↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/15

雨のあと

夜は雨のあとだった。劇場の前のアスファルトはまだ光っていて、通りには薄いもやがかかっていた。霧でも湯気でもない。乾ききらない空気だ。扉のほうへ人が集まってくる。外から見れば金持ちだ。コート、指輪、自分では停めない車。顔はそうではなかった。顔には別の用事があった。


入口には若い二人が立っていた。女と男。どちらも整いすぎていて、同じ笑顔をしていた。ホステスだ。通すのでも確かめるのでもない。振り分けるだけだ。たいてい一言で済む。クロークはまっすぐ、と。


カウンターは削れていた。きれいだが、新しくはない。縁の漆は擦れ、木は他人の手で温かくなっていた。客がまだ密でないあいだ、窓の向こうではハンガーを鳴らしていた。仕事のためではない。待ちのためだ。短い木の音、間、また音。


窓の向こうは三人。落ち着いた若い女、番号札をそろえている。少しふっくらした年配の女、この窓の責任者。そして蝶ネクタイの男。ワイシャツはきれいなのに、本人はぼさぼさしている。手は荒れていて、指にはまめがある。一目でわかる。夜の人間ではなく、何かのあとにここへ来た働き手だ。


影山ハルトは自分の窓に立って、扉が開いた瞬間を捉えた。新しい空気がホールへ一気に入ってきた。雨あとの、通りの、濡れた葉の匂い。一瞬、香水も絨毯も押しのけた。扉が閉まると、ホールはまたホールに戻った。


彼は携帯を見た。画面はひびだらけで、指はもう切れない。まめが縁を覆っている。シフトは二十三時まで。一時間。ここに座っていた時間からすれば、一時間は期限ではなく、尻尾だった。


最初の客がコートを差し出した。カシミア。密度が高く、触れると革に近い。色は濃いが、見せびらかす色ではない。ハルトは受け取り、振って、掛けた。手は重さを知っていた。目の前の人間は値段を知っていて、それでも視線は逸れていた。値段ではもう救えない、という顔だった。


次は女だった。年配で、控えめで、一人。顔には子供と、今日はいない夫が読めた。コートではなく毛皮。毛足は煙たかく、ミンクで、見た目より柔らかい。彼女は笑みを返してほしそうに笑った。利息つきで。ハルトは番号札を返した。利息はなしだ。


三人目は彼の窓口ではなかった。ホステスだ。別の区画の半券を持って窓へ来て、ジャケットを出した。ジャケットは普通で、ほとんど地味だ。手には指輪。石が大きく、ルビーか、ルビーでありたがっている石で、この生地には騒がしすぎた。ハルトは掛けながら、一瞬だけ視線を止めた。危険ではない。ただ、合わない。


客はホールへ入った。壁の向こうでオーケストラが上がった。弦、それから全部。ハルトはこれを何度も聴いていて、旋律は換気の音になっていた。


「まあ、いい」と、誰にも向けず小さく言った。


そして携帯を出した。ひびに指を滑らせる。次のシフトが来ていた。今のシフトの通知も来ていた。黒の給料、封筒で五千。白いほうはアプリ経由で二千、もう税引き後。彼は画面をしまった。二十三時までは、終わりより先に出てくる人間を受けるだけだ。


彼らは先に出てきた。全員ではない。彼が覚えていた三人。少し飲んでいる。酔ってはいない。背後ではまだ演奏が続いていて、彼らにはもう外の空気が要った。


毛皮の女が苛立ちを探した。半券は指の中で皺になり、声は引っかかる場所を探していた。


ハルトは毛皮を差し出した。


「問題ありません」


彼女は一瞬止まった。安定している。安定しすぎている。引っかかる場所がなかった。彼女は襟を取って、思ったより静かに出ていった。


カシミアの男は自分から立ち止まった。


「クローク係に、何が手伝える」


「いろいろありますよ」とハルトは言った。「コートを見る限り、お金の話ではない。あなたに頭を使わせている人間の話です。行く先があるなら、家族の相談を。ないなら、少なくとも自分を見てください。そこまで拗らせる価値があるのか」


客は顔を赤くした。最後までは行かなかった。怒りが座ったのは、返す言葉が「お前は何者だ」しかなかったからだ。それは言わなかった。歪んだ頷きで、濡れた空気の中へ出ていった。


最後に出てきたのは、指輪の男だった。荷物を急いでまとめ、手が迷って、半券を落としそうになった。ハルトは番号を繰り返される前にジャケットを出した。


「何かありましたか」


男は口を開いて、払いのけそこねた。仕事。追い立てられている。朝にはなかった期限。声は叫びではなく、疲れのほうへ滑った。ハルトは治さなかった。短く言っただけだ。今日はもう何も閉じられない。手の指輪は返事を早くしない。家に帰って、朝、三通ではなく一通。男は聞いた。ほかに聞く相手がいなかったからだ。地味なジャケットを、高い石の上から羽織って、ほとんど走るように出ていった。


ホールは空いた。催しはクローズドで、小さくはなかったが、大きくもなかった。入口のホステスがすでに明かりを落としているころ、責任者の女がカウンターへ三人を集めた。白いぶんはアプリを通った。規定どおり。それから封筒。彼女に、女の子に、ハルトに。五千。税なし。通知のとおりだ。黒いぶんは、金額より薄い紙に入っていた。


外へ出たのは女の子と一緒だった。恋人ではない。同じ窓の同僚だ。彼女は停留所のほうへ折れ、振り返らずに手を振った。ハルトが箱を出したのは、その背中が見えなくなってからだ。


普通のは嫌だった。ニコチンは要らない。要るのは仕草と、喉を切らない草の匂いだ。アロマの、ハーブの。正直に言えばスタイルで、一日が終わる一秒だ。カチッ。煙は湿った空気へ上がった。


雨はもう降っていなかった。アスファルトは濡れた匂いがして、葉は朝のように新しかった。時刻は深夜に近い。彼は地下鉄へ歩きながらシフトを繰った。明日は入っておくべきだった。金はない。封筒があっても、それは変わらない。メールが一度光って、光ったまま残った。マネージャーの枠。知らないチーム。知らない言葉。彼は開かなかった。明日のシフトのほうがわかりやすかった。


東京の車両で、彼はドア際に座って目を閉じた。終点だ。寝過ごしてよかった。駅で車掌が肩に触れた。荒くはない。ハルトは起き、他人の声で少しだけ背筋を戻して、同じ湿った空気へ出た。


部屋は小さかった。玄関のタイル、狭い台所、自分で拭く机。一人で暮らして、もう十分に長く、暮らしは手柄ではなかった。靴を脱ぎ、湯を沸かし、すぐに机へは向かわなかった。


先にニュース。それから配信。みんなが名前を言うほうではない、ただの欄だ。欄には動画があった。自分のゲーム。他人のロスター。カウンターではなく、舞台に出る人間たち。彼は思ったより長く見た。世界トップ五千は、かつて自分のものだった。数字は燃えていない。燃えたのは、そこからプレイする場所のほうだ。


蓋を閉じた。明かりを消したあとで通知が来た。明日のシフトはない。


「まあ、いい」と、天井に言った。「なら、寝る」


そして横になった。窓の外ではアスファルトがまだ光っていた。オーケストラはなかった。携帯は画面を下にして置いた。ひびが光を拾わないように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。