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姫様と暗殺者執事  作者: 福日木健
後半戦 肉体の挑戦
10/14

10話 正当防衛は通じない

――二号side



 一瞬、心臓が止まるかと思った。

 

 あの咆哮は食堂から聞こえた。きっと、この先に三号を無残な姿にしたヤツがいるのだろう。ということはあと数歩でヤツと対面する。だが、足が動かない。動かせない。動かそうとしているのだが、全く動かない。さっきから脳内で危険信号のアラームがずっと鳴りっぱなしだ。こんな感覚は初めてだ。多分これは皆が言っていたあの感覚なのだろう。

 

 ──恐怖。


 初めての感覚だった。今までそんな感情を味わったことが無かった。そんな俺が恐怖というのを感じた。


 さっきまで俺は、三号をやったヤツを殺すと決めていた。殺すという意思があっても、そいつに強い恨みがあったとしても、体が硬直していて動かない。……嫌だ。あいつと対面したら殺されるかもしれない。殺されたくない。まだ生きたい。でも三号をやったヤツだ。許せない。体を動かすことができれば――、

 

 ダンッ!


 目の前の食堂のドアが勢いよく開く。食堂から白い(もや)が溢れ、俺の足元に流れてきた。それからは温もりを感じた。そこからすぐに小さい影が靄とともに現れる。


 靄はどんどん広がり薄まっているのがわかる。少しずつだがその小さい影の正体がわかり始める。

 

 あれは……人か?

 

 きっとこの小柄なそいつが三号をやったのだろう。俺はとっさにナイフを抜く。さっきまで動かすことができなかった体は、動いていた。靄がどんどん薄まっていく。俺はそいつの正体がやっとわかった。


「ひ、姫様?」


 長い金髪にクリーム色のフリルドレスを纏っている。体は小柄で、全体的に成長しきっていないので、若々しく見える。だが、顔は靄のせいでよく見えない。


 ま、まさか姫様が三号を?


 いや、そんなはずがない。姫様が大人を窓から落とすくらいの腕力を持っているはずがない。あの腕を見るとよくわかる。あの腕はあまり使っていないから細いのだ。姫様がまさか三号をやるわけが……、


「ミィーツッケタ」


 その声は雅やかさが()(じん)も感じられず、残虐性を持っていた。


 ……本当にあれは姫様か? 顔からにじみ出るあの狂気と殺気はいったいなんなんだ? 姫様を目の前にするだけで、肌がピリピリする。


 靄が薄まり、ようやく姫様の顔が見えた。確かにその顔は姫様だ。依頼人からもらった姫様の顔写真を何度も確認したからわかる。しかし、脳は姫様と認識していない。確かに姿かたちは姫様なのだが、俺には怪物に思えてしまう。


 姫様は凶悪な笑みを浮かべており、目から淡い赤褐色の光を発している。その狂気の目は間違いなく俺を見ていた。


「……コロス」


 刹那、姫様が疾風の(ごと)く、俺に向かって突進する。危機を察知した俺はすぐに壁際から避ける。


 ドッ


 右のほうから壁を叩く音が聞こえた。その音の先を見る。俺がさっきまでいた壁は跡形もなく消滅していた。壁があったはずのところには、姫様の細い腕が伸ばされていた。穴からは太陽の光が射しこまれ、温かい外気が城内に入り込んでくる。


 ……う、嘘だろ?

 

 やっと状況がわかった。これは姫様の一撃なのだろう。その一撃のせいで壁が円状に消滅したのだ。それ以外に考えられない。でもなぜこんなパンチを――、

 

 その瞬間、姫様がくるりと反転させ俺のほうに向き、拳を握り締め殴りかかる。

 

「くっ」


 ギリギリでかわせた。あと数センチずれていたら当たったことだろう。あの一撃は恐ろしいということがよくわかる。


「うっ」


 突如、横腹に痛みを感じた。それを見ると、


 ……そこからは赤い液体が滲み出ていた。量はたいしたこと無いのだが、痛みは激しい。まるで切れ味のいい刃物で切りつけられたような痛みだ。


 確かにあれは当たっていなかったはず。だとしたらなんだ? なぜ怪我をしているんだ?


 そこに姫様が、


「ナンデ? ナンデサケルノ?」


 脳まで響くような声で言いながら、俺にパンチを当てようとする。避けることはできたが、またそこから痛みを感じた。


「ナンデヨ。ナンデサケルノォォオオオオ!」


 姫様は連続でパンチを仕掛ける。俺はそのすべてをギリギリでかわすが、それに伴い腹、腕、足から血が流れる。


「ひ、姫様。わたしです、ジョージです。あなたの執事の……」


 練習した執事の声で、姫様に語り掛ける。途端に姫様の動きが止まった。今の俺の姿はこの城の執事だ。きっと攻撃してこなくなるだろうと思った。


「ジ、ジョージ? ……ジョージ?」


 姫様は首を傾げる。そして、殴るために構えていた腕を下ろした。


「……ジョージ」


「はい、そうです。この城の執事の」


 姫様は視線を落とす。これは、いけるんじゃないか?


