なき道を進んでいた。
我先にと、先頭を行く大妖魔。
アンリはというと勇壮である。
周囲に気をくばりながらも、着実に歩を進めていた。
さきを行く、その背はちいさい。
一見するに、おぼつかぬ童のようではあった。
しかしながらである。
ルゥの視界には壮大なる背中。
ド迫力かつ、異様なものとして映りこんでいた。
アンリと比べて、
ルゥの背丈は頭ひとつぶんも低い。
そのような身長差により、
歩幅も違っているというのに、はぐれたりはしていなかった。
自明なことにである。
アンリがさりげなく、
歩調を合わせていたからだろう。
自然をよそおった配慮。
そのもの柔らかな憂慮に、
ルゥが知見できない道理などはなかった。
ふいに、
彼女の全身は震えはじめる。
胸中でのみ、ゆらぐ内情が露呈されていった。
純然たる猛者であるアンリ様が、
このような愚にもつかない弱者に、
僕などに、慈悲深き憂慮をしてくれているとは……。
強者が、弱者を打算なく庇護する。
ひいては、姫の危機にさっそうと駆けつける騎士。
そのような存在はまぼろしだ。
まやかしにすぎない。
シビアな現に、存在してはならぬのだ。
然りではないか。
がんらい、
そのような熱血漢など空想上のシロモノなのだ。
陳腐なお伽噺のなかにだけ存在する、幻影にすぎないのだから。
なればこそだ。
僕は心底、卑下していた。
嘲っていたのだ。
そして痛切なまでに、承知してもいたはずなのだよ……。
そのような概念は、
けっして渇求してはならぬ幻想なのだ、と。
無意味かつ、無価値にすぎた虚像であるのだ、と。
それなのに、なんの因果か、いる。
すぐ近くに。間近に。
傍らに、まざまざと顕在していたのだよ。
こころやましいが、
利用価値など皆無の僕を、
尊き仁心から守護せんとする英雄。
ほんらい、
夢物語にだけ実在するはずの、勇壮なる騎士が……。
自身のしでかした事のおおきさを。
貴方は了知しているのだろうか。
事解、しているのだろうか。
それは、
耽美にすぎた罠でなければならない。
悪辣なる狡計であるべきの、あるまじき真実なのだと……。
必定の理。
優勝劣敗の法則をねじ曲げんとする、反逆行為。
このお方はいまもなおもだ。
大言壮語などではなく、
言葉通りに、
たわけきったルールを、風習をねじ曲げようとしているのだ……。
ルゥは血が滾ってしまう。
アンリ様は、
はなはだしくも卓越した、士君子にほかならない。
と、なおも沈思黙考していった。
密林の覇者。
酷悪なる獣。
四本腕の大猿の眼前におかれても、
アンリ様は終始一貫としていた。
自然体のまま。泰然自若なる精神を貫いていたのだよ。
そのような在り様は、
遭逢してから刻下まで不変。
いや、もしかしたら、
生誕してから永続的に、なのかも知れないが。
まあ、どのようにせよ一目だ。
ただその双眸で。
その蒼き瞳で、映しだされただけで潰えたのだ。
隻眼の覇者は、敗退を余儀なくされていたのだから。
フッ。彼のお方には、
闘争すらもが不要だったのだよ。
なぜと問うに、
なかば強制的に知覚させた。
暗にさとらせてしまったのだから。
どちらが栄光の勝者となり、
どちらが恥辱の敗者となりうるのかを。
もとより、
そのたび外れた偉容に際限などはなかった。
不可能すらもがなかったのだよ。
傍若無人に、だ。
振る舞うことを裁可されていたはずの、大猿ども。
覇者たりうる、獣の頭を垂れさせたのだから……。
そうだ。そう、だったのだよ。
アンリ様は雄々しき背中により、
立ち振舞いにより、僕にこのように暗証していたのだから。
「ルゥ。この俺が、だ。
そこらの羽虫同然のゴリラ。
大猿ごときに、思議しなければならぬ謂われがあるのか?」
自然と、
ルゥは武者震いしてしまう。
畏怖めいた崇敬の念は、
ひとりでに沸きあがっていった。
焦げ茶色の瞳はかっ開かれている。
わずかにさきを行く、アンリの背。
威風堂々たる背中に、釘づけとなってはいた。
けれども、邪魔がはいる。そう長くはつづかなかった。
その原因は大妖魔。
ご本人登場から逃げまどう、劣等種たちの悲鳴であった。
そしてある種の嫉みにも、
水を差されていたからであった。
それにしてもまいった。
アンリ様には、まことに窮したものだった。
ゴリラ、ゴリラとだ。
下劣なる大猿に、
あれほどまでにご執心なさっていたのだから、な……。
な、ならば、僕のほうが。
あのような筋肉の塊まり。
腕力というメリットをのぞいて、
凡愚なヤカラよりか幾許かは、
僕のほうがまだ、可愛らしい、はずなのに……。
ま、まさか。き、筋肉なのか。
アンリ様はおかしな趣味を。
風変わりな偏向を、持ち合わせているとでもいうのか……?
い、いいや、違う。
なぜと問うに、あれは雄だった。
たしかに雄だった、はずなのだ。
いささか、
大猿の生態にかんして不透明ではある。
あるのだが、
あのようなパワフルな雌がいてたまるか!
そ、そうだ。それならば、だよ。
あのような低劣にすぎる脳筋よりかは、僕のほうが……。
その、なんというか、小柄だし。
眇々たるものは愛くるしいものなのよ。
と、母上から聞きおよんでもいたし……。
ルゥは暗中模索していたのだ。
そのせいにより、足取りは止まっていたのだが。
「ルゥ。どうした?」
微細ではあるが、
アンリは神妙な顔つきであった。
ルゥは呆気に取られてしまうが、
すぐさま我にかえる。
胸中での忸怩たる想い。
内心をごまかそうと、
ひきつった笑みを浮かべつつも、寄っていった。
「……ギ」
アンリは安堵したのだろう。
優しげなふくみ笑いを浮かべる。
なおも先導しつつも、ゆっくりと歩きはじめた。
ここで余談ではあるが、ひとつ。
ルゥルゥという名の特性。
個の本質について、触れようではないか。
小鬼族の小児。
亜人種に嫌忌されている面貌。
とがったおおきな鼻に。鋭利なギザギザの歯牙。
あまつさえ威度に、
むりやり当てはめるのならば最下級。D級である。
まさしく欠点だらけ。
残酷にすぎた特徴ばかりではある。
さりとて、ルゥはひとつだけ。
頭脳明晰。ならびに、博識という特異性を備えていた。
けれども、
博識なのは生来からではない。
もちろん加護や、天からの授かりものでもなかった。
すなわち、努力の賜物である。
怜悧なる頭脳を腐らせない、知識への渇望。
飽くなき探究心から、成りたっていたのであった。
ルゥは生まれてすぐに、
この世のたわけきったルール。
忌み子という風習を理解、
解釈するとまたたく間であった。
自らの存在が、
明るみに出るということの結末。
どのような結果をもたらすかなど、息を吸うように想察していた。
なればこそ、
生を受けてからの八年間。
日々、毎日、一分一秒すらもをムダにはしなかった。
朝から晩まで、
地下室に缶詰め状態。
外界への好奇心を断ち切るかのように、
ありとあらゆる書物を読破し、ただただ熱心に学修につとめていた。
明晰なことにである。
そう、ルゥは用心深いのである。
混じり気のない、現実主義者なのであった。
だからこそ、
怜悧なる頭脳は羨望などしない。
幸福な未来像などを、夢想することさえもなかった。
なぜならば、
幸運や、偶然の連続による生存。
強者による庇護など、幻想にすぎない。
己にはおとずれぬ夢物語である。
と、はなから嫌忌し、唾棄していたからであった。
なればこそである。
感情的になってはいけない。冷静さを逸してはならない。
緻密に冷静に。
ルゥはつねに俯瞰で、
物事の全体像を観るように心がけていた。
だからこそ、
ルゥは驕らない。
悲しくは思えど、以下のような結論にいたっていた。
物事には限界、
限度というものが存在しているのだよ。
まことにありがたくも、
どうにか匿ってもらってはいる。
しかしこの僕も遠からず、いつかは……。
なればこそだ。
ガルディード大森林。
この終の地についても、
丹念に、調べつくしておかなければならない……。
あいも変わらない悲鳴。
やかましき騒音がこだますおり、
ルゥはとある疑念を抱いていた。
四本腕の大猿は、
魅了といった魔法、特殊技能などを有していただろうか、と。
おもむろに、ルゥは目を細めた。
足を動かしつつも、
口を真一文字に引き締める。
無表情のままに。深く思索しはじめていった。
うーむ。
記憶のなかにはなかった。
僕は四か国の威度事典を網羅し、
その一語一句総てを、記憶しているはずなのだが。
断じて、記されてなどはいなかったのだよ。
ならば、なぜだ……?
