有閑閑話 島見杏果の、電波のない休日
目が覚めたのは、午前九時を少し回ったころだった。
アラームは鳴っていない。
鳴らしていないのだから当然だ。
「……あ」
島見杏果は天井を見たまま、数秒だけ固まる。
――出勤じゃない。
頭の中で一度そう確認してから、ゆっくりと息を吐いた。
休日だ。
それだけで、体の力が抜ける。
布団の中でスマホを手に取り、なんとなくニュースアプリを開く。
指が無意識に「通信」「電波」のワードを追いかけかけて――止まった。
「……やめよ」
今日は仕事をしない日だ。
そう決めて、画面を閉じる。
昼前。
長野市内の小さなカフェ。
窓際の席に座り、コーヒーを一口。
外はまだ少し寒いが、日差しはやわらかい。
ノートパソコンを開いている客。
イヤホンで動画を見ている学生。
店内には、見えない電波が飛び交っている。
(……見ようと思えば、見えるんだよなあ)
頭の片隅で、つい考えてしまう。
このWi-Fiはどのチャンネルか。
干渉はないか。
出力は適正か。
「ダメダメ」
杏果は小さく首を振った。
今日は“見ない”と決めたのだ。
カップを持ち直し、ただ味だけに意識を向ける。
それだけで、少し世界が静かになる。
午後。
雑貨店をぶらつき、文房具をいくつか買う。
完全に必要なものではないが、仕事で使えそうなペンを見ると、つい手が伸びる。
「……これ、報告書用にいいかも」
結局、仕事に戻ってくる。
自分でも苦笑する。
夕方。
帰り道、河川敷に出る。
遠くに山並み。
川は静かに流れている。
ベンチに座り、ぼんやりと空を見上げる。
電波は見えない。
音もない。
だが確実に、この上空を通っている。
(航空無線……今も誰かが話してるんだろうな)
ふと、仕事の風景が浮かぶ。
戸隠の無表情。
名立の軽口。
監視車の静かな機器音。
少しだけ、寂しいような気がした。
「……仕事、好きなのかな」
自分で言って、少し驚く。
嫌いではない。
むしろ――
あの“見えないものを追う感じ”が、性に合っている。
日が落ちる。
街の灯りが一つずつ点く。
それに合わせて、通信もまた増えていく。
誰かが電話をかけ、
誰かが動画を見て、
誰かがデータを送る。
すべて、当たり前のように。
「……守られてるんだよね」
ぽつりとつぶやく。
自分たちの仕事は、目立たない。
感謝されることも少ない。
だが、止まればすぐにわかる。
だから――
(ちゃんとやらないと)
自然とそう思う。
夜。
部屋に戻り、簡単な夕食をとる。
テレビはつけない。
代わりに、音楽を小さく流す。
スマホに通知が一つ。
業務用チャット。
一瞬だけ、指が止まる。
――休日。
そう思いながらも、結局開く。
名立からだった。
《明日、朝イチでちょっと面白い案件来るかも》
思わず笑う。
「……やっぱりか」
返信はしない。
しないが、心のどこかが少しだけ高鳴る。
布団に入る。
目を閉じると、今日の静かな時間がゆっくりと流れていく。
そして最後に残るのは――
見えない波のこと。
今日も、どこかで誰かが送っている。
それを、誰かが受け取っている。
その間を守るのが、自分たちの仕事だ。
「……まあ、悪くないか」
小さくつぶやいて、目を閉じる。
島見杏果の休日は、静かに終わる。




