第十三話 トラウマ
白鳥道場の懇親会の席。
あの日から十年以上経った後のことだった。
弥生は、あの日の出来事を智久に語り始めた。
「嫌な事は、忘れるようにしてるから……大半は覚えてないんだけどね」
そう前置きしてから、弥生は静かに口を開いた。
宴会が始まると、近くの席には黒田春夫がいた。
黒田は酒豪だった。
しかし、酒癖は決して良いとは言えなかった。
周囲には、灰原、金城、白鳥、そして操の姿もあったという。
しばらくして酒が回ると、黒田は突然、弥生に絡み始めた。
「お前んちの馬鹿旦那いるだろ!」
唐突だった。
「アイツ、なんなんだ?」
「大会で、うちの晶が龍彦に怪我させて、マットに血がついた時、拭いただろ?」「アイツはバカ親だ!」
意味がわからなかった。
ただ酒でタガが外れ、感情のままに絡んでいる。
そんな状態だった。
「過保護なんだよ、お前んちのバカ親父は!」
弥生は、この時思った。
――黒田にだけは言われたくない。
だが、半狂乱のような様子に、怒りより恐怖が勝ってしまった。
ここまで話を聞き、智久は思った。
――伊豆川と、絡み方が似ている。
弥生は続ける。
「マットが汚れるから、拭いただけです」
その言葉に、黒田はさらに声を荒げた。
「ああん? お前ら家族、気持ち悪ぃんだよ!」
もはや、指導者の言葉ではなかった。
さすがに灰原達も止めようとしたが、
「お前は黙ってろ!」
黒田は怒鳴りつけた。
その瞬間、弥生の肩が小さく跳ねた。
弥生の記憶に残ったのは、
座った目で睨みながら絡む黒田の姿。
「バカ親父」という侮辱。
そして――
「お前ら家族、気持ち悪い」
という言葉だった。
――モラルハラスメント。
智久は、そう解釈した。
立場ある人間が、人様の妻に向けた暴言。
よく、長い間耐えてくれた。
智久の胸には、様々な感情が渦巻いていた。
「……操は、その時何してたんだ?」
智久が尋ねると、弥生は少し間を置いて答えた。
「騒ぎが始まった瞬間、遠くの席に移動しちゃったよ」「だから私、操ちゃんだけは信用できないんだ」
――アイツらしいな。
智久は、そう思った。
弥生は、この日を境に、少しずつ精神を壊していった。
龍彦が高校を卒業するまでは、必死に耐えた。
だが、空手の会場へ行くと体が震える。
のちに分裂した黒田道場の面々を見るだけで、パニックを起こすようになっていった。
懇親会の類いも怖くなり、以後は全て智久が出席するようになった。
龍彦の引退後、弥生はほとんど会場へ足を運ばなくなった。
咲良の試合も、智久に任せきりだった。
少しだけ回復した頃。
社会人となり、免許を取った龍彦が、そっと弥生を会場へ連れて行った。
帽子を深く被り、マスクを着け、人目を避けながら。
弥生は、咲良の試合だけを見て、静かに帰った。
智久は、黒田道場の連中が何事もなかったように会場を歩いている姿が、不愉快でたまらなかった。
灰原は途中で辞めた。
だが、伊豆川と金城は審判員として会場にいる。
子供達が二人のコートで試合をすると、嫌でも目に入る。
弥生は、吐き気と戦いながら試合を見守ることもあった。
そして、十年以上経ってから、ようやく見えてきた事実がある。
そもそも、このスメアキャンペーンの始まりは、伊豆川の暴走だった。
後に聞いた話では、伊豆川が智久に絡んだあの日。
立ち上がった伊豆川を見て、黒田はこう言ったという。
「おい、喧嘩するなら外でやってこいよ」
仲裁ではなかった。
止めるでもない。
「やるなら外で」
道場の指導者が、父兄と指導者の衝突を煽るような言葉を口にした。
――この時から、もう何かが始まっていたのかもしれない。
そして、龍彦が大人になってから、初めて口にした記憶。
龍彦は、母親と同じだった。
嫌な記憶を、少しずつ消していく。
伊豆川事件が起きた時、龍彦は小学五年生。記憶も曖昧な年齢だった。
それでも、一つだけ忘れられない言葉があるという。
「お前の親父は、死んだ方がいい」
智久は、言葉を失った。
――「死んだ方がいい」…か。
当時の自分が、死ななければならないほどの事をしたのか。
そもそも、自分と伊豆川は、まともに会話した事すらない関係だった。
智久は、黒田と伊豆川ほど、ひどい人間に出会った事がなかった。
この二人は、よく似ている。
そう感じた。
伊豆川事件の日。
あの時、退会を決断していれば。
断固として辞めていれば。
こんな仕打ちは、受けなかったのかもしれない。
そして智久は、この二人を超える、最低最悪の人間と接触することになる。
この作品には、作者自身の経験をもとにした描写が含まれています。
ただし、登場人物名・団体名・設定・時系列などは、作品として再構成したフィクションです。




