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プロローグ:雲上


 雲は、動かない。


 いや、正確には動いているのだろう。だが、ここではそれを誰も気にしない。気にするための時間が、この場所に届いていないのかもしれなかった。時間がなければ、動いているのか止まっているのか、問うこと自体が意味をなさない。雲は雲のまま、ただそこにある。


 白い。ただ白い。


 上も白い。下も白い。前も後ろも、右も左も、全部白い。その白が光っているのか、光を反射しているのか、それとも白という色がただそこにあるだけなのか、判断する手がかりがなかった。影がない。影がないから、奥行きも分からない。どこまでが近くて、どこからが遠いのか。それすら、この白の中では溶けていた。


 地面と呼ぶべきものがあるとすれば、それは雲そのものだった。


 足を踏み出せば沈むはずのものが、しかし沈まない。踏みしめれば固く、されど柔らかく、感触としか呼びようのない何かが、足の裏にたしかに伝わってくる。土でも石でも板でも畳でもない。生きていた頃に踏んだどんな地面とも、違っていた。


 それでも、立てる。


 それだけで、とりあえずは十分だった。


   *


 坂本龍馬は、もうずいぶん長いこと、その場所にいた。


 どれくらいの時間かは分からない。ここでは時間というものが意味を持たない。日が昇らない。陰らない。腹も減らない。眠くもならない。喉も渇かない。体というものが、命を維持するための機械であることをやめていた。心臓が動いているのかどうかも、確かめようとは思わなかった。確かめたところで、何になるわけでもない。


 ただ——在る。


 それだけが、この場所での存在の形だった。


 右手を見る。


 五本の指が、白い靄の中にくっきりと浮かんでいた。掌を裏返す。傷がない。あの夜、近江屋の二階で受けた刀傷が、最初からなかったように消えている。深く入った刃の跡が、どこにもなかった。血も、痛みも、なかった。


 最初にそれに気づいたとき、龍馬は少し笑った。


 死んでもまだ体の心配をしちゅう、と思ったからだ。我ながら呑気なもんじゃ、とも思った。あれだけ斬られておいて、この場所ではなかったことになっている。それが可笑しかった。可笑しくて、少しだけ、悲しかった。


 着物も、あの夜のままだった。


 紺の着物。腰には何も下げていない。刀は、この場所に来てしばらくしてから外した。しかし濡れてもいなければ乱れてもいない。まるで時間だけが、彼の体から抜け落ちてしまったような清潔さだった。着物だけが、近江屋の夜を静かに覚えていた。


 四方を見渡す。


 果てがない。


 空もない。地もない。上も下もない。ただ白が、白を重ねて、どこまでも続いている。最初にここへ来たとき、龍馬は端を探して歩いた。どこまで歩いても端はなかった。疲れもしなかった。腹も減らなかった。ただ白が続くだけだった。どこかへ向かっている感覚もなく、どこかから離れている感覚もなかった。歩くという行為が、この場所ではただの動作に過ぎなかった。


 それでいつからか、歩くのをやめた。


 刀を靄に向けて一度だけ薙いでみたことがある。試してみずにはいられなかった。当たりはした。手応えがあった。しかし何も起きなかった。靄は靄のまま、斬れてもなく、傷ついてもなく、ただそこにあった。龍馬の刀は、その靄をすり抜けたのか、貫いたのか、それとも触れただけなのか、分からなかった。分からないままだった。


 龍馬はそれ以来、刀を腰から外していた。


 斬れない刀を差している意味が、分からなかった。


 そしてこの白い場所で、ただ待っていた。


 何を待っているのか、最初は自分でも分からなかった。しかし待っていた。誰かが来る。そういう気がしていた。根拠はなかった。ただ、そういう場所だという気がした。ここは一人でいる場所ではない、という確信だけがあった。その確信の根拠も、説明できなかった。ただ、そう思った。


 その予感が当たったのは——白の中に、黒い影がひとつ現れたときだった。


   *


 近藤勇は、刀を抜いていた。


 理由があったわけではない。目が覚めたとき、気づいたら抜いていた。手が刃を握っていた。正眼に構えていた。いつの間に、という感覚すらなかった。武士とはそういうものだと、近藤は思っていた。いや、思うより先に体が動く、それが武士というものだと、長年の習いが骨に刻んでいた。道場で何万回と繰り返した動作が、死んだ後でも体の中に生きていた。


