最終話「あの世にて、なお斬れず」
水面が、今日は違う揺れ方をしていた。
いつもより深く揺れていた。いつもより遠くを映していた。映っているのは明治でも幕末でもなかった。もっと先の時代だった。誰も知らない街が映っていた。馬のいない道に、鉄の箱が走っていた。空に、鳥でないものが飛んでいた。建物が、雲に届くほど高かった。
誰も口を開かなかった。
言葉が出なかった。あの映像の中に自分たちが関わっているとは、誰も実感できなかった。しかし——そこには確かに、人が歩いていた。笑っている人がいた。泣いている人がいた。走っている子どもがいた。刀のない腰で、誰も殺し合わずに、生きていた。
坂本龍馬は、水面を見たまま動かなかった。
いつもなら何か言う。何か呟く。しかし今日は、黙っていた。口を結んで、水面だけを見ていた。その目に——いつもの軽さがなかった。
その顔が——どこか、違った。
*
「……どういたがじゃ」
中岡慎太郎が、龍馬の隣に来た。
龍馬の顔を見て、そう言った。普段なら笑って返すはずだった。しかし今日は、返ってこなかった。
「珍しいのう、おんしがそんな顔するがは」
武市半平太が、少し離れた場所から言った。腕を組んでいた。水面を見ていた。
龍馬は、水面から目を離さなかった。
「……見ゆうがじゃ」
それだけ言った。
「何が見えちゅうがじゃ」
中岡が、もう一度聞いた。
「……弥太郎じゃ」
龍馬は言った。
*
水面の中に、一人の男がいた。
大きな建物の前に立っていた。洋服を着ていた。貫禄があった。周りの人間が、頭を下げていた。その男だけが、頭を下げさせる側にいた。堂々と、そこにいた。
「弥太郎やないか」
中岡が、静かに言った。
「ようあそこまで行ったのう」
武市が言った。土佐弁の硬さが、このときだけ柔らかかった。感嘆に近かった。武市半平太という男が、純粋に感嘆するのは——珍しかった。
「……あいつはな」
龍馬は言った。少し間があった。
「長崎で、一緒に飲んだがじゃ」
「弥太郎と、か」
中岡が聞いた。
「ああ。土佐商会に来ちょった。わしの海援隊の金の面倒を見てくれよった。堅い男やったけんど——飲むと、よう喋った」
水面の中の岩崎弥太郎が、誰かと話していた。堂々としていた。一切、頭を下げなかった。
「将来のことを、よう語りよった」
龍馬は続けた。
「海の向こうへ出たい、と言いよった。日本を、でかい船で動かしたい、と言いよった。あの頃のあいつは、まだ藩の役人じゃった。けんど——目だけは、もっと遠くを見ちょった」
「……強いのう」
中岡が言った。
「ああ」
龍馬は言った。
「頭で戦うた男や。刀やなく——頭で」
吉田東洋が、その水面を見ていた。
いつからいたのか分からなかった。しかし——いた。腕を後ろで組んで、静かに水面を見下ろしていた。
東洋の目が、弥太郎を追っていた。
弥太郎が、誰かと握手をしていた。洋風の挨拶だった。堂々としていた。昔の土佐では、あの男は頭を下げさせられる側だった。身分が低かった。才があっても、家柄がなければ登れない壁があった。その壁を——弥太郎は、壊すのではなく、迂回した。別の道を、自分で作った。
「……やりよったのう」
東洋が、静かに言った。
独り言のようだった。しかし——聞こえた。
「少林塾に来たころは——まだ、あんな顔やなかった」
東洋は言った。
「貧しかった。悔しそうやった。しかし——漢詩を書いてきた。下手ではなかった。わしはそれを見て、こいつは使えると思うた」
間があった。
「身分より、才を見る。それがわしのやり方やった。だから推した。仕官させた」
龍馬が、東洋を見た。
「先生がおらんかったら——弥太郎はあそこまで行けんかったかもしれんのう」
東洋は、少し間を置いた。
「どうじゃろな」
東洋は言った。
「あいつのことじゃ。わしがおらんでも、どこかで別の道を見つけちょったかもしれん。ただ——わしが見込んだことで、少し早うなっただけじゃ」
武市が、東洋の隣に来た。
「……東洋様」
武市は言った。いつもの武市の言い方ではなかった。敬語だった。この場所に来てから初めて出た、東洋への、本当の敬語だった。武市半平太が、自然に頭を下げるような声だった。
「なんじゃ」