まあ、粗雑にも一考するにだよ。
ひとつ想起させられるのは……、稀少種だろうか?
あのような愚劣なるヤカラ。
忌々しき隻眼の大猿は、
加護持ちだとでも言うのだろうか。
そう、か。なるほど。
あのような脳味噌が、
筋肉により構成されているような痴れ者が、
稀少種、だったとはな。
信じがたいが、否定はできない。
たしかに、蓋然性はあるのだよ。
ならば奴は、
魅了などの効果を発揮する加護持ち、か。
どのような顕在化条件。
制約があるのかは不明ではあるが。
これはまいった。
まことに、窮する事態と言わざるを得なかった。
アンリ様のハツラツとしたご威光。
勢威のほどに触れて、一度退いてはいたのだ。
だが、しかしだ。
このような反則的な能力。
加護になど、太刀打ちできうる手段がないのだよ。
僕にはかんぷなきまでに、
思い浮かびそうにもなかったのだから……。
こ、このままでは危うい! 危ういぞぉ!
アンリ様の高潔なる貞操に危機が!
危険が迫っているのだから……!
なぜならば、
同性が救いとはならない。
奴は雄ではあるが、奔放なる獣なのだよ……。
なればこそだ。
魅了が効果的だと知覚されてしまえば、増長。
図にのるのは必然と言えよう。
あまつさえ、
おまけに奴は、毛むくじゃらときている……。
……だが、待て。
おかしい。僕は重大な思い違いをしていたのだよ。
それは僕、自身だ。
異性であるはずの僕が、
魅了されていないというのは、不可解なのではないか?
しかし、このように言いたい。
声を大にして宣言したいのだよ。
僕は断じて、魅了されてなどはいない、とな。
なぜと問うにだ。
僕は心の底から、
あのような毛むくじゃらの獣を嫌忌している。
どのような手段をもちいてでも、
息の音を止めてやりたい。
そのように、せつに願ってもいたのだから。
うむ、そうだな。
同性の益荒男。
士君子だけに、
効果を発揮するというのならば、話は別ではあるが、な。
まあ、どのようにせよだ。
たわけきった神々の恩恵。
空漠たる加護持ち、とは言えだぞ?
もとより、
完全無欠なるこのお方。
かくいうアンリ様が、
たかが劣等種の魅了ごときに、
毒される道理などなかったではないか。
アンリ様は、
悠々と常識の外を歩む大妖魔。
魅了に対する耐性も有しているはずの、
超越者なのだから、な。
いや有してなどいなくとも、
お遊び感覚により、打ち消してしまうのは想像にかたくない。
が、正確と言えよう。
うーむ。それならば、どうして。
アンリ様は、
あのような下賎なゴリラにご執心なさって……。
まさに堂々めぐりである。
ルゥが四苦八苦。苦慮している最中だというのに。
アンリはどこ吹く風である。
意気揚々と先導をしつつも、
のんきな鼻唄を口ずさんでいた。
超がつく危険地帯のまっただなか。
だというのにもかかわらず、
ちょっと友だちん家に遊びに行ってくるわ。
とでも思しき軽快さであった。
むろんながら、
アホの子のような姿態ではある。
あるのだが、
なんという、偉大なるお姿なのだろうか……!
と、ルゥは感動しきりだ。
神にでもご祈祷しているかのように、
胸の前で両手を合わせていた。
しかれども、つぎの瞬間であった。
唐突にも愕然と、
ルゥの目が見開かれたのであった。
ま、まさに狡猾なる大妖魔だ。
いまやもう、神算鬼謀と呈せざるを得なかった。
まさか、まさか。
いっさいの例外などなく、
僕の思いつくかぎりの総てが、謀略への布石だったとでも言うのか……!
僕も大猿も、
有象無象のモンスターにいたるまでも、手のひらのうえだったのだよ。
つまりは、
密林に棲息する総てのものは等しく、
いつとはなしに掌握されていたのだから……。
南密林エリアを征する旗頭は、大猿ども。
四本腕の大猿の一群であるのは、論を俟たない。
暴虐の主の支配。
蛮行は幾星霜にもおよび、右も左も抗わず暴状に甘んじていた。
しかし、アンリ様は顧みない。
暴虐の主をないがしろにするのだ。
眼前に、
存在すらしていないかのように振る舞う。
断固として、脅威とは裁許しなかったのだよ。
それは大猿に、
より劣等種への牽制に、
自らの偉力の誇示に、
ひいては、僕への慈愛に満ちた謀略に。
同時並行的に推移する策略。
計謀なのだと、
解明しきってみせたのだと、僕は確信していた。
だが、しかしだ。
まだ、存在していたのだ。
まことに驚嘆すべきことに、
とある思惑が隠秘されていたのだ。
目論見は、
闇にまぎれるようにひそんでいたのだから……。
そう、僕は読み違えていたのだ。
このお方の、
その他への甚大なる影響力。
波及していく速度というものを。
アンリ様という正体不明の個。
大妖魔の出現は、
ただただ脅威そのものだったのだよ。
然りではないか。
あきらかに、
天からもたらされた救世主などではない。
凶悪なる化け物に、相違などなかったのだから。
一目で愕然としただろう。
竦みあがってしまっただろう。
そう、そこらに隠れている奴ら。
矮小なる、
モンスターどもの視点から鑑みれば。
このけた外れた魔力を有する化け物。
闇の妖精族は、何者なのか。
逃げろ。さきんじて逃げるのだ。
たいていは、
即時に逃避しようとするだろう。
だが、しかしだ。
このエリアには、逃亡できぬものもいるのだよ。
つちかってきた自尊心が反発する。
愚かにも、手枷となる大猿ども。
ならびに、身動きの取れぬもの。
あるいは、
ほかのエリアでは生存競争に勝てぬもの。
そして、ただたんに愚かなものに大別されるだろう。
予想だにしなかった大革命。
それは、前古未曾有の巨大な波のようなものなのだ。
か弱き奴らは戦々恐々。
成り行きを見守るしか、ほかに術はないのだから。
然り、ではないか。
知覚しているのだ。予見しているのだよ。
楯突いた向後に待ち受ける最期。
自らの悲惨な末路を、な。
そして、それはつまりだ。
アンリ様がこの密林に来られて、
間もないという事実も示していた。
明晰なことにアンリ様は、
卑小なものの思慮など一瞬。
息を吸うように、刹那的に解してしまうのだよ。
なればこそだ。
このお方の類い稀なる頭脳。
勢威のほどであれば、
暴虐の果ての支配も実行可能だったはず。
だが刻下として、この僕がいる。
お荷物な僕が、いてしまっているのだ……。
そのような足手まといは切り捨てればいい。
しかれどもアンリ様は、
そのような選択をしなかったのだ。
なんという慈悲深さ、なのだろうか……。
なんら慨嘆のお言葉もなく、
即座に安全策へと切り替えたのだ。
第一に僕の身を案じてくれて、
一朝一夕にはいかぬ、
策謀による支配を構想しはじめたのだから……。
なればこそ、
なみなみならぬ聡慧なる頭脳。
それが弾きだした答えは、一気呵成ではない。
悠然自若なる振る舞いだったのだよ。
そうだ。
生物というものの本質は、強者に萎縮する。
ひいては、忍びよる死へと恐怖してしまうもの。
そしてなによりも、
理解不能のものに震えおののくと、
知覚していたからだった。
ガルディード大森林。
魔境の掟は古来からの必定だ。
暴力で征した主は、
次代の暴力の申し子により討たれる運命。
劣等種どもは独りごちるのだよ。
大猿どもの天下は終わる。
だが、あらたな暴虐の時代が幕開けるだけだ、と。
だというのにもかかわらず、
このお方はなにもしない。
ただ、生きているだけなのだ。
それはそれは、異常事態だろう。
わけがわからないのだ。
