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クラフトン図書館の秘密  作者: 砂東 塩
6/6

chapter6

 淡い水色の瞳をした、セバスティアン・ヴァルモン。彼の眼差しからは、今まであった緊張や警戒心がすべて消え、そして、旧知の仲というような――いや、この世で最愛の者に向ける穏やかな笑みをわたしに寄越した。それが誰なのか、もはや問う必要はなかった。


「ルシアン。ルシアンなのね」


「ああ、エレノア。わたしの愛しいエレノア。その手に口づけてもかまわないかい?」


 それは少し妙な気分だったけれど、わたしは躊躇わず手を差し出した。手袋をはめていない手の甲に、彼の唇が直接触れる。それは、あの夜交わした幻のような冷たい口づけとは違っていた。


「エレノア、君が戸惑うのも無理はない。君にとってこの姿は、わたしの子孫、セバスティアン・ヴァルモンなのだから。でも、ひとつだけいいことを教えよう。この男は、わたしととても良く似ている。瞳の色の違いと、この左目の傷跡がなければ、わたしと見間違えても無理はないほど瓜二つなんだ。

 これはきっと、わたしに残されたわずかな時間に、叡智の神が与えてくれた贈り物なのだろう」


 ルシアンは悲しげに瞼を伏せ、わたしはにわかに不安になった。


「何を言うの、ルシアン。なぜ、あなたに残された時間がわずかだなんて――。

 図書館の閉鎖のことなら、今からでも父に掛け合ってみるわ。売却相手がレイヴンズデイル公爵閣下なのですもの。妹のアイリスはレイヴンズデイル卿と親しくしているようだし、それに、公爵閣下はこのセバスティアン・ヴァルモンに目をかけているようなの。だから、きっと大丈夫よ」


「そうじゃないんだ、エレノア」


 ルシアンは少し困ったような表情を浮かべた。


「君のバッグに、本が一冊入っているだろう?

 その知識が叡智の海に流れ込んだ瞬間、わたしは自分の運命を知ってしまったんだ。君がその本を手にクラフトン図書館に足を踏み入れた時に、わたしは、自分がもうじき消えるとわかった」


「ルシアン、何を言っているの?」


 わたしは慌ててハンドバッグをひっくり返し、真鍮製の鍵が床に落ちた。震える手で日誌を広げたけれど、焦りで上手くページをめくることもできず、目に映る文字も頭に入ってこない。


「ああ、ルシアン……、ルシアン!」


 わたしは半泣きになりながら、彼の胸に顔を埋めた。


「なぜそんな悲しいことを言うの? なぜわたしを傷つけるの? 嘘だと言って。ずっと、わたしのそばにいると言って。お願いよ、ルシアン」


「エレノア、落ち着いて」


 彼は床に落ちた鍵を拾い上げると、書棚にぶら下がった南京錠を見つめる。


「この扉を開けても、君はわたしのところには来られない。図書館の知識とひとつになることはできない。この叡智の箱は、わたしの魂で完成されたものだから」


「知ってるわ。読んだもの。でも、あなたと同じところに行けなくたって、わたしがこれまでみたいにクラフトン図書館に通えば、ルシアンに会えるでしょう? 年をとって、おばあちゃんになっても、わたしがここに通うから。クラフトン図書館の売却なんて、絶対させないから」


 泣きじゃくるわたしの背を、ルシアンはしばらく優しく撫で続けていた。わたしは湧き上がる不安と悲しみに必死で抗いながら、彼の言葉は間違いないと、心の奥ではわかっていた。なぜなら、彼は図書館の知識そのものだから。彼は、叡智そのものなのだから。


「エレノア」


 ルシアンはいつも以上に優しく囁きかけた。その吐息が、わたしの耳元をくすぐった。


「エレノア、君が持ってきた『叡智の箱の取り扱い書』には、こんな記述があるんだ。『叡智の箱が機能するのは、およそ五十年程度。それ以上は内部の金属管がもたないだろう』とね。

