第99話 勿忘草を摘みに行こう 6
「う、ぐげぇ……」
ぐぐもった汚い音が、自分の喉からせり上がり、内臓が裏返ったかのような錯覚を得た。
「――――っあ」
体を九の字に折って、そのまま畳の上に汚物をぶちまける。消化途中の食物と、胃液の混じった、すえた匂いの吐しゃ物。そんな吐しゃ物の上に、ぼたぼたと何やら、水滴が落ちていく。それが、自分の涙だと気づく頃には、思わず笑ってしまった。
「ひ、ひひひっ」
だっせぇ、クソだっせぇわ、俺。
なぁ、何やってんだ、俺?
今まで、何をやってたんだよ、俺は! くっだらないフリーター生活をして、毎日くだらないことで時間を潰して! 本当に大切なことは忘れ果てて! その上で、その上で、これだ。
偶然、俺が地元のオカルト関係の依頼を受けなければ、ずっと忘れていたくせに、何を、何を今更、被害者面をしてんだ、俺は?
「ん、ぐげっ」
どうしようもない罪を自覚した瞬間、俺は腹の底から込み上げる吐き気を堪え切れなくなった。何度も、何度も、何度も、黄色い胃液が畳の上にぶちまけられるまで、俺は吐いた。
ああ、いっそこのまま血反吐を吐いて朽ちてしまいたい。
誰かがナイフを貸してくれるのならば、腹を十字に切って死んでしまいたい。
「ぐひ、ひひひ、ひひっ!」
映画とか、漫画にあるだろう?
あまりにも凄惨な状況に陥った主人公が、思わず胃の中身を吐き出してしまうシーンが。
俺はさ、あんなシーンは嘘くさくて、リアリティが無いって感じてたんだ。おいおい、いくらなんでもそうはならないだろ? ったく、演出過剰だなぁ、って。もしくは、実際にそんな場面になったら、俺はもうちょいとマシな対応をするね! とか、そういう風に気取っていた。もうちょっとマシな対応が出来るって。
でも、今なら分かる。
理屈じゃねーんだ。理性じゃねーんだ。体の本能が言ってるんだ。吐け、吐き出せ、そういう風に反応しろ、って。内臓を直接殴られたみたいに、体が反射で動くんだ。
どれだけ情けなくても、それが俺の本能の結論だから、俺の体は従うしかない。
結果として、無様で愚かで、クソダサい俺がここに誕生したわけだ。
「ひひ、ひひひっ、何が、何が――『死にたくない』だ! 『助けて』だ! 何が、何が、ちくしょう! ちくしょう! 俺は、どうして!? どうして、今すぐ死ねないんだ、ちくしょうがぁ!!」
死ねよ。
死ね、死ね、死ね死ねぇ! 今すぐ、今すぐ舌を噛み切って、死ねよ、俺! なんで、なんであんなに大切なことを忘れた上で、今までのうのうと生きて来た!? なんで、忘れた!? もう、死んで詫びろよ、それしかないだろ? なのに、どうして俺の体は動かない。無様な痙攣を繰り返している? 覚悟、そう、覚悟さえあれば、今すぐ舌を噛み切ることも出来るはずなんだ。
なのに、何故、やらない?
ちくしょう、だせぇ、ダサすぎるぞ、俺は。
今すぐ死んで見せる覚悟すら、無いのか。
「…………誰か、俺を殺してくれ」
ここまでクソダサいなら、もう、いっそのこと殺してくれ。出来るだけ苦しむようにして、俺を殺してくれ。
そうだ、呪われているのならば、それが沙耶にとっての願いのはず。
薄情者で、愚かで、どうしようもないこの俺を恨んでいるのだ。どの道死ぬのならば、せめて、勇気を出して、自分の腹を切ってから死のう。
「おーい、平蔵さーん。いきなりどうした? なんか目が死んでいるんだが」
台所を探してみよう。
誰も居ない民家だけれど、包丁の一つや二つは置いてあるはず。
「平蔵さん? 別に吐くのは良いんだが、ちゃんと事情を説明しろよ」
待っていてくれ、沙耶。
今すぐ、この恥知らずの命を散らして、せめてもの謝罪を――
「無視してんじゃねーよ、おい」
「ぐぼぉっ!?」
そこまで考えたところで、俺は全身がバラバラになるような衝撃の蹴りを脇腹に食らって、壁に叩き付けられる。
「え、あ、う?」
「平蔵さん、アンタが何を考えて、何を為すのかはアンタの自由だ。俺はそれを特に否定しないし、束縛もしない。だがな? 俺の質問には答えろ。質問にちゃんと答えてから、行動しろ。分かったな?」
「…………は、はい」
「よろしい。じゃあ、呪われる心当たりがあるのなら、さっさと言え」
俺に蹴りを食らわせたのは、見崎だった。
華奢な見た目に似合わない、強烈な蹴りだったが、文句は言わない。言えるわけがない。この俺が最低な行いをしている所為で、見崎にも迷惑をかけてしまっているのだ。
そうだ、せめて、せめて、この醜い罪を処断してもらおう。
最低であると、屑であると、認めてもらって。
少しでも、相応しい罰を…………いや、違うか。結局は俺、楽になりたいだけか。自分の罪を話して、少しでも罪悪感を減らしたいんだ。
まったく、どこまで醜いんだよ、この俺は?
