生命を繋ぐ者、断つ者、守る者 ep『境界の社にて』
エピローグ『境界の社にて』
霧雨がしとしとと降り続く梅雨の軽井沢。
群馬と長野の県境にまたがる熊野皇大神社は、観光の喧騒から離れ、しんと静まり返っていた。山門をくぐると、濡れた石段の奥に、境内の社がぽつんと佇んでいる。
戸隠弘明は、薄手のレインコートに身を包み、手に紙袋をぶら下げていた。
紙袋の中には、「感謝の意」と記された、仮設センサ設置への協力への正式な礼状と風間市子が漬けた自家製野沢菜漬である。
社務所で待っていたのは、例の宮司だった。年配だが背筋の伸びた人物で、落ち着いた微笑をたたえて戸隠を迎える。
「……わざわざ、お運びいただかなくとも」
「いえ、最後まで筋を通しておきたくて」
応接の座敷に上がり、淹れられた番茶をすすりながら、戸隠は事件の顛末を簡潔に語った。発信源の特定、東京総合通信局との連携、そして違法無線の摘発。
「……発信していたのは、渡良瀬遊水地近くの産業廃棄物収集運搬業者でした。携帯の料金が惜しい、交通情報のやりとりに使いたい——動機としてはありがちですが、それが148MHz帯で、しかも50ワットの出力。それが長野のドクターヘリだけではなく、とある鉄道会社にも迷惑を掛けていたんです。」
宮司は目を細めて頷いた。
「この神社も、いろんな縁で支えられておりますが……今回は、技術のお役に立てたということでしょうか」
「まさに。その“縁”がなければ、ここにはセンサを置けませんでした。あの一本の方位線がなければ、東京側も動けなかった。また、鉄道会社の件も前々から出現していたのに、わかったのは今回こちらに補完センサを置かせて頂くことができたからです。……そういう意味じゃ、この境界の社が、境界を越える一線を引いてくれたんです。」
戸隠は、手元の紙袋からを感謝状取り出し、丁重に差し出した。
「私個人としては感謝状だけではなく、玉串料を…と言いたいのですが、お役所なものでそういったものがお出しできなく申し訳ございません。本日付でのご報告となります。また、こちらは私個人からですが、宮司さんがお好きと言ってらっしゃった隣人自家製の野沢菜漬けでございます。ありがとうございました、宮司さん」
宮司はそれを受け取り、しばらく感謝状を見つめてから、静かに言った。
「……神域というのは、電波にとっても静謐なのかもしれませんね」
戸隠は、ふと笑った。
「いや、むしろ“静かすぎる”くらいです。おかげでノイズが少なくて、精度のいい測定ができた。都会じゃ、まずこうはいかない」
窓の外では、霧が山肌を撫でるように流れていた。センサが設置されていた松の木のあたりも、いまはただの濡れた地面に戻っている。
戸隠は、最後にもう一杯、番茶を飲み干してから立ち上がった。
「では、これにて。……また何かあったら、頼らせてもらうかもしれません」
「そのときは、また、境界でお会いしましょう」
二人は軽く一礼を交わした。
戸隠が社を離れる頃には、雨はやや弱まっていた。傘も差さずに石段を降りると、足元で苔がつるりと滑った。
「あぶね……」
バランスを取り直しながら、彼は苦笑する。
“平穏”とは、こういう小さな注意を要する日々のことだ。
だが、だからこそ、それは守るに値する。
彼は無言で、下の茶屋の駐車場に待たせていたタクシーへと歩を進めた。
一件落着の印を、静かにその背に滲ませながら——。




