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第2話:泥濘と鉄の灯火

ゴブリンの赤黒い返り血と、濡れた土の匂いが鼻腔を突き、思考を麻痺させようとする 。新宿の喧騒を離れてから、まだ数時間も経っていないはずだった 。しかし、アドルとミーシャが立っているのは、月明かりさえも幾重にも重なる巨木の葉に拒絶された、底なしの闇が支配する深い森の中だった 。


戦いによる高揚感アドレナリンが引いていくのと引き換えに、肉体の悲鳴が顕在化し始める。


「……あ、アドル。肩、血が出てるわよ」


ミーシャの声に促され、アドルは自分の右肩に視線を落とした 。ゴブリンの「こんぼう」を掠めた傷口から、熱い液体が滴り落ちている 。20代前半の若々しい肉体へと再構築されたとはいえ、痛みに対する感受性までもが若返っている。ズキズキとした鋭い痛みが、ここがもはやモニターの向こう側ではないことを嫌というほど突きつけてきた。


「大丈夫だ。掠めただけだよ。……それより、まずは身を隠せる場所を探そう」


アドルは痛みを堪え、ボロボロになった「こんぼう」を杖代わりに、一歩を踏み出した 。今の自分たちは、血の匂いを振りまく傷ついた獲物でしかない。森のどこかで、別の捕食者がこの匂いを嗅ぎつけている可能性は十分に高い。


足元は泥濘ぬかるみとなっており、一歩ごとに体力を奪っていく。やがて、斜面に突き出た岩場が視界に入った。ミーシャがその一角を指差す 。


「……アドル、あそこ。岩場になってる。穴が開いているみたい」


這いずるようにして辿り着いたその場所には、斜面に口を開けた小さな空洞があった 。奥行きは三メートルほど 。二人入ればいっぱいの広さだが、雨風を凌ぎ、背後からの急襲を防げるその洞窟は、今の二人にとってはどんな高級ホテルよりも価値のある聖域に見えた 。


「ここを……当面の拠点にしよう。ミーシャ、無理をさせてすまない」


アドルは洞窟の壁に手を突き、深い溜息を漏らした。隣に立つミーシャも、泥だらけの顔で首を振る。


「ううん。アドルこそ、その傷……。まずは座って」


アドルは地面に転がっていた鋭い石を拾い上げた 。そして、洞窟の入り口の壁に向かい、自身の新しい名を刻み込んだ 。


『ADOL』


それは単なる記念ではない。アドルの能力【複製錬金】において、対象を「所有」していることは、成功率100%を保証するための絶対条件だ 。この洞窟を、自分の領域テリトリーであると強く意識し、刻印という儀式を通して「所有物」として認識するための、彼なりのロジックであった 。



一息つく間もなく、生存のための作業が始まる。最優先事項は「水」だった。


洞窟から数十メートル離れた場所に、か細い川のせせらぎを見つけた。二人は周囲を警戒しながら、泥だらけの顔を洗った。冷たい水が、こびりついた返り血を洗い流していく。


「ミーシャ、この水を君の空間に保存できるか?」


「やってみます……。あ、入ったわ。重さも感じないし、こぼれる心配もなさそう」


ミーシャの権能【異空間保存パーフェクト・ストック】は、文字通り理不尽なまでの性能を誇った。彼女が川面に手を差し伸べ、収納を念じると、水が物理的な制約を無視して直接空間へと吸い込まれていく 。水筒や樽などの「器」さえ不要なこの力は、物流の概念を根本から覆すものだった 。


次に食料だ。アドルは空腹を訴える腹を抑えながら、洞窟の周囲に自生する植物に【鑑定】を飛ばし始めた。


『シビレキノコ:毒性あり。加熱により分解可能だが猛烈に苦い』 『エダウチ草:食用可。栄養価は低いが腹持ちは良い』


「……ご馳走とはいかないな。ミーシャ、これを集めてくれ。毒があっても加熱すれば死にはしない」


「わかったわ。私の空間に入れておくわね」


ミーシャは無駄のない動きで、指定された野草やキノコを次々と空間へ放り込んでいく 。



洞窟に戻る頃には、夜の闇はさらに深まっていた。


「火、どうしよう……。あ」


ミーシャが自分のポケットから、小さなプラスチックの塊を取り出した 。使い捨てのライターだ 。現代社会ではどこにでもある「100円の火種」が、この異世界では伝説の魔導具にも勝る価値を持つ。


