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金色の長髪を鏡の前で結い、服を選び、今日も学校へ向かう。
「いってきます!」
透き通った陽の光が新しい朝を祝福し、学校へ向かう私の足取りは、より一層軽やかになる。歩くというよりも、跳ねるという言葉の方が相応しい。道端の草木や花は、挨拶するように風に靡いている。
◇
私だけが、朝一番の真っ白な教室を知っている。花瓶の水を入れ替えたり、机の向きをそろえたり。たとえ自己満足だろうと、善行から始まる一日は心地いい。
そうしていると、少しずつ、同級生たちが集まってくる。ルーティンを終えた私は席に座り、教室に入ってくる者たちの髪と耳を眺めながら待つ。
……まあ、耳の方は確認するまでもないか。くるくると回りながら明確にこちらへ向かってくる女の子は、私の予想通りの人物で違いない。それに追随してくるもう一つの人影は、先人の奇行を目の当たりにしてもなお無表情を貫く。……だが、先ほどから咳払いに偽装しているつもりの彼女の仕草が、必死に笑いをこらえているものであることを私は知っている。
「……"エルフちゃん"やばいよー! テスト明後日だよー!」
「わたし、科学がダメそう」
二人、私の意識の中に飛び込んでくる。
科学が苦手な"ミドリちゃん"と、お勉強が苦手な"キツネちゃん"。そして、私。いつもの三人で、いつものように私の席に集まって話す。
「……というわけでー」
「どうしたの? "キツネちゃん"」
「学校がおわったあと、"ミドリちゃん"と"エルフちゃん"の二人に、勉強を教えてもらいたいのー」
"キツネちゃん"は勉強が苦手だが、決して諦めているわけではない。こうやって、不得意なことでも努力しようとする姿勢は、彼女の美点である。……と言いたいところだが、彼女から勉強会を提案するなんて史上初である。それに彼女には、去年に落第回避のために緊急で開催した勉強会をサボろうとした実績がある。きっと、何か裏があると疑わざるを得ない。
きっと同じことを感じているであろう"ミドリちゃん"が、"キツネちゃん"に核心の質問を投げかける。
「勉強会をするのはいいけど……。どこでやろうか?」
キツネちゃんは悪戯な笑みを浮かべる。
「じゃーあ、"ミドリちゃん"のお家がいいなー」
ようやく、"キツネちゃん"の真意が判明する。それは、つまり……
「あーっ、本当はウチのワンちゃんに会いに来たいだけなんでしょ」
「えへへー、あの子がかわいすぎるのがわるいんだよー」
……やっぱり。"ミドリちゃん"も、呆れかえったような顔を見せている。
「ね、"エルフちゃん"も、それでいいよねー?」
今回のテスト範囲は範囲も広く、今までに比べて難易度も高い。そのぶん、最後まで油断せずしっかりお勉強しなきゃいけないのだから、ワンちゃんと戯れている場合ではないのだ。
なので、私はもちろん……
「賛成!」
「え、"エルフちゃん"まで……。……もう、仕方ないなぁ。ちゃんと勉強もするんだよ?」
「はーい!」
「"キツネちゃん"、返事だけは一丁前なんだから……」
そういう"ミドリちゃん"も、なんだかんだ満更ではない。
◇ ◇ ◇
鏡の前で髪を結い、服を選び──今日は、友達とお出かけ。
たまには、ネックレスとか、イヤリングとかをつけて、お洒落していこうかな。でも、これからアクセサリーを買いに行くのに、余計なものをつけていかない方が良いのかな? そんな小さなことを考える時間さえ、楽しい。
「ねえ、お母さん。今日は、西の隣町までお買い物に行ってくるね」
「お友達と?」
「そう、いつもの三人で」
「夕方の礼拝までには帰ってくるのよ」
「大丈夫、わかってるよ。いってきます!」
西の方へ行くことは少ないし、お土産でも買ってこよう。お母さんとお父さんは、何を買ってきたら喜んでくれるかな? なんだか今日は、色々なことを考えたくなる気分。
◇
夕方、遠出を満喫した三人は一緒に、礼拝のために教会堂へと足を運ぶ。演奏を聞き、数分お祈りをした後は、帰る前にまたみんなで話す。
