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第98話 勿忘草を摘みに行こう 5

 田辺平蔵。

 俺の名前。

 しかし、これは祖父母曰く、二つ目の名前らしい。

 俺が産まれた時に、人間の屑が俺に名前らしきものを付けて、諸々の書類を提出したらしいのだが、その名前があまりにもクソみたいなキラキラネームだったようで、祖父母が改名してくれたのである。

 ちなみに、俺は物心ついた時から、あの屑に名前で呼ばれたことなど無く、代名詞でしか呼ばれていなかったので、新しい名前に違和感など欠片も無かった。

 ただ、田辺平蔵という名前が、自分の名前であるという自覚も無かった。


「ヘーゾー、今日のおやつは『くっきぃ』だよ? ちゃんとお勉強ができたら、一緒に食べようね?」

「わぁい!」


 沙耶が、俺の名前を読んでくれるその時までは。


「ヘーゾーは偉いね。どんどん勉強ができるようになるねぇ」

「えへへへ、とーぜんでしょ!」

「うんうん、当然だね。だって、ヘーゾーは賢い子だものね?」

「おうっ!」


 沙耶は優しかった。

 誇張ではなく、俺が産まれてから、その時まで……いいや、現在に至るまでで、あれほど優しい存在は他に知らない。また、人に物を教えるのが上手い存在も。

 当時の俺にとって、飯を食うことと自由であることが世界の全てだった。

 生存以上の何かを欲したりしない代わりに、少しでも己の意志が何かに束縛されようすると、野生動物のように暴れ回る、手の付けられない悪童だった。

 けれど、沙耶はそんな俺すらもうまく宥めて、手玉に取って、人らしさを教えてくれたのである。


「ねーねー、お勉強めんどうだよぉ! そんなことより、いっしょに遊ぼうよぉ!」

「だーめ。ちゃんとやることをやらないと駄目なのよ、ヘーゾー。でも、ちゃんとやることをやったら、褒めてあげるし、とっておきのご褒美があるよ?」

「ご褒美!? ねぇ、ご褒美ってなーに?」

「ふふ、その時までのお楽しみ」


 かつての俺にとって、誰かの言葉に従うことは必ず、何かしらの苦痛が伴う行動だった。

 あの屑については、もはや言葉は要らず。

 祖父母でさえも、礼節や、一般常識という窮屈な何かを強いてくる苦痛があった。

 だが、沙耶は違う。沙耶の言葉はこちらに対して何かを強制させる物ではなく、あくまで、俺を良くしようと思っての言葉であり、刺々しい感情が一切込められなかった。

 加えて、俺が何かを為せば、きちんと俺を褒めてくれる。


「よしよし、よく出来たね、ヘーゾー。はい、ご褒美だよ」


 沙耶からのご褒美は多種多様だった。

 美味しいおやつを貰ったこともある。

 けん玉やおはじき、お手玉など、少々前時代的ではあるが、遊ぶための玩具を貰ったこともある。

 紙芝居のセットを何処からか持って来て、紙芝居を見せてくれたことも。


「わぁい、ご褒美だぁ!」


 ご褒美の数々は現代的な物だったり、流行りのコンピューターゲームなどは無かったが、俺はそれを古臭いと思ったり、ご褒美に失望したことなど一度も無かった。

 そりゃあ、一目見て『えー、つまらなそう』などと思うことも時にはあったが、そんな時は決まって、沙耶が面白可笑しく演出してくれて、いつの間にか俺もそれに夢中になるというのが、定番の流れだったと思う。


「ヘーゾーは良い子だね、偉いねぇ」


 俺にとって、沙耶という少女は姉でもあり、母でもあり、友達でもあり――何より、神様だった。俺に暖かくて素敵な物を与えてくれる、神様。事実、沙耶という少女は土地神だったわけだが、そういう訳では無く、なんというか、『この人の言葉を聞いていれば間違いない』と確信してしまえるような存在だったのである。

 だから、祖父母に薦められた小学校へ行く時も、沙耶が『それは良いことだよ』と背中を教えてくれたからこそ、通っていたような物だった。


「ヘーゾーは優しい子だから、きっと友達が沢山できるねぇ」

「友達? おれ、友達は沙耶だけでいいよ」

「ふふ、嬉しいけど、そんなこと言わないの。友達がたくさんいれば、きっとたくさん楽しいことがあるよ?」

「…………おれに、友達たくさんできたら、沙耶は嬉しい?」

「うん、とっても」

「そっかぁ」


 自己中心的な考えで生きていた俺が、社交性を身に着け始めたのも、思えばきっかけは沙耶だったと思う。沙耶が喜んでくれるのなら、と俺は頑張って友達作りに励んだ。

 もちろん、何もかもが上手く行くことなんてありえない。

 言葉のすれ違いは何度も起きた。

 きちんと意図を伝えきっても、合わない奴はたくさん居た。

 どうしても、価値観を合わせられない奴も居た。

 誰とも仲良くなることなんて、俺には出来なかったし、やろうとも思わなかった。けれども、沙耶の笑顔が見たかったから、俺は何度も頑張った。

 挑戦して、反省して、また挑戦して。

 気づくと俺には、数人の友達が出来ていた。


「そうなの! ああ、よかった! 貴方に友達が出来て、とてもよかった、ヘーゾー。ふふ、今日はとっておきのご馳走を食べさせてあげないとね?」


 そのことを沙耶に報告すると、彼女はとても嬉しそうに微笑んでくれた。

 沙耶が喜んでくれて、俺はとても嬉しかった。

 勉強が出来るよりも。

 礼儀作法を身に着けるよりも。

 俺が友達を作ったと報告した時の方が、嬉しそうにしていた。

 故に、俺は社交性を身に着けようと頑張った。

 様々なことを我慢して、俺は周囲の人間との調和を重んじるようになっていた。もしも、何か悩むことがあれば、沙耶に相談すればすぐに解決した。一時期は俺を疎んじていた祖父母さえも、まともに学校に通っている俺を見て、涙を流して無言で頷くほど、俺は真っ当な人間を演じるようになれていたと思う。

