第1章 今年の代表
村の給水所には、蛇口が三つあった。
使えるのは真ん中だけだった。左は回すと取れ、右は回らない。真ん中も、朝の配給が終われば腹を鳴らすような音を立てるだけになる。
「まつおー! 後ろ、つかえてる!」
「シオンよ」
まつお・シオンは振り返り、片手で桃色のスカートを押さえた。もう片方の手には空の桶がある。
「いま、水を出してるんじゃなくて、空気が出終わるのを待ってるの」
「空気なら家にもあるよ」
「じゃあ、そっちを飲んでなさい」
列の老人が笑った。その拍子に咳き込み、後ろの女が背中をさすった。
ようやく出てきた水は、桶の底を薄く濡らして止まった。
シオンは蛇口を閉めた。次の人が回せなくならないよう、きつくは締めなかった。
「半分こしようか」
隣から、桶が差し出された。
リリの桶には、シオンのものより少し多く水が入っていた。多いといっても、底が見えなくなる程度だった。
「自分の分でしょ」
「私、今日は髪を洗わないから」
「昨日も言った」
「昨日は昨日」
リリは桶を傾けた。シオンが止めるより先に、二人の水は同じ高さになった。
村の広場では、代表選手の発表が行われようとしていた。
今年は、去年の続きではなかった。
長く勝てずにいた村の代表が、出場を辞退した。中央で見た、あるチームの試合がきっかけだったという。
球を受けた選手が動かなくなっても、相手は笑っていた。
その話をすると、前の代表たちは黙った。代わりに出ろと言える人間は、村にもいなかった。
残ったのは、控えだったエレーヌ一人。
そこへ急いで集められた三人が、シオンとリリと剣白だった。
シオンとリリは同い年で、前年までは、あの危険なコートへ出すにはまだ早いと止められていた。
剣白が村へ住み始めたのも、去年のことだった。それ以前の代表候補には、名前さえなかった。
垂れ幕には、墨を足した跡のある大きな文字で、タワーデッドボール代表選抜、と書かれていた。端の英字は立派だった。
TOWER DEAD BALL。
その下に、雨漏りした跡があった。
シオンたちは桶を家へ届けてから広場へ行った。最前列には子供が並び、後ろには働き着のままの大人が並んでいた。高いところへ立つために用意された木箱が、村長の体重で危うい音を立てた。
「今年の代表だ」
村長が言った。
最初に呼ばれたシオンは、前へ出て手を振った。百五十五センチの身体に桃色の衣装がよく似合い、垂れ幕の物騒な文字とは、まるで似合わなかった。
次に呼ばれた男が前へ出ると、垂れ幕の陰が一つ増えた。
身長百九十センチ。露出した腕はシオンの腿より太い。歩くたびに肩と胸の筋肉が別々の生き物のように動き、腰の革帯は何かを拘束する道具に見えた。
剣白、と村長は読んだ。
「けんぱく」
本人が低く訂正した。怒っているのかどうか分からない声だった。
シオンは、なるべく首を反らさずに隣を見た。
無理だった。
「……よろしくお願いします」
「おう」
終わった。
これから命を預け合う相手との、最初の会話が終わった。
リリが呼ばれ、シオンより少し高い頭が隣に並んだ。
続いて、エレーヌが呼ばれた。二十五歳ほどになる彼女は、百五十センチくらいの背を伸ばして返事をした。
前のチームでも、いちばん小さな魔法しか使えなかった。軽い出血や痛みを抑える治癒。球一つで崩れかねない土壁。
エレーヌは前へ出て、家族のいるあたりを見た。
手を振ろうとした指が、握り直された。
「怖くないの?」
準備のとき、シオンは聞いてしまったことがある。
「怖いよ」
エレーヌは即座に答えた。
「でも、うちもここの水を飲むから」
誰かを責める言い方ではなかった。
辞めると決めた仲間を見送って、それでも自分はここに立つと決めた声だった。