「……聞いてくれ、見崎。この愚かでどうしようもない屑がやってしまった、本当に度し難い行いを」
何も言わず、舌を噛んで自害することも出来ない俺は罪を吐露する。
ついさっき出会ったばかりの相手に、どうしようもない己の罪を懺悔する。
こんな俺はきっと、ヒーローなどではなく、端役にすら値しない、画面外で死んでいくよなエキストラの屑でしかないと、自覚しながら。
●●●
「――――おかしい」
俺の懺悔が終わった後、見崎はぽつりと呟いた。
「おかしい? ははっ、確かに、おかしいよな。あれほど大切に想っていた相手との約束なのに。そんな相手なのに、すっかり忘れてのうのうと生きていた俺はおかしいよな……」
「ああ、そうだ、それがおかしい。とてつもなくおかしいぞ、平蔵さん」
懺悔が終わった後、見崎は俺の罪を糾弾するように言葉を重ねる。
そうだ、そうだとも、この言葉が欲しかった。もっと、もっと詰ってくれ。裁いてくれ。そうしなければ、とても正気では居られない。
俺に必要なのは慰めでは無く、責め苦なのだから。
「アンタが記憶を失っていたのは、いくらなんでもおかしい」
「…………え?」
そのはず、なんのだが、どうにも雲行きが変だ。
「アンタの話によれば、その沙耶って相手と小学生の間はほとんど一緒に居たんだよな? ずっと、それこそ、アンタが神様のように慕う程度には、心の支えだった。何よりも大切な存在だった。そして、それはこれからも変わらないと思っていた。そうだよな?」
「…………あ、ああ、でも俺は裏切ったんだよ。約束を守れなかったんだよ。だからきっと、これは、この怪異現象はそんな俺を沙耶が罰するための――」
「お前が知っている沙耶っていう奴は、お前という大切な相手に、そんなことをするほど辛辣なのか? 例え、約束を忘れたからといって、問答無用で死ねと呪う相手なのか?」
問われて、俺は思わず息を飲んだ。
だって、記憶の中にある沙耶は、思い出した沙耶は、とても優しい。馬鹿みたいに優しい。そうだ、それこそ、『自分の事はいいから、幸せになって』などと、そんなことを言ってしまうような人……いや、神様だ。
でも、でも、だったら何だ? そんな相手をとてつもなく怒らせるようなことをしてしまったのか? 自分で考えているよりも、俺はもっと罪深い存在なのか? それとも、覚えていないだけで、もっと罪を重ねているのか?
「それに、だ。平蔵さん、もう一度よく聞かせてくれ。どうして、アンタは約束を忘れたんだ? そもそも、どうして、沙耶と会わなくなった? たかが、中学校に通った程度で」
「え、あ? そ、それは、地元から離れた中学校に通っていたから、時間が――」
「時間が無ければ、アンタは捻出するだろう。それこそ、学校も放棄して。休日を潰してでも。詳しくは知らないが、話を聞いた限りだと、アンタはそんな感じだった。そう、『依存』していると言っても過言じゃないぐらいには、沙耶って奴を愛してたんじゃないか?」
「――――っづぁ」
ずぎん、と頭が痛む。
直接、頭蓋に釘を打ち付けられているかのような、鋭く、重い痛み。
何かを思い出そうとすると、それを阻害するかのように、俺の頭が痛む。
「だから、具体的に答えてくれ。アンタはどうして、来なくなった? いつから来なくなった? 仮にもそこまで依存していた相手と別れるのに、『なんとなく面倒だったから』では説明がつかない。何かがあったはずだ、必ず」
「お、俺は、俺はァ!」
がん、がん、がん、と繰り返される頭痛。
俺が深く記憶を手繰ろうとすればするほど、その痛みはひどくなっていく。
痛い。痛い、痛い、痛い、居たい。痛い、居たい、一緒に、居たい? 俺は、何を、忘れて、あ、ああああああああああっ!
「がぁっ!」
鬱陶しい痛みを振り払うために、俺は思い切り壁へ頭を叩きつけた。
額が切れて、血が流れるが気にしない。それよりも、思い切って叩き付けたおかげで、その衝撃で、俺はほんの少しだけ忘れていたことを思い出せた。
『ごめんね、ヘーゾー。私たち、もう会わない方がいいの』
悲しげな表情と共に、こちらに手を伸ばす瞬間の沙耶の姿が脳裏に過ぎった。
何だ、これは? 何だ、この記憶は? こんなの、こんなの知らない。
「その様子だと、まだ完全に全部を思い出せたわけじゃないみたいだな。だったら、死んだ目で諦めるのは、全部を知った後でも遅くないんじゃねーのか?」
「…………う、うう、なんだ、これ? お、俺は、一体……?」
「というか、そもそもさ、平蔵さん」
戸惑い、俯く俺の胸倉を、見崎は容赦なく掴み上げてくる。
恐るべき怪力で、有無を言わせず、狐の仮面と対面させて、見崎は俺に告げた。
「悪いことしたなら、一人でうじうじ悩む前に、さっさと謝りに行けよ」
「――――あ」
あまりにも当然で、至極もっともな言葉を。
もっと早く、俺が辿り着くべきだった、答えを。
…………そう、だよな。罪を贖えなくとも。例え、その場で呪い殺されることになるとも、悪いことをしたのなら、謝らなきゃだよな。
「ああ、分かったよ、見崎」
どうして忘れていたんだろう?
人として大切なことは全部、沙耶に教えてもらっていたのに。
「情けない弱音はここまでだ。後は全部、沙耶の前で謝るための言葉にしよう。もう、情けない自分自身を憐れむのは止めだ」
「…………ふん」
乱暴に、けれどこちらに怪我がない程度に、俺の胸倉から手を離す見崎。
その表情は、狐の仮面に隠されていて分からない。
けれど、
「ちょっとは助け甲斐のある顔になったじゃねーか」
仮面の奥で、密やかに、けれど、愉快そうに笑っていたような気がした。
申し訳ありません、100話を目前に体調を崩してしまったので、週末まで更新が微妙です。
速くて金曜日、遅くて土曜日あたりから更新を再開する予定。