「東洋様が——弥太郎をそう見ちょったとは、知らんかった」
東洋は、武市を見た。
「お前が知る必要もなかったがじゃ」
武市は、少し黙った。
「東洋様は……わしと——同じものを、見ちょったんじゃ」
東洋は、少し間を置いた。
「そうじゃな」
東洋は言った。
「やり方が違うたけんど——見ちょったものは、同じじゃった」
武市は、東洋を見た。
この答えを、生きているうちに聞けていたら——という思いが、浮かんだ。浮かんで、消えた。消えて——しかし、残った。
龍馬は、水面を見続けた。
「……時代は変わったのう」
龍馬が、ゆっくりと言った。
その言葉が、白い空間に広がった。
*
水面が、揺れた。
さっきとは違う揺れ方だった。穏やかではなかった。
山が映っていた。鹿児島の山だった。城山だった。狭い。追い詰められた地形だった。政府軍の包囲が、四方から締まっていた。退路はなかった。夜明け前の薄暗さの中に、銃声が断続的に響いていた。
薩摩の兵が、次々と倒れていた。隊列はとうに崩れていた。旗が折れた。逃げる者がいた。動けなくなった者がいた。
誰も声を出さなかった。
煙の中に、一人の男が立っていた。大きかった。どっしりとしていた。周りが崩れていく中で、その男だけが動かなかった。退かなかった。前を向いたまま、そこにいた。薩摩の空気を、一人で纏っていた。
「……西郷じゃ」
中岡が、静かに言った。
「まだやるがか」
武市が言った。声が低かった。責めているのではなかった。ただ——信じられない、という声だった。
「終わっとる戦や」
水面の中の男は、動かなかった。声も出さなかった。ただ——立っていた。崩れていく中で、立っていた。夜明けを待っていた。
「……あれはな」
龍馬が言った。
間があった。
「時代に乗り切れん男が——死に場所を選びゆうがじゃ」
白い空間に、その言葉が残った。
「……龍馬」
中岡が言った。
「西郷さんが間違うちゅうがか」
龍馬は、少し黙った。
「間違うちゅうとは——言わん」
龍馬は言った。
「ただ——あの人は、止まれんかった。流れが変わったのは分かっちょった。賢い人や。けんど——止まれんかった。あの人は、薩摩を、日本を、最後まで信じちょった。信じたまま、終わろうとした。信念を——手放せんかった」
「それを——間違いとは、わしには言えんがじゃ」
白い空間に、煙の気配が遠く残っていた。
水面の中の西郷隆盛が——夜明け前の城山で、まだ立っていた。
*
吉田松陰が、そこにいた。
水面の傍に、静かに立っていた。戦場を映す水面を、じっと見ていた。目が——深かった。
「……松陰先生」
武市は言った。この場所に来てからずっと、松陰に対してだけ出る、本当の敬語だった。
松陰は、水面を見たまま動かなかった。しばらく、黙っていた。
「見えておったろう」
間があった。
「見ようとせんかっただけじゃ」
武市は、何も言えなかった。
「思想は、人の目を開かせる。しかし——同時に、人の目を塞ぐこともある。見えすぎるから、他が見えなくなる。信じすぎるから、疑えなくなる」
間があった。
「僕も、そうじゃった」
その言葉が——重かった。
東洋が、松陰の隣に立った。
「思想が人を動かす」
「その通りじゃ」
松陰は答えた。
「動かす。大きく、動かす。一人の言葉が、百人を動かす。百人が、時代を動かす。その先で——人が死ぬ」
龍馬が、静かに言った。
「僕は」
松陰は言った。
「それを忘れたことは——一度もない」
武市は、松陰を見ていた。
「……先生は、後悔しちょりますか」
松陰は、少しの間、黙った。
「後悔と——呼ぶものかどうか、分からん」
松陰は言った。
「ただ——死んでいった者たちの顔は、忘れん。一人も、忘れん。晋作の顔も。玄瑞の顔も。名も知らぬ者たちの顔も」
高杉晋作が、少し離れた場所で、三味線の弦を指で押さえたまま、黙っていた。
久坂玄瑞が、水面を見ていた。
「忘れんことが——僕にできる、唯一のことじゃ」
誰も喋らなかった。
白い空間に、静寂が満ちた。
*
龍馬は、水面を見た。
二つの時代が、重なるように揺れていた。
「一人は流れに乗った」
龍馬は言った。
