先を越されて
タルト生地を入念にこねている娘に請われるまま話している自分にふと、気が付く。
勿論、侯爵家との関わりについては一切口にしていない。かつて愛したお下げの少女との恋をさわりだけ語ったセイラは、アルコールが回ってきていることに気が付いた。
「それで、その方は、どうなったんですか?店長。」
「うん・・・、鈴奈ちゃんの口添えも有って、スイスへ飛ばされたんだ。当時もっとも腕のいい脳外科医はジュネーブ市内の病院に勤務していたからね。」
スイーツのレシピを伝授中の従業員は、顔を上げて白い作業着の袖で額を拭った。
「あ、じゃあ、お母さんはそこで治療してもらって、親子で幸せに暮らしました、メデタシって奴ですね?」
「さあ。そこまでは僕にはわからない。その後一度も連絡を取っていないし、風の噂にも聞いていないからね。」
「でもマドンナは何か知ってらっしゃるのでしょう?」
「多分ね。でも、僕からは尋ねたこともないから。」
セイラは彼女が差し入れて来た果汁のジュースだと言うボトルのラベルを持ち上げて眺めた。
「由美ちゃん・・・、僕、余り強くないって言ったでしょう。ラベル張り替えてまで酔わせてどうしようって言うのさ?」
「ご安心ください。私は店長とどうこうしようってつもりはないんですよ。ただ、これから同じ店を切り盛りしていくんですから、もう少し砕けてもらいたいなって思っただけなんです。なんていうか、店長、カタイですから。」
セイラは青い眼を丸くして眉を上げる。
「僕、カタイかい?」
「優しくて愛想良くてありがたいですけど。店長ってきっとそれだけじゃないでしょう?そういう部分をね、全部じゃなくていいからほんの少し、いち従業員にも晒して欲しいって思ったんですよ。いっつもそんな風に紳士面してたら疲れません?」
セイラの夢だった喫茶店経営をさせてもらえると言う事になったので、それに伴って従業員を雇い入れることになった。それが門田由美だ。彼女もパティシエ志望だと言う話で、専門学校を出ているらしい。セイラにとっては頼もしい味方だった。
東京に支部を置いて間もなく、鈴奈が営業を許可してくれたのだ。開店まで後一か月、順調に準備は進んでいた。
紳士面、などと言われるのは心外だった。面ではなく紳士のつもりだったのに。
「・・・そうかな、じゃあ、今後はもう少しやわらかくなれるように努力するよ。」
気持ち頬を赤くした彼は拗ねたようにそっぽを向いて呟いた。
「あはは、怒らないで店長。・・・それで、その次にお付き合いした方はどんな人なんですか?」
「いないよ、茜だけだ。」
こねあがった生地を寝かせるため、専用容器に乗せて冷蔵庫へ入れる。
「そんなぁ、店長ほどの人気者が勿体ない。」
「彼女に酷い事をしてしまったからね。」
ガラスのコップを作業台に置いた彼は、小さく息をついた。
冗談ではなく、惜しいと思ってしまう。由美の上司となる店長は美男子だし日本語は流暢だし人格者だ。残念ながら、由美自身の好みのタイプではないが、セイラは非常にもてる。彼さえその気になれば引く手あまたといえるだろう。
けれど、ちっともそう言う話を聞いたことが無いのは、基本的に身を隠しているから、という理由だけではなさそうだった。
「だから、誰とも付き合わないと?」
「うん・・・、なんて言うかそこまでの勇気はない。」
「うーん、出来れば彼女を作って置いて貰った方が有り難いんだけどなー。」
こんな見た目のいい人が接客業など始めたら、いくら閉鎖的なこの国でも多くの女性から声がかかるだろう。
その度に面倒な問答をするよりも、彼女がいるんです、とはっきりきっぱり言える方がはるかに楽だ。
「まあ今にきっと好きな人の一人くらいできますよ、店長。その時は早めに教えてくださいねー。」
なんでだ、と口に出さずに疑問に思う。
セイラに彼女が出来ようと出来まいと、従業員には関係ないだろうと思うが、由美には知らせて欲しいと思う何らかの理由があるらしい。
あれから数年を経た今だったら、茜の事を許せるような気がするけれど、あの時は若かったこともあり、どうしても許せなかった。
外見に恵まれ日本語に不自由のないセイラは、施設寮の中にいても、女性が寄ってくる。けれど、粉をかけてくるどんな女性ともその気にはなれなかった。
それは多分、許してやるべきだった茜を許せなかった自分の中にきっと罪悪感があるからだろう。
それに、初恋は実らないと相場が決まっている。
ましてや、王子と人魚姫の恋は悲恋なのだと御伽噺にもあるのだ。
鈴奈には最近催促されるようになった。早く子孫を作る相手を見つけろと、冗談交じりにも言ってくる。
姉の言い分はわかっている。それが彼女との約束なのだから。
いつかそんな女性に出会えるのだろうか。そして、出会ったとしてその人と自分は交際できるだろうか。初恋に破れた時の事を思い出すと、どうしても積極的に行動するのは躊躇してしまう気がする。
そうして誰かに先を越されて、大事な人を奪われてしまうかもしれないことなど、思いもしなかったのだから。
fin