 しかし。


 誰もいない。


 白い世界の中で、近藤は一人、刀を構えていた。正眼に。膝を軽く落として。いつでも踏み込める体勢で。構えながら、ゆっくりと息を吐いた。肺に入る空気がある。吐く息がある。だが寒くも暑くもない。風もない。匂いもない。体は動く。しかしどこか——体の輪郭が、ぼんやりしているような感覚があった。自分がどこまでで、この白い世界がどこからなのか、境界が曖昧だった。


 これはどこだ。


 問いが浮かぶより先に、答えは体の奥からにじみ出てきた。


 ここは死後だ、と近藤は思った。


 感慨もなく、恐怖もなく、ただそう思った。不思議と動揺はなかった。動揺するだけの何かが、すでに使い果たされていたのかもしれない。近藤勇という男は、生きている間に、驚くべきことを驚くべきだけ経験してきた。池田屋で。鳥羽伏見で。江戸で。会津で。そして板橋で。


 板橋の露が、遠い夢のようだった。


 首を落とされた、あの朝のことを思った。


 土が濡れていた。雨上がりだった。空は曇っていて、薄い光が差していた。処刑場に引き据えられるとき、近藤は目を伏せなかった。新選組局長として、最後まで顔を上げていた。縄をかけられても、膝をつかされても、顔だけは上げた。それだけは、守れた。最後に見たのは——何だったか。空か。土か。誰かの顔か。近藤は思い出そうとして、やめた。ここでそれを抱えていても仕方がない。板橋はもう終わった話だ。


 そのとき、白の中に人影が見えた。


 遠い。だが、近づいてくる。


 歩き方に見覚えがあった。大柄で、どこか飄々として、足音が聞こえないはずなのに聞こえるような、そういう歩き方だ。急がない。焦らない。しかし確実に距離を詰めてくる。肩の揺れ方が独特だった。左右に少しずつ揺れながら、しかし芯がぶれない。そういう歩き方だった。


 近藤の手が、柄を握りしめた。


 拳が白くなるほど握った。


 龍馬はゆっくりと歩いてきた。急がなかった。足音が聞こえないはずなのに、聞こえる気がした。白い空間が、その男の歩みに合わせて圧縮されるような——そういう錯覚があった。大柄な男だった。土佐者の骨格が、着物越しでも分かった。肩が揺れていた。右に、左に、少しずつ。しかし芯がぶれない。刀を持っていない。腰には何もない。それなのに——近藤の体が、全力で警戒していた。


 近藤がここへ来たことは、最初から分かっていた気がした。いつか来ると思っていた。この場所にいる間、近藤勇が来たとき自分は何を言うべきか、何度か考えたことがあった。幾通りかの言葉を用意しようとしたこともあった。しかしどれもしっくりこなかった。答えは出なかった。出なかったまま、近藤は来た。


 だから龍馬は、思ったことをそのまま言うことにした。


   *


「よう、近藤さん」


 龍馬は言った。


 縁日で古い友人に会ったような声だった。他に言い方が思いつかなかった、ということでもあった。この男に対してどんな顔をすれば正解なのか、龍馬自身に分からなかった。だからいつもの顔をした。


 近藤は答えなかった。


 刀を構えたまま、じっと龍馬を見た。知っている顔だった。絵で見た顔だった。噂で聞いた男の顔が、目の前にあった。思ったより大柄だった。思ったより、目が真っ直ぐだった。絵と違って、この男の目には——何かがあった。諦めでも希望でもない、もっと静かな何かが。


 龍馬は刀を持っていなかった。腰に差してもいない。両手を軽く開いて、なんとも呑気な顔で近藤の前に立っていた。脅威を感じさせない立ち方だった。しかし油断しているわけでもなかった。ただ——構える必要を感じていない、という立ち方だった。


 近藤の足が、半歩、前に出た。


 体が勝手に動いた。間合いを詰めようとした。天然理心流の本能が、相手との距離を計算し続けていた。


 龍馬は動かなかった。


 半歩踏み込まれても、体一つ動かさなかった。目が、近藤を見ていた。逃げる気のない目だった。しかし戦う気もない目だった。ただ——待っている目だった。


「斬るがか」


 龍馬が言った。


「斬るつもりなら、どうぞ。けんど、わしを斬って何になるがじゃ」


 近藤は動かなかった。


 斬れる。技術的には、斬れる。この距離ならば一合も要らない。胴を薙げば終わる。いや、首でもいい。どちらでも一瞬だ。近藤の体はそう告げていた。天然理心流四代目宗家として、長年培った勘が、間合いも角度も全て計算していた。体が覚えていた。


