第121話:侵食するエラー
店の奥。
事務室の空気は、凍りつくような冷気に包まれていた。
壁や床から、ドロドロとした「黒いノイズ」が染み出してくる。
「何……これ。影が、生きてるみたい…………」
エナが声を震わせ、机の端を強く握りしめた。
カミラも生気を失った顔で、胸元の「みがわりのミサンガ」を握りしめる。
「エナ、下がって! 来るなの!」
ルルの叫びと同時に、床の影が跳ね上がった。
実体のない、歪な人の形をした「エラー」の群れ。黒犬たちが、虚空から次々と這い出してくる。
「パピィ! アーサー! あいつらを!」
ルルの号令に、二体の召喚獣が躍り出た。
パピィの鋭い牙が、先頭の黒犬を真っ二つに裂く。
だが、斬られたはずの影は、霧のように散っては再び形を成した。
「嘘……倒せないの!?」
「無駄よ。それは『存在しないはずの情報』なんだから」
頭上から、くすくすと笑う女の声が響いた。
天井の隅。
空間が歪み、フィアの幻影が逆さまに浮かび上がっている。
「誰っ……! 屋敷の中にまで、どうやって!」
「通路なんて、いくらでも作れるわ。アドルが外で遊んでいる間に、あなたたちはここで『消去』してあげる」
フィアが指を鳴らす。
黒犬たちの咆哮が、ノイズ混じりの不快な音となって耳を突いた。
◇
「ガウッ! グルル……ッ!」
パピィが怯んだ。
黒犬に触れた箇所から、パピィの輝く毛並みがどす黒く変色していく。
「パピィ! ダメ、下がって! 触っちゃいけないの!」
ルルが必死に叫ぶ。
だが、黒犬たちは容赦なく包囲網を狭めてくる。
一匹が、隙を突いてエナへと飛びかかった。
「エナ、危ない!」
カミラが叫び、身を投げ出す。
黒い爪がカミラの喉元に迫った瞬間、彼女の腕のミサンガがパキリと音を立てて砕け散った。
眩い光の障壁が展開され、黒犬を弾き飛ばす。
「……助かったの? アドルさんの用意してくれた保険が……」
カミラが荒い息をつきながら、自分の体を確認した。
傷はない。だが、一度きりの守りはもう消えた。
「カミラさん! これを!」
エナが叫び、ポケットから「救援玉」を取り出した。
震える手でそれを床に叩きつける。
「響け……! アドルさんに届いて!」
バチィィィン!
凄まじい雷鳴のような轟音と共に、屋敷から空に向かって鮮烈な銀色の光柱が立ち昇った。
室内が真っ白に染まり、黒犬たちが一瞬だけ動きを止める。
◇
正面。
ヴァルゴスを拘束し、騎士団を圧倒していたアドルの動きが止まった。
「今の音……店の中か!?」
アドルが振り返る。
夜空を貫く銀の光は、彼が渡した「救援玉」の合図だ。
「アドル、行って! ここは私が……っ!」
ミーシャが叫ぶ。
彼女の前には、フィアの魔力によって再起動した騎士たちが、操り人形のように不気味な動きで立ち上がっていた。
「ミーシャ、無理をするな! すぐに戻る!」
「いいから! エナたちが危ないんでしょ!」
アドルは歯を食いしばり、地面を蹴った。
背後でミーシャが「嵐の檻」を展開し、敵の足止めを開始する音が響く。
◇
店の中へ。
最短距離を駆け抜けるアドルの視界に、妙な違和感が走った。
視界の端。風景のテクスチャが、剥がれ落ちるように崩れている。
「……世界が、バグってる?」
フィアの狙いは、エナたちだけではない。
アドルを店の外に引きつけ、その隙にリュステリアという街そのものを破壊しようとしている。
「ふふ……間に合うかしら? 英雄さん」
風に乗って、フィアの嘲笑が届く。
店の玄関を蹴破ったアドルの目に飛び込んできたのは、黒い泥に半分埋もれながらも、必死に杖を構えるルルの姿だった。
「アドルさん……遅いなの! 早く……エナを……!」
ルルの視線の先。
そこには、フィアの本体と思われる「巨大な影」に組み伏せられそうになっているエナの姿があった。




