プロローグ
実際の外交官の職務や、飛行機の機体に関してはネットで見たくらいの知識しかありません。ご了承ください。
石畳を走る車の音、人々がカフェでお茶をしながら会話する声、香ばしいパンの香り……
「あぁぁ……やっと、終わった」
俺はそれらを五感で感じながら、凝り固まった体をほぐすように腕を上へと伸ばした。
当たり前のように呟いた日本語は遠く離れた花の都では浮いていて、自分がいるのが異国の地にいることを改めて実感させる。
と言っても、外交官という職についている以上は海外なんて行きなれたもので、そろそろ三十路になる頃にはそれなりの地位に就き、月の半分は海外にいる生活を送っているためか違和感は感じない。
今回も直前になって虫垂炎になり行けなくなった同僚の代わりに急に出向くことになり、さっきようやく全ての用事を終えたところだ。
(この時間なら空きがあるかもしれないな)
一刻も早く帰りたかった俺は、携帯を取りだして次に出る便に空きがあるかどうかを確かめる。すると時間帯のためか、かなり空きが目立っていた。
「これで良し。まだ時間はあるし、あの店でなんか買ってくか」
サッと予約を済ませた後、近くの店で軽食を買う。飛行機に乗る頃には冷めてしまうだろうが、仕方がない。小さく鳴く腹を抑えながら、タクシーに向かって、手を挙げた。
道が混んでいたために空港に着いたのは時間ギリギリだった。勝手知ったる空港を早足で駆け、慌てて手続きを行って機内へ乗り込むと、どうやら俺が最後の客だったらしい。席に着くとすぐに安全確認のアナウンスがかかった。
シートベルトをした後、保安検査後にパッと買ってきたペットボトルの水を飲んで一息つく。そして、カバンから携帯を取りだし、機内モードにする前に恋人の茉莉花にメールを打とうとして、止めた。
(いっそ連絡しないでサプライズでもしてみるか)
手にしている高級感溢れる袋の中には黒い正方形の箱が入っている。パカッと開くとダイヤが埋め込まれた指輪が買った時と変わらぬ輝きを放っていた。
(これを渡したらあいつどんな顔するんだろうな......)
一世一代のプロポーズのために用意したこの指輪。渡した時、泣きながら俺をポカポカ叩くあいつの顔が浮かぶ。「プロポーズはダイヤの指輪じゃなきゃ、やだからね!」と、ふんぞり返って言ったあいつの希望を叶えるために、わざわざ世界的に名高い宝飾店に出向き買った婚約指輪。
「喜んでくれるといいな」
不安半分、期待半分の俺を乗せた飛行機は日本に向けて旅立った。
気づいた時には様子がおかしかった。
ガタガタと揺れる機体、騒がしい周囲……耳に入ってくる音にゆっくり意識が浮上しているのを感じた瞬間、機体が急にドスンと大きく揺れ、衝撃で完全に目が覚める。同時に、機内から一斉に「うわっ」という呻きが漏れた。
寝起きで状況が掴めず周囲を見渡すと、乗務員も乗客も揺れる機体に不安げな顔をしていた。乱気流にでも入ったのかと、激しく揺れ続ける機体に少しばかり不安を感じながらも、何度か経験があるため問題ないだろうと判断し、再び眠りにつこうとする。
だが、状況はそんな優しくはなかった。
「おい、あれ見ろ! エンジンから煙が上がってるぞ!」
誰かが大声で叫ぶ。
その声に、バッと外を見ると確かに黒い煙が出ていた。
「......っ!!」
(嘘だろ……っ)
その瞬間、機体が大きく揺れ、急降下していく。
窓の外はもう空ではない。一面の飲み込まれるような暗い海だった。
「きゃあぁぁぁぁッ!!」
「Je ne veux pas mourir!Aidez-moi!」
機内は叫び声に溢れ、パニック状態に陥っている。
「お母さん、お父さん……っ」
「大丈夫、大丈夫だよ、咲月……っ、きっと、パイロットさんがなんとかしてくれる」
反対側の席に座る女の子達、きっと双子だろう。互いに手を握りながら、恐怖と戦っていた。
そうこうしている間にも機体はものすごい勢いで下降していく。
(こんな所で死ぬのか?早く帰ってこの指輪でプロポーズしたかっただけなのにっ。本来の便に乗っていれば......っ)
後悔したところでもう遅い。暗闇が近づいてきた。
(ダメだ。この角度じゃ、もう、立て直せない……どんなに腕が良くても、もう……っ)
最期を悟った俺は反射的に袋から箱を取りだし、中の指輪をスーツのチェンジポケットへ乱暴に押し込んだ。
(もし遺体が発見されれば、これが茉莉花の元に渡るかもしれない。せめて、せめて俺がどう想っていたのか伝わってほしい)
一縷の思いを託す。
自分で言うのもあれだが、彼女に愛されている自覚がある。自分だって、彼女を愛している。これからの人生の全てを、茉莉花に預けたいと思った。
明るいように見えて、繊細で落ち込みやすい茉莉花だ。死んだ恋人が最期に遺した婚約指輪を渡されれば、きっとあいつは泣いて部屋に籠ってしまうかもしれない。もしかしたら、渡らない方がいいのかもしれない。
でも、今はそれ以上の「もしかしたら」を考えている余裕がなかった。
「衝撃に備えて! 衝撃に備えてください!」
客室乗務員の悲鳴に近い指示が響き渡る。全身の血液が逆流するようなGを全身に感じながら、前かがみになって頭を抱える。
何故だろう。騒がしいはずなのに、余裕なんてないのに、絶望を感じているのに、死を受け入れたら静寂の中にいるように感じ初めた。頭の中では、茉莉花の笑った顔が鮮明に、しかし急速に遠ざかっていく。
凄まじい騒音にかき消され、誰の耳にも届かない小さな声で呟いた。
「茉莉花..…愛してる」
その言葉と同時に、機体は凄まじい轟音を立てて水面に激突した。
ガシャン! ドゴォン!!
プツリと途絶えた意識とともに、全てが暗闇と水の中に消えていった。