 しかし手が、動かなかった。


 なぜだ。


 近藤は自分の手を見た。震えているわけではない。恐れているわけでもない。龍馬は土佐の脱藩浪士だ。幕府の敵だ。薩長同盟を仲介した男だ。新選組の敵として、間接的に戦い続けてきた相手だ。理屈では、斬るべき相手だ。しかし手は——動かない。


 まるで体の内側から、何かが「待て」と言っているような感覚だった。


「ここじゃあ、刀は斬れんがじゃ、近藤さん」


 龍馬は静かに言った。


 教えるでもなく、ただ確認するような言い方だった。責める色も、哀れむ色もなかった。それが分かっているから刀を差していない、という顔だった。


「わしはもうずっと前に知った。斬れん。当たりはするけんど、何も起きん。この場所には、そういう掟があるがじゃ」


 掟、と近藤は心の中で繰り返した。


 死後の世界に、掟がある。


 妙な話だった。しかし妙だとは思わなかった。生きているときだって、どこへ行っても何かしらの掟があった。道場には道場の流儀があった。新選組には新選組の規律があった。幕府には幕府の作法があった。死んだ後にもあって、当然かもしれなかった。人の世に掟があるように、あの世にも掟がある。それだけのことだ。


 近藤はゆっくりと刀を下ろした。


 収めはしなかった。下ろしただけだ。まだ収める気持ちにはなれなかった。刀を収めるということは、この場所でこの男の前でくつろぐということだ。それはまだ、できなかった。


「坂本さん」


 近藤は言った。


 声が、思ったより低かった。


「あなたは——何をしに来たんですか」


 龍馬は少し考える顔をした。考えるというより、どう答えたものかを測っているような顔だ。しばらくその顔のまま、近藤を見ていた。


「わしに聞くがか」


「ここにいるのはあなただけだ」


「そうじゃな」


 龍馬は白い地面に、ゆっくりと腰を下ろした。胡座をかいて、両肘を膝に乗せた。見上げる格好になっても、気後れするふうがなかった。上を向く格好になっても、それを不利だとは思っていないような座り方だった。


「わしが聞きたいがよ、近藤さん」


 龍馬は言った。


「あんたらは——何を守ったがじゃ」


   *


 沈黙があった。


 この場所の沈黙は、生きていたときの沈黙と違う、と近藤は思った。生きていたときの沈黙には、必ず何かがあった。風の音があった。虫の声があった。遠くの街の気配があった。仲間の息遣いがあった。夜の道場で一人稽古をしていたときでさえ、板張りの床が軋む音があった。沈黙とは、音と音の隙間のことだった。


 しかしここの沈黙は、純粋だった。


 何もない、という意味での沈黙ではなく、全てが満ちているがゆえに、音を必要としない、という種類の静けさだった。池の底のような静けさだった。何かが積み重なって、積み重なって、最後に静まり返ったような。その重さが、この白い空間全体に満ちていた。


 近藤はようやく刀を収めた。


 鯉口を切って、静かに収めた。金属と鞘がこすれる音が、白い空間の中でやけにはっきり聞こえた。


 そしてその場に、立ったまま立ち続けた。


 座るという気持ちになれなかった。龍馬が地べたに座っているのに、自分が立ったままでいるのは妙かもしれなかった。しかしそうせずにはいられなかった。立っていることが、今の近藤にとって、ここにいる自分を保つ唯一の手がかりだった。背筋を伸ばして立っている。それだけが、近藤勇という男が近藤勇であることの証明だった。


「俺たちは」


 近藤は言った。


「幕府を守った。将軍を守った。徳川の世を守った」


「守れたか」


 龍馬の声は、責めていなかった。責めるつもりがない、というより——答えを知っていて、それでも聞いている、という声だった。


「守れなかった」


 近藤は答えた。


 間を置かなかった。迷わなかった。


「分かっている。守れなかった。だが、守ろうとした。それは確かだ」


 言い訳ではなかった。弁解でもなかった。ただ、事実として言った。守ろうとした、という事実だけは、何があっても変わらない。戦いに負けても。幕府が倒れても。板橋で首を落とされても。守ろうとした、という事実だけは、誰にも奪えなかった。


「そうじゃな」


 龍馬は頷いた。


「あんたらが守ろうとしたことは、わしも知っちゅう。それを笑うつもりはない。けんど——」


 龍馬は雲の下を見た。


 この白い場所から、下を覗けば何かが見える。龍馬はそれをずっと見てきた。近藤にはまだ分からなかった。しかし龍馬の目には、何かが映っているようだった。長い時間をかけて、何度も何度も見続けてきた目の色だった。