絶大な魔力を保有する者が、暴状に明け暮れないのだから。
暴力を生業としてきた奴ら。
モンスターの視点から鑑みれば、
混迷の極みとなってしまうのは、明晰なるものだった。
四本腕の大猿の頭までもを、垂れさせたというのに……。
なぜ、殺さないのか。
なぜ、大猿を逃がしたのか。
なぜ、周囲に害意を撒きちらさないのだろうか。
なぜ、だ。どうして、だ……。
理解ができない。
だからこそ、もの恐ろしい。
もしかしたら己は、殺されはしないのだろうか……。
そう、然りではないか。
耽美なる希望を、
捨てることなどできないのだから。
そしてそののち、奴らは闇に堕ち行く。
絶望に、打ちひしがれてしまうのだよ。
いや、そのような道理はない、と。
奴は悪魔なのだ。
油断しきったそのせつなに、
まがまがしき本性をあらわにするのだ、と。
まさしく堂々めぐりだ。
多種多様な劣情が、脳裏をよぎるのだよ。
僕も同様だった。
だからこそ、手に取るように解釈できるのだ。
それはまるで洗脳かのよう。
ゆらぐ猜疑心はしだいに、
風船がふくらむかのように、
肥大し拡大されていくのだから。
日を追うごとに、だ。
アンリ様の、膨大な魔力の波動を知覚するたびに思う。
どうにか、今日は生き残れた。
それでは、明日は……。
殺せない。殺されたくもない。
時が経てば経つほどに、
アンリ様という存在感は浸透していくのだ。
知らぬ間に、奴らの心の根を、
恐怖心という縄で縛っていくのだよ。
そして、
まさに驚天動地だ。
言葉を失ってしまうほどの、神がごとき所業だった……。
なんと神算鬼謀の主は、
値打ちのなき僕にも、
付加価値を与えてくれていた。一助としてくれていたのだよ。
ようするに、脆弱なる小鬼族。
僕という存在さえもを、逆手に取っていたのだ。
彩りのスパイスとして、
有効利用してくれていたのだから……!
一体、どうなっているのだ。
どのような頭の構造をしているのだろうか……。
許されるのならば、覗いてみたい。
そのような衝動に駆られてしまう。
もはや軽々と、
生者を逸脱しているようにさえ感じられていた。
それはそうだ。
そうに決まっているではないか。
愚者は愚者なりに。
知者は知者なりに、五里霧中となるのは明白だった。
あのか弱きゴブリンは何者だ、と。
あの蛆虫のような下等生物はどうして。
強者であるはずの自身が、
震えおののいているというのに。
弱者であるはずのゴブリンが、死から庇護されているのか、と。
弱肉強食の不易しか知らぬ、獣ども。
奴らの行動原理から鑑みれば、
クズ同然の僕の存在は解せない。
喰らわずに、
庇護する必要性が理解できないのだよ。
なればこそだ。
僕の立場は狂おしくも耽美。
羨望するのも当然。
憎悪するのも自明の理だった。
降って生まれた僥倖に、焦がれてしまうのだから。
そのような有象無象のヤカラども。
劣等種に対して、
アンリ様は、まざまざとひけらかしていたのだよ。
劣等種であるはずの僕への、
もの柔かな憂慮を。
大猿の魔手からも、庇保せんとする形容を。
すると、自明ではないか。
虐げられていた弱者ども。
ほかの劣等種たちの胸中が、
このように推移していくのは灼然たるものだった。
南密林エリアの新たな旗頭は、
粗暴な大猿などとは正反対の、穏和な方のようだな……。
暗証しているのだよ。
あのようなゴブリンさえもを、
庇護しているというあるまじき事実が。
それならば、
あのゴブリンよりかは屈強な自身であれば、
高く優遇されるのではないか……。
まことに、尋常、ではない……。
これはある種の、神格化ではないか。
虐げられていた弱者の思考を看破し、
ものの見事に操ると、
南密林エリアの完全征服を狙っていたのだよ!
脆弱な者を救い上げる、
救世主に扮して、
アンリ様はあまたの劣等種を信者と化し、
一大勢力を築き上げて、次代の王とならんとしていたのだから……!
これは下知、だ。
遼遠なる境地に立つ王。
アンリ様により公布されていた、下命だったのだよ。
密林に棲息する総てに。
あるいは、
ガルディード大森林全土に向かって。
穏和な道化に隠れた侮蔑の嘲笑をもって、
声高に布告していたのだよ……!
「俺はここの王となるが、難事がある。
誠に慚愧に堪えないのだが、配下の数が欠けているのだ。
誰か、いないものか。
定員は有限。早い者勝ち、だぞ?」
たしかに言っていた。
アンリ様は、このようにおっしゃっていたのだ。
生活基板をつくらなければ、と。
かすかな声音により、ねぼけまなこな僕に。
まさに白痴、だ。
僕こそが、無知蒙昧と言わざるをえなかった。
なぜならばだ。
僕は安全を確保したのちに、
棲家でも用意するのだろうか。
と誤解していたのだが、異なる。
「ルゥ。密林を獲るぞ」
重大なるヒントをもらっていたというのに、僕は……。
いまだ、姿カタチは少年。
あどけなさの残るお姿だというのにもかかわらず、
この阿鼻叫喚たる密林そのものを、
棲家とする。
そのように、暗に示していたのだよ……。
まさに想定外の着想だ。
僕の視点などとは着目点が、
見えている景色が、瞭然までに違っていた。
「ルゥ。俺と共に在るかぎり、臆する必要はないぞ」
……然り、ではないか。
王の息のかかった者を、
どこの誰が害せるというのだ。
神の啓示に等しき思し召し。
慈しみに満ち満ちた含意。
そう、アンリ様に言葉は不要。
いっさいとして、肝要ではなかったのだよ。
まさに……、
比類なき益荒男の背中だ。
その背中だけで、
ゆるがぬ指針を、僕に指し示してくれていたのだから。
ルゥは火照りを鎮められない。
身体中はあわい熱をおびていた。
なぜならば、
いまならば気づけるのだ。
あきらかに、感じとれていたのだから。
木々のあいだ。空。
はたまた、地のそこからも。
うす暗闇から探るようにむけられる、
烏合の衆の遠慮がちな視線が。
機をうかがっているのだよ。
しかし、それはよこしまな着想からではない。
とルゥはより一層、昂ってしまう。
ところがである。
視界のすみに、とある低木を発見した。
真っ赤な小粒の実が成っている、本物のアセロラであった。
ルゥは瞬時に、
ある種の違和感をおぼえていた。
これほどまでに聡慧なるお方が、
そこらの幼子も知覚しているはずの毒物を。
紛いものの果実を、存じていなかったのだろうか、と。
いわゆる、紛いものの果実とは、
大人の手のひらほどもあるアセロラである。
あわや、アンリを昇天させかけた毒物でもあった。
その特性は珍妙である。
毎季節ごとに適応した、
変貌をとげていく果実であった。
旅人殺し。などと、
ぎょうぎょうしき俗称で呼ばれてはいた。
さりとて、看破はたやすい。
どのような姿形でも、
特大という特性を有しているためであった。
そのようなあからさまな罠。
毒物にまどわされるのは愚者か、
飢餓におちいり、
前後不覚となっている者くらいであった。
そのうえ、
大森林固有の品でもないのだ。
イングリード島のあちらこちら。
外界の山奥にも、無数に群生しているのだから。
それゆえにこその違和感。
とたんに冷え冷えとしていく脳内。
より躍起に、
ルゥは思索しはじめていった。
そこに深い趣意があるのは明白。灼然たるものなのだから。
うーむ。そうだな。
魔法。技能。加護。耐性。
それらの要素などで解毒後、食用とせんとした。
見るからに、
アンリ様は空腹のご様子なのだよ。
で、あるからこそ、ありえなくはないのか?
