有閑閑話『昼行灯電波監視官とぎっくり腰』
昼行灯電波監視官とぎっくり腰
雨が上がったばかりの長野市大豆島の朝。長野総合通信局電波監視官・戸隠弘明(50歳、独身、バツイチ)は、自宅のキッチンでコーヒーをすすりながら、食パンを片手に空を見上げていた。季節は梅雨、気温は少し肌寒い。
「今日は静かだな……」
気を抜いた瞬間、不意に鼻腔を刺激するホコリに、彼は身をもって“運命の分岐点”を知ることとなる。
「ハッ……ハクション!」
ズギャッ!
「ぐおおおおおおおっっっ!!!」
ぎっくり腰――予兆もなく、突如として訪れる背中から腰への悲鳴。
なんとか壁伝いに移動し、自宅電話の受話器を取ると、電波監視課長・新津の直通にダイヤルする。
「し、新津課長……クシャミで……ぎっくり腰やりました……」
受話器の向こうでしばし沈黙の後、鼻で笑うような声。
「……え?それはご愁傷様。ま、今日は雨だし平和だ。大人しく寝てろ。草むしりはするなよ」
「しません!」
その10分後、戸隠は布団の中で、笹原弘子主演の『魔法の王女ペパーミント』をサブスクリプションで見ながら、ようやく平穏な午前を過ごすつもりでいた。
午前10時34分、電話が鳴る。長野総合通信局・電波監視課、名立達彦からの連絡だった。
「戸隠さん、南木曽町で防災同報無線の不具合が出ました。町役場に妻籠宿付近の住民から“途切れる”“聞こえない”との苦情が数件。現地は雨が強いようです」
「南木曽町の防災無線か…何年か前に鉄砲水での土石流災害で子供が亡くなっているだけに、この時期にはセンシティブな話だな。で、システム構成はたしか60MHz帯…で、デジタル化されてるから、なんらかの理由でBERが悪化してるな」
「はい。BERが急上昇して、送信されてもスピーカーが鳴らないと」
「ふむ。DEURASセンサは木曽にはないから、現場調査がいる。新津課長には報告済みか?」
「ええ。課長からは『茅野を出す』との指示が。すでに出動準備中です」
茅野隆、今年度昇進した新任電波監視官。前職は無線機企業のSEで、システム運用には強い。監視センターではやや浮いた存在だが、現場では信頼がある。
「国道19号は今のところ渋滞はないが、雨量次第で通行止めになる可能性がある。中央道中津川ICから北上した方が安全だし、計算上平常時でも20分塩尻から国道19号で行くよりも速い。ただ、一度管轄外の岐阜に出ることになるから、財務課長が喧しく言ってくるだろう。課長には財務課長にスジ通すように言ってくれ」
「了解、伝えます」
13時すぎ、茅野から戸隠へ調査報告の電話が入る。
「戸隠さん、現地入りしました。役場の無線管理者から話を聞いたところ、今朝から数回、妻籠宿周辺の放送が途絶えたと」
「基地局設備のエラー履歴は?」
「BERが特定の時間帯にだけ急激に悪化。再送信しても回復せず。そこで電界強度測定をしたところ、60MHz帯に漏洩波ありました」
「原因は?」
「町内のケーブルテレビの中継施設。調べたら、20年選手のブースターでした。通常のCATV帯域しか扱わないはずが、なぜか60MHz帯まで漏洩。しかも帯域外増幅で強く出てた」
「……老朽化して内部のフィルタが死んでたな」
「はい。施設管理会社に即時対応を依頼して、今、交換中です。仮設で問題は収束しています」
午後3時、自宅の電話が鳴る。再び茅野だった。
「戸隠さん、現場処理完了しました。混信も消え、BERは安定しました」
「おつかれさん。報告書のひな型は、あとで回してくれ。……ところで、君、昼飯は?」
「非常食のカロリーメイトです」
「若いな……腰を痛めたらわかるが、あれは胃にくるぞ。妻籠宿なら…やまぎり食道というのがあったはずだ…。そこで少し軽く食べたほうがいい。」
「では…この後、行ってみたいと思います」
二人は電話越しに小さく笑った。
その日、戸隠は結局一歩も外に出ることなく、電波の向こう側で仕事を成し遂げた。
そしてその夜、報告書のドラフトに添えられた茅野の短いメモに、戸隠は目を細めた。
> 「次の出張は、腰が万全なときにどうぞ」
――梅雨の中休みの、ぎっくり腰と混信騒動。
それは、静かなの“有閑閑話”の一節となった。