登録は四人。フィジカル枠が一人、魔法少女枠が三人。そのうちコートへ立てるのは三人で、魔法少女には交代が認められている。
魔法を使えるのは女性だけだった。その女性の中でも、使える者は少ない。火種一つ、そよ風一つを作れるだけでも、人に頼られる。
村から魔法少女を三人揃えるのは、名前を三つ書けば済む話ではなかった。
村には四人を送り出すだけでも大仕事だった。旅の食料。宿泊費。衣装の補修。競技用具の登録料。村長がその一つ一つを読み上げるたび、誰かがうなずいた。
「そして監督」
子供たちの頭より少し高い位置で、杖が横に動いた。
老婆が進み出た。
身長は百二十センチほど。七十歳だという。杖を肩に担いでいて、歩くために使う気配はなかった。先端が近づくと、大人のほうがさりげなく道を空けた。
「挨拶は?」
村長に促されると、監督は四人を見た。
「死ぬなよ」
広場が静かになった。
「死なせない、とは言わん。そんな嘘をつくためにここへ来たんじゃない」
風が垂れ幕を持ち上げた。
「勝つためにやる。帰るために覚える。聞きたいことは、怖がらずに聞け。分かったふりをしたやつから死ぬ」
リリが手を上げた。
「遠征中の洗濯は、各自ですか」
「共同だ」
「よかった」
広場の息が少し緩んだ。
シオンは笑った。剣白は笑わなかったが、リリの荷物の紐がほどけているのを見つけると、しゃがんで結び直した。
その夕方、仕立てをしてくれた女が、シオンの袖口を確かめに来た。
女自身の上着には、違う色の継ぎが当たっていた。手に抱えた残り布は、光の角度で艶が変わった。
「こんなにいい布、よかったの?」
「倉にまだあるよ。布は食べられないからね」
女は糸を一本切り、袖を引いた。
「ここ、腕を上げてもつらない?」
シオンは両腕を伸ばした。
競技の動きを一つ、なぞった。
練習初日、監督は小石を浮かせろと言った。それなら、物を動かす系統の使い手には珍しくもない。
次に、風で舞う葉を逸らせと言われた。
最後に、遠くから投げられた球を曲げた。
仕立ての女は、その練習を見ていた。
「私は止まってる針を手元へ寄せるので精いっぱいだよ。あんな遠くで飛んでるもの、よく追えるね」
「見失うと、できないけど」
シオンはもう一度、腕を回した。
「うん。平気」
「ならいい。胸張って行っておいで」
運び物を手伝おうとすると、今度は別の人に荷を取り上げられた。明日は早いから休め、と背中を押された。
選手には、その晩、肉が出た。
シオンは椀の底まで箸を入れ、いつもの芋だけではないことを確かめた。向かいに座った子供がじっと見ていたので、一切れ分けようとした。
母親が子供を引き寄せた。
「それは選手の分ですから」
申し訳なさそうに笑う顔の前で、シオンは箸を止めた。
「食べな」
監督が言った。
「食べた分だけ、働けばいい」
シオンは肉を口に入れた。
やわらかかった。
翌朝、出発の荷車には、村中の手で縫われた布が結びつけられていた。見送る人々の顔は誇らしげで、その分だけ、帰ってこなかったときの顔が想像できた。
リリが、シオンの手首の編み紐を結び直した。
「ほどけかけてる」
自分の手首にも、同じ色を巻いていた。余り糸を分けて、二人で編んだものだった。
結び目を軽く引いてから、リリが小さく息を吸った。
「怖い?」
シオンが聞いた。
「怖いよ」
「私も」
「よかった。私だけ、覚悟できてないのかと思った」
前を歩く剣白が、振り向かずに言った。
「怖さは持っていけ」
シオンはその背中を見た。
「重くない?」
「荷物より軽い」
それきりだった。
荷車の上で、リリが笑った。
シオンも笑った。
村が角の向こうへ隠れるまで、二人は手を振り続けた。