あるいは僕には、
そのような方法など推し量れはしない。
だが、果実そのものが有益。
利益を生む、
という蓋然性はどうだろうか……?
だが、しかしだ。
致死に至る猛毒を有しており、
なおかつ、
幼児でも看破できうるあからさまな罠、なのだぞ?
うーむ。僕にはわからない。
メリットも。
有効性さえもが、まるで見当などつかなかった……。
……しかし、そうか。わかったぞ。
利益を生む、ではない。
利用できはしないか。
と、アンリ様は思いいたったのだよ。
そうだと仮定するのならば、
見えてくるものがある。
この難点にたどりつくのは、時間の問題だったではないか……。
第一にだ。
南密林エリアを、手中におさめんとしようではないか。
すると、気がかりはひとつ。
それは、卑しき大猿どもの動向にほかならなかった。
むろんのことながら、
アンリ様と比較するに、
有象無象にすぎぬ獣どもではある。
だが、数だけは驚異的なのだ。
まるで害虫のように、
目障りなほどに、夥しくあるのだから。
だが、しかしだ。
彼のお方の甚大なるお力。
偉力からすれば、
奴らなど塵芥にひとしい。
片手間にでも、駆除できうるのは明白ではあった。
さりとて、ここでひとつ。
とある問題点。難儀なる事情が邪魔をするのだよ。
それは、言わずもがな僕。
僕を庇護しながらでは、旗色が悪い。
無為な労力はいなめないだろう。
と、アンリ様は推測されたのだよ。
それゆえにこそアンリ様は、
終をもたらす毒物。
紛いものの果実に、白羽の矢を立てたのだろう。
こころやましいが僕には、
このような明瞭なるシロモノを、有益化する手段。
実践躬行する術など、思いおよびはしなかったが。
まあ、どのようにせよだ。
アンリ様には実現可能。
もしくは、可能とする奇策が用意されているのだろう。
変質させるにせよ。
謀るにせよ。
大猿どもに食させられるのならば、
死屍累々の山は目前。
もはや、滅亡は規定事項。約束されたようなものなのだから。
「あの隻眼のゴリラならば、なんらかの消化じゃないな。解毒能力を持っているかもしれないんだ」
やはり、か。
愚劣なる毛むくじゃらのせいで、
記憶が曖昧になってはいる。
いるが、物語るようにだ。
アンリ様は、このようにおっしゃっていたはずなのだから。
うむ。そうだな。
筋肉の塊まりどもが降服。
いさぎよく、服従するのならば良し。
しかし、だ。
あくまでも、手向かわんとするのならば、
無為な尽力を避けつつも、
殲滅する手段を模索していたのだろう。
彼のお方には、
妥協の二文字はないのだよ。
いぜんとして、
神算鬼謀なる頭脳は、
膨大な絵図を描きつづけているのだから。
まことに敬服せざるをえない。
本心からの、崇敬の念を禁じえなかった。
まるで、未来を先読むかのごとし。
にぶい輝きを放散している、水宝玉の双眸。
慧眼は一体、
どこまで遠くを見通しているのだろうか……。
これにて総てを、
解明しきったかのように思えた。
だが一点だけ、
よく飲みこめない部分も存在していた。
それは今日、
一日を通してのことだった。
アンリ様は僕へと、
あからさまなほどにいくども、
無知を装おっては問うてくるのだから。
穴があったら入りたい。
そのように想起してしまうほどの勘違いから、
アンリ様の手を叩いてしまった時もそうだった。
不敬な態度を咎めもせずに、
助かった。
と深刻な表情により、
僕をまじまじと見つめていたのだから。
さきほどもそうだったのだ。
知覚しているのにもかかわらず、
片目ゴリラを指して、僕に問うていたのだから。
明々白々なほどに、
白々しきまでにアンリ様は、
不知の仮面を貼りつけつづけていたのだよ。
しかし、そう、か。
そうであるのならば、合点がいくではないか。
僕の知能の程度を、
含有する知識量を、推し量っていたと推し当てるのならば……。
「大猿を、察知しているか?
威度B級モンスター。
南密林エリアの旗頭。
四本腕の大猿だと、存じていたか?」
そう、か。まさしくだ。
このように、
暗証しているようなものだったではないか……。
そして、その真相はひとつ。
僕という存在に刮目。
白羽の矢を立ててくれていたという真実。
つまりは、
急成長を見込まれていたのだよ。
そう、だ。そうだったのだ。
僕ごときを信頼してくれていた。
信認されているがゆえの、所業だったのだよ……。
とどのつまり。
詮ずるところは……。
「愚か者で在り続けるのであれば、下知しようではないか。
しかれども、その必要性は皆無だ。
なぜならばルゥ。
お前ほどの逸材であるのならば、言葉で呈さなくともわかるだろう?
そうだ。さあ、昇るのだ。
王の領域は遥かに高く、遠いぞ」
嘱望されていた。
生まれながらの王。王に僕は、所望されていたのだよ……。
朱に染まる密林。
生ぬるい風が吹きすさぶなか。
まさに平和ボケである。
アンリの不格好な鼻歌が、響きわたっていた。
おしなべて、
植物系モンスターは、身動きの取れぬものが多かった。
したがって、
超音波のようなヘタクソな鼻唄。
不協和音には、
劣等種たちも半泣きの有り様である。
けれどもルゥには、心地のよい旋律に聞こえていた。
叩きつけられるような水音は、
しだいに音量を増している。ルゥの耳をくすぐっていた。
鼻歌と、水音の調べは流麗にすぎる。
まるで、調和し合っているかのようだ。
とルゥは耳を疑わずにはいられぬ、
残念な思想にふけっていた。
そのようなさなかである。
唐突にも、
アンリが勢いよく叫んだのであった。
「ルゥ。川だ。川があるぞー!」
川べりにて、
喉をうるおわせていた水牛たち。
仲むつまじき親子は、その声に振りかえる。
そして、アンリを視認したとたんに気絶した。
然りである。
凶悪なまでの魔力の波動を放つ、
大妖魔が爆走してくる。
怒涛の勢いにより、疾走してきていたのだから。
一方ルゥは、彼の王の意外な一面。
演技とはいえ、
無邪気な幼子のような所作に、愛くるしさを感じていた。
自然と微笑んでしまう。
ほんのすこしばかりである。
水牛の親子には、心苦しく感じてはいた。
しかし崇敬する王の、
御心のままの笑みを絶やしてはならない。
謀略にそわなければならないのだ。
ルゥはことの本質を、
あらかた事解しきっているのだから。
肝要なことはただひとつ。
いまはただ、
バカの一つ覚えのように自然体を装おう。
喜色の感情を見せびらかすのだ。
それこそが、
烏合の衆の関心を買うにいたるのだから、と。
そしてそれこそが、
現下の僕にできうる唯一の力添え。
助力であり、なにはさておき、
アンリ様からご所望されている有り方なのだから、と。
壮大なる、南密林エリア。
広大な河川は蛇行するように、
北西から南東へと向かって、中央部を横断していた。
岸と岸の間隔はせまく、
谷間となっている。
棘の木々が、防波堤のように群生していた。
赤土の川原。
その地面には無数に、
コケのついた岩石が点在していた。
ゆったりと、川は流れゆく。
浅く、透きとおっている。
トウダイグサが密集し、水面から顔を出していた。
一行が進んできた獣道。
川べりから見るに、
右手のほうには切り立った山。
そびえるような高さの断崖が、見えていた。
その真下には滝つぼである。
打ちつけられる飛泉が、
音を立てつつも、深緑の薫りをはこんできていた。
まさに荘厳なる大自然である。
見えているなにもかもが、
夕焼けに染められて、寂寞感をかもしだしていた。
出遅れてしまったルゥ。
彼女は小走りにより、川べりへと向かっていた。
ただしアンリとの、
速度の差はだん違いなのである。
見る見るうちに、
