至福の時
サラはゆっくりと目を開けた。陽射しを感じるので朝だろう。すぐに彼女は自分の意思で目を覚ました事に驚いた。昨夜は眠くて先に眠ってしまった。こんな時はクリフォードが彼女の身体を弄っているはずなのにそれがないのである。彼女は慌てて起き上がった。
「サラ、おはよう。どうしたの?」
「おはよう。クリフ、いたの」
サラは安心した。先に寝た事が不満でクリフォードが寝室から出ていってしまったのかと焦ったのだ。しかし彼女の不安など汲み取らず、彼は不機嫌そうに起き上がった。
「いたらいけないの? 添い寝はいいじゃん」
「ごめん、そういう意味ではないの。昨日先に寝てしまったから怒ったかと思って」
「そんな事で怒らないよ。だってここに命が宿ったんでしょ?」
クリフォードはそう言いながらサラのお腹を触る。彼女は驚いた表情で彼を見る。
「月のものは遅れているけど、まだそうと決まったわけではないわ」
「ここにいるよ。きっとサラに似た可愛い女の子」
「何よそれ。勝手に決めないで」
サラは笑う。クリフォードも笑顔で彼女を見る。
「俺似だと父上似だよ? 可愛くないよ? だからサラ似がいい。絶対サラ似」
サラは困ったように微笑む。彼女も妊娠しているのではないかとは先日茶会講座の時に気付いてから考えていた。しかしそうなると結婚前母から言われた言葉が気になり、素直に喜んでいいのかわからなかったのだ。
「もしかして嫌なの? 俺の子は産みたくない?」
心配そうなクリフォードにサラは首を横に振る。
「違うの。クリフとの子ならきっと誰似でも可愛いと思うわ。でも暴力を振るってしまうのではないかと思うと怖くて」
「何だ、そんな事。それは大丈夫だよ」
クリフォードがあまりにも簡単に言うのでサラは驚きの表情を浮かべる。
「何を根拠に」
「だってサラは俺の事を殴らないじゃん。一応自覚はあるんだよ、重いだろうなって。でもサラは殴らずに受け止めてくれてる。軽く抓る時は本気で嫌なんだろうなとも思ってるし」
サラは微笑むとクリフォードを抱きしめた。確かに彼女は最初のうち殴りそうになるのを押さえていた時期があったが、それは本当に最初のうちだけで今ではそんな事はすっかりなくなっていた。
「ありがとう、クリフ」
「もし殴りたくなったら俺を殴って。そうしたら俺が殴れないように抱きしめるから」
クリフォードもサラを抱きしめ返す。彼女は笑った。
「抱きしめても殴ろうと思えば殴れると思うけど」
「じゃあ濃厚な口付けをして戦意喪失を狙おうかな」
「それはやめて。最後まで止まらないのでしょう?」
「そうだよ。昼間でもここに連れ込むから。だからいつでも俺に殴り掛かっていいよ」
クリフォードがサラを少し離して笑顔で彼女の顔を覗き込む。彼女も笑う。そして二人は唇を重ねた。
三年後。
「クリフォード様、私のお願いを何故聞いて下さらないのですか」
ウォーグレイヴ家の居間に珍しくヘンリーがいた。エマは長女ライラとエマの娘エミリーと共に絵本を読んでいた。ソファーにはクリフォードとサラが腰掛けている。そのソファーの傍に立ってヘンリーが文句を言っていたのである。ちなみに長男ジョンは別室にて乳母が寝かしつけていた。
「だってサラを抱かないなんて選択肢があるわけないじゃん」
「ですからサラ様には夫人の付き合いがあるので、毎年妊娠されては困るとお伝えしましたよね?」
クリフォードとサラが結婚して三年半。お金で買われたと噂されていた嫁は跡取を出産し、他の貴族夫人達との交流も疎かにせず、もう誰も彼女を金で買われた元男爵令嬢などとは言わなくなっていた。また侍女として雇ったアリシアを教育をし、政治経済を理解する女性として侯爵家に嫁がせてから、サラの侍女になると高貴な男性の目に留まりやすいと噂になり、侍女候補が後を絶たなくなっていた。しかしサラはそんなに侍女がいても困るので、子育て中を理由にそれを断っていた。
「自分が子供一人しか出来なかったからって文句言うなよ」
「クリフォード様」
サラがクリフォードを睨んで制する。部屋にはエマもいるのである。エマは難産であり、その間中ヘンリーが仕事出来ない状況に陥り、もう子供はいいと言われたとエマが寂しそうに話すのをサラは聞いていた。
「ジョン様の時はサラ様の悪阻もひどく、二ヶ月ほどほぼ寝ておられたではないですか。それを見て何とも思わなかったのですか」
「でもライラの時は眠いってだけで悪阻はなかったし、次もそうかもしれないじゃん。それに父上だって四人いるんだから、俺だってそれくらいいてもいいでしょ?」
「人数の話をしているのではありません。間隔の話をしているのです。お嬢様達は二・三年歳が離れていますからね」
クリフォードは口を尖らせた。彼の異母姉は彼の一歳上、三歳上、六歳上と確かに間隔があいているのである。しかしライラとジョンは年子であり、今サラは三人目を妊娠している。
