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大浴場のあるホテルに入ったら、まずは一風呂だ。
サッパリした後は、軽くビールでも飲んで、ホテルの内外を散策して、晩飯まではごゆるりと寛いで下さい、というのが温泉旅行の正しい作法だと思う。
風呂の後の、潮風に当たりながらビールを一気に飲んだあの瞬間!
この時ほど、日本に生まれて良かった~!と愛国心を感じる事があるだろうか?
デモだ何だと大義名分をつけては破壊行為を繰り返す、愛国心を勘違いしているどっかの国のヤツらに味わせてやりたい。
なのに。
なのに、だ。
この日本人として最高の瞬間を全然味わおうとしない非国民がここにいる!
俺たちは妻がわざわざ旅行バッグに入れて持参してきたノートパソコンを前に、ぎゃあぎゃあ言い合いを始めていた。
「てめー、何でこんなとこまでパソコン持ってきてんだ!?」
「何でって、取材してインスピが降りてきたらすぐに書かなくちゃなんないでしょ。神がいつ降臨するか分かんないんだから」
「うるせー!何が神だ。あんた、まさかここまで来て三文小説書くつもりじゃないだろうな!?」
「書くに決まってんでしょ!旅行だからって休めないよ。読者の方々はあたしの更新を楽しみにしてるんだから!」
「してねーよ!てか、ジャンプの漫画家だって取材旅行で今週はお休みですって普通にやってるだろーが!あんたが一日書かなくたって誰もさほど気にしちゃいねーよ!」
「そういう漫画家は不定期に休んでるじゃん。ワンピースなんか作者の新婚旅行の時以外休んだことないんだよ?」
「何、大先生と肩並べてんだよ、図々しい!とにかく、ここまで来てやることか、それ!?」
「何言ってんのよ!寧ろ、これをしに、ここまで来たんじゃない!ホラ、あたし、この海を見た時のインパクトを書き留めておかなきゃなんないのよ。お風呂だったら、一人で行ってきたら?」
「あんた、風呂入んねーの?」
「入るけど、今、この窓に広がる太平洋の美しさを書き留めておきたいんだもん。お風呂なんか いつでも入れるんだから、別に今じゃなくてもいいじゃん」
「てめー、それでも日本人か!?メシまでに一風呂浴びてビール飲むのは温泉旅館の醍醐味だろーが!」
「だから、後から入るって言ってるでしょ!もー!うるさいからさっさとお風呂行ってきてよ!」
妻は建て付けのクローゼットから浴衣とバスタオルを引っ張りだすと、俺の胸にドン!と突きつけた。
「ホラホラ、あたしの事は気にしないで、さっさとお風呂行ってきて!」
「・・・マジであんた、何しに来たんだよ?」
「だから、取材旅行だって言ってるじゃない!あたしは後から行くからご飯までゆっくりしてきて、ね!?」
グイグイと背中を押されて部屋の外に出された俺の耳に、ドアが閉まる音が虚しく響いた。
◇◇◇
・・・なんなんだ、あの天然マイペース。
つっても、今に始まったことじゃないけど・・・。
太平洋がきらめく大浴場で、俺は一人でブツブツ言いながら湯船に浸かっていた。
取材というからには、写真取ったり、メモつけたりするくらいは想定内だったが、パソコン持参でホテルで更新するつもりだったとは・・・。
何で海に来たかったんだ、ヤツは!?
てか、現在連載中の2作品と、この海の見えるホテルに接点がない。
あの後、全裸のままネクタイ片手にスタンバってる奏に風香ちゃんが「そーゆー事は海の見えるホテルでなきゃイヤ!」って言ったなら話は別だが・・・。
もし、そうでないなら、何の為に旅行までする必要があったんだろう・・・?
そう思った時、初めて俺の中に疑問が生まれた。
ヤツは本当に『美波マリリン』なのか・・・?
考えてみれば、ヤツの本名が『南 真理』だからって安直に『美波マリリン』なんてつけるもんだろうか・・・?
俺だって『星屑綺羅々』は結構考えてつけたんだ。
書く側の人間なら、ペンネームってもっと練って考えるだろう。
今まで疑いもしなかった、ヤツが『マリリン先生』じゃない可能性を考え、俺は混乱し始めた。
もし、あいつが全く違う名前で、全く違う海洋ロマンの冒険小説なんかを書いてたとしたら、そりゃ、取材にハワイに行きたがるかもしれない。
だとしたら、俺が計画していた『ヤツの欲望のまま縛ってもらう』作戦は墓穴を掘る事になりはしないか?
「なあ、ホントは俺の事、縛りたいんだろ?」なんて言ってみろ?
そして、「ヤダ!南クンの変態!バッカじゃないの!あたし、そんな女じゃないんだから!縛って欲しかったら風俗でも行ってよ!」なんて言い返されてみろ?
俺のガラスのハートは、もはや再起不可能だ。
今まで考えてもみなかったこの可能性。
いや、寧ろ、どうして『マリリン先生』がヤツだと、あっさりと断定してしまったのか。
今まで俺が書いてきた感想も、もしかしたら全く関係のないユーザーを喜ばせてたのかもしれない。
「むむ・・・・・・?」
ヤツが『マリリン先生』じゃない・・・?
だとしたら、ヤツは誰なんだ?
てか、『マリリン先生』って・・・誰!?
今まで、マリリン先生の秀作を読んでも、「これはあの天然腐れ女が書いた三文小説だ」と言い聞かせ、好きにならないように努めてきた。
だけど、ヤツがマリリン先生でなかったら・・・。
俺、ファンになっちゃうかも?
俺は混乱した頭をブルンと振って、湯船から這い出した。