目標の背中はちいさくなりはじめていた。
どうしてか、
アンリはというと上機嫌のようだ。
残念な子のように、血気盛んなご様子ではあった。
当然ながらこの河川にも、
悪鬼羅刹どもは息をひそめているのだ。
数多の屈強なる、
水棲系モンスターたちの楽園だったのだから。
広大なる河川。ソーン川。
その筆頭を述べるのならば、威度B級モンスター。
十文字槍鰐であった。
一見するに、
普遍的な鰐と似かよった形態ではあった。
だが、赤紫色の頑丈な皮膜からは、
ハリネズミのごとく。
おびただしき量の、
鋭利なトゲがむき出しになっていた。
その名称の通りである。
長く、ピンと伸びた尾。
その先端はまるで、十文字槍のようであった。
突き刺してよし。
なぎ払ってよしの、おおきな刃である。
いわゆる、クロステイルと呼ばれ恐れられていた。
いくぶん細身なために、
咬みしめる力はそれほどでもない。
けれども神出鬼没なうえに、とても俊敏であった。
そのうえ体長は五メートル。
を越える個体も散見されているほどである。
ソーン川の殺戮者。
そのような二つ名を冠している、モンスターであった。
これは余談ではある。
あるのだが密林内。その勢力図では二番手に甘んじていた。
なぜならば集団で襲いくるうえに、
ヤッカイな知恵をもつ覇者たち。
四本腕の大猿には、後塵をきっしていたからであった。
一方ルゥは、大真面目に警戒中だ。
周囲に目をくばりつつも、自戒していた。
第一に、現状としてだ。
身体を清めるにしても、
空腹を満たすために漁をするにしても、
じつに心もとない。
得られている情報が、僅少にすぎているのだから。
然りではないか。
このようなソーン川のなか。
水中は、鰐どもの領域なのだよ。
身動きが制限されてしまうのは、論を俟たないのだから。
そうだ。
用心しすぎるに、越したことはないのだよ。
脅威とは偶発的なもの。
安堵した瞬間を狙う、
狩人のような事象と称せるのだから。
老獪なる彼の王。
アンリ様にいたっては、僕のすぎたる憂慮。
わずかな懸念すらもが、必要はないのだろう。
だが、しかしだ。
かくいう僕は脆弱にすぎるのだよ。
なればこそ、緻密に冷静に。
自戒し、最善を選択しつづけなければならないのだ。
アンリ様に、いま以上の不都合を。
無為なご心労を、おかけしないためにも。
だが、そうは問屋はおろさない。
敵襲は、外側にこそ存在するはず。
そのように高をくくっていたルゥは、
見落としてしまう。忘失してしまっていたのだった。
いわゆるひとつの、脅威の火種。
そのような現象は内側からも、くすぶりうる。
という、冷厳たる側面を。
つぎの瞬間であった。
とち狂った狩人は、
ギリギリと、弓を引きしぼっていたのである。
そのまま混沌一矢。
とでも称すべき不可視の矢を、
ルゥの心奥へと射ってみせたのであった。
深々と、
射抜かれたルゥの状態は錯乱。
愕然と声もない。
最大限に、目をかっ開いていた。
しかし珍妙なことに、
表情は夢見心地である。
どことなく、耽溺めいた面もちでもあった。
なぜと問うに、
荒々しさがすぎている弓闘士。
アンリはというと、
気絶している水牛の親子など意にかいさない。
脇目もふらずに爆走したのち、
そのままソーン川へと、
悪鬼羅刹がひしめく水中へと、身を踊らせてしまったのだから。
それはそれはきれいな姿勢である。
グッドルッキングすぎるフォームであった。
両手、両肘、頭頂部。
そのような順番により、
豪快なる水飛沫をあげつつも、
その姿を川底へと消していった。
静まりかえっていくソーン川。
夕焼けに染まる世界に、心からの賛辞が響いていた。
「まことにすばらしい。
なんという見目麗しい。流麗な姿勢なのだろうか……。
古今東西、あれほどの飛び込みは……、って。
ちょっ! はぁ!?」
まさに混沌である。
尋常ではない混迷状態に少々、
長めの亜人語が飛びだしていた。
ほどなくして、
アンリの華奢な姿態が、
水面に浮上して来るやいなや、であった。
対岸へとまっしぐら。
やかましくも、
水飛沫を上げながらも泳ぎはじめたのであった。
魚もギョッとするだろう速度。
もはや晴れ晴れしいほどである。
漢の、バタフライ泳法をひけらかしていた。
またたく間に、
アンリはちいさくなっていく。
そこはかとなく、
野性味のあふれすぎた漢であった。
明晰なことに、
ルゥにはなにもできないのだ。
ハラハラと、
たわけきった泳者の無事を祈っていた。
しかれども、現実は非情である。
現在のアンリの位置と、
その目標であろう対岸。その軌道上にである。
ルゥは目視してしまった。視認してしまったのだ。
ソーン川の殺戮者。
十文字槍鰐が、ひっそりと待ちかまえているのを。
愚かなる餌がおるわい。
などと、鰐は言わないばかりであった。
波紋ひろがる水上に、
黄土色の眼だけを出している。
ついでまばたきを。
すなわち、瞬膜を繰りかえしていた。
後背のトゲは寝かせたまま。
ピクピクとゆれ動いていた。
一撃必殺なるクロステイルも、言わずもがなである。
準備万端と、
夕焼けを反射してにぶく光っていた。
「はあ!? ええ!?」
ルゥはというと大混乱していた。
判別不能なるギ。
それだけしか話せぬはずの小鬼族。
という、さだめていた設定など忘却の彼方であった。
アンリに届くわけなどない。
それは百も承知してはいた。
いたのだが、ルゥは錯乱中。あわてふためいているのだ。
泳者の背をつかもうと必死である。
前方へと伸びる両手は、
いくども空を切りつづけていた。
「アンリ様ぁ! ワニがぁ! ワニがいますってー!」
尋常ではない大音声であった。
懇願の叫声は、はかない。河川へと響きわたっていた。
しかしながらである。
なんぴとたりとも、
アンリの泳ぎは止められない。阻害などできないのだ。
なぜならば、まさしく精一杯。
意味不明にも、アンリもとても真剣なのであった。
いかに力強く、
両手を駆使して水面を叩けるか。
そのような種目に必死なのだ。
真摯に向き合っているだけなのだから。
俺はだれにも止められねぇーぜ。
とでも、誇示しているかのよう。
これぞ、益荒男のバタフライ泳法であった。
すこしばかり、
野性味にあふれすぎた餌は、捕食者と邂逅した。
我武者羅バタフライ野郎。
いまかいまかと待ちかまえる鰐。
主の最期を予感して涙目のルゥ。
まことにケッタイ。
奇異な三者三様ではある。
けれども幸運にも、王のご臨終とはならなかった。
なぜと問うにである。
鰐は石像のごとく、
ただ凝視しつづけていただけ。
隙だらけの獲物へと、喰らいつきはしなかったのだから。
それではいけない。
そのようなやる気のない態度では、いただけないのだ。
攻守とは水物。
それゆえにこその必然と言えよう。
闘いの天秤が、真逆へと傾いてしまうのは。
すばやい判断。
ならびに攻撃を、
意図したものなのかはさだかではなかった。
が、静止している鰐の鼻先へと。
バタフライ泳法中のアンリの左手、
手のひらが、
無慈悲にも振りおろされたのであった。
聞こえの良すぎる音色。
しめった破裂音がひとつ。夕闇迫るソーン川に鳴った。
静止した世界に、
滝の騒音だけがこだましている。
そのようなおりようやく、
鰐は我にでもかえったのだろうか。
しきりに、瞬膜を繰りかえしている。
一拍ののち、ぐるりであった。
北西へと舵を取る。
後背のトゲを逆立てつつも、猛然と逃亡していった。
やがて、
アンリは対岸にタッチした。
水面から上半身だけを出すと、振りかえる。
ルゥに向かって、
軽快にも親指を突きたてた。
「ルゥ! 気持ちいいぞー!