「岩崎弥太郎は——時代の流れを読んで、乗った。刀やなく頭で戦うた。身分も、貧乏も、笑われた過去も——全部、燃料にして走った。誰も笑えんほど、遠くまで行った」
間があった。
「一人は流れに抗うた」
「西郷さんは——流れが変わっても、退かんかった。変わっていく日本を見ながら、自分の信じたもので戦うた。最後まで」
間があった。長い間があった。
「どっちも、本気じゃ」
「龍馬——お前はどっちじゃ」
中岡が聞いた。
龍馬は、少し笑った。
「わしか」
間があった。
「わしは——どっちでもなかったかもしれん。流れを作ろうとしよったがじゃ。乗るんでも抗うんでもなく——流れそのものを、変えようとしよった」
「できたかどうかは——分からん」
誰も、反論しなかった。
*
しばらく、誰も口を開かなかった。
水面が揺れていた。知らない時代が揺れていた。
龍馬が、静かに言った。
「なんでわしらは、まだここにおるがじゃろ」
誰も答えなかった。
「何を目的に——おるがじゃろ」
誰も、答えなかった。
答えられなかった。
白い空間が、静まっていた。
そのとき——
「……俺は知ってたぜ」
芹沢鴨が、言った。
誰も芹沢に問いかけていなかった。しかし芹沢が、口を開いた。水戸訛りが、静かに響いた。
「最初から——だいたい、分かってた」
全員が、芹沢を見た。
芹沢は水面を見たまま、続けた。
「新見も知ってた。あいつとは、来た当初に話した」
新見錦が、静かに頷いた。何も言わなかった。しかし——頷いた。
「ここはな」
芹沢は言った。
「保留だ」
間があった。
「答えを出せなかった奴らが、来る場所だ」
「どういうことだ」
土方が言った。
「善も悪も関係ない。坂本もいる。近藤さんもいる。長州の奴らもいる。みんな同じ場所にいる。それは——誰かに裁かれたわけじゃない」
「じゃあ——何だ」
「意味が確定していない奴らが、残る場所だ」
芹沢は即座に言った。
「出られない。終わらない。時間も進まない。神もいない。裁きもない。誰も答えを教えてくれない。地獄に似てる。しかし——罰じゃない」
「なぜ最初から言わなかった」
龍馬が、芹沢に向かって言った。責めているのではなかった。ただ——聞いていた。
「お前らが自分で気づく方が——意味があった」
龍馬は、芹沢を見た。
芹沢は水面を見たままだった。
「壬生にいた頃からそうだ。俺は——自分で動く人間が好きだ。言われて動く人間には、興味がねえ」
近藤は、芹沢を見た。
芹沢鴨という男が——この場所の本質を知っていて、ずっと黙っていた。ずっと、全員の動きを見ていた。近藤は壬生での日々を思い出した。あの頃、芹沢は乱暴だった。暴れた。飲んだ。しかし——この男は、いつも何かを見ていた。
「……芹沢さん」
近藤は言った。
「俺は——答えが出たのか、まだ分からない」
芹沢は、近藤を見た。
「出てなくていい」
芹沢は言った。
「出てないことに——気づいてるなら、それで十分だ」
近藤は、黙った。
土方は、芹沢を見ていた。何も言わなかった。しかし——その目が、少し変わっていた。
*
近藤勇が、水面を見ていた。
しばらく、近藤は黙っていた。
「……俺が死んで——何が、残った」
近藤は言った。
問いではなかった。独り言に近かった。しかし——届いた。
土方歳三が、一歩前に出た。
静かな一歩だった。しかし、重かった。
「……俺が残った」
白い空間に、その言葉が落ちた。
近藤は土方を見た。
土方は、近藤から目を逸らさなかった。
「流山で——あんたが出頭すると言ったとき」
土方の声は、低かった。抑えていた。抑えているのが、分かった。
「俺は止めた」
「……ああ」
「止めきれなかった。あんたの顔を見て——これ以上言っても無駄だと分かった。あんたはいつもそうだ。一度決めたら、動かない」
近藤は、何も言わなかった。
「あんたが出頭してから——俺は江戸へ走った。勝海舟のところへ行った。誰でもいい、頭を下げられる人間には全員頭を下げた。助けてくれと言った」
土方は、そこで一度止まった。
「届かなかった」
間があった。長い間があった。
「板橋で——あんたが斬られたと聞いたとき」
土方は続けた。声が、わずかに変わった。
「俺はまだ戦っていた。戦いながら——聞いた。戦いを止めるわけにはいかなかった。あんたの分まで、やり切るまでは」