「"エルフちゃん"はさ、大人になったら何になりたいのー?」
買い物袋を両手に抱えた"キツネちゃん"が、私に問いかける。
「将来、か……。ちゃんと考えたことないかも」
「"エルフちゃん"はお勉強もできるし、魔法も得意だから……。なんでもできちゃうと、逆に迷っちゃうね」
将来の夢。普遍的な問いではあるものの、いざこの話題になると、返答に困りがちである。
「盗み聞きのようで申し訳ないのですが、お三方は、将来のことについてお話し中ですか?」
「あ、司祭さん」
目線を向けると、白を基調とした、いかにも聖職者、といった風な衣装を身にまとった青年が立っていた。彼は「失礼します」と断りを入れてから、椅子に腰かける。
几帳面な性格の彼は、きっと規則正しい生活を心掛けているのだろう。まだ若いとはいえ、およそ歳や疲れというものを感じさせない。
「今日の相談は、もう終わったのですか?」
"ミドリちゃん"が、私たちの疑問を代弁する。
司祭さんはいつも礼拝の後、集まった人たちのお悩み相談をしていた。一人一人に寄り添って話を聞いてくれる親切な彼は、この礼拝堂を利用する者たちから深く信頼されている。
「いいえ。あなたたちが残っていますよ」
「た、たしかに」
一本取られた、と言ったように、"キツネちゃん"が面食らう。
さて、彼の手が空いていることは珍しい。折角だし、話を聞いてみることにしよう。
「司祭さんは、どうして司祭をやろうと思ったのですか?」
彼は落ち着いた表情をして、ゆっくりと話す。
「聖書を読んで、この宗教の理念に感銘を受けたからです。自然を愛し、神に見守られながら安寧の日々を贈る。この上なく『美しい』、素晴らしき日々です。……しいて言うなら、愛しき神の名を呼べないことだけが、寂しいですけれど」
彼は敬虔な信徒だから、迂闊に神の名を呼ぶような真似はしない。
"名付けの呪い"……。今となっては日常に溶け込んでこそいるが、ふとした時に、寂しさを感じさせる。
「……私、"名付けの呪い"の研究とか、してみたいかも」
「いいじゃん! "エルフちゃん"なら絶対解決できるよ!」
「もしやるなら、わたしも協力したいな」
「ワタシもー!」
ほんの独り言のつもりだったが、"ミドリちゃん"と"キツネちゃん"が思いの外食いついてきた。
「素敵ですね。偉人の卵ここにあり、といったことろでしょうか」
「もう、司祭さん、言い過ぎですよ……。でも、考えてみます」
「心なしか、表情がすっきりしましたね。お役に立てたならよかったです」
「はい。ありがとうございます」
◇ ◇ ◆
鏡の前で髪を結い、服を選び、今日はお買い物へ。
「いらっしゃい、エルフのお嬢ちゃん。今日もおつかいか」
ここの店主のおじさまとは、もうすっかり仲良くなってしまった。このお店に来るのは、お買い物の目的だけでなく、ちょっとした世間話をしたいからでもある。
「本当、偉いなぁ。少しおまけしておくよ」
「いいんですか? ありがとうございます!」
……おまけをもらえるからという理由もなくはない。
「いいんだよ、このくらい。お嬢ちゃんは美人だから、おかげでこの店だって繁盛してるんだ。この前なんて……」
向こうのほうから、店主さんの奥さんが大股で歩いてくる。
「ちょっと。鼻の下伸ばしてないで仕事しな!」
「ご、ごめんって……。またな、お嬢ちゃん」
「はい。これからもよろしくお願いします」
◇ ◆ ◆
「ただいまー」
帰ってきて、鏡の前で手を洗う。
家族三人で食卓を囲むまでが、私の一日。
「ねえ、お母さん、お父さん、また美人さんって褒められちゃった」
「それはよかった。お母さんに似て、美人に育ったからな」
「いやいや、パパに似たのよ」
「……ううん、どっちもよ。みんなが褒めてくれたとき、お母さんとお父さんも褒められているような気がして、誇らしいの」
「いい子に育ってくれて、お父さん嬉しいよ。……もしかして、買って欲しいものでもあるのか?」