川も平穏そのものだ! 危険な生物もいないようだしなー!」
ルゥはというとホッとしていた。
だが顔色は青ざめており、
完全なるドンびきである。
ひきつった笑みのまま。おざなりの会釈だけを返した。
……フゥ。
まずは、第一に、なによりもだ。
危険な生物はいないって……。
いいや、いただろう。
たしかに、いたでしょう。いたの、だよな?
いささか、
自身の記憶が曖昧になってはいた。
しかし明々白々といた。いたのだ。
B級モンスターが。
ソーン川の殺戮者の名をほしいままにしている、化生が。
十文字槍鰐が……。
ま、まあ、なるほど……。
そ、そうか。そうだよなぁ。
アンリ様の観念では、
あのような鰐は、
危険なモンスターなどではないのだろう。
そこらの害虫とひとしい。
変わりはしないのだろうが、な……。
それにしても、
まことに常軌を逸している。
規格外にすぎているだろ……。
甚大なる化生をだ。
軽く叩いただけで、とか。
それだけで序列を。
身のほどをわきまえさせる、とか。
あまつさえ、
認識すらもしてはもらえない、とか。
ま、まあ、な。
当然ながら、
アンリ様は鰐を認識をしていた。
ようするにそのような言動は、
烏合の衆へのアピール。
己の偉力の誇示。
そのための策略だと、知覚してはいるのだ。
だが、なんというサディスト。
なんという、邪智深き責め句なのだろうか。
率直に御愁傷さまだ……。
そのような大声では少々、憐れにすら思えるぞ。
今頃は、十文字槍鰐の闘争心。
プライドのほうは、ズタズタになっていることだろう。
ただ、一言だけだ。
僕ごときが、言わせていただけるのならばだよ。
アンリ様の御身を、
無為な危険にさらしうる方策。索敵方法。
それについては、
議論の余地が残されているし、
はなはだ、遺憾のいたりでもあったのだが……。
わずかな怒りの念。
ルゥはおかんむり状態ではあった。
あったのだが、ムリヤリである。己で己を納得させていた。
なぜならば、歴然なほどなのである。
アンリと鰐との差異は。絶大なほどのへだたりは。
たとえるのならば、大人と乳飲み子。
ドラゴンと蟻に等しいのであろう。
というよりは、さきほどのアンリの初戦闘。
あのような奮闘をひけらかされては、
理解せざるをえなかったのであった。
まさに、触らぬ神に祟りなしである。
それを物語るように、
あたりの水棲系モンスターたちは旅立っていく。
怒涛の勢いにより、お引っ越しを開始しはじめていた。
いくぶん、拍子抜けしているルゥ。
どうにか気をまぎらわせようと、
水面へ手を伸ばした。
小規模な波紋がひろがっていく。
冷たさがとても心地よい。
ルゥは、心が癒されていくような気がしていた。
しかしである。
水面に映りこむ、泥だらけの自身。
その顔を視認すると、とたんに嫌気がさした。
嫌忌されている醜怪な面貌。
顔立ちはどうにもなりはしない。
だが顔の汚れくらいはと、
ふとルゥは思いいたる。
両の手のひらのうえに、
水をすくい上げた瞬間であった。
足下に散乱している岩へと、
青色のナニカが、荒々しくも叩きつけられたのであった。
そのナニカは言わずもがな。
アンリが身にまとっていたはずの、
ボロ布のように見受けられていた。
ルゥの視線は布に釘づけだ。
全身は硬直しきっている。
フリーズしてしまうのは、昭然たるものであった。
さすがと称すべきだろうか。
そのあいだも、
類い稀な頭脳は回転を止めなかった。
悠々と解へとたどりつく。
たちまちのうちに、顔は紅潮しまくっていった。
はぁ……?
ええ? ええ? そ、そのような道理は……。
な、なんだこれは。
い、いったい、どのような深い意味合いが隠秘されて……。
ルゥの動悸が激しくなっていく。
困惑しきる目線は、
答えを求めるかのようだ。
足下の布から、
原因たる人物へと推移していく。
一拍ののちであった。
とあるよからぬブツ。
イチモツを目撃した乙女の身体は、機能を停止した。
いまやもう、
心の時計の針は弧を描かない。爆砕していたのであった。
なぜならば、
大妖魔はひけらかしていたのだ。
まざまざと、いけないブツを見せつけていたのだから。
う、うう。
な、なんなんだこれは。ど、どういう……。
羞恥心のお祭りさわぎであった。
ルゥは動揺しきっている。
顔から火が出そうなほどであった。
だというのにもかかわらず、
アンリは腰に手を当ててみせる。
精悍な容貌のまま。ニヤリと笑っていた。
さあ、見てくれ。
どうだい? 見事だろう?
などと、叫ばないばかりの姿勢であった。
まさに混沌である。
局部をご披露する士君子に、
ゆで蛸のような顔で、見つめつづけている乙女。
それにしても、やはり手練れ。
かくいうアンリは、
強情なまでに手厳しいお方のようであった。
然りである。
追撃の手をゆるめなかったのだ。
すぐさまに、追っ手を差しむけていたのだから。
まるでやりきった紳士のよう。
ほがらかな笑顔のままに。
キラリと、
歯を光らせるエフェクトつきで、のたまった。
「ルゥ。さあ、きみも脱ぐんだ」
当然のように、
ルゥの頭脳はオーバーヒート寸前であった。
現実逃避と、
色あざやかなお花畑を散歩する僕。
という幻想を捏造しはじめていた。
それなのにもかかわらず、
アンリは訝ってでもいるのか。
眉間にシワを寄せている。
これでもかと、ルゥを凝視しまくっていた。
ところせましと、
沈黙が闊歩しているようなさなか。
ピクリと、
アンリの右人差し指が跳ねる。
すると、ビクリとルゥは身構えた。
さもありなん。危機意識である。
防衛本能が、仕事をまっとうしていたのであった。
ナイスガイな士君子の、
一挙手一投足に反応してしまう、うぶな乙女。
という図は永続的なほど。
ながらく継続されてはいたのだが、転じた。
なんのことはない。
おおかた、アンリが痺れをきらしたのであった。
乙女へと、
ジワリジワリとにじり寄っていく士君子。
ルゥの生存本能。
エマージェンシーコールが危機を、
けたたましき警鐘を鳴らしつづけていた。
ルゥはなにも言えない。
アワアワと、震えながらも後退していった。
アンリはというと悠然としている。
まさに見事の一言であった。
さもわけがわからない。
とでも思しき眼光。
腹が立つ表情のままに、戯言をのたまったのだから。
「どうした。
いったい、どうしてしまったって言うんだ、ルゥ。
俺たちは仲間じゃ……いや、違うな。そんな領域ではなかった。
そうだ、な。もはや、昵懇の仲じゃなかったのかい……?
そう、だろう? そうに決まっているし、違いなんてないじゃないか。
……それならば、なにもつつみ隠さずにだよ。
こぞって、裸のつきあいをするのが筋ってものじゃないか。
がんらい古来より、ニホンではな……、ん? ニホンてなんだ?
……まあ、今は些事だ。
優先すべき事柄を逸してはならないんだよ。
そう、つまりは裸だルゥ。さあ、さあさあ」
むろんのこと、
ルゥには意図がつかめない。
激怒しつつも、内心でツッコミを入れまくっていた。
そういう仲間になった覚えはないし!
どういうそれならばだ……!
それならばの繋がりが!
前後の意味がわけがわからん……!
ニホンだかなんだか知らんが!
なにがそうだ!
そこからどうして! 裸だルゥ、に繋がっていくのだ!
そのうえだ!
その、真剣味をおびている表情はなんなのだ!
これでは僕の方が奇異!
どこかおかしいようではないか!