「……トシ」
近藤が言った。
「会津へ行った。東北を転戦した。北海道へ渡った。五稜郭まで行った」
土方は言った。
「最後まで——新選組の旗を降ろさなかった。あんたが作ったものを、俺が終わらせるわけにはいかなかった」
間があった。
「函館で死んだ。それでよかった」
近藤は、土方を見ていた。
土方の目が——揺れていた。しかし、逸らさなかった。ずっと、近藤を見ていた。
「……俺のせいで」
近藤は言った。
「お前を——一人にした」
土方は、少し間を置いた。
「一人じゃなかった」
土方は言った。
「あんたがいた。ずっと——あんたがいた」
白い空間に、静寂が満ちた。
近藤が、ゆっくりと頷いた。
土方の手が、近藤の腕を掴んでいた。いつから掴んでいたのか、近藤には分からなかった。土方は何も言わなかった。ただ、掴んでいた。
しばらくして——土方の手が、ゆっくりと離れた。
*
「それや」
高杉晋作が、言った。
三味線を持ったまま、近藤を見ていた。誰も頼んでいなかった。しかし——高杉が、口を開いた。
「君は武士として死んだ」
近藤は高杉を見た。長州の男が、自分を見ていた。
「最後まで貫いた。降伏せんかった。逃げんかった。武士として死んだ」
間があった。
久坂玄瑞が、少し前に出た。黙っていた。しかし——黙っていられなかった。
「高杉さん」
久坂は言った。声が、静かだった。怒りではなかった。
「近藤さんが——なぜ切腹を許されなかったか」
高杉は、久坂を見た。
「分かっていますか」
「……聞かせろ」
高杉は言った。三味線を膝に置いた。
「近藤さんは——農民の出だ」
久坂は言った。
「どれだけ武士らしく生きても、新政府の側からすれば——旗本でも藩士でもない。それだけで、切腹の資格がないと見なされた」
高杉は、黙っていた。
「しかしそれだけじゃない」
久坂は続けた。
「近藤さんが生きた十年——新選組が京でやってきたことは、長州の仲間たちを殺してきた歴史だ。池田屋も。天満屋も。祇園の路地も。近藤さんは——その全部の象徴として、斬られた」
間があった。
「慶喜は逃げた。恭順した。生きた。だから——誰かが、幕府の罪を全部背負わなければならなかった。近藤さんが、その場所に立たされた」
高杉は、久坂を見た。
「……それを——長州は望んだか」
久坂は、少し間を置いた。
「俺には分からない」
久坂は言った。
「長州の誰かが望んだかもしれない。望まなかった者もいたかもしれない。ただ——そうなった。近藤さんは斬首された。武士の死に方を、許されなかった」
近藤は、この一部始終を聞いていた。
黙っていた。何も言わなかった。
久坂は、近藤を見た。
「……俺たちが殺した仲間の分まで、背負わせた。そう思っています」
白い空間が、静まっていた。
高杉は、近藤を見た。
「しかし——慶喜は逃げた」
高杉は言った。声が、低かった。
「鳥羽伏見の後、慶喜は大坂城を抜けて江戸へ逃げた。恭順した。謹慎した。死なんかった。生きた」
「怒りの行き場がのうなった。長州の——幕府への恨みの行き場が。慶喜を処刑できんかった以上、誰かが受けにゃあならんかった」
間があった。
「だから君が全部背負った。近藤勇が、全部背負った」
「それができるんは——近藤勇だけじゃ」
久坂玄瑞が、黙って頷いた。
芹沢鴨が、近藤を見た。
「……そういう男だ」
水戸訛りが、このときだけ消えていた。
近藤は、全員を見た。土方を見た。龍馬を見た。高杉を見た。久坂を見た。芹沢を見た。武市を見た。中岡を見た。松陰を見た。東洋を見た。山南がいた場所を見た。沖田がいた場所を見た。以蔵がいた場所を見た。
誰も、近藤から目を逸らさなかった。
「……そうか」
近藤は言った。
声が——少し、変わっていた。
*
白い空間に、静寂が満ちた。
誰も喋らなかった。
水面が揺れていた。知らない時代が揺れていた。知らない人々が、刀のない腰で歩いていた。
龍馬が、少しだけ笑った。
いつもの笑い方ではなかった。軽くなかった。しかし——笑みだった。
「ほいたら——」
龍馬は言った。
「そろそろ教えちゃる」
全員が、龍馬を見た。
龍馬は近藤を見た。近藤だけを見た。
「ええこと教えたる、近藤さん」