 わたしが叡智の箱となって百年。図書館の知識として機能し始めてから――つまり、図書館の囁く亡霊となってから五十年が経った。その日誌を書いた者は、おそらく箱が完成してから稼働するまでの負荷を勘定していないはずだ。完成すればすぐに稼働すると考えていたようだからね。わたしは、彼らの予想よりも長く稼働したということになるのかもしれない」


「稼働だなんて、そんな無機質な表現はあなたには似合わないわ。あなたはここで生きていたの。そして、わたしが現れるのを百年の間待っていた――そうでしょう?」


「ああ。君の言う通りだ。長い年月を経て君に出会えたから、わたしは君を愛することができたんだ。もし、もっと早くに会っていたら、わたしはもっと冷たい男だったかもしれない」


「そんなことはないわ。ヴァルモン卿に、あなたの昔の詩を読ませてもらったのよ。今よりは拙いけれど、とてもあたたかい詩だったわ。あたたかくて、愛情に溢れていた」


「そうだよ、エレノア。愛は、未完成のほうが強くなるんだ」


 ルシアンはどこか諦めたような、それでいて肩の荷が下りたような軽やかな笑みを向け、その手にあった鈍色の鍵を、南京錠に差し入れた。


「ルシアン!」


「扉を開けると、叡智の箱の力が放出される。そうすると、その影響力はわずかに広がるんだ。つまり、わたしはほんの少しだけ、クラフトン図書館の外に出られるということ」


 言い終わった時には、彼の手で南京錠が外されていた。彼は片膝を床につき、慎重な手つきで両開きの扉を引く。そこにあったのは、日誌に書かれていた複雑に絡み合った金属管。しかし、あの記述とは違い、老朽化して鉛色に変わり、そこかしこにヒビが入った金属管の上を、無数の光が忙しなく走っているのだった。それも、金属管の半分ほどは完全に暗く沈黙している。


 わたしは思わず「ああ」と嘆きの声を漏らした。


「エレノア、これが今のわたしだ。わたしはとっくの昔に完全なる叡智ではなくなっていたんだ。不完全で、偏っていて、だからこそ愚かになれた。愚かにも、肉体のない状態で、盲目的に、君を愛することができた。

 愛しているよ、エレノア」


 いつもなら美しい調べの愛の詩を紡ぐ彼が、ぐいと力任せにわたしを抱き寄せ、ただ「愛している」と振り絞るように口にした。そして、躊躇いがちに、わたしの唇にセバスティアン・ヴァルモンの唇を重ねたのだった。わたしはその感覚に酔いしれながら、ふと目に入った書棚の金属管に「ヒッ」と声を漏らした。


「ルシアン! おかしいわ。さっきよりずっと暗くなっているの。もう、光があるのは三分の一ほどになっているわ」


「ああ、エレノア。叡智の箱の力を放出したのだから、朽ちる速度が早まるのは当然だろう。でも、わたしが考えていたよりずっと早い。本当はもっとここで君と口づけを交わしていたいけれど、クラフトン図書館の外に行かせてくれないかな。エレノア」


「もちろんよ!」 


 わたしは彼の手を握って駆け出そうとした。しかし、その手がわたしを引き戻した。


「待って、エレノア。わたしは久しぶりに肉体を動かしてるんだ。慌てて階段を駆け下りて、子孫に怪我を負わせるわけにはいかないんだ。それに、エレノアをエスコートするのがわたしの役目だからね」


 そう言うと、ルシアンはわたしの手をとって歩き出した。そのゆっくりとした速度をもどかしく感じたけれど、ルシアンは満足そうに微笑んでいる。まるで、結婚式の入場でもするように書架と書架の間を進んでいくわたしたちに、本から顔をあげた学者が不思議そうに首をかしげていた。フィッツジェラルドさんは、もしかしたら何か感じていたのかもしれない。カウンターの奥に姿勢を正して立ち、二人並んで扉から出ていくわたしたちにペコリと頭を下げたのだった。