両手をわきわきと動かして、
脱がす気満々で迫りくる士君子。
その身をかき抱いて後ずさっていく乙女。
水牛の親子はというと、
とっくに復帰してはいるようだが、我関せず。
気絶したふりにより、見守っているようだった。
それはそれは混沌。
驚異的な、混沌なる状況下ではあった。
けれども早々と、終局することとなった。
いつのまにかである。
棘の木の一本が、
嬉々として、益荒男一門へと加入。門番と化していたのであった。
ようするに前門の益荒男に、
後門の棘の木。一番弟子。
それぞれに、
前後からはさまれたルゥ。
彼女は、後ずされなくなったのであった。
もはや、一貫の終わりである。
そのように予感した瞬間。ルゥは白目を剥くと失神した。
驚愕からか。
士君子は目を見開いた。
しかし間一髪である。
両手により、乙女の身体を受けとめてみせた。
まるで映画のごとき一場面。
じつにドラマチックな光景ではあるのだが、
全裸が台無しにしていた。
茜色の空の下。
雄大なる河川にて、
自業自得な慟哭がこだました。
「ルゥ! どうしたんだ、ルゥ!
くそう、なにがどうなって。
……もしや何者かの仕業、か? だが見渡すところ、俺と水牛以外にはだれもいないじゃないか。
なるほど。謎、だ。
俺も水牛も、なにもしてなどいないんだからね。
……そう、か。失念していたよ。
空腹の野郎の所業、か。やってくれるじゃないか、空腹。
ルゥ、すまない。待っていろ、いますぐに俺が」
乙女チックな抱え方。
お姫さま抱っこをされているままに、
ルゥは苦悶なる形相をあらわにしていた。
「ああ、なんということだ。
ルゥ。じつにおいたわしい……」
なだらかな岩場にアンリは、
ルゥを優しく横たわらせていく。
そして、
小鬼族を誘引せしめる者。
という称号を得た士君子は、川へとダイブした。
◇◆◇
月は見えない。
暮夜の空はうごめいていた。
またしても、
正体不明の魔力の波動が、蓋をしていたからであった。
あいも変わらずにだ。
不可解な地震も、不規則に頻発していた。
川べりの付近。たき火。
地面にたかれた火種がゆれていた。
枯れ枝が爆ぜる音が鳴る。
焼けこげた匂いが充満していた。
水牛の親子はというと、
いまだに同様の場所にて、慣れない芝居を敢行していた。
たき火の前におかれた岩に、
二人はならぶように腰かけていた。
近場の樹木。
ぶあつい枝には、洗濯物がかけられている。
ポタポタと、水分が滴り落ちていた。
巨大に成長をとげたモンステラ。
という植物の葉を巻きつけて、
ルゥは衣服代わりにしている。
身体の大部分をおおい隠していた。
しかしながらである。
ところどころに穴があいた形状のために、
それはそれは扇状的な姿であった。
むろんのことに、
アンリは言わずもがな裸。
ワイルドさが全面に出すぎた、全裸のままであった。
ルゥはいくたびも、
巨大化モンステラの葉っぱを、差しだしてみてはいた。
けれども、やはり強情な漢である。
断固として、
アンリは硬くな態度を貫いた。
最後まで、首を縦に振ることはなかったのであった。
あまつさえ、
全裸でなければならぬ道理、説明すらもがなかったのだ。
あなたは裸族かなにかなのか?
未開の蛮族でも、局部くらいは隠しているんだぞ?
と、ルゥはいまもなおもだ。
無礼は百も承知ではあるのだが、
諌めの文句が、口を突いて出そうになっていた。
しかしいちおう、満足な成果もあったのだ。
第一の目標である空腹。
飢え死にだけはまぬがれていたのだから。
よくわからないけど、たくさん取れてね。
とは、アンリの談であった。
その絡繰りは単純明快である。
なにも考えずとも、
彼が川に入るだけで事足りていたのだ。
なぜならば魔力の波動に、
当てられたか弱き魚たちは失神。プカリと浮かんでくるのだから。
あたりには、
涼しめの夜風が吹いていた。
ふいにニヤリと、
ルゥは口角を吊りあげつつも思う。
比類なき謀略。
その成果のほどが如実に、表れはじめたようだ、と。
その理由は明瞭である。
ふと気づけば、
数々の食べられる果実に、
彼らには食べられそうにもない、おおきな虫の死骸。
つまりは、
何者かの貢ぎものと思しき食料が、
そこら中に転がっていたのだから。
けれども、それは不気味の一言。
きわめて面妖にすぎていた。
その見習い信者の姿を、
ルゥ自身が確認できていないからであった。
アンリは昨夜と同様である。
隙だらけのご様相により、うつらうつらとしていた。
面妖なる貢ぎもの。
その薄気味の悪さにより、
ルゥは竦んではいたのだが。
アンリが問題視していないのならば、
安全ではあるのだろう。
と、ルゥは気を取りなおしていた。
なかば惚けるようにである。
眼前の横顔を見つめつつも、心のうちでつぶやいた。
ただならぬ魔力の波動に、
みじめにも腰を抜かしていた昨夜。
震えおののいていた時間が、嘘のようではないか。
刻下も常時戦場と、
放たれつづけている魔力の波動。
その威風が心地よい。
僕の全身を安心感により、つつみこんでくれているかのようだった。
まことに、
なんの因果なのだろうか。
唾棄すべき生涯を終えていたはず。
潰えていたはずだった僕は、また一夜を越せるのだから。
こころやましくはあるが、
守られて明日も。
生きていけるのだな、僕は。
そして、それにしても、
なんというご立派な……。
っと、ち、違う!
そ、そうだ! 泳法がだよ!
ご立派なお姿だったと、言おうとしていたのだ、僕は……。
その、はずだ。
あれやこれやとである。
想察をしていたルゥだが、ひとつ。
とある結論にたどりついた。
もしやアンリ様は、
流麗な容貌などではなく、
醜怪な面貌のほうが、お好みなのかもしれないぞ、と。
往々にして巷には、
そのような偏向も存在している。
と、書物で読んだこともあるのだよ、と。
もしもそうだとするのならば、
母上から、
閉月羞花の加護を遺伝しなかったことは、
僥倖といえるのかもしれない、と。
ひんやりとした夜風が吹いた。
ルゥの茹だる思考は、とたんに冷やされていった。
すると、やにわにである。
ルゥがまごつきはじめたのだ。
猛烈な勢いにより、首を左右に振りまくった。
い、いいや、違う! 違うのだ!
そ、そうだ……!
僕はアンリ様へと! 彼のお方へとだ!
とほうもないほどの感謝をしているだけ、なのだ!