「もう。そんなんじゃないよ。私はこれ以上何もいらないくらい、とっても幸せなんだから」
◆ ◆ ◆
今日もまた、鏡を見て……
「……私の髪って、元々黒いところあったっけ?」
今日も学校へ……
「"エルフちゃん"、髪の毛染め始めたのー?」
今日はおつかいへ……
「嬢ちゃん、なんか……黒髪、増えてないか?」
鏡を見て、
鏡を見て、
鏡を見るたびに……
……
……
……
◆ ◆ ◆
夢を見ていた。
明るくて、幸せで、輝いている、かけがえのない日々の。
……やけに鮮明な夢だった。でも、ずっと見ていたいと願えば願うほど、夢は遠ざかっていく。
失って初めて大切さを知る、というのはこういうことか。あまりに陳腐で、あまりに正しくて、あまりに残酷な事実。
もはや、瞼を閉じていたほうが、眩しすぎるほどに。
手が届かないものをそう呼ぶならば、今となってはそんな日々はもう、「夢」そのものに他ならない。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
お母さんもお父さんも、ただのエルフ。みんなはそう思ってる。
──でも、本当は違う。お父さんは、聖書に出てくる裏切り者の、妖魔の血を引いている。
ただ、見た目は本当にエルフと変わらない。実は足指の爪が黒っぽいが、その程度。髪も黒くなければ、瞳は宝石のような緑色。遺伝は遠く薄れていた。
それを隠して生活していることが、私たち家族三人の秘密。
「本当に、ごめん、本当に……」
ある日から、私の金髪に、黒色のものが混じるようになっていった。
最初は、テストのストレスかな、とか、軽く考えていた。……でも、明らかにおかしい。
時が経つにつれて、日食のようにみるみる黒が侵食していって……。同時に、家族三人の心も追い詰められていく。
それは、ただの黒じゃない。──闇魔法の魔力に似た異彩を放つ、漆黒。
皮肉にもそれは、星空のように目を奪う美しさを秘めている。……そしていつからか、瞳の奥には赫い炎も揺らめいていた。
私は……私たちは知っていた。
それが、妖魔特有の髪色であることを。鏡に映る私の姿が、エルフと、妖魔《禁忌》の混血──ダークエルフの姿、そのものであることを。
……この国ではもう、生活してはいけないことを。
その事実を、私たちは強烈に突き付けられていた。
◆ ◆ ◆
シャンプーを使うのをやめた。髪を洗うから、黒くなってしまうのかもしれない。
……それでも、金色は消えてゆく。
陽の光を浴びるのをやめた。日焼けで変質しているのかもしれない。
……学校を休もうが、日傘を差そうが、影の色に似ていくばかりだった。
櫛で髪を梳かすのをやめた。摩擦の熱で変色してしまっているのかもしれない。
……試しに火魔法で一本熱してみると、金色のまま燃え尽きた。
黒く変色した部分だけ金に染めた。
……でも、シャンプーや日焼けで色落ちするし、髪質も悪化して軋むしで、馬鹿馬鹿しくなってやめた。
鏡を見るのをやめた。実は呪いの鏡で、私の髪の金色を吸い取ってしまうのかもしれない。
……いつの日か、ふと視界に入る前髪も黒くなっていた。
……私には、「もうこれ以上何もいらない」と願うことさえ、贅沢すぎるというのだろうか。
◆ ◆ ◆
「ごめんなさい、私の身勝手のせいで、こんな……」
「違う、僕が間違っていたんだ……。僕が、この国へ来てしまったから……」
原因は、突然変異か……
……いや、分かっている。そんな考えは、現実逃避でしかない。
隔世遺伝──或いは、先祖返り。いつか誰かの元に降りかかる、種の宿命。
……嫌だ。そんなものに、人生を狂わされてたまるものか。
「お母さん、お父さん、もうやめて。……謝らないで」
私は、お父さんとお母さんを責める気は全くもって無いし、謝罪の言葉なんて望んでいない。寧ろ私は、私を産んでくれたこと、今まで育ててくれたことを、本当に感謝している。
……でも、もしかしたら本当は、二人は私のことを疎ましく思っているのかもしれない。少しだけ不安に思ったけれど、私は私が伝えたいことを、素直に言葉にした。