「明治じゃ」


 龍馬は言った。


「わしが死んで、あんたらが死んで——その後に、明治が来た。あんたらが守ろうとした世界は消えて、わしが夢見た世界とも違うものが、下にある。わしが夢に見たのは、もっと自由で、もっと軽いものじゃった。けんど下にあるのは、もっと重くて、もっと固いものじゃ」


 近藤は黙っていた。


「どう思うがか、近藤さん」


 龍馬は近藤を見た。


 真っ直ぐに見た。責めるでも哀れむでもなく、ただ聞いている目だった。


「あんたは——あの世界を見て、どう思う」


 近藤はしばらく答えなかった。


 白い世界の中で、二人は向かい合っていた。かつて敵であった二人が。かつて、この国の行く末をめぐって、間接的に斬り合っていた二人が。龍馬は地に座り、近藤は立っていた。高さが違っていた。しかし何かが、対等だった。


 刀は収まっている。血は流れない。


 ここには、勝敗がない。


「俺には」


 近藤はようやく言った。


「まだ、分からない」


 それは敗北の言葉ではなかった。降参でもなかった。ただ正直に、分からない、と言った。分からないことを認めることが、この場所では不思議と苦ではなかった。生きているときには、分からないと言えなかった。局長が分からないでは、みんなが困る。みんなが不安になる。だから分かったふりをした。分かったふりをして、前を向いた。しかしここでは、誰も困らない。困らせる仲間もいない。


 龍馬はその答えを聞いて、静かに笑った。


「そうか」


 笑い方が、近藤には少し意外だった。からかうでもなく、哀れむでもなく——どこか、安堵しているような笑い方だった。まるで、同じ答えを待っていたような。


「わしもじゃ、近藤さん」


 龍馬は言った。


「わしも、まだ分からん。夢は見ちょった。でかい夢じゃった。この国が変わって、みんなが笑える場所になればええと思っちょった。けんど、夢が叶うたかどうかは——わしには分からん。夢を見た者には、分からんがじゃ」


 近藤は、龍馬を見た。


 不思議な男だ、と思った。土佐の脱藩浪士で、薩長同盟を仲介して、新選組の敵で——それでも今この場所では、なぜか隣にいることが自然だった。その自然さが、近藤には少しだけ、怖かった。


 生きていた頃に、この自然さがあれば——と、思いかけて、やめた。


 それを考えても仕方がない。


   *


 それから二人は、しばらく黙っていた。


 白い世界に、沈黙が満ちた。しかし重くはなかった。争いが終わった後の静けさだった。勝ち負けがついた後ではなく——争いそのものが、ここでは意味を持たないと分かった後の静けさだった。


 遠くの白の中に、また別の影が見えた。


 一つではない。二つ、三つ——それ以上かもしれない。ゆっくりと、しかし確実に、こちらへ向かって歩いてくる。はっきりとした形はまだなかった。しかし確かに、来ていた。白の中から、白を割って出てくるように、影たちは近づいてきた。


 近藤は目を細めた。


 分かる者もいた。分からない者もいた。しかしそのどれもが、この国の歴史の中で、何かを賭けて死んでいった者たちの歩き方をしていた。近藤にはそれが分かった。死に方というものがある。死に方によって、体の運び方が変わる。同じように死んできた者には、分かるものがあった。


「集まってくるがじゃ」


 龍馬は立ち上がった。


 膝を払って、着物の裾を軽く直して、影たちを見た。嬉しそうな、しかし覚悟したような、複雑な顔だった。


「みんな、ここへ来るがか」


「おそらくな」


 近藤は答えた。


 新選組の仲間たちの顔が、脳裏をよぎった。土方、沖田、山南——それぞれの死に方で死んでいった者たちが。そしてそれだけではない。土佐の志士たちも、薩摩の男たちも、長州の若者たちも、みなここへ来るのかもしれない。かつて斬り合った者たちが、今度は同じ場所に集まる。


 敵も味方も、ここでは関係がない。


 刀が斬れない世界で、彼らは何を持ち寄るのか。言葉だけを持って、どこへも行けない場所で、何を話すのか。


「喧嘩になりますよ、坂本さん」


 近藤は言った。どこか呆れたような、しかし悪くない顔をしていた。新選組で何百回と喧嘩の仲裁をしてきた顔だった。また同じことをしなければならないのか、という諦めと、それもまあ悪くないか、という気持ちが、半分ずつあった。