間があった。
長い間があった。
この場所に来てから、ずっとそこにいた龍馬が——少しだけ、薄くなっていた。気のせいかもしれなかった。しかし——薄かった。輪郭が、わずかに霞んでいた。さっきまでと、何かが違った。
「わしを殺したがは——」
*
暗転。
水面が静かに揺れていた。
その水面の前に——二人が立っていた。
さっきまでいなかった二人が、いつの間にかそこにいた。
一人は大柄だった。どっしりと立っていた。薩摩の空気を纏っていた。
もう一人は細身だった。疲れた目をしていた。しかし背筋は伸びていた。長州の空気を纏っていた。
西郷隆盛と、木戸孝允だった。
二人は水面を見ていた。知らない時代が揺れていた。
「……ここまで、でごわすか」
西郷が言った。薩摩訛りが、低く響いた。
「……ええ」
木戸が答えた。長州訛りが、静かに滲んでいた。疲れた男の声だった。生きている間ずっと、薩摩と長州の間で、幕府と朝廷の間で、立場と信念の間で——疲れ続けた男の声だった。
間があった。
「西郷さん」
木戸が言った。
「あなたは——最後まで、信じていましたか」
西郷は、少し間を置いた。
「何をでごわすか」
「この国が——うまくいくと」
西郷は、水面を見た。
知らない時代が揺れていた。馬のいない道に、鉄の箱が走っていた。刀のない人々が歩いていた。
「……分からんかった」
西郷は言った。
「うまくいくかどうかは——おいには分からんかった。ただ」
間があった。
「信じちょらんかったら——動けんかった。それだけじゃ」
木戸は、水面を見た。
「私は——信じたり、疑ったり、繰り返していました」
「そうでごわすか」
「長州にいたとき、江戸に行ったとき、維新の後も——ずっと。これが正しいのか、違うのか。ずっと、迷っていました」
間があった。
「それでも、進めましたな」
「進めたかどうかは——わからんでごわす」
西郷は言った。
「おいたちが作ったものが、正しかったかどうかも——わからん」
水面が揺れていた。
「ただ——」
西郷は続けた。
「やい通しただけでごわす」
木戸は、水面を見た。
「……そう、思いたいですな」
間があった。長い間があった。
「木戸さん」
西郷が言った。
「あなたは——疲れちょったでごわしょう」
木戸は、少し黙った。
「疲れました」
木戸は言った。静かだった。
「ずっと疲れていました。薩摩とも喧嘩した。大久保とも喧嘩した。伊藤とも揉めた。誰も言うことを聞かなかった。国を作るということが——こんなに面倒だとは、思っていなかった」
「そうでごわすな」
西郷は言った。どこか、穏やかだった。
「おいも——疲れちょった。維新が終わって、征韓論で負けて、鹿児島に帰って——もう、ええと思うた」
「城山は——」
「終わりにしたかっただけでごわす」
西郷は言った。
「それだけじゃ。正しいとも、間違いとも、思わんかった。ただ——終わりにしたかった」
木戸は、西郷を見た。
「あなたらしい」
「そうでごわすか」
「ええ。あなたはいつも——大きく動いて、大きく終わる」
西郷は、少し笑った。
薩摩の男の笑い方だった。静かで、深かった。
「木戸さんは——小さく動いて、小さく終わった」
「そうかもしれません」
木戸は言った。
「私は——最後まで、机の前にいた。体が言うことを聞かなくなっても、文書を読んでいた。派手には死ねなかった」
「それでいいでごわす」
西郷は言った。
「派手に死ぬことが——偉いわけじゃなか」
木戸は、水面を見た。
「それで、十分でしょうか」
間があった。長い間があった。
西郷は、水面を見たまま言った。
「……そうかもしれんな」
二人は並んで、水面を見ていた。
知らない時代が、揺れていた。
誰かが歩いていた。
笑っている人がいた。
子どもが走っていた。
水面が、ゆっくりと——静かに——揺れていた。
風はない。
時間はない。
ただ、揺れている。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
最終話「あの世にて、なお斬れず」——了
——完——
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━




