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沈黙の心理戦(という名のただの困惑)

 太った闇商人は、俺が投げ出した革袋を怪訝そうに手に取った。

 紐を解き、中を覗き込んだ瞬間――彼の分厚いレンズの奥にある豚のような目が、限界まで見開かれた。


 袋の隙間から、禍々しくも美しい紫色の光が漏れ出している。


「こ、これは……ッ! オーガの魔石!? しかも、この純度と大きさ……上位の突然変異体ミュータントだと!?」


 商人の声が裏返った。

 周囲のテーブルにいた何人かの悪党たちが、その言葉に反応して鋭い視線をこちらに向けてくる。


 しかし、商人はすぐにコホンと咳払いをして、油ぎった顔に再び「ビジネススマイル」を貼り付けた。

 欲望を隠しきれていない、下品な笑みだ。


「……確かに素晴らしい品ですがね、旦那。このレベルの魔石となると、買い手が限られてくる。足がつきやすいんですよ」

 商人はわざとらしくため息をついた。

「リスクを考慮して……金貨10枚。これが限界の買取価格ですな」


(き、金貨10枚ィィィッ!?)


 俺の心臓が、歓喜で爆発しそうになった。

(銀貨どころか金貨!? マジかよ! これで毎日、肉食い放題じゃねえか! よっしゃ即決――)


『交渉成立だ』と口に出して叫びそうになったその時。


 俺の背後に立つエリシアが、スッと腰の剣の柄に手をかけた。

 チャキッ、と微かな金属音が響く。


 彼女から放たれる殺気が、一瞬にして周囲の空気を凍らせた。


「な、なんだ、嬢ちゃん……! ここで揉め事を起こす気か!?」

 商人が慌てて背後の護衛たちに合図を送る。

 三人の筋骨隆々な男たちが、武器に手をかけて立ち上がった。


(えっ!? ちょ、待って待って! リアちゃん、なんで剣抜こうとしてるの!?)

 俺は内心でパニックに陥った。

(もしかして金貨10枚って、ボッタクリ価格なのか!? 俺、異世界の相場なんて全然知らねえよ!)


 どうすればいい? いくら要求すれば正解なんだ?

 下手に値段をふっかけて、「じゃあ取引は無しだ」と言われたらどうする? 今夜の宿代すら危ういのに!


 頭の中で高速の計算と絶望が渦巻き、俺は完全にフリーズしてしまった。


 結果として。

 俺は一言も発さず、フードの奥から紫色の瞳を光らせたまま、ただ無言で太った商人を見下ろす形になった。


 ピタリと静まり返る闇市場。

 一秒、二秒、三秒……永遠のような沈黙が流れる。


 俺はただパニックで硬直しているだけなのだが、商人側から見れば、それは全く別の光景として映っていた。


 ――一切の動揺を見せない、底知れぬ静寂。

 ――はした金を提示されたことに対する、絶対的な強者の『無言の圧力』。


「ひっ……!」


 商人の額から、滝のような冷や汗が噴き出した。

 フードの奥で冷たく輝く俺の紫の瞳が、彼の魂の底まで見透かしているように錯覚したのだ。


(こ、この男……私の嘘を完全に見抜いている! 少しでも妙な真似をすれば、後ろの殺気立った女共々、この場にいる全員を皆殺しにする気だ……ッ!)


 商人は恐怖でガタガタと震え始めた。

 護衛の男たちも、得体の知れない俺のオーラ(とA+マントの威圧感)に気圧され、一歩後ずさりしている。


 俺は沈黙が気まずくなり、せめて何かアクションを起こそうと、右手を軽く動かした。

 ただ、テーブルを指でトントンと叩こうとしただけだ。


 だが、俺の緊張した脳が、無意識にスキルを暴発させてしまった。


『スティール』


 ――シュンッ!


 次の瞬間、俺の黒い手袋の中に、冷たい金属の感触があった。

 見れば、刃に猛毒が塗られた、一本の暗殺用ダガーが握られている。


「……あっ」

 商人が間抜けな声を漏らした。

 それは彼が、護衛にも内緒で自分の袖口に隠し持っていた、最後の切り札だったのだから。


 俺は内心で(やっべ! 変なもん盗んじゃった!)と焦ったが、表面上は極めて滑らかな動作で、そのダガーを指先でクルクルと弄んだ。


 そして、テーブルのど真ん中に、ダッ!と突き立てる。


「……もう一度、値段を聞こうか。おっさん」

 俺は致命的なまでに低い声で囁いた。


 商人の心が、完全にへし折れる音がした。


「ご、ごめんなさいぃぃッ! 金貨50枚! いや、金貨80枚出します! それが本当に、本当にギリギリの限界なんですぅぅ!」

 太った男はテーブルに頭を擦り付け、涙声で懇願した。


(き、きんか、はちじゅうまいィィィッ!?!?)


 俺の意識が、天高く昇天しそうになる。

 前世の給料の何ヶ月分だ!? 一気に大富豪じゃねえか!!


 震えそうになる膝を必死に堪え、俺はゆっくりと首を縦に振った。


「妥当な線だな」


 俺は冷酷な夜の支配者としての仮面を完璧に保ちながら、静かにそう答えた。

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