「サラ様の負担も考えてあげて下さい。一年の三分の一はお腹が大きい状況が三年連続など楽なはずがありません」
「でも夫婦生活に口出しされたくない」
「もう父親なのですから少しは落ち着いて下さい。いつまで新婚気分を引きずっておられるのですか」
クリフォードとサラの関係は相変わらずである。乳母や子守を雇っても昼間彼女は子育てに積極的に参加していたが、夜は彼に寝室に連れて行かれる為、子供と一緒に寝るという事はなかった。ちなみに彼女が心配していた暴力に関してはその影を見る事もなく、むしろ彼に昼間から寝室に連れ込む理由を作れないとありえない苦情を受けているくらいである。
「サラは一生俺の妻なの。子供は可愛いけど、俺が一番愛してるのはサラなの」
「ヘンリー、その辺でいいでしょう? この子を産んだら次は考えるから」
「考えるって何?」
「寝室を別にするのが一番かと思います」
「嫌だ! 寝室は一緒がいい。朝起きた時にサラがいないのは嫌」
クリフォードは子供のように駄々をこねる。サラはため息を吐く。
「ヘンリーの言う事ももっともですよ。出産は時として命に係わります。私の事を愛して下さるのでしたら、抱く以外で表現して頂けないでしょうか?」
サラはにっこりと微笑んだ。クリフォードは彼女のこの目が笑っていない微笑がいつも怖かった。反論すると口を利いてもらえなくなるような雰囲気がするのだ。
「わかったよ。この子が生まれた後は考える。でも寝室別は嫌。添い寝で我慢するからそれだけは勘弁して」
「だそうよ。ヘンリー、とりあえずこれでいいかしら」
「えぇ。あとはサラ様にお任せします。それでは失礼します」
「あら折角だからエミリーに構っていきなさいよ。ライラ、こっちにいらっしゃい」
サラは娘に声を掛ける。二歳になったライラは嬉しそうに微笑んでサラの方に向かって歩いてくる。サラはライラを優しく抱き上げる。エマも絵本を閉じてエミリーを抱きかかえた。
「いえ、私は仕事中ですから」
「何よ、お孫さんって言われたのをまだ気にしているの?」
この国では二十歳には子供を持つのが一般的なので、四十歳過ぎのヘンリーが子供を抱えていると孫に見えるのである。エマは年齢より若く見え、親子ではなく三世代に見えたのだろう。
「そのような事は決して」
「なら構ってあげなさいよ。彼ほど溺愛しなくてもいいけど」
そう言ってる最中にサラの手からクリフォードがライラを抱き上げる。そして嬉しそうに微笑む。
「ライラは絶対サラ似の美人になるよね。将来が今から不安だなぁ」
クリフォードはライラに頬擦りする。ライラは嬉しそうに笑っている。一方エミリーを抱き上げてエマがヘンリーに近付くとエミリーが泣き出した。
「何だ、随分嫌われてるな。だから構いたくないのか」
クリフォードは笑顔でヘンリーを見る。ヘンリーは無表情のままだ。
「構わないからそうなるのよ。少しは仕事量減らして家族の時間を大切にしなさい」
サラはヘンリーに微笑みかけた。エマはサラにとって大切な友人である。エマが寂しそうにするのは辛いのだ。サラの気遣いを知りエマは嬉しそうにサラに微笑んだ。
『わかりました、極力努力をします』
ヘンリーの言った言葉をエマとクリフォードが理解出来ずに首を傾げる。サラは嬉しそうに微笑んだ。
『素直ではないわね。帝国語を使うなんて』
『しかしお子様達の教育の為には帝国全域の言語を教えるようにと旦那様より指示がありましたので、適度に使用していこうと思っています。既に使用人として雇っている者もいます』
『えぇ、知っているわ。言語は大切だから私もお義父様のその指示には従うつもりよ。彼は帝国語を知らないから内緒話にはうってつけだしね』
ヘンリーとサラとのやり取りが隣国シェッド帝国の公式言語である帝国語の為、エマとクリフォードには理解が出来ない。
「ちょっとサラ、妙な言葉で会話するのはやめて」
「妙とは何ですか。帝国語ですよ? クリフォード様も外交官になられたのですから帝国語を覚えたらいかがですか」
「そういうのは通訳がいるからいいよ。で、何を話してたの」
「ライラ達にも帝国語をそろそろ教える時期が来たという話です。一緒に覚えますか?」
「いい。通訳の仕事を奪ったら悪いだろ?」
「そうやってもっともらしい理由を付けて」
サラは笑った。クリフォードも笑うと、何もわからないライラも笑う。クリフォードが休みの日に穏やかに過ごすのがサラにとって至福であった。
サラは寝室のソファーの端に腰掛け、手紙を読んでいた。クリフォードが休みの日は彼女宛の手紙が届いたとしても翌日まで触れない事にしていた。彼女がライラを抱きかかえている時、母親が傍にいるのはいいねとぽつりと呟いた彼の言葉があまりにも重く感じて、その時から家族の団欒を一番にしようと彼女は心の中で決心し、そう振る舞っていた。ただ今読んでいる手紙は久しぶりに友人から届いたもので、彼女は明日まで待ちきれず寝室に持ち込んでいたのである。