 だが、結局のところ、俺の根幹にあったのは全て、沙耶に喜んで欲しい、褒めて欲しい、という感情だった。


「ええとね、ヘーゾー。友達との約束があったんでしょ? いいの? 来てくれて嬉しいけど、約束を破る子は感心しないよ?」

「いいんだよ、沙耶。ちゃんとそいつには電話して、謝ったし。何より、最近は放課後が忙しくて沙耶に中々会えなかったし、今日ぐらいは大丈夫さ」

「…………んんー、でも、約束を気軽に破るのは駄目よ?」

「はぁい、気を付けます」


 友達が増えていくにつれて、俺はある種のジレンマに襲われていた。

 友達を増やせば、沙耶はとても喜んでくれる。ただし、その代わり、友達付き合いなどで沙耶と一緒に居られる時間が減ってしまう。

 これはいけない。

 これでは本末転倒だと俺は気づいたのである。


「でも、俺には沙耶が居てくれれば、それでいいから」


 俺にとって一番の幸福は、沙耶と共に居ること。

 沙耶に褒められるのはとても嬉しいけれど、それで沙耶と共に居る時間が減るのは苦痛だ。耐えられない。出来るのならば、ずっと沙耶と共に居たい。家に帰る時間も、学校に行く時間も沙耶と共に居たい。

 でも、それじゃ駄目だと沙耶が俺を叱る。

 だから、仕方なく俺は真人間の振りをしながら、沙耶に叱られない程度に、沙耶と一緒に居られる時間を楽しんでいた。

 だから――――俺は一度たりとも、友達と沙耶を会わせたことは無い。いや、違う。会わせてはならない、と気づいていたんだ、その時にはもう、既に。


「ヘーゾーは、怖くないの? 私の事」


 俺が小学校高学年ぐらいにまで成長した頃だった。

 ある日、ぽつりと沙耶は俺に訊ねたのである。

 自分の事が、怖くないのか? と。


「怖くないよ! 全然っ!」


 俺は応えた。

 怖くない、と。

 ――――本当だ。

 出会った時から、姿形が変わって無くとも。年を取らなくても。

 例え、自分以外の存在には見えていないのだとしても。

 俺は全く、怖くない。

 俺が怖いのは、沙耶と会えなくなる、ただそれだけの事。それ以外はきっと、全部些事なのだ。


「そっか。でも、私はちょっと怖いよ。私は、私のことが怖くなるんだ」

「だったら! 怖くならないように、俺が守ってやるよ、沙耶の事を!」


 ヒーローになりたかった。

 たった一つの誓いを胸に抱いて、それだけを大切に守りながら、ありとあらゆる苦難を払う、完全無敵のヒーローに。

 いや、完全無敵じゃなくてもいいや。

 沙耶の笑顔を守れるだけの、ヒーローになりたかった。。

 けれど、俺が年を取って成長していくにつれて、段々と沙耶の顔から笑顔が消えて行ったんだ。俺が子供じゃなくなくなるのと引き換えに、俺がいろんなことを知って成長していくのと対称的に、沙耶はどんどん幼くなってしまうようだった。

 嫌な予感がした。

 離れたくないのに、まるで地面が勝手に沙耶から俺を引き離すように動いていくような、そんな恐ろしい予感が。


「じゃあ、俺は沙耶だけのヒーローになる!」


 そんな予感を払うように、俺は沙耶に俺の想いを告げた。

 幼いなりに、俺はもう恋とか、愛を感じるような年齢になっていた。もっとも、そういう感情を向ける相手は沙耶に限られていたけれど。


「…………そっかぁ」


 沙耶は嬉しいような、悲しいような、泣き笑う表情で俺を見た。

 何故、そういう表情をしているのか、そういう表情をさせているのは、どんな理由なのか? 俺は訳が分からず、たまらなく胸が苦しくなった。



「なら、ヘーゾー。約束してくれる?」

「約束?」

「そう、大切な約束」


 優しい声。

 暖かい小指が絡んだ感触。

 それだけは、どんなに大人になっても忘れなかった。


「ヘーゾー。もしも貴方がね、私の事を大人になっても忘れないでいてくれたら――――その時は、夫婦になろう。一緒に、ずっと一緒に暮らそうね?」


 もっともっと、大切な約束の事を忘れていたというのに。

 何故か、それだけは忘れていなかったんだ、俺は。


「うん、わかった! 俺、絶対に忘れないよ! 沙耶との約束!」


 絶対に忘れないと誓った癖に。

 俺は結局、地元から少し離れた街の中学校に上がる頃には、約束も、沙耶の名前も、顔も、ほとんど忘れ去ってしまっていたのである。

 まるで、最初から誰とも会っていなかったかのように。

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