 龍馬は笑った。


 今度は声を立てて笑った。この場所に似合わないような、生きていた頃と変わらぬ笑い声だった。白い空間に、その声だけが丸く広がって、ゆっくりと消えた。


「なるじゃろな」


「収拾がつかなくなる」


「そうじゃ、近藤さん」


 龍馬は笑いながら言った。


「けんどそれでええがじゃ。死んでもまだ言い足りんことがある、ということじゃろ。それは——悪いことじゃない。むしろ、ええことじゃ。黙って死ねた者ばかりじゃないき」


 近藤は答えなかった。


 しかし、かすかに頷いた。


 影たちは、少しずつ大きくなってきた。歩き方が見えてきた。肩の形が、顔の輪郭が、少しずつ白の中から現れてきた。顔は、まだ分からなかった。


 あの世界の向こうに、明治がある。


 彼らが命を燃やして作った、あるいは命を燃やして守ろうとした、あるいは命を燃やして壊そうとした——その先にできた世界が、雲の下で静かに続いている。


 彼らはここから、それを見ている。


 刀を持ったまま。言葉を持ったまま。死んでもなお消えない問いを、胸の内に持ったまま。


   *


 坂本龍馬は、雲の縁まで歩いた。


 白い端に立って、下を覗き込んだ。薄い雲の向こうに、見覚えのある国の輪郭があった。山があった。川があった。海があった。あの海を、龍馬は何度も渡った。土佐から、長崎から、下関から、神戸から。波の色を覚えていた。塩の匂いを覚えていた。甲板に立って、風を受けたときの感覚を覚えていた。


 そしてその上に、煙が見えた。


 工場の煙か、あるいは汽車のものか——龍馬が生きた頃にはなかったものが、そこにあった。海の上を走る船も、あの頃とは違う形をしていた。黒い煙を吐いて、帆を使わずに走っていた。空には電線が走っていた。港には異国の旗が並んでいた。


「できちゅうじゃ」


 龍馬は言った。


 近藤に向けた言葉だった。何度見ても、この言葉しか出てこない。


 嬉しいのか、悲しいのか、それとも全く別の感情なのか——龍馬自身にも、まだ分からなかった。誇らしいとも言えた。悔しいとも言えた。自分が夢見たものとはずいぶん違うとも言えた。しかしそれらが全部混ざって、最後に出てくる言葉が、これだった。


 できちゅうじゃ。


 ただ、できている。


 後ろで足音がした。


 近藤が並んで立った。少し間を置いて、近藤も下を覗き込んだ。長い沈黙があった。近藤は黙って見ていた。目を細めていた。その目が、水面の向こうの世界を、丁寧に読もうとしていた。建物の形を。人の動きを。刀のない腰を。


「これが」


 近藤は言った。


「これが——明治か」


「そうじゃ」


 間があった。


「俺たちが守ろうとした世界は」


「もうない」


 龍馬は静かに言った。


 言いながら、少し迷った。これは残酷な言葉かもしれない、と思った。しかし、うそをつく必要もなかった。


「けんど、あんたらが守ろうとしたものが——全く無駄だったとは、わしは思わん。何かが残っちゅう。形は変わっても、何かが」


 近藤は少し間を置いてから、口を開いた。


「……そう言ってくれるか、坂本さん」


 責めるでも感謝するでもない。ただ、確かめるような言い方だった。本当にそう思っているのか、と問うているような。それとも、そう言ってもらいたかっただけなのか、自分でも分からないような。


「言うがよ」


 龍馬は答えた。


 笑ってはいなかった。


 二人は並んで、雲の下を見ていた。


 遠くで、影たちの声が聞こえてきた。まだ言葉にならない、ただの気配だったが——それは確かに、人の声だった。複数の、様々な、人の声だった。怒っているような声も、呼び合うような声も、混じっていた。


 喧嘩になる、と近藤は思った。


 それでええがじゃ、と龍馬は言っていた。


 この場所では、誰も死なない。刀は斬れない。血は流れない。


 だから——今度こそ、最後まで言い合えるかもしれない。


 生きていた頃には言えなかったことを。斬り合うことでしか決着をつけられなかった問いを。刀を抜かずに向かい合うことのなかった男たちが、今度は刀を抜けない場所で、向かい合う。


 死んだ後でしか、持てなかった時間の中で。


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            第0話「雲上」——了


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