ノックしてクリフォードは寝室に入ってくると、迷いもせず彼女の膝に寝転がった。家族の団欒といえども子守や乳母が必ずいるので、居間では彼女の態度や言葉は砕けない。膝枕をするのは夜、寝室の中でだけになっていた。
「嬉しそうにしてるね。何の手紙?」
「エリオットからの手紙よ。読む?」
「別にいい。何て?」
クリフォードは不機嫌そうに言い捨てた。毎晩一緒に寝て、子供もいると言うのにまだ何か拘っているのかと思うと、サラは苦笑を零さずにはいられなかった。
「王都に一度戻ってくるみたい。最近睨み合いになったらしくて」
アルフレッドは宰相になっていた。宰相になって一番に掲げた目標が隣国レヴィ王国との休戦だった。アルフレッドの努力もあって今二国は大河を挟んで睨み合いの状態になった。ここから休戦に持ち込むのがこれからの課題である。その討議の為に少佐となったエリオットは一時王都へ帰国するので、その時に遊びに行くという手紙である。
「エリオットに抱擁は駄目だからね?」
「そういう細かい事を言うから器が小さいと言われるのよ」
サラは屋敷の外では一線を引いた態度で徹していた。あくまでも自分はお金で買われた嫁であり、決して恋愛結婚ではないという姿勢を崩さなかった。一方クリフォードは屋敷の中でも外でも態度は大して変わらず、それ故に彼女を自力で振り向かせられずお金で買った残念な男と言われていた。そしてそんな残念な男を支えている彼女の様子は垣間見え、出来た嫁だと彼女の株しか上がらないのが彼女の今一番の悩みである。
「嫌なものは嫌だ」
「でも私は残念な男の妻と言われるのは嫌なのよ。素敵なご主人よねと言われたいの」
サラは拗ねたようにそう言った。クリフォードは起き上がって彼女の横に腰掛ける。
「俺は残念な男扱いなの?」
「知らなかったの? 皆そう言ってるわよ。政略結婚より大変でしょうねと言われる度に否定しているのだけど信じて貰えないのよ」
「言いたい人達には言わせておけばいいんじゃない? 俺達は愛し合ってるわけだしさ」
クリフォードはサラの頬に手を添える。彼女は彼の手首を掴んで彼を睨む。
「私の話を聞いていた? 残念な男の妻と言われたくないの。だからクリフはもっと頑張ってねという話をしているのだけど」
「でも俺は何が残念かわからない。仕事はきっちりやってるよ?」
「その仕事の時に、妻不足で集中出来ないので帰りますと言うのが残念なのよ」
サラの言葉にクリフォードは驚く。
「何でそれをサラが知ってるの」
「夫人達の情報網を侮らないで。そういう話が漏れてくる度に確認される私の身にもなってよ。恥ずかしくて仕方がないの」
夫人達の情報網は主にリリーが中心である。リリーはその噂が嘘でも本当のように言うので、サラは必死にクリフォードに関しては悪く言われないように対応していたが、事実の場合はどうにもならないのである。しかしそんな彼女の悩みを彼が理解出来るはずもない。
「でも事実だし。サラ愛してるよ」
クリフォードはサラを優しく抱きしめる。
「何の反省もしていないでしょう? 少しは外での態度を考えてと言っているの」
「愛妻家の何がいけないの? 冷めてたり浮気してるよりはいいでしょ?」
「それはそうだけど」
「じゃあいいじゃん。誰が何と言おうと俺はサラを愛してる。サラもだよね?」
クリフォードはサラの顔を覗き込む。彼女は微笑んで頷く。
「頷くので逃げないで。言葉にして」
「愛しているわ、クリフ」
クリフォードは満面の笑みを浮かべる。あまりにも嬉しそうな表情に彼女もつられて微笑む。彼は彼女を抱え上げベッドへと運ぶ。彼女をゆっくりベッドにおろすと、彼はその上に覆い被さり何度も口付けをする。
「サラ、愛してるよ」
「わかってるわよ。だからもっと自信を持って。私はクリフに愛されているから何でも頑張ってこられたの。クリフも私の愛情を感じて立派な政治家になって。そうしてくれないと愛情が冷めてしまうわ」
笑顔でそう言うサラにクリフォードは眉を顰める。
「愛情と政治家、関係ある?」
「あるわよ。何も一人で頑張れなんて言わないわ。二人で頑張りましょう?」
「わかった。将来宰相を目指すよ」
クリフォードの真剣な表情にサラは笑いを零す。
「随分大きく出たわね」
「目標高くしないと不満なんでしょ?」
「えぇ、よくわかってるわね」
サラは微笑んでクリフォードに口付ける。彼は微笑む。
「今夜いいって事?」
「少しだけね」
二人は微笑むと唇を重ねた。
最後までお付き合いありがとうございました。
【元子爵令嬢と無表情男】という番外編も宜しければご覧下さい。
この話の裏話もおまけで少しあります。