「前にも言ったでしょう。私は、二人に似て美しく育ったんだって。……だから、謝らないで。私は美しくそだったんだって、自信をもって言わせてください」
まだ、幸せは途絶えさせない。終わらせない。
──この、家族三人で抱きしめあう温もりこそが、私たちの未来の何よりの証明。
……そうだ。この国でなくたっていいじゃないか。家族三人で暮らしていければ、どこであろうと関係ない。
「引っ越そう。どこか遠くの、別の国へ……」
◆ ◆ ◆
一週間ほどかけて、引っ越しの準備を終えた。
私は既に、引っ越しの旨と友達への別れの言葉を綴った手紙を学校に送る手配をしてある。もう一度だけ、友人たちの顔を見てから発ちたかったが……。厄介事を避けるため、やめておいた。
母も、もう準備は終えていた。あとは父が戻るのを待つだけだと、星と街灯の光を数えながら窓の外を眺める。
◆
そう待たずに、父の姿が見えた。約十八年住んだこの町との別れが近づいてくるが、もう決心はついている。
……よく見ると、もっと後ろのほうにもう一つ、人影が見える。あの左目の傷は……教会の司祭? こんな時間に何をしているのだろう。引っ越しのことを聞きつけて、見送りにでも来たのだろうか。
……いや、まだ私たちの引っ越しのことを知っている者はいないはずだ。それに他人に、あまつさえ聖職者に、私のことを知られては不味い。
一体、何をしに此処へ―――――――――――――――――――――――――
……何かが崩れ……?
「穢れ……裏切…………族……」
……炎は静かだというのに、燃焼はやけに煩い。暗い夜の静けさの邪魔をする。
不快な灰色の匂いが、鼻腔を埋め尽くす。
弾けるようなこの音は、頭の中から鳴り響いているのか、それとも体の外から聞こえてきているのか、分からない。
「…………悪種……つ紛れ……だ……浄……ねば……」
何かが?
いいや、全てが。
地面に殴られたように、家が、家族が、一瞬で崩れ去った。
片方の耳が聞こえない。平衡感覚がはっきりしない。
司祭の男のものと思われる、怨嗟の声が聞こえてくる。
炎を上げる家だったものを火傷しながらなんとか退かし、外へ這い出る。
どうして、何が、
逃げないと、早く、
お父さんは……? お母さんは……?
……
不意に、手を引かれる。お母さんの手だ。
訳も分からず、ただ地面を蹴る。
……が、後ろから怨嗟と火球が迫りくる。
「『美しい』この国の……汚点……神……に泥を…………消え……去れ……!」
何を言っているのか、理解できない……後で考えよう……
意識は朦朧とし、走る気力も、早くも底をつきかけていた。
……
え……て………
げて……
……何か聞こえる。もう休ませて……
「……逃げて! あなた一人でも……!」
叫び声で、現実に引き戻される。
……次の瞬間、突風が私の体を殴り、路地裏に突き飛ばす。
「おかあ……さん……?」
何とか体を捻って振り返ると、今いた場所が完全に焦土と化していた。
虚ろだった意識が今の衝撃で少し目覚めたのか、最悪の状況に脳がようやく追いつき、自分の置かれた状況を理解する。
理解してしまう。
「司祭……が……私たち……の……家を……襲って……。……ど……うし……て……」
……留めることのできない記憶の濁流が、頭の中で煩く響いている。
今となっては懐かしささえ感じる友達は、今はどうしているだろうか。お父さんと、お母さんは、無事だろうか。
楽しかった笑い声が、幸せが。今は、騒音の一つとして……。
割れんばかりに鳴り、頭痛を引き起こすそれを遮るために耳を塞ぎたいのに……腕が動かない。
「私……も、お父さんも、おかあ……さんも……何も……」
……何も、悪いことはしていないわ。
なんで、妖魔の血を引いているだけで、こんな……。
どうして、そんなに私たちのことが嫌いなの。
神様を信じていれば、みんな幸せになれるんじゃなかったの。
優しくしてくれたみんなは、嘘つきだったの?
なんで、どうして、
……どうして
……
もう、瞬きさえ辛い。
視界が暗転する
1話 楽園追放