「やはり、フィッツジェラルドはわたしの次くらいには、いい男だね」


 ルシアンは扉を押しながらそんなことをいい、差し込んできた陽光に、眩しそうに目を細めた。


「ああ、エレノア。わたしは自由だ」


 空を仰ぎ、目を閉じた彼は、きっとその瞼の奥で故郷の景色を眺めているのだろう。わたしは彼と手を繋ぎ、これまで彼が囁いた数々の詩を思い出しながら、その景色を想像した。


「エレノア、わたしの心は永遠に君のものだ。君は、わたしにとっての、永遠の叡智の箱だよ。その胸の中で、わたしは眠りにつこうと思う」


 彼はわたしを優しく見下ろし、その細めた目元からふっと力が抜けた。


「……ルシアン?」


 次の瞬間、眩しそうに開かれた瞼の奥には、琥珀色の瞳が輝いていた。わたしはすべてを悟り、ただ、声もあげず涙を流した。


「どうされたのですか、ブラックバーン伯爵令嬢。……しかし、わたしはなぜ外に?」


 セバスティアンは困惑した様子だったが、わたしが静かに涙を流し続けているのを見て、ハンカチを差し出してきた。


 道行く人や図書館から出てきた学者が、ジロジロとわたしとセバスティアンを眺めて立ち去っていく。誰か、うわさ好きの貴族にでも見られようものなら、ブラックバーン伯爵家の長女が亡命貴族に失恋したと、身に覚えのない話が広がるかもしれない。


「ご令嬢、もしかして、ルシアン・ヴァルモンは消えてしまったのですか?」


「はい。あなたの体に憑依して、クラフトン図書館の外に出ました。そして、彼は自由を得たのです」


「……そうですか」


 彼はその瞳をわずかに揺らし、そこには失望と安堵が同時に浮かんだようだった。


 そこへ、一台の馬車がずいぶん急いだ様子で走ってくるのが見えた。通り過ぎるかと思われた馬車は、よく見ればブラックバーン家所有の馬車。わたしは、父に鍵と日誌の紛失が知られてしまったのだと気づいた。


 御者は、昨夜わたしをクラフトン図書館に降ろした若い男だった。わたしと目が合うと、申し訳なさそうに頭をうなだれ、そして、御者台から下りてキャビンの扉を開けた。わたしは自らの馬車のところまで向かい、父が降りるのを迎える。


「エレノア。自分が何を持ち出したのかわかっているのか?」


 怒っているだろうと思った父は、むしろ、わたしを気遣うように悲しげに眉を寄せていた。わたしの目はよほど赤く腫れているのだろう。


「お父様、勝手なことをして申し訳ありません。けれど、クラフトン図書館の囁く亡霊は、もう現れることはないでしょう。図書館を閉鎖する必要はありませんわ」


 わたしが言うと、父はひとつ息を吐いて「中で話そう」と、クラフトン図書館の扉に目をやった。そこには、いつの間にかいたのか、フィッツジェラルドさんが心配そうな顔で佇んでいた。


 父はわたしの背後にいたセバスティアンに顔を向け、「ヴァルモン侯爵家のご子息のようですが」と、警戒心と威厳を持った口調で問いかけた。しかし、彼が取引相手であるレイヴンズデイル公爵閣下と懇意にしていることは聞き及んでいたのだろう。亡命貴族に対するそれとは思えないほど、父の態度は敬意と礼儀を払ったものだった。


「はじめまして。ブラックバーン伯爵閣下。わたしはセバスティアン・ヴァルモンと申します。クラフトン図書館の亡霊の子孫です」


 父は大きく目を見開き、しかし心当たりがあったのか「そうですか」と、自嘲気味の笑みを浮かべた。きっと、父もあの日誌を隅々まで読んだのだろう。


「では三人で、二階の書庫で話すとしよう。ブラックバーン家の当主として、あの書棚がどうなったのか、確認しておかないといけないしね」


 フィッツジェラルドさんが扉を開け、わたしとセバスティアンは素直に父の後について中に入った。父の背を眺めながらクラフトン図書館を歩くのは、どこか不思議な感覚があり、幼い日にもこういうことが何度かあったのを思い出した。父は決して黄昏の回廊には足をかけなかったけれど、今は懐かしそうに二階を見上げ、螺旋階段を上がりはじめた。