その情動に他意は、ない。
いわゆる、敬愛の念なのだよ。
そうに決まっている。
そうに決まっている、はず、なのだ。
……だが、しかしだ。
これは仮定。もしもの話だが。
ふいに、
求め欲されたとするのならば、
どうすればいいのだ、僕は……。
きわだつほどに、
小鬼族の成長速度は早かった。
しかしながらである。
虚弱で脆弱なる性質上、
出生率というものはいちじるしく低かった。
なればこそである。
出産適齢期の十歳ともなれば、
種を絶やさぬようにと、
産めや増やせやの理念にもとづいて、
子を成していくのがつねであった。
いまだ、
ルゥは八歳の小児ではある。
しかし、子を成せなくもない年齢ではあったのだ。
さりとて、
恋着などという観念については、
深く考えたことはなかったのであった。
しごく当然である。
生まれてこのかた。
基本的には、
ルゥは地下室にこもりっきりだったのだ。
異性との出逢いなど、皆無の日々をすごしていたのだから。
それどころか忌み子のために、
そのような雑事にさける時間は、なかったのであった。
それゆえにこそ、
理解しがたい恋慕の情。
という概念を、なかば毛嫌いしていたのである。
己におとずれることはない。
月並みな書誌のなかの創作に、ほかならないのだ、と。
ういういしき乙女。
ルゥが煩悶としているというのに、
アンリは意にかいさない。
妙にかしこまった態度である。遠方の木々の奥を凝視していた。
その視線を、
不思議とルゥはたどっていく。
するとそこには、ふわりと、
こぶりなモンスターが浮遊していた。
木々の葉に擬態し、
潜伏でもしているかのよう。
たとえるのならば、アーモンド。
あるいは人間や、亜人種の瞳などが適切だろうか。
半透明の体躯をもつ生命体。
その身のたけは、十センチにも満たなかった。
その姿態からは四方八方へと、
風にゆれる髪の毛のよう。
黒色の魔力の波動が放射されていた。
……あれは弱い。
僕でも対処しうる脆弱さだ。
知識としての判別はつかない。
だが一見するに、
そこらの虫かと見まがうアレを、察しうるとは。
と、ルゥは敬服の念を抱いていた。
アンリがそのような意図に、
気づいたのかはさだかではなかった。
けれども彼はうすく笑う。
「いや、ゴリラを探していたんだよ」
脈打つように、
ルゥの心奥はうち震えていた。
胸中でだけ、かすかな声音によりつぶやく。
嘘、だ。
僕は……。僕は、そこまで愚かではないのだから。
過剰なまでの、耽美なる虚言。
慈悲深き憂慮は痛い。僕に、痛みを与えていた。
卑怯、だ。卑劣、ではないか。
それでは僕の信ずる理が、
つちかってきた世界が、変貌してしまうではないか。
閃光がまぶし、すぎる。
そのような真摯な幻想は、真実は僕には……。
このままでは潰える。
為すべき宿願に、
重きをおけなくなってしまうのだ。
このお方とともに在れるのならば、僕は……。
総てをかなぐり捨ててきたはずだ。
あまねく総てを、
悪用すると決心していたはず、だったというのに……。
僕のなかに、彼が居座ってくる。
無遠慮のままに。傍若無人のままに。
垣根などたやすく飛び越えて、
彼は彼という色を捩じこんでくるのだ……。
彼の行くすえを見届けたい。
忌み子という名の罪。不滅なる咎を共有したい。
一助などではなく並び立ちたい。
たあいもない会話も、楽しみたい。
だが、それこそいまさらだった。
亜人語が話せるなどと、
どのような顔をして言いだせばいいのだ……。
むろんながら、
見抜かれているのかもしれない。
だが、しかしだ。
そのような希望的観測により、失望されてしまったら、僕は……。
僕では、いられなくなる。
時を数えるほどに、
ルゥの動悸が激しくなっていく。
グルグルと、
うごめくように渦巻く心模様。
それは彼女に対して、
息苦しくも、狂おしい傷みを与えていた。
鈍痛がひびく胸元を、
とがった爪先により、抱くようにかきむしった。
褐色の皮膚ににじむ、微量の血。
体内の奥底が、
人格を形成する根源が、苛烈にうずいたのであった。
アンリの流麗なる横顔。
灰色がかった蒼き瞳に抗えない。魅いられてしまう。
たける、執着心を飼いならせない。
喉がかわく。
歯がうずく。ゴボゴボと、血液は沸騰していた。
ルゥの視界に映りこむ閃光。
アンリという名の、
慈悲の光はやがて、紅くボヤけはじめた。
こらえきれなかった叫びが。
慟哭が、
許可もなく、溢れそうになった瞬刻だった。
ナニカが弾ける音が、ルゥのうちから鳴った。
きわめて異様。
かつ、異質な光景であった。
まるで、サナギからの羽化のよう。
醜怪だったはずのルゥの容貌が、
瞬時に、変貌をとげていったのだから。
半円状の焦げ茶色だった瞳。
それは、柘榴石のごとき深紅へと。
ボーイッシュなみじかめの頭髪。
それは、冬空をほうふつとさせる灰色へと。
褐色の皮膚は、
処女雪と思しき白色へと、変容していた。
まさに眉目清秀である。
愛くるしき美少年。
とでも、形容して然るべき顔立ちであった。
あまつさえ、どことなく背徳的。
ほのかに、淫靡な香りさえもをはらんでいた。
擲果満車の加護。
加護持ち。
それはすなわち、
ルゥの根深いところ。
胸臆にて、潜在しつづけていたのであった。
第二の闇。
紅眼のルゥルゥ。
とでも称すべき高貴なる魔の根源に、
誘発されては、顕在化させられたのであった。
無風の闇夜に、
獰猛なる微笑がこぼれた。
響いているのはひとつ。
薪の爆ぜる音だけ。
紅に染まった眼光はきらめく。
獣のように鋭利であった。
ルゥルゥの視界に、
色あざやかにも映りこんでいた。
アンリの隙だらけの首筋が。
愛おしさすら感じる褐色の皮膚が。
絶え間のなき衝動が、誘う。
耽美なる感電が、ルゥルゥの身躯をつらぬくのだ。
彼へと、僕の総てを捧げろ、と。
彼の総てを、僕のものにせよ、と。
失望されてしまう。失望がもの恐ろしい。
失望されてしまうのならば、
いっそのこと、ほかならぬ僕の手で、と。
音もなく、
ゆらりと立ちあがる。
幽鬼と化した魔物は、
妖艶なる吐息をこぼしつつも、その口を開いた。
ギザギザだったはずの歯牙。
そのほとんどは、人間のものへと変化していた。
けれども、上顎の犬歯だけは別だ。
鋭利にも、まっすぐに伸びていた。
喰らう。
時は満ちたのだ。
いままさに、的は絞られたのだから。
しかし、その時であった。
天を覆わんとするかのような、
閃光がまたたいたのであった。
上空にて、
展開されていた魔力の波動。
その一部に大穴を空ける。
轟音とともに、暗雲に稲光が走っていった。
それはスコールである。
とてつもなき、
暴風雨にさらされた、たき火は鎮火する。
周囲の木々は、風圧により折れまがっていった。
冷え冷えとした横殴りの雨風。
それは両者の髪の毛を、乱雑に振りみだしていた。
そのようなさなかである。
巨大化モンステラの葉が飛んでくると、
ルゥルゥの顔をおおい隠したのであった。
忌々しげに剥がして捨てる。
すると、
再度あらわになった面貌は、
時間が巻きもどったかのよう。
もとの醜怪な造形へと、舞い戻っていた。
奇しくも、
浸透していくような凍えが、
ルゥの心根を正常化させた。回帰させたのであった。
ひるがえって、
アンリの瞳には色彩がない。
もはや、無色透明であった。
暴風雨などお構いなしのよう。
ゆるりと立ちあがったおり、であった。
あたりにふわりと、
蛍のような青白き粒子。
矮小なる物体が、
無数に浮かびあがったのであった。
それはそれは神秘的な光景である。
吹きすさぶ雨風にも、
なんら影響を受けてはいないのか。
淡い光りを放つ粒子は群れ集う。
じょじょに、長方形を縁どっていった。
やがてそれは、
簡素なマホガニー製の扉となる。
その枠組みからは、かすかな明かりがもれていた。
扉の中心にて、
手のひら大の、
金属のレリーフが異彩を放っていた。
翼の生えた獅子が、
獲物でも強襲しているかのよう。
そのようなデザインがほどこされていた。
獅子の開いた口に、
くわえられているノッカー。
銀色のまるい輪が垂れていた。
風雨にあおられるノッカー。
鳴りひびく、不穏なる金属音。
その音色はかき消されない。
いやにクリアに、ルゥの耳に残りつづけていた。
……ぼ、僕はいったい、なにを。
記憶が、うすれている……。
もしや僕は、気絶でもしていたのだろうか。
だ、だが、まさかだ。
アンリ様は、
この奇妙奇天烈な扉の出現を、予期していたとでもいうのか。
あの瞳を模したモンスターはついでで、本命は……。
然りだ。
とでも、アンリは暗唱しているかのようであった。
足早に、扉へと近づいていく。
物怖じなどせずに、
敢然とノッカーをつかんだ。
いまもって、
アンリの双眸に感情の色はない。
ただ粛然と、
ルゥを真正面から正視していた。
異論の余地などありようもない。
僕は、貴方の御心のままに。
呼応するように、
ルゥも粛として並び立った。
内へとむかって、
ゆっくりと扉は開かれていく。
解き放たれたまばゆい光。
閃光は、両者を覆いこむと飲みこんでいった。
のんびりと、扉は閉まりゆく。
両者の姿も、
摩訶不思議な扉も、
南密林エリアから、忽然と消失した。
いまもなおも、
川べりは豪雨にさらされていた。
瞳を模したモンスターは数度ほど、
またたきを繰りかえしたのち、遠方の彼方へと飛び去った。
気づいていなかった。
扉のレリーフに、
意味深げな文章がきざみこまれていたのを。
「異なる世界を知るもののみ、立ち入りを許す」