 この隙に姫様を殺すため、腰にあるナイフに手をかけようとした。そのとき、


「……コロス」


「え?」


 姫様の口から信じられない言葉が発せられた。そして歯を見せ、赤い眼光を発する目が丸く開いた途端ぐるぐると踊り狂ったピエロのように頭を回しながら、


「コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス!」


 何度も叫ぶ。姫様から発せられる赤褐色の眼光が、さらに強まった。

 

 なぜだ? なぜ執事なのに殺気を向けてくるんだ? だめだ。姫様のことが全くわからない!


「ヒッヒッヒッヒッ、ヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!」


 突然の高笑い。ギラリと白い歯が光る。この奇妙な笑い声は姫様の口から発せられた。それと同時に、その口からは白い靄が吐き出される。


 瞬間、姫様がまた俺に突進し、パンチを繰り出した。とっさのことだったが回避することはできた。しかし、パンチが通ったあとからは、少量の鮮血が出る。


 これではもたない。


 これに当たったなら、絶命してもおかしくない。それを回避してもなぜか傷を負う。だんだんと姫様が人ではない何かと思い始めた。いや、これはもう人ではない。怪物だ。怪物が姫様に成りきっているのだ。やはり俺の脳の認識はあっていたのだ。


 姫様はしとやかで優雅なはずなのに、この怪物からはしとやかさや優雅さが微塵も感じない。あの力がどこから来ているのかがよくわからないが、こちらがやらなければやられるのだろう。しょうがない。これは賭けるしかいない。

 

 俺は決めた。俺の一番大事な物を賭けることに決めた。それでなければ間違いなく俺が消される。


 俺はナイフを片手に怪物に近づく。汗が頬を伝う。これは冷や汗なのだろうか。それに気がついたのか、怪物がこちらを見る。その目から発せられる光が、相変わらず妙に淡い赤色をしていた。


「ヒヒッ」


 怪物は右手の拳を握り締め、殴る体制に入る。俺はそこを見計らい、ナイフを構える。正直、このナイフで勝てるとは思えなかった。怪物は近未来の兵器のような一撃を使うことができるからだ。だが俺はやる。この怪物を抹殺するために、全力を出す。


「やああああ!」


 俺は叫びながら跳躍し、体ごと突っ込む。そして、ナイフを怪物に目掛けて突き出す。突如、世界の時間がゆっくりと流れている感覚が俺を襲った。


 そのとき、俺の頭の中で心地よい映像が流れた。


 少年に声をかけてもらった光景。


 少年たちが気持ちよく走っている光景。


 少年たちが優雅に遊んでいる光景。


 それは昔見ていた思い出。これを俺は知っていた。

 

 ……そうか、俺は走馬灯を見ているのか。

 

 徐々に怪物に近づいていく。ゆっくりと。ただ、ゆっくりと近づいている。

 怪物が構えていた状態から一撃を繰り出す。その一撃は、俺に目掛けて打った。


「グハッ」


 腹から全身に激痛が走る。視界がだんだんぼやけると同時に、体が宙に浮いたような感覚を持った。俺は悟った。殴られたのだと。


 ゆっくりと浮いたかと思うと、背後から何かが割れるような音が耳に入る。上を見ると、広く、大きく、光でとても眩しく、美しい紺碧(こんぺき)の空があった。そして落下している感覚を持つ。


 直後、全身に刺激が走る。痛い。それしか考えられなかった。視線の先には空がある。地面に落下したのだ。おそらくそこから転落したのだろう、窓ガラスが割れていた。

 

「…………」


 今日は気温が高い。太陽が俺を照らす。眩しい。目が痛い。


『グウオォォオオオオオオオオ!』


 けたたましい咆哮が、割れた窓から聞こえた。きっとあの怪物だろう。


 目を薄くし、呆然と眩しい空を眺めていると、突然黒い影が日差しを遮る。視界がぼやけていてその影は誰なのかは全くわからない。なんだろうと思ったが、それ以上気にすることができなかった。

 

「……それでは無理ですよ」


「…………」


 黒い影は俺に語りかける。


「あなたは姫様に勝つことはできません。このわたし、ジョージの名に懸けてね」


 ジョージ? その名はどこかで……。


「姫様はわたしの弟子みたいなものです。と言っても、わたしは手をかけていませんが」


 そういえば聞いたことがある。そいつは昔暗殺を行っていた――。その後、暗殺業をやめ、武術にのめり込んだと聞いた。


「昔いたわたしの弟子たちは、皆いい子でした」


 しばらくして世間から名前を聞かなくなった。噂ではある国に雇われ、騎士団に入ったと聞いた。


「あの子はわたしでも手に負えません。まぁ、性格面での話ですが」


 そこでそいつは――、


「ま、まさか、き、騎士団長の――」


「おっと、それ以上は」


 顔に激痛が走る。そして、どんどん意識が遠のいていくのがわかる。遠のいていくとき、そいつは語り始めた。


「ダメですよ。そんなことを喋っては。誰に聴かれているのかわからないのですから」


 俺は意識を失った……。

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