「お父様は、モーリス・ド・ゲランの詩でフランス語の練習をなさっていたのでしょう」


 その背に問いかけると、父は驚きもせず「亡霊から――いや、ルシアン・ヴァルモン氏から聞いたようだね」と、静かな声で答えた。


「お父様はすべてご存知だったのですね。ご存知の上で、図書館を閉鎖しようと考えていらっしゃったのですね。ルシアンの居場所がなくなると知りながら」


「それは誤解だよ、エレノア。わたしは、君が言う通りすべて知っている。君を慰めていた彼の囁きがもうじき聞けなくなるだろうということも、わたしは知っていたんだ」


 螺旋階段をのぼりきると、父は迷いなく黒い書棚のある左へと足を進めた。


「図書館の売却のうわさはきっと二人の耳にも入っているだろうね。しかし、あれはただのうわさだ。

 わたしは別に、亡霊のせいで閉鎖しようと考えたわけではないんだ。貴族として、祖先が残したこの蔵書を、より多くの人々の手に触れやすい形で残すべきだと考えたのだ。

 それで、ロンドン市内の学術機関や貴族のクラブに寄贈することも検討していたところに、そのうわさを聞きつけたレイヴンズデイル公爵閣下から声をかけられた。

 閣下はかつて、クラフトン図書館の常連だったそうでね。この場所は簡単に手放すべきではないとおっしゃられ、そして、こんな提案をしてくださったのだ。レイヴンズデイル家がロンドン市内に学術サロンを設立するから、そこへクラフトン図書館の蔵書の一部を寄贈してもらえないか——とね。」


「寄贈ですか? 一部だけを?」


「ああ。そういう形で話がまとまりそうだ。クラフトン図書館の蔵書の価値が人々に知れ渡れば、おのずとクラフトン図書館へも訪れる者が増えるだろうと、公爵閣下はおっしゃっていた。

 公爵閣下はね、若い頃にこのクラフトン図書館で彼の囁きを聞いたそうなんだ。正体までは知らないようだったが、亡命貴族だということはわかっていたのだろう。懐かしそうに、彼との会話をわたしに話してくれた。とても刺激的な知的交流だったと」


 突き当たりを右に折れると、扉を開けたままの真っ黒な書棚が目に入った。わたしが放り出していったハンドバッグ、広げたままの日誌、鍵を差し込んだまま解錠された南京錠が、そのまま床に転がっている。


 父は拾い上げたハンドバッグをわたしに渡し、日誌は自分のジャケットしまい、南京錠を手にしたまま、何とも言い難い表情で書棚の内部を眺めた。そこには、一粒の光もなく、完全に朽ちて、鈍く黒ずんだ金属管の成れの果てがあるだけだった。


 ルシアンはもうその箱の中にはいない。彼は、このわたしの胸の中に居場所を変えたのだ。


 これからは、いつでも、どこにでも、わたしがルシアンを連れていける――そう考えると、再び涙が止まらなくなった。


「エレノア。君が鍵をかけなさい」


 父は書棚の扉を閉め、わたしに鍵を渡した。南京錠を取っ手に掛け、鍵を回す。カチリと軽い音がして、一筋の風が頬を撫でた気がした。


「鍵はエレノアが持っていなさい。この箱は、もう、ただの箱だ」


 慰めるようにわたしの肩に手を置き、父は先に階段を降りていった。


 わたしはフラフラとその場を離れ、出窓へと向かう。いつもと同じ古びた街並みは、どこかいつもと違って見え、天井や床を踊る木漏れ日にルシアンの気配はなかった。


「エレノア」


 わたしの手に触れたのは、あたたかな手。振り返ると、セバスティアンは自分で口にした言葉に驚いた様子で、目を大きく見開いていた。


「失礼。ブラックバーン伯爵令嬢と、お呼びするつもりだったのですが……」


 彼はすぐに詫びたが、不思議そうに首をかしげた。その琥珀色の瞳は、叡智の箱の光にような煌めきはなく、ただ、柔らかな光を帯びていた。


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