「仕事の備品を片付けた時に……入れっぱなしだったみたい」


小さな火が熾され、洞窟の中に温かな光が灯る。しかし、火はあっても調理するための「器」がない。ライターのガスが尽きる前に、何らかの調理器具を確保しなければ、生水を飲み、苦い生木をかじるサバイバルからは脱却できない。


アドルは洞窟の壁面に、赤茶けた色が露出している箇所を見つけた。


「鉄鉱石……か」


素材はある。しかし、アドルの手元には「鍋」はない 。つまり、100%の成功を約束するレシピは存在しないのだ 。


「レシピ不明、素材不足、想像のみ……。成功率は、1%未満か」


脳内に、システム的な非情な数字が浮かび上がる。アドルは鉄鉱石が混じる岩肌に右手を添えた。


「錬成……!」


淡い光が放たれるが、岩肌の一部がパラパラと崩れ、不格好な鉄の粒が地面に落ちるだけだった。失敗だ。しかし、アドルは手を止めなかった 。


(ITプロジェクトの管理と同じだ。一度の成功のために、数えきれないほどの不確定要素バグを潰していく……)


二回、五回、十回。


「複製」ではなく、無から形を創り出す「想像錬成」は、精神の摩耗が激しい 。若い肉体をもってしても、冷や汗が止まらず、視界がチカチカと明滅し始める。


「アドル、もう、休んで……。その傷、まだ塞がっていないのよ」


ミーシャの悲痛な声が響く。しかし、アドルは頑なに拒んだ。


「今作らなければ、明日の朝には動けなくなる。……やるんだ」


五十回、八十回。


失敗作の鉄屑が足元に積み上がっていく。アドルの意識が朦朧とし、限界を超えようとしたその時だった。


百回を超えた、その瞬間。


これまでとは違う、重厚な光が手のひらから溢れ出した。光が収まった後、そこには「それ」が残っていた 。表面は凹凸だらけで不格好。現代の工業製品とは比較にならないほど粗末なものだが、確かに水を受け止め、火に耐えられるだけの厚みを持った鉄の器だった。


【鑑定:鉄鍋(簡易) 品質:C】


「……できた」


その鍋を「俺の持ち物だ」と強く所有した瞬間、アドルの脳内に新しい情報の断片が滑り込んできた 。


(……鉄鍋(簡易)品質Cのレシピを解放……!)


一度成功させ、それを所有すれば、次からは素材さえあれば100%の精度で同じものを量産できる。この世界の理を一つ、自分の支配下に置いた瞬間だった 。



ミーシャが大切に守っていたライターの火を使い、アドルが作った不格好な鍋で、野草とシビレキノコを煮る 。味付けの塩すら存在しない、ただの温かい汁。


「……不味いな」


一口啜ったアドルが顔をしかめた 。キノコの強烈な苦味が舌を刺す。


「……ですね。でも、温かい……」


ミーシャは鍋を両手で包み込み、慈しむようにその「不味いスープ」を喉に流し込んだ 。絶望的な闇の中で、唯一手に入れた本物の熱。それが二人の身体を、そして心を内側から解かしていった。


狭い洞窟の中、一つの小さな火を囲んで肩を寄せ合う 。


チャットの画面越し、文字だけで繋がっていた彼女の横顔が、今は数センチの距離にある。煤で汚れ、疲れ果ててはいるが、それでも生きることを諦めていないその瞳。


「……アドル。私、頑張るから。あなたの足場(倉庫)として、絶対に役に立ってみせるから」


「ああ、頼りにしてる。俺も、君に二度とこんな不味いものを食わせないよう、この力を磨くよ」


二人の間に、新宿では交わされることのなかった、命懸けの信頼が結ばれていく。


やがて、極限の疲労に耐えかねたミーシャが、冷たい地面の上で、アドルの上着を毛布代わりにして眠りについた 。


アドルはそっと立ち上がり、洞窟の入り口へと向かった 。


手元には、ゴブリンから奪い、勝利の末に「所有権」を得た本物の「こんぼう」がある 。アドルはその重みを確かめるように握りしめ、音を立てずに素振りを始めた 。


(俺たちのステータスは、まだ一般人と同じだ。武器を複製できても、それを振るう技術スキルがなければ意味がない)


ブン、という風を切る音が、静寂に包まれた夜の森に溶けていく 。


危機管理は、常に最悪を想定することから始まる。 パートナーが眠る間、アドルは一歩でも自分を「戦士」に近づけるため、夜が明けるまで無骨な獲物を振り続けた 。

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